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芸術と自然の美を巡る旅  

15世紀初頭、彫刻革命を推進した最も偉大な芸術家

ドナテッロ

Donatodi Niccolò di Betto Bardi


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フィレンツェにおける初期ルネサンスの美術の「革命」は彫刻の分野から始まりました。サンジョバンニ洗礼堂門扉浮彫のコンクールをしきりに、フィレンツェでは都市中心に位置する洗礼堂、大聖堂、鐘塔、オルサンミケーレ聖堂などの装飾の大事業が年をあげて推進され、古代的リアリズムの再生など、目覚ましい彫刻革新の胎動が始まりました。





The greatest artist of the sculpture revolution of the early 15th

century was Donatello, the youngest and clearest. Donatello is the

largest sculptor of theearly Renaissance. Not only was it the largest

sculptor in Florence beforeMichelangelo, but also in Western sculpture

history, alongside Faydias,Praxiteles, Giovanni Pisano, Michelangelo,

Berlinini and Rodin, Donatello isone of the finest artists in mass.

It is positioned in.




15世紀初頭の彫刻革命の推進者で最も偉大な芸術家が、最年少で最も澄明だったドナテッロでした。ドナテッロは、初期ルネサンス最大の彫刻家、ミケランジェロ以前のフィレンツェ最大の彫刻家であっただけでなく、西洋彫刻史上でも、フェイディアス、プラクシテレス、ジョバンニ・ピサーノ、ミケランジェロ、ベルリーニ、ロダンと並んで、質量ともに最高レベルの芸術家の一人に位置付けられます。



ドナテッロの作品の驚くべき人間解釈の深さと雄大さと多面性は、15世紀の時代を超えて、その表現の著しい多様性は、ゴシック、ルネサンスの時代様式すら超えています。神の声を伝える聖人や予言者の激越な精神の叫びから、戦士や女傑の残忍な暴力性、官能的な美少年の自己陶酔から異教的なバッカイ的な乱舞まで、精神=肉体の古典的調和に満ちた聖母の貴婦人的優雅さから年老いた改悛者の自己否定まで、清新はつらつとしたヒロイズムから懐疑と屈折をはらんだ精神の悲劇的な愛と憎しみの様な相反する感情や態度が同時に存在する「アンビヴァレンス」まで、その人間解釈の表現は驚くばかりの多面性と彫り込みの鋭さをもって、肉体と精神の全位相に及んでいます。ドナテッロの表現様式は、古典的均整に富んだ堅個な量塊構成から表面の光と影の戯れを意識させる絵画的肉付けまで、対象の呵責なき肉迫を示す厳格なリアリズムから,激情の噴出がデフォルメや線的錯綜を誘発する表現主義的様式まで、目覚ましい振幅を示しています。


 


ドナテッロ『ダヴィデ像』1440年頃 バルジェロ美術館 



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 『ダヴィデ像』はドナテッロによって作られた青銅の彫刻で、アーティストの最も典型的な作品であり、イタリアの15世紀全体の象徴であり、すべてが完全には明らかにされていない意味に満ちています。ドナテッロの作品の中で最も魅力的で、謎に満ち、特異な作品であり、初期ルネサンスのブロンズ彫刻の白眉です。極めて自然な生動感としなやかさをもって生きている人間のようです。



 図像学的観点からこのブロンズ製『ダヴィデ像』は、1408年大理石の『ダヴィデ像』はドナテッロのキャリア最初期における重要な作品である大理石製『ダヴィデ像』の延長線上にあると考えられていまが、外観としては二つの『ダヴィデ像』は全くの別物で、ブロンズ製の『ダヴィデ像』は兜と長靴以外全裸で、ひどく華奢な体つきをしており男性的な印象はまったく与えなません。大理石像の静粛とヒロイズムは消え、そのかわりに耽美的な官能性とメランコリックな瞑想性と宮廷風の都会風に洗練が現れています。




この彫刻のダヴィデにはルネサンス期のイタリアで制作された男性裸像をモチーフとした美術品に共通する特徴です。頭部の表現は古代ローマ皇帝ハドリアヌスが寵愛した彫刻家アンティノウスの影響を受けているといわれています。



「服装倒錯であり、性的倒錯者を魅了する両性具有」とアメリカの批評家メアリー・マッカーシーが呼んだダヴィデの身体は、ゴリアテの巨大な剣と対照的に肉体を表現することによって、ダヴィデがゴリアテを打ち負かしたのは身体的能力ではなくすべて神の意思であるということを表し、重武装の巨人兵ゴリアテとは対極である全裸の少年ダヴィデが神の存在をさらに明確にしています。



