想像力と表現力、躍動感と気迫を絵画に込めた世界的な浮世絵画家
Hokusai
今年は、世界的な画家として評価の高い葛飾北斎は、1760年に本所割下水付近(現在の墨田区亀沢付近)で生まれ、90年の生涯のほとんどを墨田区内で活躍したことから、東京都墨田区では、「郷土の偉大な芸術家である北斎」を田墨田区民の誇りとして永く顕彰意味で「すみだ北斎美術館」を開設しました。更に今年秋は、あべのハルカス美術館で「北斎―富士を超えて―」、東京西洋美術館で「北斎とジャポニスム」、東京の太田記念美術館で「葛飾北斎 冨嶽三十六景 奇想のカラクリ」と葛飾北斎に関する企画が目白押しです。
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KatsushikaHokusai was a Japanese artist, ukiyo-e painter and printmaker of the Edoperiod. He was influenced by Sesshū Tōyō and other styles of Chinese painting.Born in Tokyo, Hokusai is best known as author of the woodblock print seriesThirty-six Views of Mount Fuji which includes the internationally iconic print,Hokusai created the "Thirty-Six Views" both as a response to adomestic travel boom and as part of a personal obsession with Mount Fuji. Itwas this series, specifically The Great Wave print and Fine Wind, ClearMorning, that secured Hokusai’s fame both in Japan and overseas.
日本の美術史を代表する画家を挙げるとしたら、多くの人は、雪舟、宗達、光琳とともに、北斎の名を挙げるでしょう。北斎は、上記のようにたくさんの北斎の展覧会や北斎美術館ができるほど日本で異常に人気のある画家です。この異常な人気は、小説化や映画化が行われるように、奇行に富み伝説とエピソードに事欠かず、しかもその真相は時には妖しげな霧がたちこめているその人間としての性格にもあると思います。
しかし、何と言ってもその作品のずば抜けたすばらしさとスケールの大きさは、百花繚乱でたくさんの優れた浮世絵画家を生が生まれた江戸時代でも、総合的な幻術力では群を抜いていると思います。喜多川歌麿の美人画の比類のない表現力は超一流であることに微塵の疑いもありません。写楽の役者絵は、人物肖像画として世界に通用するレベルだと思います。広重については後で比較を試みてみますが、その大胆で優れた構図は、時には西洋美術にはない奇抜な構図と線の美しさで西洋人を魅了したしました。同じ風景画を得意とした広重も含めて、歌麿は美人画の分野で、写楽は役者絵の分野で金字塔を築きました。このようにスペシャリストとして北斎に匹敵する、あるいは北斎を凌ぐ浮世絵画家は確かに存在しますが、北斎のように多面的な分野で総合力を発揮し、従来の絵画にはない表現の前衛性という視点で北斎に勝る画家はいないと思います。
前衛性のような表現を使うと異論があると思いますが、例えば、富士山を描かせたら、美術史の前にも後にも北斎のように、品位、安定感、迫力、変化、奇抜さなど多様な表現で見事に描いた画家はいないと思います。
北斎の画業の全活動の頂点に立つものが「富嶽三十六景にほかならず、その下に広がる裾野は広大無辺にして、複雑多岐で、容易に捉えがたいものと言えます。この北斎の画業を、北斎の生涯を追いながら整理していきたいと思います。
第1期 春朗時代 1779~1794
北斎の画業の第1期は、勝川春草の門にあって画家としての仕事を始めた時期で、20歳で勝川春朗と名乗り、黄表紙や洒落本・読本など戯作の挿絵を手がけ、挿絵画家としても活躍しました。この時代から役者絵や相撲絵や美人画も描き始めています。作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していたそうです。
第2期 宗理時代 1785~1798
画業の第2期には北斎は、勝川門を出で、様々な画風に興味を示しました。狩野派、堤等琳派、俵屋宗理らについて、色々な流派の絵画を学び、洋風画の研究も行っていたようです。
作品としては、狂歌絵本に傑出したものがあります。
第3期 北斎時代 1798~1811
