李白の詩に魂と人生を歌いあげた最もマーラー的な作品とその魅力
マーラー『大地の歌』
Gustav Mahler “DasLied von der Erde”
『大地の歌』は。声楽(2人の独唱)を伴う「交響曲」と「管弦楽伴奏による連作歌曲」とを融合させたような作品で、色彩的で甘美、かつ耽美的な表現が全面に打ち出されていますが、マーラーが交響曲第8番まで重層的な展開による多義性を持っていたことを鑑みると、私には非常に難しい音楽と感じていました。 今回、独唱に高橋ちはるさん、中嶋克彦さんを迎え、アンサンブル・ヴァガボンズの第1回公演でこの『大地の歌』を聴けるといいことで、鑑賞してきました。
Das Lied von der Erde("The Song of the Earth") is a composition for two voices andorchestra written by the Austrian composer Gustav Mahler between 1908 and 1909.Described as a symphony when published, it comprises six songs for two singerswho take turns singing the songs. Mahler specified the two singers should be atenor and an alto. Mahler composed this work following the most painful periodin his life, and the songs address themes such as those of living, parting andsalvation.
ベートーベンの交響曲には、善、愛、叡智の勝利に向かって突き進んでいく安心感があり、ワーグナーやブルックナーは、自らの美学の中に聴く人を引き込み引きずり回して陶酔させてしまう音楽のような感じがします。ベートーベンもワーグナーも正義や愛の勝利に向けて、方向の違いこそあれ音楽も同じ方向を向いて突き進んでいきます。しかし現実の世の中は 我欲の醜さや理不尽が渦巻き、人の価値観も様々で、人の気持ちも温度差もあます。そんなゴチャゴチャでカオスともいえる状態ですが、それでも社会の形態をなしているのです。
マーラーの音楽が現代人を引き付けるのは、多様な人間性が音楽に詰め込まれ、それらを何でも飲み込んでしまうような大きさあるからのような気がします。マーラーの音楽は極論すれば、オーケストラの各楽器は違った方向の音楽が与えられ、それらがまとまって一つの音楽として完成しているような感じがします。それが現代社会を投影しているようでそこが魅力なのですが、マーラーの音楽の分りにくさでもあるように思います。
第1楽章 酒のみ歌、大地の悲嘆について(テノール)
詩は李白「悲歌行」に基づきますが、自由に改変されています。曲はホルンの斉奏で始まり、すぐに高弦がそれを受けた主題を奏します。オーケストラは大地のように優しく包みますが、独唱は物悲しさを感じさせ、劇的で厭世的、悲観的な性格が打ち出されていきます。不安に裏付けられた歓喜と陶酔が見事に表現されています。狂気の果てに哀愁と暗黒が迫りくる時、無情なる人生への認識を意識しつつ、人は乱舞宴歌の中に己を忘れようとします。大地の哀愁を歌う「酒の歌」、テノールは生の歓喜を歌いますが、「生は暗く、死もまた暗い」と静まります。「この家の主よ」と再び絢爛たる歓喜の歌を歌いますが、それも「生も暗く・・」で終わります。この「人生は闇、世界は闇」はマーラーが書き足した言葉だそうです。猿の姿を認め恐怖と不安で騒然となりますが、「生の暗黒」に戻って曲は終わります。
交響曲として見ると、第1楽章が全体のテーマを設定するアレグロの冒頭楽章ともいえ、酒宴の喧噪の中で「人生は闇」と詠嘆する第1楽章は、甘美な幻想と醒めた厭世の混淆する世界を巻頭で示しているようです。「生は暗く、死もまた暗い」という言葉がこの楽章の基調をなし、それを酒の力で忘れようとするため明暗が交錯し、オーケストラの音楽は、マーラーの全作品の中でも傑出していると感じました。
第2楽章 秋に孤独な者 (アルト)
「秋に寂しき者」はソナタの緩徐楽章のような音楽で、瞑想的な緩徐楽章で、草花が色あせ、霧が立つ秋の湖面のわびしさマーラーのオーケストラ原曲でも、本日演奏される小編成版と同じように室内楽的な薄い楽器編成で演奏され、寂寥感とは際立ったコントラストを成しています。