 『ダヴィデ』がもつ不思議な雰囲気は、『ダヴィデ』はドナテッロがそれまでにない革新的な男性裸像を表現しており、古代の彫刻の単なる模倣ではなく、ルネサンス美術における男性裸像の芸術性を追求しようと試みた作品であり、それまでの伝統的な彫刻からはかけ離れたもので、穏健な美術品とは程遠い作品となっています。ドナテッロは同性愛者で自らの性的嗜好をこの作品を通じて公表したのだという説と、当時のフィレンツェ社会では珍しくなかった同性愛を表現していてドナテッロ自身の性的嗜好とは無関係だという説もあります。古代ギリシア・ローマでは同性愛はごく普通のことで、同性愛のほうがより崇高な愛情であると信じられていいました。しかし『ダヴィデ像』が制作されたルネサンス期の西欧では同性愛は違法であり、当時ドナテッロ自身が同性愛者であるとほのめかすことすら危険な行為で、私はあり得ないと思います。



 依頼主はコジモ・デ・メディチであるされ、制作年度ミケロッツォ・ディ・バルトロメオが設計したメディチ・リカルディ宮殿が建築された1440年代とする説が有力です。若き英雄ダヴィデは片手に剣を持ってたたずみ、その足元には刎ねたゴリアテの首が転がっています。



『ダヴィデ像』は偉大な彫刻家ドナテッロが15世紀からコジモ・デ・メディチで働いていた時に、メディチ宮殿の中庭のために作られ、ロレンツォ大帝とクラリスオルシーニの結婚式のお祝いの際にメディチ家の中庭にありました。彫像は台座に装飾された多色の大理石の柱の上に置かれました。40年代には中庭はまだ完成していなかったので、元々部屋の中にあったかもしれません。




 1495年メディチ家の2度目の追放の際に、ダヴィデ像は群衆から盗まれ共和党の自由の象徴としてヴェッキオ宮殿に運ばれ、最初の中庭に展示されていました。

1555年、メディチ家に戻り、ダヴィデ像は入り口近くの公共の建物のファサードの外に置かれ、15922番目の中庭に移動しました。 17世紀の初めに、この像はピッティ宮殿の代表的なホールの暖炉の上にありましたが、1777年にウフィツィ美術館に到着してランツィは現代彫刻のホールに置きました。国立バルジェッロ美術館の創設により、新しい美術館のルネッサンス彫刻のコレクションに選ばれた最初の作品の1つとなり、19世紀後半に移管が行われ、1階のリビングルームの支配的な位置の15世紀の大理石の台座の上に置かれています。








ドナテッロ『福音記者聖ヨハネ像』1409 - 1415年)

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館





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 この作品は、フィレンツェのドゥオーモのファサードに引き付けられていました。預言者のようにも見えず、天使に似ています。作品は等身大であり、ゴシック風の姿勢で顕著な芸術的能力を示しています。ドナテッロは、伝道者の中で、古代の彫像の高貴な落ち着きにつながるだけでなく、本物の人間性と真実の部分を探って、後期ゴシック様式のマニエリスム的表現も見られます。頭部は高浮彫で掘られ、額の聖人の顔は理想化されています。下から見上げられることを意識して上半身は平坦ですが引き延ばされ、肩と胴体は半円形のキャップに従って幾何学的に簡略化されました。下半身は複雑落下運動をして、手は現実的で、足を包むカーテンは手足を隠さずにより自然な様式で表現しました。顔をしかめた厳しい表情には、フィレンツェ人らしい峻烈な意志と激情、鋭い批判精神が横溢しています。







ドナテッロ『受胎告知』1435年ごろ サンタクローチェ聖堂



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サンタクローチェ聖堂の祭壇のため制作された『受胎告知』は、ドナテッロの通常の荘厳でダイナミックなスタイルから逸脱していることを示しています。豊かな金色の装飾は、神聖な出会いの穏やかな天使と聖母という2人の主人公は安らかに救済していて、天使の御出現の直後を驚くほど穏やかに捕らえ、制御された美しさを感じさせます。天使の姿は古代人の解剖学的理想に基づいてモデル化されていますが、最も深い感情を表現することでは古代の芸術を凌いでいます。聖母と天使の衣の表現に、見事な襞の流れと巧妙な屈曲を作り出しています。壁は自由に組み合わされた古代的なモチーフで埋め尽くされ、鍍金に施されて、絵画的な効果を高めています。天使は聖母の前にひざまずいて、恥ずかしそうに優しく彼女を見て、場面を非常に明るく生き生きとさせ緊密な視覚的対話を作り上げています。