北斎の画業の第3期。38歳になり、北斎と名乗った時代で、北斎は自らの画風を確立したと見ることができます。す。当時江戸で流行し始めた読本の挿絵に全力を傾注し「劇画的世界」を創りだしましました。肉筆画では、若々しい少女のような様子から大人の色香漂う艶冶な美人像を描きました。狂歌絵本は、浮世絵版画とは違い、高級な用紙を使い精緻な技巧が凝らされた摺物の芸術性が認められており、『東遊』『東都名所一覧』『潮来絶句』『隅田川両岸一覧』などの秀作があります。遺存例が極めて少ないですが、北斎の画業を語る上で貴重な作品群といえま
『花の兄』寛政11年(1799)
北斎を代表する豪華な狂歌本。完本は現在のところボストン美術館の他に遺存例がない貴重な作品です。「北斎―富士を超えて―」展で初めて日本で見ることができました。
『絵本隅田川 両岸一覧』は、細かな風俗描写や工夫を凝らした構図で狂歌絵本中の最高傑作のひとつと評されています。他ら『盆踊』など、貴重な初摺の版本が出品されていました。
「葛飾北斎」を名乗っていた時期に、戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだこの時期に、滝沢馬琴の『新編水滸画伝』をはじめとする読本の挿画に新機軸を打ち出しました。『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものにしました。読み物のおまけ程度の扱いだった挿絵の評価を引き上げたのは北斎と言われています。 北斎は一時期、馬琴宅に居候していたことがあるそうです。
1枚絵では洋風画に創意ある作品を創作しました。
『ぎやうとくしほはまよりのぼとのひかたをのぞむ』文化初期(1804-07)
遺存例が少ない洋風版画のうち、本展では3種が出品。ひらがなを横書きにして、まるでアルファベットのような表題を持つ本作品は、板ぼかしを効果的に用いて立体感と明暗を強調している。
『菖蒲に鯉』文化中期(1808-13)
遺存の少ない団扇絵の中でも、本作品は現在のところボストン美術館での所蔵のみが知られる貴重な作品です。後の為一時代の作品を彷彿とさせる鮮やかな色が印象的です。
『吉原遊廓の景』文化8年(1811)
北斎の作品中で最大の大判五枚続。遊廓の風俗を題材にしためずらしい作品として注目されています。
「しんはんくみあけとふろふゑ 天の岩戸神かぐらの図
切り抜いて組み立てる組上絵は、実際に制作されたので遺存例が少なく、しかも揃いで残っているのは大変貴重で、、上下揃いでの所蔵しているのはボストン美術館のみと確認されています。
この時期には、北斎の肉筆画でも優れた作品を残し、風俗画の世界における北斎の地位は揺るぎないものとなりました。
『護国寺達磨略図』 文化元年(1804)頃
文化元年、北斎が江戸音羽・護国寺で揮毫した120畳大の巨大達磨を縮写した作品です。当時話題となった目を引く振る舞いを今に伝える貴重な資料でもあります。
『朱鐘馗図』」文化8年(1811
朱描きの鐘馗図は子供の疱瘡除けに描かれるものだが、本作品は落款から端午の節句に描かれたことが分かります。朱の明暗や、目や口、髪、髭には墨を用いて、北斎の技が光る迫力のある作品です。
100年以上も行方が知れず100年ぶり発見された幻の図巻が、「すみだ北斎美術館」開館記念で初めて展示された、北斎の傑作肉筆画「隅田川両岸景色図巻」もこの時期に描かれたものです。
北斎の傑作肉筆画『隅田川両岸景色図巻』(文化2年=1805)
葛飾北斎(1760~1849)の「隅田川両岸景色図巻」は、北斎壮年期の傑作で、この図巻は、縦28.5cm、長さ6m、33.5cmの大作です。柳橋から舟で隅田川をさか上り、新吉原遊廓に向かう瓢客 (色里に遊ぶ男)の目に映る隅田川両岸の風景を描写し、最後は新吉原での遊興の様子を描いています。絵巻物の最終場面には、吉原の室内での遊興の様子が描かれており、その中央には、遊女4人に囲まれて酒を飲む男性の姿があります。
舟に乗る形で視線を移動させながら、遷りゆく両岸の景色を描く方法は、当時の流行で、円山応挙「淀川両岸図巻」などにも見られます。北斎にも『絵本隅田川両岸一覧』は、壮年期40~47歳の作品と考えられる隅田川周辺の風俗を描いた狂歌絵本もあります。
北斎壮年期の肉筆画の最高傑作の一つと専門家も認める肉質画の傑作というだけあって、両国橋の近くから隅田川を舟で上って吉原に向かう両岸の景色の陰影を用いた実景描写、遊郭での遊興場面のすばらしい色彩感を、豊かに描いています。保存状態がきわめて良好なので、彩色感覚のすばらしさ、感性豊かな細密描写など、北斎の画家としての力量を余すことなく伝えていました。浮世絵の世界を超えて、北斎は、日本画家としても当代一流であることをこの作品を見て改めて感じました。