音楽は忍び足で疲れた感じで、アルト独唱が哀愁を込めて、順次加工的な旋律で歌い始めます。悲しき歌は「私の心は疲れている」と休息への憧憬が感傷的に歌われます。哀愁と暖かさが交互にあるいは重ねて現れ「愛の太陽よ」「二度と輝いてくれぬか」で暖かさが高揚をもって輝きます。秋風は再びざわめき、オーボエはすすり泣きます。秋風は、粛々と吹きクラリネットの低音が消え入る中曲が閉じます。秋の寂しさを歌っている憂鬱でロマンチックな情緒が魅力的な楽章だと思いました。
第3楽章 青春について (テノール)
陶器の家や翡翠の橋が小さな池に上下逆に映るという人工的で絵画的な情景で、艶やかな東洋幻想が繰り広げられます。音楽は五音音階を用いて躍動的なスケルツォを思わせ、東洋的な雰囲気を醸し出しています。「小池の静かな水面に」から中国風の歌が幻想的な気分を描き、テンポが速くなります。青春を傍観し、つつ、その楽しみを描いているようです。その明るさと快活さは、憂き世の泡沫の楽しみであるかのようです。スケルツォ的な額使用で、酒を酌み交わしながら人生を語り詩を書く人たちの楽しい有様をテノールが歌う魅力的な音楽でした。
第4楽章 美について (アルト)
詩は李白「採蓮曲」に基づくアルト独唱が歌います。美な軽やかな舞曲は蓮の花を摘む乙女たちを描写で、テンポが速くなり、全曲中で最も動きのある躍動的なスケルツォを思わせる音楽が流れ、岸辺で蓮の花を摘む少女たちの輪へ騎馬を乗り回す美少年が勇壮に走り込みます。蓮の花を摘む乙女を描く甘美な部分と馬を駆ける少年たちの勇壮な部分が見事なコントラストを作っています。若い女性たちの中で最も麗しい一人が少女の少年に対する清純な憧憬を伝えます。艶やかな東洋幻想が繰り広げられますが、曲は静かになり、儚い青春の絵は消えていきます。
舞曲調のリズムの爽快な気分で、陶器化に描かれた絵の中から飛びだしてきたミニチュアの世界のようでもあり絵画の世界が動き出し、また絵の世界に戻っていった、そんな雰囲気も感じさせます。幻のような透明な和音で終わります。
第5楽章 春に酔える者 (テノール)
李白「春日酔起言志」の内容に最も忠実とされています。豪放な酒豪だった李白を表現するため、マーラーは大胆な和声で酩酊状態を躍動的なスケルツォも感じさせる音楽にしています。酔っ払いの歌を歌うテノールは第一楽章の歌いだしのように輝かしく、上昇した後下降しますが、上昇の幅が大きく圧縮され、下降線はうねっているようで酔っ払っている度合いが大きいように感じます。夢うつつにテンポを落として歌立った後、鳥の声を聴いてテンポが速くなり、目を凝らし、耳を澄ますと春に酔える男の歓喜の没入が、移り変わり行く不安も感じさせながら歌います。夢と現実があいまいになり酩酊状態のうちに華々しく曲が終わります。小鳥の声なども描写されていますが陶酔的な気分を持った楽章でした。
第6楽章 別れ
地の底で響くようなホルン。コントラバスなどの低音楽器の低く鋭い音の上に、とオーボエがとぎれとぎれに歌を奏でます。押し迫る時の歩調はホルンやファゴットで刻まれます。フルートやオーボエが回音を展開して、アルトの独唱に対する大地の歌とでもいえるような精妙な対旋律が奏でられます。ゆったりと「おお見よ!銀の小舟のように」と歌われ、月明かりに照らされて表情が和らぎます。「風の動きを感じる」に現れてまた虚ろな感じに戻っていきます。
アルトの歌は一人称となり、「私」の世界に入ってきます。ヴァイオリンが最高に優しい気持ちを込めて旋律を奏ではじめます。アルトの独唱はこの旋律で「私は切に願う」と歌います。「友よ、君の傍らで」と憧憬に満ちて歌われ、「路を歩く」ではマンドリンに導かれて美しい旋律が独唱に現れます。アルト独唱は憧憬を訴え「おお、美よ、永遠の愛よ、生命に酔いしれた世よ」と情熱を込めて歌い上げて、前半のクライマックスを築きます。
「彼は馬より降り」と抒情的に歌い始め、「どこに行くのか?なぜの別れぞ」と桃に問いかけますが答えず、時の歩みが聞こえるばかりです。「僕はこの世で恵まれなかったのだ」「僕の孤独な心のやすらぎのところへ」再び小川の動機が聞こえ、「僕は居場所を求めて歩いていく」からアルトのアリアは非常に甘くそして微かに歌います。
管弦楽の演奏は、雄大な自然を表現しているようです。その時を待つ静かな心に至った「私」は、最後に普遍の大地を、「親愛なる自然は、春の花、新しい緑」と情熱を込めた美しいアリアで表現します。
厳かな音楽の後、甘い清涼な響き音楽が続き最期に「永遠に」という言葉を繰り返し、いつまでも続くように消えていきます。現世に対する別れの言葉と、彼岸を憧れる諦念をもって大地を静かにたたえています。
