夢とは遊びの世界を描いたシュルレアリスムの魅力
Surrealisme exhibition -Paris Pompidou Centre possession work exhibition
2011年、六本木の国立新美術館でパリ・ポンピドゥセンター所蔵の傑作が来日しシュールリアリズム美術の全貌を見ることができました。2016年ダリ回顧展を鑑賞していくうえで。シュールリアリズム美術の理解が不可欠と考え、「シュルレアリスム」とは何か?も含めて、シュルレアリスムの全貌を回顧し、考察してみました。呼ばれているので、以下使い慣れたシュールリアリズムという言葉を使って書かせていただきたいと思います。なお、日本では、英語流にシュールリアリズムと一般的に呼ばれているので、以下使い慣れたシュールリアリズムという言葉を使って書かせていただきたいと思います。
Surrealismrealism is art movement which inherited the dadaism which is thought called thedenial, the attack, and destruction to the established order and common sensewhich make the bottom the empty feeling and resistance consciousness afterWorld War I,Command by reason is left and it respects leaving it without anesthetic and ethical prejudice to a motion of the pure heart.As the poet andthe pull boss who created surrealisme by "surrealisme declaration"said "you want to circulate the object in a dream", and"language when sleeping carried out love", the surrealistic worlds ofnight, such as a dream, a daydream, and a fancy, were pursued.I can think thatit is going to express the subject of an unconscious motive and a desirefrankly.
シュールリアリズムは、第一次世界大戦後の虚無感や抵抗意識を根底とする既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想であるダダイズムを継承した芸術運動で、理性による統率を離れ、美的、倫理的先入観なしに、純粋な心の動きにまかせることを尊重しています。「シュルレアリスム宣言」によりシュルレアリスムを創始した詩人・プルドンが「夢の中の物体を流布させたい」「眠っている時の言葉が恋をした」と言ったように、夢、白日夢、空想など超現実的な夜の世界を追求しました。無意識の動機、欲望の対象物を赤裸々に表現しようとしているように思えます。
シュールリアリズムと抽象絵画を混同する人もいるようですが、まったく別の世界です。抽象絵画は近代に始まった表現方法のひとつで、抽象とは題材を煮詰めて抽出するような意味合いをもっています。画家のコンセプト、言いたいことを伝えるために、余分な表現を省いって、伝えたいをものだけを描いた結果、絵画が抽象的になったと考えてもよいかも知れません。例えば画家が空の透きわたるような青さ、輝くばかりの美しい花の色に心をときめかせ、その美しさから感じた生きる喜びを表現したいと思ったとき、晴れ渡った空の青、お花畑の鮮やかな赤や黄色、心のときめきを表す鮮やかなピンク色などが画面で踊っているような形態、模様をキャンバスの上に描く、結果的に人物や花の形の表現は省かれ抽象絵画になります。抽象絵画は、画家が感じたこと、伝えたいことを色彩や色で再構成してキャンバスの中に作り上げた美の世界です。従って、ある程度の感性を持って美しさを感じとれれば、比較的分かりやすい芸術だと思います。
Althoughit seems that there are some persons who mix up surrealism realism and abstractart, it is the completely different world. Abstract art is one of the modes ofexpression which began in modernization, and it has with abstraction theimplications which boil down and extract a subject matter.In order to tell apainter's concept and something to say, as a result of drawing for an excessiveexpression and drawing only a thing for told い, you thinkthat pictures became abstract.For example, when I wish to express the usefuljoy which the painter made the heart prosperous in the color of empty blue overwhich it becomes thin and goes, and a beautiful flower to the extent that itshines, and was felt from the beauty,As a result of drawing on canvas a formand a pattern which the blue of the clear empty, the skillful red and yellow ofa flower garden, the skillful pink showing a palpitation of the heart, etc. aredancing in the pictures, expression of the form of a person or a flower isexcluded by the target and becomes abstract art on him. Abstract art is theaesthetic world which reconstructed that the painter felt and something to tellby color or a color, and was completed in canvas.Therefore, I think that itwill be comparatively intelligible art if beauty can be taken in with a certainamount.
