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芸術と自然の美を巡る旅  

欧州では人口第5位でスペインの行政、経済、文化の中心地

マドリード
Madrid
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 マドリード、スペインの首都でスペインの経済・文化の中心です。少しマドリードの街を歩いてみました。




The Palacio Real de Madrid is the official residence of the Spanish Royal Family at the city of Madrid, but is only used for state ceremonies. King Felipe VI and the Royal Family do not reside in the palace, choosing instead the more modest Palacio de la Zarzuela on the outskirts of Madrid. The palace is owned by the Spanish State and administered by the Patrimonio Nacional, a public agency of the Ministry of the Presidency.

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 マドリード王宮オリエンテ宮とも呼ばれスペイン王の王宮ですが、実際王族は小さなサルスエラ宮殿に暮し、マドリード王宮はスペイン政府が管理し、一般公開されています。

 広大な宮殿はベラスケス、ティエポロ、カラヴァッジオ、フゴヤといった芸術家の作品が飾られています。宮殿の西部分は、カンポ・デル・モーロという庭園で、宮殿の東ファサードはオリエンテ広場とオペラハウスである王立劇場に面しています。 南側はアルマス広場という広い広場で宮殿の狭い翼で囲まれ、更に南側はアルムデナ大聖堂に面しています。北側はサバティーニ庭園がります。

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 スペイン広場はマドリードのセントラル広場です。王宮の北に位置する公園で。「ドン・キホーテとサンチョ・パンサ」の像などセルバンテスを記念した像が建てられています。

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 マヨール広場はマドリードのセントロにある広場で、広場に面して237箇所のバルコニーを持つ3階建ての建築物に囲まれた美しい広場で、広場を囲むポルチコには、歴史と伝統ある商店やカフェが並んでいました。マヨール広場はマドリード最大の市場が開かれていたこともあり、闘牛やサッカーの試合、公開処刑、スペイン異端審問なども行われました。マドリードの守護聖人、聖イシドロの祝祭も広場で行われます。12月の一ヶ月間は伝統的なクリスマスの市場が開かれます。その日も何か大きなイベントが行われていました。マヨール広場は9箇所のアーチがあり、広場南西にあるクチリェロスのアーチが最も有名です。

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The Plaza Mayor was built during Philip III's reignand is a central plaza in the city of Madrid, Spain. It is located only a few Spanish blocks away from another famous plaza, the Puerta del Sol. The Plaza Mayor is rectangular in shape, measuring 129 m × 94 m (423 ft × 308 ft), and is surrounded by three-story residential buildings having 237 balconies facing the Plaza. It has a total of nine entranceways.

 このアーチを抜けると大きな食物市場・ミゲル市場があります。市場は肉や野菜などの店が並び、たくさんの人で賑わっていました。この周辺は、バルやレストランが立ち並ぶ観光地で、世界最古のレストランとされるソブリーノ・デ・ボティンもここにあるそうです。

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 スペインは闘牛も盛んで、マドリードのラス・ベンタス闘牛場はスペイン有数の闘牛場です。(写真は、写真ギラリーに載せていますのでご参照ください。)スペイン人は闘牛のような殺し合いの競技を好む傾向があり、闘牛学校は試験なく入学できるそうで、若者のスペイン・ドリームの一つの道でもあるようです。スペインでは、闘牛に美を求め、闘牛士は容姿が美しいことが求められます。フラメンコのガサツともいえる気性の激しいものにも美意識を感ずるように、スペイン人の美意識は、繊細な美意識を求めるイタリア人などとは少し違うようです。


 マドリードの東南の方面にはプラド美術館やソフィア王妃芸術センターがあります。(プラド美術館については章を改めてご紹介します。)

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 ソフィア王妃芸術センターは、現国王フアン・カルロス1世の王妃ソフィアにちなんで名付けられた。ピカソやダリ、ミロなど20世紀の近現代美術を中心に展示されています。

 ピカソの代表作『ゲルニカ』はフランコ政権崩壊後スペインに「里帰り」し、プラド美術館別館からここに移され展示されています。『ゲルニカ』は、スペイン内戦中に空爆を受けた町ゲルニカを主題に描いた絵画です。スペイン北部・バスク州の小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受けたということで、史上初めての都市無差別空爆と言われています。ピカソは、パリ万国博覧会スペイン館の壁画として急遽ゲルニカを題にこの作品に取り組み完成させました。

 スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結したため、この絵はロンドンなどを巡回したのちニューヨーク近代美術館に預けられました。第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めましたが、「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」とピカソは拒否しました。

 フランコ政権が交代したスペインとニューヨーク近代美術館との間にこの絵の返還交渉が再開され、1981年にスペインに返還され、現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されています。

 『ゲルニカ』は、1937年の作品で縦3.5m、横7.8mの大作で初めて観ました。キャンバスに絵具ペンキによって描かれ、大作にしては1ヶ月弱という短時間で完成しました。絵画では珍しくモノクロームで描かれています。血の色を表現しなかった田ことがかえって強い印象を与えているよう感じました。死んだ子を抱き泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったようにいななく馬などが戦争の悲惨さを訴えています。全体の構成はキリストの磔刑図をイメージさせています。ピカソが好んで描いてきた闘牛やミノタウロスの神話などとの関連も指摘できる。なお兵士、動物以外の人物はすべて女として描かれている。人間の目をした牛の顔や窓から室内に首を突き出す人物など奇妙な表現など解釈が難しい部分もあります。と参考文献を読んで『ゲルニカ』について説明してみましたが、その説明は分かり易いと思いましたが、大きな期待を込めて初めて実物の『ゲルニカ』を思い切り時間をかけて絵に向き合いましたが、この作品がピカソの最高傑作という評価には違和感を覚えました。ピカソは膨大な作品を残しており、この『ゲルニカ』に近い時代のものが一番好きですが、何よりもピカソ絵画の生命の一つといえる色彩感覚が発揮されていないこと、画面構成も、何もかも描こうとして煩雑すぎることなど、すごい枝とは思いますが、ピカソの最高傑作というのには共感できませんでした。『ゲルニカ』期待しすぎたのかもしれません。

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 『ゲルニカ』完成以降、平和運動の象徴とされたピカソは、以降朝鮮戦争をテーマとした作品を引き受けました。この作品の中の泣き叫ぶ女だけを独立したモチーフに描いた『泣く女』という作品も傑作です。ピカソは反戦のシンボルであり続けましたが、ピカソが後に共産党に入党したことや、人民戦線との繋がりもあり、ピカソの義憤の象徴と解釈には、別の議論もあります。また、『ゲルニカ』制作の裏には2人の女、ドラ・マールとフランソワーズ・ジローの争いがあったと言われ、『ゲルニカ』の制作過程をドラ・マールが写真に記録中に、フランソワーズが嫉妬心を抱き、ペンキまみれで描いている最中に72人の取っ組み合いをしていたという話もあります。泣き叫ぶ女はドラ・マール、ランプを持ち覗き込むようにして絵の中心にある女がフランソワーズ・ジローだと言われています。左下に倒れている兵士はピカソ自身であると言われています。

Guernica is grey, black and white, 3.5 meters high and 7.8 meters wide, a mural-size canvas painted in oil. Picasso's purpose in painting it was to bring the world's attention to the bombing of the Basque town of Guernica by German bombers, who were supporting the Nationalist forces of General Franco during the Spanish Civil War. Picasso completed the painting by mid-June 1937. Picasso exhibited his mural-size painting at the Spanish display at the Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie Moderne in the 1937 World's Fair in Paris and then at other venues around the world. The San Francisco Museum of Art gave the work its first public, free appearance in the United States from 27 August – 19 September 1939. The Museum of Modern Art in New York City then mounted an important Picasso exhibition on 15 November 1939 that remained on view until 7 January 1940, entitled: Picasso: 40 Years of His Art,

 最後に簡単にマドリードの歴史を追ってみます。マドリードのあたりには先史時代から人間が住んでおり、古代ローマの支配下にありました。9世紀に後ウマイヤ朝が現在の王宮の位置に小さな宮殿の建設し、そのそばには要塞が建設しました。近くのマンサナーレス川はアラビア語で「アル・マジュリート」「水の源」)と呼ばれ、これが語源となって「マドリード」となったそうです。