第4期 戴斗時代 1812~1819
北斎の画業の第4期になると北斎は50歳を超え、心境の顕著な変化が現れます。北斎の関心は絵手本に移ります。人気が高まるにつれ、有名な『北斎漫画』を含む多彩な絵手本を刊行し、大量の印刷本による手本は画期的でした。後進を指導するために造られた『北斎漫画』に代表される絵手本ですが、北斎の絵画世界が隅々まで表現されています。
第5期 為一時代 1820~1834
北斎の画業の第5期は、60歳に達し中風を患ったこともあり、老化に伴う作品の停滞がみられ、絵手本をもっぱら描いていました。しかし、70歳に至った天保初期には、「冨嶽三十六景」の刊行がそろそろ始まり、『諸国瀧廻り』、『諸国名橋奇覧』も現れ、1枚絵の傑作も描かれました。北斎を代表する錦絵の揃物を次々と生み出していきました。風景画、名所絵はもとより、花鳥画や古典人物図、武者絵、幽霊などあらゆる対象に関心が向けられました。色鮮やかな錦絵の出版はわずか4年間ほどに集中しています。
同じ1枚絵でも『琉球八景』、『千絵の海』、『詩歌写真鏡』、『百人一首姥がゑとき』、『百物語』などで、様々な花鳥風月を生み出しつつ、北斎独特の奇想など新しい発想の作品も描かれました。
『百物語』では、歌舞伎で知られた番町皿屋敷、有名なお菊の幽霊は蛇の胴体に皿が巻き付いています。皿は蛇の模様のようです。お菊さんは台本では若い美人ですが、北斎は垂れ目に描いており、北斎の反逆精神が感じられます。
『千絵の海』「総州銚子」
『千絵の海』は、日本各地の海や河川を舞台に、様々な漁業の様子が描かれています。北斎ならではの洞察力で、変幻する水とともに漁に勤しむ人々の姿が生き生きと描かれています。迫力ある構図や深い藍の色彩が、作品をより印象深いものとしています。特に傑作といわれる「総州銚子」は、岩場に打ち上げられ砕け散る波しぶきを大変躍動的に描かれ、水や波といった一つのモチーフに対する北斎の探求心の深さを垣間みることができます。「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」を思い起こさせる構図は、北斎の面目躍如と言えます。
第6期 卍時代 1835~1849
北斎は、『富岳百景』の巻末にはこう書かれています。「70歳以前に描いたものは、実に取るに足りないものばかりだった 90歳になれば、さらに奥義を極め、百歳でまさに神妙の域に達し、百何十歳となれば一点一画が生きているようになることだろう」と、画号を 「画狂老人卍」と改名しました。そこにはまだ足りないと、自らを奮い立たせる北斎がいました。最晩年の北斎は肉筆画制作に傾注し、古典に取材した作品や花鳥、静物、宗教的な題材など浮世絵師の世界から離れ、独自の画境を追い求めていきます。描く対象の「一点一格」が生き生きとしたものになると信じ、筆を休めることはありませんでした。
Hokusaihad a long career, but he produced most of his important work after age 60. Hismost popular work is the ukiyo-e series Thirty-six Views of Mount Fuji, whichwas created between 1826 and 1833. It actually consists of 46 prints. Inaddition, he is responsible for the 1834 One Hundred Views of Mount Fuji FugakuHyakkei, a work which "is generally considered the masterpiece among hislandscape picture books." His ukiyo-e transformed the art form from astyle of portraiture focused on the courtesans and actors popular during theEdo Period in Japan's cities into a much broader style of art that focused onlandscapes, plants, and animals. A collection of woodblock Thirty-six Views ofMount Fuji prints, contained in the wellness spa of the Costa Concordia waslost during the collision of the ship on January 13, 2012.