シュールリアリズムは、思想的にはダダイズムの他に、フロイトの精神分析の強い影響を受け、視覚的にはジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画の影響を受けました、人間が考えて創造したものも、人間が自然をコピーしたものも、頭での中の考えを通した時点でリアルではなく、本当のリアルとは人の知性を超えて、無意識と偶然により生まれたものだと考え、個人の意識よりも、無意識や集団の意識、夢、偶然等を重視しました。
何が本物で、何がリアルであるかを考えに考え抜いた末、寝ているときの夢に現れた映像、頭を空虚にしたとき自然に浮かんできた形、偶然浮かんだ色に人知を超える本物のリアルと信じたようです。従来芸術家が大切にした、自のコンセプトを表現すること自体を否定したようです。コラージュやオートマティスムといった偶然性の強い手法で、主観や意識や理性が介在できない状態で偶然できたものや、意識から解き放たれた夢の中に超現実が出現すると考えました。
シュールリアリズムの発想は、19世紀のロマン主義や象徴主義の流れをくんでいると思われますが、ユーモアを重要な要素とする作品、グロテスクな作品、芸術的範疇を離れ、実験と言えるような作品まで多種多様です。抽象絵画は、素直に美しいと感じ取れますが、シュールリアリズムの絵画は、美しいとはとてもいえない作品も多く、正直私としては、何が良いのか分からない作品も多く、非常に分かりにくい領域の芸術だと思っています。
シュールリアリズムと抽象絵画は次元の違う世界ですが、シュールリアリズムの中心となった芸術家は抽象絵画を否定していました。その代表がダリでした。ダリは、「絵画とは具象的非合理性、又は創造的世界の手作りの色彩写真である。」と考え、表現方法的には、セザンヌから始まった主観的造形表現を否定し、ベラスケスやフェルメールのような精密な写実主義を用いて、非合理的な具象的主題を見る人に伝えたかったようです。対象を外的世界から主観的世界に導き出し、ひとつの映像の中にいくつもの幻影を認めさせることで、見る人に錯覚の世界を体験させる、美と醜の境界線を混乱させるような試みを絵画に仕込みました。 ダリは、シュールリアリズムは抽象絵画の対極にあると考えていたようで、抽象絵画を非哲学的で知的観点で甘ったるい芸術と非難していたようです。
一方、抽象絵画の代表者であるモンドリアンは、シュールリアリズムは、一個人の体験や出来事の再配列に過ぎずない夢の世界に留まっている限り、真実に触れることはできない。抽象絵画は、既成の造形手段や芸術の特殊性の制約からの解放であり、感情的要素を最大限に排除することにより、抽象的な純粋造形様式、宇宙的本質に到達すると考えていたようです。シュールリアリズも抽象絵画も写実主義を否定して生まれたものですが、ダリとモンドリアンの芸術に対する考え方は最極端に位置していたようです。
ルネ・マグリットもリアリズムの表現法に徹した画家です。タッチをほとんど残さない古典主義にも通ずる描法で、事物の造形表現はきわめて丁寧かつ明確で、ダリと同様リアリズムの表現に徹しています。しかし、その画面に表現されているのは、空中に浮かぶ岩、鳥の形に切り抜かれた空、今回展示されている「赤いモデル」のような指の生えた靴といった不可思議なイメージで、絵の題名も不可思議なこともあり、不思議な体験を与えられます。マグリットにとつて、絵画は目に見える思考で、世界が本来持っている神秘を描かれたイメージとして提示したものであり、不可思議な題名をつけることで「言葉とイメージ」の問題も追求しました。夢や無意識の世界を描き出そうとした他のシュールリアリズムの画家とは一線を画しています。
上図の「秘密の分身」では、破り取られた肖像と、剥ぎ取られた顔の表面が並んでリアルに描かれ、肖像の中の暗い部分にピエロを暗示する鈴が見えます。背景の広がる海は無意識の象徴だそうです。人間の内面は、表面から想像もできない部分があることを暗示しているようです。これも人間の二重肖像とも言える作品です。
シュールリアリズムを絵画に導入した先駆者のひとり、マックス・エルンストは、絵画に印刷物のイメージを合成したコラージュ、物の表面に紙をこすりつけて模様を浮き上がらせるフロッタージュ(こすり出し)、絵の具を塗りつけた紙を他の紙に押しつけて、偶然の模様を作るデカルコマニー(転写法)を駆使した作品を制作し、ブルドンが言う「純粋心理のオートマティスム」を実践した人です。
