近代日本画壇を開拓した京都画壇の美の巨人の魅力
竹内 栖鳳
Takeuchi Seihō
近代日本画の先駆者で戦前の京都画壇を代表する巨匠、竹内栖鳳の初期から晩年に至る栖鳳の名品、洒脱な作品で近代日本画壇の未来を切り開いていった姿を示し、栖鳳の代表作、重要作を鑑賞してきました。
Takeuchi Seihō was the pseudonymof a Japanese painter of the nihonga genre, active from the Meiji through theearly Shōwa period. One of the founders of nihonga, his works spanned half acentury and he was regarded as master of the prewar Kyoto circle of painters.
第1章 画家としての出発 | 1882 ̶1891
竹内 栖鳳は、京都に生まれ、竹内栖鳳は四条派の幸野楳嶺に入門し、四条派の表現技法などを厳格な指導され、北越地方の写生や京都社寺でいろいろな画風の異なる古画や雪舟の作品などの模写で修練を重ねました。古画の模写や様々な伝統的な画題を伝統的な筆致で描いた作品が展示されていました。「芙蓉」は、栖鳳が18歳の時に描いた作品です
Takeuchi Seihō was a disciple ofKōno Bairei of the Maruyama-Shijo school of traditional painting, one of thefirst modern painting competitions in Japan, which launched him on his career.
栖鳳は、早くからその才能を開花させ、四条派の幸野楳嶺の門下となってすぐに頭角を現し、「楳嶺四天王」の筆頭と呼ばれるようになりました。京都府画学校(現:京都市立芸術大学)を卒業後、若手画家の先鋭として30代で京都画壇を代表する画家となりました。この頃から野狐の毛の質感、繊細な線、豊かな色彩と絵のうまさでは完成の域に達している作品が、どことなくみずみずしさを讃えています。奉納した絵馬には。23歳の幅栖鳳の気迫が感じられます。この時期に広い古画や様々な流派の技法を学んだことが、その後の栖鳳の活躍の礎となったことが分かりました。
第2章 京都から世界へ | 1892 ̶1908
栖鳳は、円山派、四条派、狩野派といった複数の絵画の流派の筆遣いを1枚の作品に表現しました。竹内栖鳳は四条派を基礎としていますが積極的に他派の筆法を画に取り入れ、栖鳳は狩野派の他に西洋の写実画法などを意欲的に取り入れて、狩野派や大和絵など多様なジャンルを一枚の絵に織り交ぜた作品を制作し、画壇の古い習慣を打ち破ろうとしました。栖鳳は、革新的な画風を示して日本画の革新運動の一翼を担いました。異なる流派の技法を混在させたことは、新しい時代の予兆として期待されました。
光琳、若冲、応挙。世界が認める天才絵師を輩出してきた京都の先人たちが築き上げてきた技法や描写力の才すべてを手中に収め日本画に革命を起こした画家・竹内栖鳳。栖鳳は、これまでの日本画になかった陰影表現や写実など、西洋の技法を次々と導入し、誰も見たことのない日本画に挑戦し「獣を描けばその体臭までも表す」とまで賞された並外れた描写力、動物画は今にも動き出しそうな躍動感で見る人に迫ってきます。
例えば、「喜雀図」では、大きな金地に小さな雀を飛ばすだけで、雀が空で遊ぶ絵画画面を見事に造りだしています。栖鳳は技巧のみでは生み出せない執念の観察力がと奔放な発想力で、円熟期の栖鳳が目指した、さらなる挑戦、誰も見たことのない日本画で・日本画に革命を起こしました。
一方で、栖鳳は江戸中期の京都でおこった円山派の実物観察、それに続く四条派による対象の本質の把握と闊達な筆遣いによる表現を発展させて、実物観察という西洋美術の手法をもとに、西洋と肩を並べられるような美術を生み出そうという気概でこれら伝統絵画の根本的理念を掘り起こそうとしたのです。
パリ万博が開催された1900年、36歳の時、栖鳳は、7か月にわたってロンドン、オランダ、ベルギーなどをまわり、西洋美術に触れることで大きな刺激を受け、実物をよく観察することの重要性を実感しました。また、ターナー、コローなどから強い影響を受けました。帰国すると、ヨーロッパ帰国後はアントワープで取材したライオンを題材にした「獅子」を発表し、一等金牌を受賞、瀟洒な作品で魅力を開花させていきました。円山四条派の写生を軸にした画風に、西洋美術の要素をとり入れた新しい表現を生み出していきました。
繊細な線でライオンの鬣や毛を表現し、スケール感のある造形で、ライオンをスケール大きく描いていました。ライオンの表情は思慮深げです。「虎獅図」では虎と対峙するライオンの闘志を気迫ある強い線で描いています。
During the ExpositionUniverselle in Paris (1900), he toured Europe, where he studied Western art.After returning to Japan he established a unique style, combining the realisttechniques of the traditional Japanese Maruyama–Shijo school with Western formsof realism borrowed from the techniques of Turner and Corot. This subsequentlybecame one of the principal styles of modern Nihonga. His favorite subjectswere animals -often in amusing poses, such as a monkey riding on a horse. Hewas also noted for his landscapes.