第6楽章のメゾ・ソプラノの歌は高く飛翔する高く飛翔する場面もあり、孤影悄然の姿もあってこの曲を締めくくるに相応しものでした。第1曲で提示された生と死の拮抗は、新たな生命を育み続ける大地に回収され、フルートとオーボエが生まれてくる命を奏で続ける中、アルトの独唱がゆっくり別れを告げる生命に対してで「永遠に」を繰りしているように感じました。マーラーの「白鳥の歌」を聴いている思いすら感じました。
曲の最後は「永遠に」の句を繰り返しながら、閉じられない印象を残し、惜別する友を待つ孟浩然の詩と、王維の詩「馬より下りて君に酒を飲ましめ/君に問う、何くにか之く所ぞと……」が巧みにつなぎ合わされているそうです。
マーラー『大地の歌』を聴いて
『大地の歌』は、「交響曲」と「管弦楽伴奏による連作歌曲」(リート)とを融合・同化させたような作品で最後期の作品としてマーラーが精魂を傾けた傑作といえます。交響曲としてはかなり破格の存在であり、歌曲集としての重みも非常に強い『大地の歌』は、色彩的で甘美、かつ耽美的な表現が全面に打ち出されています。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、文学、絵画を含めた芸術分野で「死」をテーマとした作品が数多く生み出されており、同時に、エキゾチズム、東洋への関心も高まっていました。『大地の歌』に、無常観、厭世観、別離の気分が漂っているとしても、マーラー自身が東洋的諦観に達していたとはいえないと思います。人間は死んで地上からいなくなりますが、大地は永遠に繰り返して花を咲かせ、緑に覆われるというイメージについては、マーラーは10歳代のころから手紙で触れています。
第6楽章で、「永遠の大地」を強調する歌詞「親愛なる自然は、春の花、新しい緑」を追加したのもマーラー自身でした。ショーペンハウアーやニーチェの著作を読んでいたマーラーが、唐詩の編訳に接して、これに自身のイメージと体験を重ね合わせていたと考えられます。
マーラー(1860-1911)は、通俗性を排除する孤高の人ではなく、通俗を引き受けることで可能性を切り開く音楽家だったと思われます。自由な意訳であり「東洋」のイメージをヨーロッパ人の思い入れで誇張したエキゾチズムの産物ではないかと考えられます。
『大地の歌』を作曲していたころ、マーラーは私生活では、五歳の長女がジフテリアで死去し、彼自身も当時不治とされた心臓病を宣告されるなど深刻な不幸が相次ぎます。表面的には、メトロポリタン歌劇場やニューヨーク・フィルと契約して新天地アメリカでの指揮活動が始動し、ミュンヘンで大作「千人の交響曲」の初演が実現するなど、その後も多忙な日々が続きます。当時のマーラーは、甘美な酒宴で無常を嘆く極東の詩人たちのように、内面の空虚と外面的な成功に引き裂かれる極端な乖離状況に置かれていたと考えられます。
半ば真剣で、半ば自暴自棄の悪ふざけにも思える屈折した迂回が、「悠久の大地に比べれば、人生はいかにも短く儚い」という唐詩の無常観は、マーラーが若い頃から親しんでいたヨーロッパの厭世哲学に通じるところがあったと思われます。大地(自然)の摂理と逃避的な耽美趣味が渾然一体となる東洋の粋人の世界を異国趣味として楽しみながら、自分自身の姿をそこに重ね合わせていたと考えられます。音楽表現は透明で感動的で、東洋的雰囲気もいくらかあります。大いなる決別の辞、青春、美、友情からの別れでは、管弦楽も高音域に重点が置かれるようです。
終曲で、「私は山へ行く、孤独な心に憩いを求めて」という一節は、ドイツ・ロマン派の「さすらい人の歌」を思わせる調子で語られ、人生の旅人は、最後に俗世に別れを告げて、「愛する大地は……あたり一面に青き光、はるか彼方から、永遠に、永遠に」と、平安の境地にたどり着いて行くのでしょうか。
『大地の歌』の演奏の感想
今回演奏されたのは、初演の約十年後にアーノルト・シェーンベルクが草案した小編成の編曲版で、ドイツの音楽学者ライナー・リーンが補作したものが演奏されました。この編曲では大幅な改訂が加えられ、各部は最小構成とし、打楽器はピアノで代用、マンドリンは省略されています。
今回の演奏ではマンドリンパートが復元されました。今回の演奏で大きな役割を果たしたのが、ハルモニウムという鍵盤楽器の中で唯管楽器のような音を持続して引くことができる楽器を採用したことです。ホルン一つしかない金管楽器を補強し、小編成ながら各楽器のバランスも良く、落ち着いたしっとりとした雰囲気を音楽全体に与えてくれました第1楽章冒頭から迫力やスケール感があり、フルオーケストラの演奏であるかのような錯覚を覚えるほどでした。