今回展示されていた「ユビュ皇帝」は19世紀フランスの作家ジャリの喜劇「ユビュ王」下劣で無教養で、欲望の塊である主人公がモデルだそうです。エルンストは鮮やかな色彩で、動いているときはよいが、止まると倒れてしまう不安定なコマのような表現で、尊大だが孤独なユビュを描きました。遠く隔たった2つの現実を不適合な画面に偶然に遭遇させたり、既成の対象を、突然、突飛な夢の場に置いたり、人の苛立たしい心の状態を表現したりしました。作風は多岐にわたり、何を表現しているのか分からない、決して美しいとはいえない作品も多く、私には苦手の画家です。ただ、以前エルンストのブロンズの彫刻だけを集めた美術展がありましたが、これを見たとき、並々ならぬ美意識を持った芸術家だったことが分かりました。「ユビュ皇帝」のように作者の意図が分かると、それぞれの作品がもう少し良く分かるようになるのかも知れません。
アルベルト・ジャコメッティは、シュールリアリズムの絵画を立体に移したような作品を制作しました。現代における人間の実存を表現しようとして、展示されていいた彫刻はシュルレアリスムの彫刻家時代のものです。しかし、1935年頃にシュールリアリズ的作風を放棄して、再び人物モデルを写生する伝統的方法に戻り、戦後は、良く知られている針金のように極端に細く、長く引き伸ばされた人物彫刻を制作し、シュールリアリズムから離れて行きました。他に、ポール・デルボーの幻想的な作品なども展示されていました。
大阪万博の「太陽の塔」で有名な日本の岡本太郎が、シュールリアリズムと抽象絵画を対置して反発させることで、不協和音を発し精神の高揚を導くという対極主義を提唱しました。この岡本太郎の絵画も正直非常に分かりにくい絵画です。
しかし、シュルレアリスムの画家たちは、そのような議論や美意識にお構いなしに、見る人の心に踏み込んできます。美しいものを求める感性や美意識をこえて、私たちの心に飛び込んでくるものは何か。それは芸術家の遊び心ではないでしょうか。シュルレアリスムの画家たちは、絵画の中で遊んでいるのではないかと思えてくるのです。その遊び心が、真面目くさって、求道的に絵画に美しさの刺激を求めてくる人々の心を遊び心でくすぐるのではないかと思えるのです。何も求めようとせず、素直にシュルレアリスムの絵画に向き合うとき、私たちもシュルレアリスムの絵画の世界で遊ぶことができるのではないかと思います。
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難しいご質問ですね。前衛絵画と呼ばれるのは、その当時前衛的な絵画という意味で、20世紀初頭は、シュールリアリズムも抽象絵画も前衛絵画でしたが、21世紀に入った現在は、どちらも前衛絵画とはいえないと思います。今前衛絵画と呼ばれているものは、私にとってはシュールリアリズムよりもっと理解しにくく、芸術的に本当に価値があるのか良く分からないものが多いです。
岡本太郎はシュールリアリズムに属すると思いますが、本人はそんな枠にはまらないと言っていたようです。ピカソは独自の表現方法を追求した人で、シュールリアリズムの画家ではないと思いますが、何点かシュールリアリズム的な絵画も残しているようです。草間彌生も独自の表現方法を追求した人で、シュールリアリズムには属しないと思います。
私も自信を持っていえないので、詳しい方、コメント下さい。
ダダイズムとうのも、理解の難しい思想ですが、否定、破壊、虚無が根底にあるようで、、新しい美意識を構築したモンドリアはかなり違うように思いますが、いかがでしょうか。
アクネノブさん、この辺にお詳しいようでしたら教えてください。他にも詳しい方がおられたらコメントお願いします。
また、素朴な疑問をお持ちの方は、遠慮なく書き込んでください。
私も理解し切れていないので、情報交換して、理解を深めにらたらと願っています。
むずかしいことは私も分かりませんでしたが、不思議な世界に誘われるような絵がたくさんあり、楽しかったです。
観に行こうと思ってまだ行っていないのですが、この連休に観に行けたらと思います。