 ルネッサンス期は、カスティーリャ王国(首都トレド)とアラゴン王国(首都サラゴサ)が連合したのち、16世紀にカルロス1世の元でスペイン王国としての融合が進み、フェリペ2世が宮廷をマドリードに移し事実上の首都となりました。18世紀にフェリペ5世は、ヨーロッパの首都としてマドリード王宮を含む新しい宮殿の建設を行い、カルロス3世の代にマドリードは近代的都市とりました。王室の土地がレティーロ公園として整備されて市民に開放され、プラド美術館も建設されました。カルロス3世は「最良の市長であり王」と呼ばれマドリードに今でも人気があります。

 スペイン内戦(1936年 - 1939年)では、マドリード市内は戦場とりました。マドリードは人民戦線政府の拠点となり、フランコ軍との戦闘が繰り広げられましたが、マドリードは3年の間包囲されたのち降伏しました。ドリードは『ゲルニカ』にも描かれたように、初めて民間人を標的としてした航空爆撃を受けた都市となりました。フランコの死後、民主化が進み、マドリードはスペインの経済的な中心地となりました。



マドリード市街 写真ギャラリー  文字をクリックするとリンクします。
マドリード王宮付近 写真ギャラリー

Streets of Madrid Photo Gallery
Madrid ,near Royal Palace Cathedral Photo Gallery 
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by desire_san | 2014-10-19 21:28 | スペイン(西) | Comments(8)
Commented by Ruiese at 2014-10-22 09:46 x
すてきな写真拝見しました。写真ギャラリーにもすてきな写真がたくさん載せておられますね。
写真ギャラリーに闘牛場の写真が載っていましたが、東急は見られなかったのですか?
Commented by 智子 at 2014-10-22 10:11 x
スペインのツアーでマドリードに行きました。王宮はゆっくり見る時間がなかったので、王宮のすてきな写真を見て、思い出しています。
『ゲルニカ』は私も期待してみましたが、黒一色で見ていて痛ましく、dezireさんが書かれているように、私も期待したほど良い枝とは思いませんでした。
Commented by Haruna_Takahash at 2014-10-22 13:53 x
マドリードはかなり前に1週間以上滞在したことがあります。dezireさんのようにきれいな写真を撮っていなかったので、写真ギャラリーの写真も含めて、多くの写真を拝見し、そのころの思い出がよみがえってきて、思い出に浸りながら楽しく写真を拝見しました。プラド美術館の写真がありませんが、美術に詳しいdezireさんのことですから、別にプラド美術館を特集した記事を書いてくださるものと期待しております。
Commented by desire_san at 2014-10-23 00:29
Ruiese さん、写真ギャラリーの写真まで見て頂いてありがとうございます。
闘牛は見ませんでした。牛と人間が命を懸けて戦うというのは、平和主義者の私は、見たいという気持ちが全くありませんでした。
Commented by desire_san at 2014-10-23 00:31
智子 さん、コメントありがとうございます。
『ゲルニカ』は歴史的に意義のある絵画だとおもいますが、美術作品としては、可なりじっくり見たのですが、あまり好きになれませんでした。
Commented by desire_san at 2014-10-23 00:33
akahashさん、1週間以上マドリードに滞在されたとは羨ましいですね。
トレドも泊って行かれたのでしょうね。そういうゆっくりした旅がしたいですね。
Commented by snowdrop-momo at 2015-02-07 10:33
過去のスペインの記事を拝見していて、次の一節が目に留まりました。

>スペインでは、闘牛に美を求め、闘牛士は容姿が美しいことが求められます。(…)気性の激しいものにも美意識を感ずるように、スペイン人の美意識は、繊細な美意識を求めるイタリア人などとは少し違うようです

イタリアの近現代の詩の授業を受けていた時、イタリア人講師が「イタリア人は根暗であり、スペイン人のように情熱の民ではない」と言っていたのが印象的でした。
イタリアは北と南でずいぶん気質が違うので、彼は北の出身だったのかもしれませんが…

一方、スペインにもヒメネスのような抒情的な詩人もいます(『プラテーロとわたし』の作者)。
両国の違いについては、これからもじっくり考えてゆきたいです。

Commented by desire_san at 2015-02-07 18:11
snowdrop-momoさん、私のレポートに興味を持っていただいてタイへう嬉しいです。近現代の詩のイタリア人講師の方の「イタリア人は根暗であり、スペイン人のように情熱の民ではない」という意味は良く分かるような気がします。よく言えばイタリア人の方が思慮深くしたたかなような気がします。ただ。「根暗」という表現をするなら、一般的に日本人の方がずっと根暗だと思いますが。

by desire_san