小編成にこだわることで歌手への負担が減少しより繊細な歌唱が可能になるのみならず、各部の透明性が高まることで曲の骨子がより鮮明に浮き立つ効果がはっきり認められました。テノールの中嶋克彦さん、アルトの高橋ちはるさんも、この大変難しい難曲に対して、のびやかに正面から音楽に真摯に向き合って、非常に魅力ある歌唱の「大地の歌」を聴くことができました。
マーラーの表情の幅を思いっきり生かして、濃厚な色彩感を発散するオーケストラが実に素敵だった。オーケストラの出す音は歌詞に関するデフォルメされた情景描写や心理描写である部分が多かったが、オーケストラから、まばゆい光がきらきらと溢れているような陽性な響きが気分を明るくしてくれました。「青春について」と「美しさについて」は特に印象的でした。 「告別」でも、中間部でのオーケストラの厚みは、アルトの独唱と良い意味でコントラストとアンサンブルとして素晴らしかったと思いまします。テノールでは、 第1楽章の第3部分の埋め込まれた「酒宴の歌」の部分、第5楽章の中間の色合いでテンポが緩み、響きに温かみが差していたのが印象に残リました。
中嶋克彦さんは、美しく伸びる高音にも余裕があり、テノールの凛とした声の響きは威圧的なのが一切感じられず、軽やかに朗らかにおおらかな広がりを感じさせる気持ちいい歌唱が良かったと思いました。高橋ちはるさんも非常に丁寧で、感情の起伏を感じさせる部分も織り交ぜてバランス良く、優しく言葉と音楽を届けてくるような印象の歌唱でした。
マーラー:大地の歌
Aシェーンベルク Rリーンによる室内オーケストラ編
指揮 下野竜也
アルト 高橋ちはる
テノール 中嶋克彦
フルート ピッコロ 泉真由
オーボエ イングリッシュホルン 庄司知史
クラリネット Esクラリネット バスクラリネット柴欽也
ファゴット 柿沼麻美
ホルン 塚田聡
パーカッション 野本洋介 稲野珠緒
ピアノ 本田聖嗣
ハルモニウム チェレスタ 西沢央子
マンドリン 田中昌江
ヴァイオリン 原田陽 伊東真奈
ヴィオラ 成田寛
チェロ 伊東裕
コントラバス 西澤誠治
2017年8月8日 渋谷区文化センター大和田 さくらホール
参考文献
「マーラー 大地の歌」音楽之友社 1999年
テオドール・アドルノ(龍村あや子訳), 『マーラー :音楽観相学』,
1999年, 法政大学出版局
新交響楽団ホームページ: マーラー:大地の歌
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私のブログは種々雑多な内容ですが、「心に残った自然とアート」という如く、旅行記含めて、美術、音楽、美しい自然など心に残ったこと、感動したことを自分なりに学んで出来るだけレブューやレポートになるようにまとめています。写真も多く載せていますので、写真だけ見ていだいても結構です。 これを機会によろしくお願いいたします。
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ダ・ヴィンチ展はよく開催されますが、油彩画の殆どが門外不出のため、たいていデッサンや資料ばかりの展示が多いようですね。私もブリューゲル「バビルの塔」展に行ったのを最後に美術館に足を運んでいません。が意外旅行は行っただけでは忘れてしまうので、かなり遅くなっても撮った写真を整理して、美術志向でレポートすることにしています。
お時間のある時に覗いていただけると嬉しいです。
これを機会によろしくお願いいたします。
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私の体験では、その作品と接してどう感ずるかが最も大切で、知識はその後興味があれば勉強するものだと思っています。
中国絵画とのコラボ、素敵です。マーラーも喜びそうです!
小編成で演奏される大地の歌、一度聴いてみたいです。
繊細な歌詞や旋律が、よりしみじみ味わえることでしょう。
5月に神戸で見たブロンズィーノが、いま東京へ移動しています。愛らしいメディチ家のビアの肖像、すでにフィレンツェでご覧になっておられるでしょうが…
東京展に合わせて、9月に記事をアップしました。いつかお時間が出来たときにでも、ご笑覧ください。
http://ramages2.exblog.jp/27640241/
上野・国立西洋美術館で「アルチンボルド展」と日本橋で「地獄ワンダーランド展」を見てこられたのですね。面白そうな絵が多かったようですね。
私は体調が悪く5月以来美術展に行けませんでした。
今月の「運慶」は何としても見ようと思っています。