シュルレアリズムは好き嫌いが分かれる分野だと思いますが、非現実性と感性の表現具合が面白いと個人的には思いますね。
寧ろ、昔、写真機の発明により影響し合った「絵画と写真」の関係が今新しい関係を迎えているというほうに関心があります。
「ix.com」や「Fotoblur」など、世界の写真サイトの作品を観ると理解できますが、デジタルとネットワークの進展により、カメラで写して編集ソフトで仕上げるという「フォトアート」が欧米を中心に3~4年前から台頭して来ています。撮影時の主題をより明確に表現する写真をベースとしたデジタルアート世界が「現代写真」として注目されてきているように思います。(日本では、撮ったままの撮影技術を重視する傾向が強いですが・・。)
自分はシュルレアリズムの学問的立場がどうとか、そういった適切な専門用語はよくわからないのですが、ためしに自動記述をやってみたりして、「ああこんなかんじか」 という 把握は 多少してるつもりです。
そこで、たしかにシュルレアリスムと抽象絵画は違いますけれども、ちょっと上の方の「抽象絵画は心象世界だからわかりやすい」みたいな描写には少し疑問を抱きました……
先日はわたしのブログにコメントをありがとうございました。
シュルレアリスムについて大変よく調べてあり、
そのうえでの理にかなった考察、感心しました。
なかでも抽象とシュルレアリスムの違いについては、
自分でもはっきりとはわかっていなかったので、
こちらの記事が参考になりました。
ほかの記事も充実してますね。
またのぞかせていただきます。
学生時代に一時シュルレアリスムに傾倒して、坂崎乙郎教授のゼミにまで潜り込んだことがあります。若い自分によくありがちな、「既存の価値観・美意識の否定」という面に惹かれたのです。それは「思想」に惹かれたのであって「絵画」に魅せられたとは言い難いところがありました。しかし、その後わかってきましたがも美術界がフランスを主流にしている以上、美術は「思想」をこねくり回すことと無関係ではいられなくて、画家たちは何か「改革運動」を始めるたびに、自分の流儀の「思想基盤」を強化しようとしてきました。
私自身は大半のシュルレアリスムの画家たちと同じ経緯をたどっていきます。「ダダ」や「シュルレアリスム」は出発点としての「思想・芸術運動」であり、さまざまな影響を受けつつも、画家たちは自分らしい絵の世界を創り上げていく。たぶん、そこに意味があるのであって、シュルレアリスム運動から直接生まれてきた作品群は、おっしゃるように「これはどうもねぇ…」というものが多いように思います。(つづく)
とはいえ、こうして眺めていると、いまだに刺激的なおもしろさを感じます。あれやこれやと思いついては実験する。その「前向きな姿勢」に惹かれます。
「自分の殻」を破るために、ぼくはシュルレアリスムに倣って実験したことがあります。
辞書を適当に二回開いて、ふたつの言葉を選び、「○○」の「△△」という風に並べて、自分のイメージを喚起する。書店に行き、自分が興味のない分野の並んでいるところへいき、適当に本を一冊抜き出して、それを買って読む。
自らの意思による「選択」を拒否し、「偶然」による「選択」を自分の中に取り込むのです。
「ディックの本棚」の本に多様性があるとすれば、わたしはそのようにして「自分の世界」を脱却し、脱皮して、新たな世界を拓いてきたのです。
「シュルレアリスムの価値」は、おそらくそういうところにあるはずです
絵に関する鑑賞眼や知識を持っていませんが,シュルレアリスムと呼ばれる作風は好きです。見る側の想像力を掻き立てる知性的な挑戦を仕掛けているという感じで,見飽きません。
私が楽しんでいる写真の世界にもシュルレアリスムに該当する作家がいます。1900年代全般には,マン・レイとかアンドレ・ケルテスなどといった写真家が絵画の影響を強く受けたピクトリアリスムに対抗するような写真表現の一つのあり方として,作品を制作していたのですが,過去から現在に至る一つの潮流にはなりえていない分野のようです。
思いださせて頂いたことに感謝いたします。
また非常に美しいブログのレイアウトに、ますます期間の残り少ないこの展覧会に何とか行きたい気持ちになっております。
