バッハの音楽を教会で聴く初めての体験
Johann Sebastian Bach "Mass in B minor"
1月5日 阿佐ヶ谷教会に、バッハの代表的な名曲「ロ短調 ミサ曲」を聴きに行きました。教会でバッハを聴くというのも初めての体験でした。
バッハはルターが提唱したプロテスタントの教会に仕えており、カトリックのミサ曲を作曲したことには謎がかなりあり、いろいろな説があるようです。
バッハの時代カトリック対プロテスタントという対立が激しく、それが原因で戦争も起こっていた時代でした。この曲は、バッハが新旧両派の融合を望み、それを音楽を通して体現しようとしたという見方があります。カトリックとプロテスタントという宗派を超えて、すべてのキリスト教徒に捧げるという密かな目的から、主観的表現を避けて、儀礼的な壮麗な音楽に仕上がっています。純粋に胸を震わせるような女声のアリアは聖母マリアの美しい姿を描き出しています。壮麗な合唱の間に、優しく優美で魅力的なアリアや二重唱を入れて聴く人の心に訴えてくる音楽は、客観性と主観性が均衡も基づく信仰が表現されているようです。
「ロ短調 ミサ曲」には、究極、永遠の信仰が音楽に表現されているようです。降誕、受難、復活を通してキリスト教の神髄が集約された音楽で、何度も聴きこめば聴きこむほどこの作品の魅力を発見します。
バロック的な対位法と甘味な古様式が織り交ざった神ノ前にひれ伏して憐みを歌う2重唱「キリエ」は第1部冒頭と第4曲後半など3曲、アリア風のソロ曲とボリホニー月合唱が交互し神の栄光を輝かしく歌う8曲の「グローリア」、地上の平和を祈り、神を讃えて感謝の合唱、神の至高を歌い上げます。
第2部の三位一体の神への信仰を告白する「ニケーア信経」は客観的表現が多くを占めるこの曲の中で、生き生きとした心の積極的主観的表現を感じる部分です。天国と広い宇宙の称賛、人々の迷いのざわめき、イエスを歓迎した群衆がイエスを十字架で処刑し、イエスの無垢を神が祝福する。人々は天を見上げ、神との和解への祈りを歌い上げます。バッハの信仰が詰め込まれたような音楽になっているように感じます。
1月5日 阿佐ヶ谷教会に、バッハの代表的な名曲「ロ短調 ミサ曲」を聴きに行きました。教会でバッハを聴くというのも初めての体験でした。ロ短調 ミサ曲」は実は自宅のオーディオ装置でCDでしか聞いたことがなく、生演奏を聴くのは初めてでした。2時間に及ぶ宗教音楽の大曲は、自宅で一気に聞くのは集中力が続かず、部分、部分でしか聞いていないことを生演奏で全曲聞いてみて気が付きました。
今回は、慶應義塾大学のコレギウム・ムジクムの学生オーケストラと学生の合唱でしたが、ソロに、高橋ちはるさん、大島博さん、井口達さん、高島敦子さん、川田早苗さんとプロの歌手を配し、ソリストが基軸となって音楽全体を牽引するような演奏になっていたので、全体としてまとまった聴きごたえのある演奏だったと思いました。場所が教会というのもこの曲にふさわしいように思いました。CDで断片的にしか聴いていなかったバッハの「ロ短調ミサ曲」に生演奏で真剣に向き合ったのは良い体験だったと思います。
(2012.1.5 阿佐ヶ谷教会)
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今年もよろしくお願いいたします。
白黒写真で証言されているので、得意な形を力強く表現れていておもしろい写真だと思いました。
バッハの、「ロ短調 ミサ曲」のお話も読ませていただきました。キリスト教の信者でない我々には、なかなか理解するのは難しい音楽のようですね。このような難しい音楽も理解されていて敬服します。
演奏では予想以上にソリストの力量が問われるという意味でも、難しい曲かもしれません。
バッハのアリアで特に好きなのは、マタイ受難曲第65曲のアリア「我が心よ、己を清めよ」です。このアリアは、マタイ受難曲の十字架の後、歌われる、受難曲最後のアリアで、受難の苦悩から安らぎに変わるアリアです。このアリアはバッハの声楽曲でも優れた歌だと思います。
凍った滝の一部をアップした写真が素敵ですね。雪景色も寒さと静けさが感じられます。白黒写真にしたのはそうした効果を狙ったのでしょうか。
バッハの「ロ短調 ミサ曲」は聞いたことがありませんが、バッハの代表的な名曲ですね。やはり一度生演奏で聴いてみた方がよさそうですね。参考になりました。ありがとうございます。
