信仰とはなにかを問い続けた遠藤周作
遠藤周作は、キリスト教が弾圧されていた時代に、信仰の落伍者と呼ばれた人達の苦悩する姿に目を向けて信仰とはなにかを問い続けた人だそうだ。
長崎にキリスト教が伝えられた当初はセミナリヨ(中等神学校)が、長崎(加津佐から移転)にコレジョ(神学校の最高学府)が長崎などに開校されて多くの少年達が哲学、神学、ラテン語、自然科学、西洋音楽などを学んだ時期もあった。しかし、豊臣秀吉の宣教師追放令、江戸幕府の禁教令により弾圧・迫害の時代が始まり多くの宣教師や信徒の血が流された。長崎付近だけでも600人以上の信徒が次々と殺されたといことから切支丹たちがいかに過酷な扱いを受けたが想像できる。このような絶望的な状況の中で「転んだ」人たちも悩み苦しみながら自分の選んだ信仰を捨てるという苦しい決断をせざるを得なかったのだろう。
こうして無力化した「転び者」たちは迫害者たちには無視され、歴史家にとっても軽蔑の対象でしかなくなり歴史の中に見捨てられた。しかしこれらの人々の中には、潜伏した切支丹として一人の宣教師もいないまま何世代も信仰を守り続けた。徳川幕府のきびしい弾圧のもと表面はキリスト教を捨てたように見せかけ、実は心の中でキリスト教の信仰を守りつづけている人々。家には仏壇や神棚を構え納戸に秘したキリスト像やマリアのメダルなどをひそかに礼拝している、という話には心を打たれた。
「転び者」と呼ばれる人たちには日本にキリスト教の布教に来た宣教師たちもいた。
1609年に来日したポルトガル生まれの宣教師(パードレ)フェレイラは徳川幕府の厳しい禁教令のもと厳しい弾圧の中で、日本信徒を捨てられず20年あまりの間死を覚悟して潜伏しながら布教活動を行った。その姿は聖者にも天使にも例えられた。しかしついに捕らえられ激しい拷問を受けてキリスト教を捨てた。その後も3年日(1636年)に恐らくは強制されてであろうが『顕偽録』を書いた。これはキリスト教の〃偽り〃を顕(あき)らかにすることを意図した本である。このフェレイラも「転びキリシタン」として歴史から見捨てられた。作者遠藤周作の記述にはそのような人間的弱さに対する深い同情が感じられた。
日本の開国と共に渡来したプチジャン神父は日本人の中にも切支丹はいないかと必死に探し浦上の切支丹たちを教会に呼び戻した。切支丹たちは公然と信仰を表明し始めたが、当時の明治政府はキリスト教を禁教とする政策をとり、明治政府下の長崎奉行所の襲撃を受け浦上村の切支丹たちは全国20ヵ所に流された。実質は流罪でありここでも600人以上の信徒が死んだが、この苦難を浦上の信徒達は「旅」と言って耐え抜いた。
にほんブログ村
「沈黙」「イエス・キリスト」「深い河」などは大変勉強になりました。「イエス・キリスト」は静かに傍にいて見守る人、という解釈は一番私の心に響いた解釈です。でも結局私はクリスチャンにはなれず仏教を信仰するようになりました.遠藤周作も日本人であることと、カトリック教徒であることの矛盾をテーマに小説を書いたように私自身もその矛盾を超えることが出来なかったということです。遠藤周作の人間性そのものも好感がもてます。
遠藤周作の本はキリスト教とはちょっと離れるかもしれませんが、
強く印象に残っているのは「わたしが・棄てた・女」です。
長崎につながる南の海の美しい碧(あお)と
深い読書体験を綴られた文章とが心に沁みました。
明日は聖体の祝日だそうです。
日本の茶道の濃茶の回し飲みは、カトリックの聖体拝領に由来すると最近知り驚きました。