ディックさんのご指摘を読んで、シュルレアリスム運動が、フランスを主流としたため、思想に留まらず、画家の自己改革に繋がり、シュルレアリスムを超えた、あるいは離れた、その画家独自の芸術に展開していったことが理解できたように思います。ドイツが主流の運動だったら違った展開になっていたかもしれませんね。
私は、あまり考えずに絵を楽しんでいます。 dezireさんの説明を読むと、なるほどと思いますが、何も知らないで、シュルレアリスム展に、あまり考えずにいきましたが、ユーモラスな絵がたくさんあり、けっこう面白かったです。
探求していくと、いろいろあるのでしょうが、美しく感じたり、見て楽しければ、それでもよいのではないでしょうか。
シュルレアリスム絵画というのは難しそうですね。私はdezire さんも書かれていますが、見て美しいと思う絵画にしか興味がありません。
あまり絵画を前にして考えたりしたくないですものね。
最近では山種美術館の浮世絵展がよかったです。行かれましたか。
プーシキン美術館展が中止になってしまったのは大変残念です。
この連休中に、1月にこちらで紹介されていた「レンバッハハウス美術館所蔵 カンディンスキーと青騎士展」が神戸の兵庫県立美術館で開催されているので、好きな色彩の世界に、色彩が奏でる音楽を感じてきたいと思っております。
シュールリアリズム(私もこちらのほうが耳になじんでいます)は、確かに「美しい」と鑑賞するものではないですね。
私は「おもしろい」と思いながら作品と向き合います。
家に飾るとしたら・・・美しいと感じる作品がやはりいいですね。
ただシュールリアリズム絵画には、分析する楽しさがあると思います。その作業においては、抽象画よりもやりやすい=わかりやすいのかな、とも思っています。
結局、タダイズムもシュールリアリズムもその当時の芸術の現状に対する不満から生まれた思想のように私は思います。
しかし、先入観を排除し、純粋な心の動きにまかせるといっても、結局人間は頭で考えてしまうので、純粋な夢や無意識の世界など描ける訳がないので、多くの画家は自己矛盾を感じてしまい、ジャコメッティやポロックのように、シュールリアリズムから離れていってしまったのだと思います。
日本の政権交代でもそうですが、前がダメだから・・・という発想から生まれたものは、行き詰ってしまうのが、世の常だと思います。
その点では、前に取り上げていたカンディンスキーは立派だとおもいますね。
芸術は感性で造形や色彩理解するものだとのお考えに共感します。
前衛芸術と称する展覧会をのぞくと、何がよいのかさっぱり分からないものが並んでいたりすることがよくあります。私も、美しいものを追求するのが美術作品だと思っていました。ご説明を読んで、美しさを追求するのとは違った考えで美術作品を創作している人たちが多くいることが分かりました。私が、何がよいのかさっぱり分からないと思った”芸術品”も、シュールリアリズムかどうかは分かりませんが、なにか全然誓う次元のなにかを求めて創作したものなのでしょうね。ただ、見る人がなにかを求めているのか理解できないようなものを作って、何の意味があるのか、なんて考えるとやはり不可思議な気持ちになります。芸術とはなにかと言う根本の私の考えが間違っているのでしょうか。
また、次回のブログも楽しみにしていますので、ご紹介くださいね。
今回は、私も久々にブログを書きましたので、イタリアの美しい庭園にご興味があれば、是非、ご覧下さい。
シュルレアリスム展に私も行きました。私も自分で絵を描き、抽象的な絵にもチャレンジしています。しかし、シュルレアリスム展に展示して会った絵は、まったく違う感性によるもので、私なんかにはとても描けそうもないと思っていました。dezire さんのブログを読んで、何が違うのか少し分かったような気がしました。ありがとうございました。
シュルレアリスム展をガイドを聞きながら見ましたが、説明を聞いても良く分かりませんでした。dezire さんの方がずっと詳しい説明で、分かりやすいですね。それでも、結論は分かりにくい、というところに、dezire さんの人間味が出ていますね(笑)
シュールリアリズムの美術は今も生きており、多くの芸術家が活躍しています。写真家で私が好きなのは、桐野伴秋の作品で、彼の幻想美術写真展では、高知や屋久島をテーマに シュールリアリズム絵画にも通ずる幻想的な写真をたくさん見ることができました。桐野伴秋の作品はお勧めです。機会があったらぜひご覧になってください。