またヨーロッパ風景を西洋絵画的な写実性を帯びた表現で描きました。西洋美術の実物観察に基づく写生に、日本の伝統絵画が得意とする対象の本質を描き出す手法を融合させることでした。西洋美術に肩を並べるという広い視野で日本伝統絵画の表現を見直そうとしました。「ベニスの月」は日本画ベニスで描いたようで、洋画とは異質の独特の味わいがあります。「飼われたる猿と兎」「羅馬之図(ろーまのず)」もこの頃の作品です。
また、歴史上の事象、京都の景観中に西洋画の表現を意識し万博への出品や京都の美術染織業界にもかかわり美術染織の仕事も残しました。
「ベニスの月」(ビロード友禅) 1907年 大英博物館
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大英博物館所蔵の、栖鳳作の原画(髙島屋史料館)をもとに製作されたビロード友禅「ベニスの月」(1907年)が展示されていました。栖鳳は明治期、京都が世界へ販路を開拓していた美術染織の製作にもかかわっていました。友禅の原画を描くだけでなく、日本画・洋画の別に関係なく他の画家が描いた原画に助言を与えて、美術染織の製作に貢献しました。作品は、海外で通用する日本美術を追求する栖鳳の研究姿勢がうかがえます。明治の京都の美術染織は注目を集めていましたが、原画と染織作品両方が現存しているこの作品はきわめて貴重だそうです。
第3章 新たなる試みの時代 | 1909 ̶1926
竹内栖鳳は、第一回文展から審査員を務めたりし京都画壇で画壇の地位を確立してリードする存在となり、多数の弟子を抱える私塾竹杖会で指導者として優れた才能を発揮し、上村松園はじめ、土田麦僊や小野竹喬などを育て、若い世代の育成にも才能を発揮しました。
栖鳳は山水表現でも西洋絵画的な遠近法を導入した風景表現でもない風景画を描こうとしました。栖鳳の風景画には、コローの風景画の表現を導入した作品も見られます。生き物の生命感に肉迫するなど、新たな表現を意欲的に研究しました。
栖鳳は、江戸絵画の様々な流派、水墨画からコロー、ターナーに至るまで様々な技法を試みて新しい表現に挑戦し、また異質の技法を組み合わせて、今まで見たことのないような絵画の画面を創造しました。
栖鳳は人物画研究にも力を注ぎ、人物の動作の優美さだけでなく、一瞬の仕草のなかに心情を描き出す作品を描きました。 この時期の傑作「絵になる最初」(大正2(1913)年)では、モデルが初めて裸になる恥らの表現が顔ににじみ出て、その内面描写がテーマとなっています。
自らの信じた道を邁進し、若い感性で新感覚の作品を発表していきます。大画面を破綻なくまとめる確実な技量と然たる迫力を備えた筆法は、近代を代表する日本画の開拓者でした。洗練された感性と優れた筆技によって動物、風景、人物と様々な主題を手掛けました。栖鳳が描き出す、いきものや自然がみせる一瞬の姿を軽やかに捉えた作品は、作品の前に立つと、あたかもその対象にじかに触れているかのような感覚におそわれます。丹念な実物観察を行いながらも、外形写生ではなく、あくまでも対象の本質をつかむことにあった新鮮な魅力を放ちました。
近代日本画を構築した巨人として、「東の大観、西の栖鳳」と並び称されましたが、その作品群を比べてみると、純粋な日本画技法で完成度の高い華やかな美しさを追求した大観に対し、栖鳳は常に新しい技法とそれを組み合わせて独自の世界を創造することに情熱を燃やし、繊細でかつ斬新でウイットに富んだ美意識を追求した栖鳳とは美意識の違いがあります。また栖鳳は、日本絵画の革新をめざして日本の諸流派の技法だけでなく、西洋画も学び大気や空気感をも表現しようとしたのに対し、横山大観や菱田春草らは、19世紀のフランスの屋外で太陽光下で風景画を描こいた外光派に学び、伝統的な技法である線描ではなく、色の濃淡や明暗のぼかしによって空気感を表現しようとしました。日本の伝統的技法を否定した横山大観らの作品に対して、竹内栖鳳は批判的だったと言われています。
大気や空気を描くことは、岡倉天心の指導の下、表現しようとしたこ4ととも軌を一にします(実際には栖鳳は、大観の表現を批判していましたがそれは、浮世絵に例えるなら歌麿と北斎の資質の違い以上に大きな違いのようにも感じました。
4章 新天地をもとめて |1927 ̶1942