 





ドナテッロ『ユディトとホロフェルネス』

              (1453 - 1457年) ヴェッキオ宮殿




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このブロンズ像は、ユディトがホロフェルネスを酔わせた後、彼を斬首する準備をしています。台座には収穫の天使酒に酔った場面のある3つのレリーフがあります。角度が一致しないようにベースに対して回転し、動きの効果を生み出します。作品の構造はピラミッド型で、ヒラティックなユディトの顔とヒロインの右腕が90度に曲がった剣の刃の上部にあり、もう1つの焦点はグループの対角線が収束するホロフェルネスの頭です。この作品は宗教的シンボル(欲望を克服する禁欲)、メディチ家の力の祝福、そして最後に自治体の紋章(暴君を克服する共和国)といくつかの象徴的な価値観と交差しています。彫像は台座の隅には4つの穴がありワインの源として使われたのでしょう。シエナの大聖堂は庭に置かれ、ドナテッロがメディチ家から2回目の追放された後、パラッツォ・メディチの前に据えられ、再主要的にヴェッキオ宮殿に置かれたようです。






ドナテッロ『悔悟するマグダラのマリア』

    (14531455年頃) ドゥオーモ美術館




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 娼婦であったマグダラのマリアはキリストの聖天後砂漠に隠遁し、30年にわたって悛と苦行の生活をおくったと言われますが、ここでは老いた苦行者の鬼気迫る自己否定の姿勢が仮借なくリアリズム的に追及され表現されています。伸び放題の金髪が痩せ細った肉体を毛皮のように包み、その痛ましい顔には強烈な悔悛と煩悩、底知れぬ厭世観と悲観主義が表現されています。精神と肉体の激烈な相剋が生み出す悲劇的な感覚は、ある意味で時事詩的な雄大さを感じさせます。




この彫刻は一度東京に来たのを見たことがありましたが、最初はその魅力が解りませんでした。フィレンツェで再度彫刻に再会して、私自身もいくらか成長したのか、この彫刻と向き合って強く胸を撃たれました。このマグダラのマリアはイエスを知り悔い改めて新しい人生を生きようとしていた。イエスは最後に奇跡を起こして十字架にかけられる事は無いと信じていたが現実はイエスが十字架の上で死んでしまう,神の存在を疑ってしまう事だってあった、40日断食をしたマグダラのマリアはイエスが十字架にかけられて亡くなってしまった事、自分はどう生きたらよいか、様々な葛藤と闘って、最後に出た答えは神を信じる。イエスが説いた教えを守り抜く。その心境に至ったマグダラのマリアをドナテッロが見事に表現していたことを感じ強い衝撃を受けました。


 







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by desire_san | 2020-02-26 10:06 | イタリア・ルネサンス美術の旅 | Comments(9)
Commented by Keiko_Kinoshita at 2020-02-26 22:48 x
こんばんは。
私の好きなドナテッロの芸術に関する詳しいレポートをありがとうございました。

ご存知でしょうかとも思いますが、ドナテッロにまつわる面白い蛇ソードご紹介します。フィレンツェ、サンタ・クローチェ教会のゴンディ家礼拝堂には、ドナテッロ作の木彫りの十字架像があります。ドナテッロはこの十字架像がよくできたと思い、友人のブルネレスキに見せました。ところがブルネレスキは「君のイエスは農夫のようにしか見えないな」と批判したのです。ドナテッロは「そう言うのなら自分でも作ってみたらいい」と返します。数ヶ月後、ブルネレスキはドナテッロを昼食に誘います。いっしょに市場で買い物をして帰りに、用事を思い出したと言って、ブルネレスキはドナテッロを一人で自分の家に向かわせます。ブルネレスキの家に入った途端、ドナテッロは完璧に仕上げられた十字架像を目にし、あまりの素晴らしさに呆然として、手に持っていた食品を床に落としてしまいます。ブルネレスキはその様子を見て「いったい何を食べたらいいんだ」と笑いました。ドナテッロは「もう、僕は十分だ。君にはキリストを作ることが許されて、ぼくには農夫なのだ」と自分の敗北を認めたといいます。
Commented by Harune_Takahashi at 2020-02-26 22:55 x
いつもながら丁寧なご説明ありがとうございました。大変勉強になりました。
私もフィレンツェでドナテッロの「ダヴィデ」を見ましたが、顔をよく見ると妖艶かつ不敵な笑みを浮かべていますね。ルネサンスは、古代ギリシア&ローマの古典芸術の再生の時代とはいえ、この顔と身体の表現は、ギリシアの彫刻ではありえない魅力がありますね。これこそ、イタリア・ルネサンス美術の真骨頂といえる世紀の傑作だと思います。