じっくりと読ませて頂きました。本質を突いていて、分かりやすいレビューになっていますね。いろいろ参考になる内容で、勉強になりました。
ほかの記事の内容も充実した内容ですね。また、時々ブログを訪問させていただきます。また、新しい記事を期待しております。
シュルレアリスム展と一緒に岡本太郎展もみました。岡本太郎は、ピカソにもそれまでの抽象絵画にも、シュルレアリスムに対抗して、それを超えようとして、抽象絵画とシュルレアリスムを画面上で対決させようとしたようですね。晩年は自分に限界を感じたのか、キリコのように自分の芸術を模倣したような作品で、岡本太を低く評価する流れもあるようですが、壮大な夢をもちち、大口をたたいて(笑)、風車に突撃したドン・キホーテのような生き方は、誰にでもできることではないので、ちょっと魅力的だと思いました。
いつも、美術やオペラなどの楽しい記事を楽しみに読ませてもらっています。シュルレアリスムは苦手と言いながら、いつもより詳しい説明ですね。分かりにくいからこそ、勉強なさったようですね。勉強熱心なのに頭が下がります、と言いながら、私は自分で勉強しないで、dezire さんのブログで勉強させてもらっています(笑)
シュルレアリスムは、精神の解放を訴えた芸術運動でありました。その理念を、「直感」として捉えた芸術家もいれば、「知性」として捉えた芸術家もいました。いずれもセンセーショナルな作品を生み出した訳ですが、とかく後者のインテリジェンスを武器にした作品がシュルレアリスムの本流のように広められました。ダリはその急先鋒で、いわゆる難解な作品と言動が世界中の知識層を刺激しその影響力は現在もあらゆる文化に及ぼしています。本展でオブジェ的(悲しいかな)に紹介されていた当時の映画を観ても分かります。
さて、「絵画は美しくあって欲しい」とのご意見は正論であると思います。ただ、それは個々に感覚が違うのであって、例えば画家である私はダリやタンギー、デルヴォーの絵にこの上ない美しさを感じます。純粋にその構図と色彩が心地良いのです。ついでに言えば、万人が賞讃するシャガールやエル・グレコ、東郷青児などには全く美しさを感じないのです。
つづく
本題のシュルレアリスムに限らず、感動を与えてくれる作品こそが芸術であり、そのような作品に出会うことが美術鑑賞の醍醐味であると私は思うのであります。誤解なく、感動も個々で違うのであります。ただ、芸術作品と「高技能作品」を混同している現代的解釈の過ちに気が付いて欲しいという私感はありますが…。
シュルレアリスム運動が我が国に渡ってきた時に、そのインテリジェンス優先の誤った考え方が当局の弾圧を受けました。その辺りは本年初めに板橋区立美術館で観た『福沢一郎絵画研究所 展』の見聞録を参照して下さい。→http://tarutana.exblog.jp/12174385/
さらにつづく
結論としては、anton_656さんのように、「探求していくと、いろいろあるのでしょうが、美しく感じたり、見て楽しければ、それでもよいのではないでしょうか。」のご意見に創作者としての私も賛同するのであります。。。。
芸術に美を求めるか、画家のメッセージを求めるかで、見方が変わってきます。
優れた画家は、作品に多くのことを込めて描いていると思うのですが、それを読み解き画家を理解することが絵画も観る楽しみだと思います。
シュールレアリズムも抽象絵画もそれなりの表現方法の違い、例えがシュールリアリズムは三次元の表現が多く、抽象絵画は二次元的表現が多いですが、私はジャンルというより個人を見て見たいと思います。
勝手な事を書いてすいません。
ひとつひとつをいろいろ考えながら、読ませて頂きました。Patch_It_Upさんや、haru21012000 さんがご指摘のように、メッセージ性のある、人の心に訴えてくる作品は、大きな意味があると思いますね。。
私が、美しいと感じるものの方が分かりやすいと書きましたが、美しいというのも個人の美意識の問題で、私が美しいと思っているのは、、美少女アニメの原価のようなものではなくて、精神、心に響くものであることに気がつきました。その意味では、シャガールやエル・グレコ、ピカソの絵も私は美しいと思います。
残念!