竹内栖鳳は昭和に入っても東本願寺の障壁画に取り組むなど精力的に制作しました。
この時期の栖鳳は、より洗練された筆致で対象を素早く的確に表現するようになり、自然を見つめる自身のあたたかいまなざしを作品の前面に出すようになりました。「班猫」では緑色の瞳が魅力的です。
常に実物観察による写生から出発し、写生から画絹に表現するまでの間にさまざまな取捨選択の仕方が年齢とともに変化して、栖鳳が生涯を通して追究した写生を水というモティーフの中に探っていきます。「緑池」という作品でも緑色を効果的に使い、蛙の、水から出ている部分と水の中の部分で、水の澄んでいる感じ、顔を出した瞬間は水面は乱れ、その波紋は広がり揺らめきが小さくなって水面は落ち着いてゆくようすや水面に映り込んだ青葉の揺らめきある瞬間を表現しています。歳ともに画風は穏やかになり、若き日の気迫は薄れますが、繊細な表現の画力は晩年も落ちませんでした。
竹内栖鳳の作品は好きでしたが、これだけたくさん見るのは初めてで、新しく見た作品が目白押しで、感激しました。
だんどん混んできましたが、私もまた行きたい気分です。
これだけまとまった展覧会はとても貴重ですね。
日本画と西洋画の空間感を両立させる画風は当時の批判
の対象だったかもしれませんが、精神的な柔軟性があっ
てこそ成せる業だと思いました。
テキストの充実したブログを読ませていただき大変勉強
になりました。また遊びに来ます(^^)/
日本画を知る上でも、役に立つ美術展だと思いますので、せひ一度見られることをお勧めします。
東京で圧倒的に人気があるのは、横山大観ですね。
竹内栖鳳の作品は、あまり東京になく見る機会がないからでしょうか。
今回作品展を見て、本文にも書きましたが、横山大観とは全く異質ですが、すごい画家であることを再認識しました。
竹内栖鳳の作品でおもしろいと思ったのは、水墨画の技法に、コローの技法を併用したり、ターナーの技法と日本画の技法を併用したりして、変化と躍動感のある画面にまとめている作品があることでした。このようなタイプの日本画家は、竹内栖鳳の後継者にも珍しいのではないでしょうか。
気が付いたのは、鳥も含めて動物の絵が非常に多いことですね。
次に多いのが風景画で、人物の作品が非常に少ないことです。
江戸絵画は、狩野派も琳派もほとんど風景画や花鳥風月の写真で、若冲も含めて人物画をほとん書いていないので、その影響でしょう。
横山大観は晩年は富士山ばかり書いていましたが、全盛期は人物画の傑作をたくさん描いていました
横山大観の斬新さは、日本画で芸術性の高い人物画を残したところではないでしょうか。
また、大観は水墨画の風景がの大作「生々流転」も残しています。
竹内栖鳳と横山大観に違いは、画風の違いだけではなく、芸術のそのもの対する考え方の違いで、近代日本画の開拓の意味も全く違うのではないでしょうか。
絵のうまさ、どんな画風のやいろいろな技量を見事に使いこなす技量はすばらしいと思いました。
横山大観との比較ですが、横山大観の魅力は作品が色彩豊かで華やかで、『無我』『屈原』『生々流転』『夜桜』のような誰が見ても大観の代表作と言えるような作品をかいていることでね。
竹内栖鳳は、作品が粒ぞろいで、どれも素晴らしい作品ですが、代表作は何かというと考えてしまうところがあります。
横山大観と比べると、京風というのかもしれませんが、作品が地味で玄人好みという感じがします。
そのあたりが、横山大観の方が知名度が高く一般に人気がある理由かもしれませんね。
これまではたいてい西洋画の時にいらしていたのに、今回は日本画家の時だったので少し驚きました。レパートリーが広いですね。
栖鳳は大観と比べると日本画からは抜け出しているものがありますね。そこが理解されづらいゆえんだろうと思います。
これからもよろしくお願いします。
大変楽しく拝見させて頂きました。
感想も詳しく書いてありましたし、画像も沢山あってもう一度美術展に行った気分になりました♪
「ベニスの月」をもう一度見れたことは嬉しい限りでした!友禅染に興味を持っていることもあって、この絵は大変印象に残っています。
栖鳳の写実の技術と、様々な技法を1つの絵に使っているにも関わらず違和感を感じさせない技術はいつ観ても素晴らしいなと思います。特に対象の本質をとらえた写生は、絵を描く身としては憧れですね~