『富岳三十六景』は、北斎の絵師人生70代にしての集大成ともいえるこの大作です。葛飾北斎は、北斎の類まれな想像力と表現力によってさまざまな富士山が描きました。
北斎にとって富士山は、大自然の象徴であり、超絶なる、崇高なる神でのような存在でした。北斎は、富士山に自身の人生を重ね合わせていたように思われます。1820年代後半、妻の死や自身の病気、孫の逸脱行為による経済的困窮など、さまざまな苦難を経験した北斎にとって、「富嶽三十六景」は、画家としての才能を復活させる原動力だったのでしょう。
「凱風快晴」や「神奈川沖浪裏」を始め、「冨嶽三十六景」には驚くような発想が盛り込まれています。浮世絵師として絶え間なく研鑽を続けた北斎が、70歳を過ぎて辿り着いた境地なのでしょうか。
「甲州三坂水面」
甲府盆地から河口湖へ抜ける御坂峠から望む逆さ富士の静謐な景観です。雪をかぶった富士が湖面に逆さに映っていますが、遠景に見える実際の富士は岩肌を見せる夏の富士です。水面への投影もずれています。穏やかな湖面と落ち着いたたたずまいの村落、湖水に浮かぶ一隻の小舟が静寂の中に漂よっています。北斎は虚と実の対象を描いているのでしょうか。あるいは動を描いこうとしているのかも知れません。
「尾州不二見原」
江戸周辺からだけではなく、色々な場所から富士を描いていますが、この傑作は実は、北斎がもっとも遠いところから描いた富士山です。大きな樽の向こうに小さな富士山が見えます。しかし、この土地では実際には樽作りは行われていなかったのです。北斎は絵手本で、全ては〇と△で画くことができると書いています。北斎は構図としての美しい〇と△のために、事実を曲げてこの地では作られていない樽を入れたのです。時には虚構を加えながら独創的な富士を完成させていきます。
「神奈川沖浪裏」
映像を静止させることは、映像の演出技法の1つですが、それを最初に活用して見えないものを表現したと言われています。余計な説明をするより、この作品をじっと見れば、この絵がどんなに優れた作品かが伝わってきます。類まれな想像力と観察眼、表現力によってさまざまな富士山を描いてきました。
北斎に75歳にして再び富士に、『富岳百景』」に挑みます。『富岳百景』は、全3冊102図に描き分けたものです。
嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えました。北斎の絶筆と考えられている作品が、嘉永2年1月(1849年に落款は九十老人卍筆の絹本着色の肉筆画『富士越龍図』です。幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝きました。
「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」
辞世の句は、 「人魂で行く気散(きさん)じや 夏野原」
その意味は、「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものでした。
北斎の魅力
卓越した画面構成
『富嶽三十六景』など北斎の風景画をよく見ると、多くの作品が、気球で近景から遠景まで徐々に上昇しながら風景を見ているような、空中に浮遊したような体感を感ずることがあります。北斎の風景画は、静止しているはずなのですが、空中に浮遊すしながら空間をえぐるような、視線と身体が移動しているようにして、風景を空中から眺めるような感覚は北斎の風景画特有のものだと思います。
斬新な発想
冨嶽三十六景『尾州不二見原』『神奈川沖浪裏』の斬新な発想が魅力で、冨嶽三十六景でも人気の作品です。
全国で有名な滝を描いた「諸国滝廻り」のシリーズの1枚です。流れ落ちる水の表情をどう描くかに主眼が置かれているそうですが、滝が落ちる前の川の流れをとらえるため、正面から捉えた滝と、空から見下ろした2つの異なる視点が合体しすごい描き方です。流れ落ちる直前の水と落ちていく水がまったく別物のようで、極めて斬新な滝の描き方となっています。葛飾北斎 72歳ごろの作品です。