desireさんのブログを拝見させて頂いて勉強になりました。ちょくちょくこちらに寄らせてもらいます。
イメージ同士の距離に加速を加えるか、イメージそのものに加速を加えるかは、その作家の体質によるのかなと思います。
ある意味すべての創作物はシュルレアリスムだと言ってしまいたくなる誘惑にかられます。すくなくとも創作物の芽が生まれる瞬間には必ずシュルレアリスム的なものが立ち会っているといえるのではないでしょうか、そのシュルレアリスム的なものを、シュルレアリスムと断言なり宣言したところにブルトンの戦術の鋭さがあると感じます。
時代精神としては、賢治の春と修羅の序文がシュルレアリスム宣言とシンクロしていることがとても興味深いと感じています。
ところで厳密にシュルレアリスムの方法を適用した場合、作品としては成立しない様に感じます。現実を極限まで加速したとき現れるのは制御不能な妖怪めいたものなのだろうと思います。
そこでふと感じることはテクノロジーこそがシュルレアリズムなのではないかということです。
こちらの「シュルレアリスム展」の記事を読ませて頂き、いつもながらdesireさんの絵画への造詣の深さに感心致します。
私がシュールリアリズムの絵画で感じることは、時間が止まった無音で酸素も無い世界です。
妄想癖のある私ですが、完結しているように思えて、これらから想像が膨らみません。
理解出来ていないことが一番でしょうが。。。。
それに比べ、見る毎に新しい発見がある抽象画、モダンアートは大好きです、モンドリアンも。
今回も新たに勉強させて頂きました、ありがとうございます。
又、訪問させて頂きます!
絵画は他人に観てもらってナンボのモノとした場合、シュルレアリスム絵画は刷り込みによって育まれた“美しい”とか“醜い”という感性(価値観)を超越する為に刺激して価値転換を促す為の手法。カオスを演出する事で抽象画との差別化を図っているけども、鑑賞側から見れば結局のところ、各画家の画風、個性や願望の僅かな差異を絵から読み取るだけでしかないので、ほとんど袋小路、描き手達だけのおままごとに近い運動だと理解しています。
多くの人は芸術を判断する場合“好き”か“嫌い”しかないですからね。
とは言っても描き手としては描く対象といったものが無くては一本の線たりとも描けないので、大切な精神探求だとは思いますが…
ただ、描き手の思考や哲学に想像を巡らして絵を眺めるのは楽しい事ですが、その視点に踏みとどまらせてしまってはシュルレアリスム作家としては名折れじゃないでしょうかね。
なんて、いささか否定的な意見のように思われるかもしれませんが、キリコやマグリット、トリックスターとしてのダリも好きな画家です。
モダンアートの世界は勉強不足でよくわかりません。過去にポンピドーセンターやNY のMOMA、グッケンハイムへ行ったことはありますが、さらっと流した程度でした(笑)。このGWにロンドンで美術館巡りをしたのですが、TATE MODERN はやめてTATE BRITAINに足を運んだわけです。TATE BRITAINのWilliam Turner の作品は評判に違わず圧巻でした^^
遅くなってすいません
いつも熱心な記事に簡単な返事は失礼かしらと悩んでしまいます。いつもお勉強してますね。
シュルレアリスム展には興味がありましたが行けませんでした
おもしろそうだったので、残念です。ダリの超絶技巧が造り出すありそうで無い世界、子どもの遊びのようなジョアン・ミロ。どれも宝の箱をそっと開いて覗き見するようなワクワクが生まれます、二次元の世界に色や形を置くだけでどうしてこうも違うものが生まれるのか、そしてそれを見る側の感じ方の違いようったら面白いですね
欲をいえば誰かこの世界を3Dで表現してくれないかなと期待してしまいます
コメントありがとうございました。
が、ブログの解説がとてもわかりやすくて、機会があれば行ってみたいと思いました。参考になります。ありがとうございます。
拙ブログへのコメントやご訪問もありがとうございました。
私はカンジンスキーやモンドリアン、ポロックの抽象絵画は比較的受け入れやすかったのですが、シュールレアリスム絵画は苦手で、自分の理解のために勉強して整理してみました。その結果から、シュールレアリスム絵画は共感しないものはやはりわからないので、開好きなものだけ楽しめばよいと思っています。しかし、おっしゃるように、初めから拒否反応を示さず正面から向き合うことで、第一印象に反して感動できる作品に出会えるかもしれませんね。