山種美術館に続いて竹内栖鳳の作品をたくさん見られて、とても嬉しく思っています。
感想は一言では表せませんが、多彩な画風に驚嘆させられました。栖鳳が描く動物の表情には人格すら感じる思いがしました。
最近の日本史の教科書がどうなっているのか分かりませんが、栖鳳や上村松園を含めた帝室技芸員も、横山大観と同じ扱いをしてほしいと、近年とみに感じます。
丁寧に記事にされてますね。自分のブログが恥ずかしくなります。desireさんのブログを拝読して、後期展示にも行かなきゃなと思いました。
これからもよろしくお願いします。
「ベニスの月」が友禅染とは始め分かりませんでした。他に竹内栖鳳の絵画かと思うほど見事な刺繍でできた作品もあり、竹内栖鳳が京都の伝統工芸を芸術にまで高めることに貢献したことを知りました。
たしかに、日本の美術の教育は、フェノロサ~岡倉天心~横山大観の院展を近代日本画の本流のような教え方をしていますね。美術教育に限らず、日本の教育は政治的な力の影響を受けて、いろいろな美意識や価値観を必ずしも公平に教えていないと思います。それにとらわれず意欲的に学ぶ必要がありますが、みな生活もあるので難しいですね。
読ませていただき竹内栖鳳の作品が画風をはじめと知りました。
竹内栖鳳展を見に行きたくなる明快なご説明に感服しました。
日本の教育では、西洋化政策の中で日本の伝統絵画が危機にそんしているいるとき、フェノロサと岡倉天心が尽力し、その指導の下に横山大観らが新しい日本画を開拓したと教えていますが、全く別に竹内栖鳳の努力があるのですね。
横山大観の方が圧倒的に知名度が高いのは、日本の美術教育のもんだいもありますが、竹内栖鳳は庶民受けするような作品をあまり描いていないのもあると感じました。
横山大観は、「秋の夜美人」「あやめ 」などの美人画、「無我 」「村童観猿翁 」「形容枯槁」のような人物画を多く演き、花咲く風景や富士山の作品群のような庶民が楽しめる作品をたくさん描いたのも、体感が人気がある理由のようにも思います。
ブログに紹介されている作品を拝見し、竹内栖鳳は、絵の分かる文化人、風流人しか絵を見る定昇として想定してなかったようにも感じました。
日本画の画家でも、これだけいろいろな技術を使っていろいろな画風の作品を残した人は珍しいですね。前半と後半で作品がだいぶ入れ替わっておりました。「羅馬之図(ろーまのず)」が後半はなくなって、その代わりに山種美術館の所蔵品が加わっていました。
竹内栖鳳の偉大さは、古来の日本画をすべて吸収して、近代日本画の道を開いたことです。横山大観との違いは、大観は、偉大な師であるフヤノロサや岡倉天心に導かれて野に対し、栖鳳はフヤノロサや岡倉天心の役割も自ら担っていたことだと思います。
寧楽(なら)編では、desireさんのお好きな仏像の記事などをアップしましたので、よろしければご笑覧ください。
竹内栖鳳展は京都で見ました。
イタリア風景をあえて水墨風に描いたところに彼の創意を感じました。
その一方で、東洋の飛天の背景を、ローマを思わせる青空にした絵もあります。キジル石窟の青空の例もあるので、西洋の空とは言い切れませんが…
http://ramages.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-07ad.html
栖鳳は正直、私にはよく分からないところが多いのですが、分からないままに美しさに説得されてしまう不思議な画家の一人です。
また、もう一つのブログにもお越しくださったようで嬉しく思います。あの時は獅子とアントワープにかんする記事はまだ公開しておらず、済みませんでした。
今週と来週に獅子の記事を2回に分けて公開します。
改めまして、もう一つのブログにもトラックバックかコメントを頂けると、栖鳳の連載に花を添えて頂くことになり、光栄なのですが…いつでも、ついでがおありの時で結構です。どうぞよろしくお願い致します。
http://ramages3.exblog.jp/23104594/
(TB代わりのコメントです。)
獅子とアントワープにかんする記事は早速訪問させていただきます。
私も9月~10月くらいにアントワープの旅行記、特にルーベンスの傑作についてレポートしたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。