動きと躍動感
北斎の作品に、北斎漫画に描かれた人々を見ればわかるように、本質的に動きと躍動感を大切にしていたと考えられます。
波のせり上がり方や水しぶき、波頭の形状や陰影のつけ方など様々に部分が変化し、躍動的な迫力とリアリティが、見る人には大波が勢いよく迫ってくる感覚を与え、増幅させていまきす。北斎がよりリアルで、人を惹きつける波の表現と演出を追求した結果できあがったのが、傑作「神奈川沖浪裏」といえます。「神奈川沖浪裏」は真横からの視点で描いて、今にも飲み込まれそうな小舟と静かに聳える富士山の存在感とが見事に調和しています。歴史上もっとも有名な日本画のひとつであり、海外では「グレートウェーブ」と呼ばれ、世界の人々をも魅了する、北斎が遺した数多くの傑作のひとつです。
卓越した色彩感
中年期の作品で、幾重にもかさなる着物の柄と色使いがなんとも華やかです。この華やかな色彩感額は、幕末の浮世絵師、歌川国芳の芸術的な色彩の美しさを先取りしたものと言えます。
田植えをする人々のかぶる笠の白い丸が印象的に使われています。西洋画的な雰囲気も感じられます、
年を重ねても進化する北斎
北斎は、狩野派・琳派など、さまざまな流派で学び、西洋絵画も取り入れ、年を重ねるごとに、さらに画風を洗練させていきました。
それでも北斎は、75歳で描いた『富岳百景』の後書で、「70歳より前は取るに足るようなものはなかった。)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。」と書いています。 「歳を重ねる程自分の絵は上手くなり、百何十歳になる頃には、一点一点が生きているようになるだろう」とも言っています。飽くなき向上心を生涯持ち続けた北斎は、80歳前後で浮世絵から離れ、もっぱら肉筆画を描くようになりました。
公家や武家の上層階級や寺社の庇護のもとに絵が描けた本絵師でもない限り、一本にはひとりの絵師で終えるしかなかった時代に、芸術的画家として真に自立するためには、人並み以上の想像もできないような研鑽が必要だったことは、誰もが想像できると思います。 北斎は天才的な画家ですが、封建的な江戸時代は、才能だけで生きられる社会ではありませんでした。逆境に育って、周囲に逆らい、自己に鞭打って初めて形成された血みどろの力が北斎にはありました。強固な自己を確立した北斎の周辺には、多くの弟子が集まり、優秀な画家が生まれました。
北斎の作品は、対象と向き合い、打ち勝たねばやまない激しい気迫が満ち溢れています。その比類なく斬新でダイナミックな構図、その力強く戦慄く線、強烈で生々しい色彩、近代人の自我を持ち、北斎が度々描いた、嫌われ者や醜悪なものにも、例えば、蛇、蛙、ナメクジのようなものにも、北斎の感情移入が読み取れます。
前にも書きましたが、同じ風景画を得意とした広重も含めて、歌麿は美人画の分野で、写楽は役者絵の分野で金字塔を築きました。このようにスペシャリストとして北斎に匹敵する、あるいは北斎を凌ぐ浮世絵画家は確かに存在しますが、北斎のように多面的な分野で総合力を発揮し、従来の日本絵画にはないダイナミズムと気迫を感じさせる表現の斬新制という視点で北斎に勝る画家はいないと思います。
九十老人卍筆の絹本着色の肉筆画『富士越龍図』
しかし、純粋性を愛し雑種性を極端に忌み嫌う日本の文化的習慣もあり、北斎の評価は一時疑いがもたれ、邪道として排斥され転倒の憂き目を見ていました。海外での高い評価の反動もあったかもしれません。北斎の複合的芸術を的確に評価する視点が確立してきて、新しい文化創造の欲求が抑えがたくなり、人々の旺盛な好奇心が北斎を再評価する動きとなったようです。