「ロ短調 ミサ曲」を教会で聴かれたのはよい体験をされましたね。私も「ロ短調 ミサ曲」は教会で聴くのがもっともふさわしい曲だと思います。
また、このようにブログでも取り上げていただき、ありがとうございます。
確かに「ロ短調ミサ曲」は大曲であり難解なところもあると思いますが
それはバッハの他の作品と比べて「ロ短調」は少々方向が異なるということによるものかもしれませんし、この作品がバッハの音楽家人生の集大成ともいえる大曲であるということも近づきがたい印象を与えているかもしれません。
しかし、実際に演奏してみると、この作品ほど、ハーモニーの中にいること、和声の進行に突き動かされて演奏していくことに快感を覚える作品は他にないと思いますし、実際に音楽の中に身を投じている最中は「難解だ」という感触はあまりありません。
こればかりは、作品をオーディオで聴いて全体像を「眺める」だけでは払拭しえないのかもしれません。
そういう面からも、実際に生の音を聞いていただけたことで、「ロ短調ミサ曲」に対して、今までとは違った後味を感じていただけるものと思います。
ぜひバッハの他の作品にも耳を傾けていただければ幸いです。
長いコメント失礼いたしました。
カンタータなども聴きたいですが、演奏会があることをご存知でしたら教えてください。
「マタイ受難曲」の生演奏は、是非聴きたいです。
すぐ頭に浮かんできます。
渋谷の小さな映画館で、グールドの伝記映画を放映していました。
未だに人気のようです。
彼を超える人は今世紀中に
果たして出てくるでしょうか?
教会で聴くバッハはまた素晴らしいのでしょうね。
新年のご挨拶ありがとうございました。今年もよろしくお願いします。
私もバツハのコーラスに参加しています。
ミサ曲ロ短調は演奏するのも歌うのも難しい曲です。コーラスでは、音域が広く歌う時の音の高低の変化も大きいので、体力と集中力を必要とします。ソロを歌う人はもっと大変だと思います。私は何回もコーラスで歌う機会がありましたが、演奏が終わると疲れ切ってぐったりです。
聴く方も長時間で大変でしょうが、歌う側も相当頑張っていることをご理解頂けると、我々も励みになり、また演奏に参加しようという気になります。
どちらかというと器楽曲中心で聴いてきた私は、バッハの「ロ短調ミサ曲」は聴いたことがあるかも知れませんが、正直言って、「こういう曲」というイメージがありません。
バッハのイメージをがらりと変えたのは、以前マタイ受難曲の抜粋を生(ナマ)で聴く機会がありまして、そのときにバッハというのはこれほどまでに劇的(ドラマティック)な音楽を書く人だったのかと感動したことがあります。以降、じわじわと、ゆっくりですが、バッハはもちろんバッハ以外にも、宗教曲、オペラなど、ヴォーカルの入る曲にもレパートリーを広げてきて、最近はメトロポリタン歌劇場のオペラ放送などもたのしむようになってきました。
バッハの「ロ短調ミサ曲」を生で聴いたこの感想ですが、たまたま年末にかみさんがヘンデルのメサイアを通して聴いてきたと感想を話してくれまして、「生(ナマ)で通して聴く」というのはやはり大切な体験なのだろうな、と思っている次第です。
いまやフリーの身ですから、ことしはこのような機会をできるだけ持ちたいものだ、と思っております。
「ロ短調ミサ曲をプロテスタントでは礼拝に使用することはないようです。カトリックの教会でもミサ曲としては長大すぎるのと、一部の歌詞をバッハが変えてしまっていて、正式なミサとして使用出来ないなど、カトリックの教会の規律からもミサ曲として使用できない理由があるようです。しかし時々教会で演奏されるのは、恐らく教会の儀式という立場を離れて演奏される場合があるということで、バッハの音楽の普遍性がそれを可能にできるのだと私は思います。
日曜日は昼から夕方まで練習のためみんなで集まり発声法から勉強しました。あとはリズム感のようなものが大事のようで何回も練習しました。「ロ短調 ミサ曲」の合唱を歌ってから、私の一番のお気に入りの曲になりました。聴いても歌っても心が洗われるような気持ちになります。最後のドーナが終わると胸が一杯になり、他の曲では味わう事ができない感動があります。
ロ短調ミサは、カトリック、プロテスタントと宗派や国を超えたキリスト教融和の音楽です。マタイ受難曲とは違った意味で宗教ミサ曲の最高峰だと思います。この曲を凌駕するミサ曲は歴史上ないでしょう。バッハは宗教音楽の集大成と考えてこの曲をように思えてなりません。