Commented by Haruyuki at 2020-02-26 23:15 x
こんばんは。
ブログを拝読させていただきドナテッロの芸術の全貌を理解することができ、大変ありがとうございます。

芸術家気質のドナテッロは、無理な注文主としばしば衝突を起こしたようです。コジモは遺言のなかで、ドナテッロを芸術制作に専念させるため豊かな収入が保証される農園を彼に贈ることにした。ところが、当初喜んで農園を受け取ったドナテッロは、息子のピエロのところにきて農園の返却を申しでました。その理由は、農園の管理で心配をして創作の意欲がわかないこれならいっそ、貧乏の中で死ぬほうがましです、と芸術家らしい我儘な小言を並べました。大笑いしたメディチ家の当主は、農園を受け取り、ドナテッロ名義の口座に、農園の収益よりも多い額を毎月払い込ませました。満足したドナテッロは、コジモが死後二年、ドナテッロはコジモの墓の隣に自分を葬ってほしいとの遺言を残し、ピエロはこれ守ったそうです。
今もメディチ家の墓所のあるサン・ロレンツォ教会のコジモの墓の隣にフィレンツェを代表する彫刻家ドナテッロの墓を見ることができます。
Commented by snowdrop-momo at 2020-02-28 06:45
おはようございます。
このダヴィデがあのアンティノウスとつながるとは…
ルネサンスと古典古代とのつながりの糸がまた一筋見えた気がします。ありがとうございます。
ギリシアにはヘルマプロディートス(両性具有の少年像)がありますね。初めて知ったときは驚きました。
キリスト教を経ていない古代世界はおおらかですね。
Commented by desire_san at 2020-02-28 09:46
snowdrop-momoさん コメントありがとうございます。

ドナテッロの彫刻は、それまでのゴシック様式を打破し、優美で調和のとれた古代ギリシャ・ローマの芸術復興という彫刻の革命を成し遂げました。
ドナテッロの『ダヴィデ』は自由都市フィレンツェで制作されたもので、ご指摘のようにキリスト教の洗礼を受けていませんね。
私個人的には、英雄的で一瞬の隙もないミケランジェロの『ダヴィデ』より一層、このドナテッロの『ダヴィデ』の方が好きです。




Commented by 平石悟 at 2020-02-28 15:13 x
ドナテッロの「ダヴィデ」、最高ですね。

dezireさんのご感想に全く同感です。ドナテッロの「ダヴィデ」の顔をよく見ると妖艶かつ不敵な笑みを浮かべていますね。ルネサンスは、古代ギリシア&ローマの古典芸術の再生の時代とはいえ、この顔と身体の表現は、ギリシアの彫刻ではありえない魅力がありますね。これこそ、イタリア・ルネサンス美術の真骨頂といえる世紀の傑作だと思います。



Commented by rollingwest at 2020-03-04 07:59
自粛の日本、今は美術館も閉館しているかもしれないですね~!3月を乗り切り明るい気持ちで新年度を迎えられることを祈りましょう!
Commented by desire_san at 2020-03-04 17:04
rollingwestさん

新型コロナウィルスは,感染すると死に至る怖いウィルスですから、お互いに注意しましょう。

Commented by desire_san at 2020-08-23 10:29
1440年頃にドナテッロによって作られた『ダビデ』には、私も魅了されました。

ダビデは、青銅の彫刻です。最大直径51 cmで158 cmで、フィレンツェのバルジェッロ国立博物館に保管されています。 おそらく最も有名であると同時にアーティストの最も典型的な作品であり、イタリアの15世紀全体の象徴であり、すべてが完全には明らかにされていない意味に満ちています。 古代ローマの時代から、それはそれ自体で作品として理解され、建築要素のない裸のラウンドの最初のレリーフです。
おそらくメディチ宮殿の中庭のために作られたダビデは非常に物議を醸しています。批判的な研究で提案された融合の年は、1427年から1460年の間で変動します。偉大な彫刻家がコジモ・デ・メディチで働いていた15世紀から。最初のドキュメンタリーの言及は1469年にさかのぼり、ロレンツォ大帝とクラリスオルシーニの結婚式のお祝いの際にメディチ家の中庭にあったことを示しています。彫像は、葉とハーピーで台座に装飾された多色の大理石の柱の上に置かれました。これは、バサリによっても記述されているデシデリオ・ダ・セッティニャーノの失われた作品です。 40年代には、中庭はまだ完成していなかったので、以前に建てられていた場合は、もともと部屋の中にあったかもしれません。





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