明治期になって海外から西洋文化が到来するようになりましたが、黒田清輝が学んだラファエル・コランよりも、北斎の方がはるかに生気に満ちていました。それもそのはずで、北斎の絵画は、印象派やその周辺の画家たちに大きな刺激を与えていたのです。永井荷風や岡倉天心のような東西の芸術的教養を豊かに合わせ持った人間によって、北斎は、正当な歴史的意義が認識され、その美術的前衛性も評価されるようになりました。北斎が勝ち得た高い評価は、複合的芸術に対する評価であり、複合的であるがゆえに芸術の世界的普遍性の獲得を意味するのだと思います、複雑なやぶを踏み分け、道なき道を踏みしめて、艱難辛苦を乗り越え辿り着いた頂点が、北斎の『富岳三十六景』と見ることもできると思います。
参考文献
「北斎 ―富士を超えて―」図録 2017
浅野 秀剛 「斎決定版」(別冊太陽 日本のこころ) 2010
すみだ北斎美術館 - 隅田川両岸景色図巻 図録 2016
浅野 秀剛 「北斎決定版」(別冊太陽 日本のこころ) 2010
キャサリン・ゴヴィエ著, モーゲンスタン陽子 訳 北斎と応為 彩流社
美術手帖【編】 葛飾北斎―江戸から世界を魅了した画狂 彩流社
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渾身の記事をありがとうございます。
読み応えがありました。本当、北斎ってすごい人ですね。
逢ってみたかったなぁと思います。
北斎は本当に凄い人です。 このように絵画の世界に障害を打ち込み、高みを求めた人は、西洋の画家でも美術史上の巨匠と言われるひとたちだけではないでしょうか。
解説お疲れ様のお世話様です。
自分にとって北斎は絵師として筆頭なのですが、
もう一人、すぐ一緒に浮かぶのが、同じく範囲の広さと
斬新さで知られる歌川国芳で、両人は百年違いというから、
幕末に生まれた者と昭和40年に生まれた者程に違うという、
同じ江戸時代でもべらぼうに時代違いでした。
でも差が感じられず。
自分への影響は、漫画家でいえば赤塚・藤子(両方)
てなもんで、後輩が何言おうが不動。
個人だけでなく、世間広く外国への影響もあるってえから偉い。
北斎国芳偉い。若い奴にはもはやピンと来ずとも、
赤塚藤子も偉い。改めて思ったネ。
ご意見、全く同感です。歌川国芳は、発想の斬新さ、絵画画面の構成力、斬新な色彩感覚など、幕末の画家では抜きんでた才能の浮世絵画家で、北斎と同様世界に通ずる画家だと、私も感じています。 日本の美術のカテゴリーに、2012年2月に、東京の六本木ヒルズの森アーツギャラリーで、「没後150年を記念、奇想の浮世絵師といわれる歌川国芳」展の鑑賞レポートを書いていますので、ご興味がありましたら、見てて頂けると大変嬉しいです。
北斎の画業の流れを追え、参考になりました。
富嶽三十六景の、虚構を入り交えた作品群はモキュメンタリーのような味わいがあって好きです。
この秋は北斎に関連する展覧会が多く、私もあべのハルカスと太田記念でみたのですが、今年は北斎の記念年か何かだったのかハテナがありました。
大英博物館での北斎展の巡回のタイミングで色々な流れを作ったのかもしれませんね。
ブログへ訪問ありがとうございました。さっそくこちらへも来させて頂きました。
北斎の画号の変遷に沿っての解説ですね!
私の感想は感覚的で、、、↓
http://merusas.seesaa.net/article/454490313.html
昔、緒形拳さん主演の「北斎漫画」という映画を見まして
激しい生涯だなぁと驚いたんです。
天才の作品群を直に見ることができて、北斎展に行ってほんとに良かったです。
誰もが知る絵だけど、本物を生で観ると……その迫力に息を呑みますね…!
圧巻の貴記事、desireさんの北斎への熱い気持ちがあふれています。
これほど多岐にわたる画業の画家に、正面から、生涯にわたって取り組むことはなかなか出来るものではありません。
おかげさまで、とても勉強になりました。
北斎の円と三角の画法が、架空の風景まで創造してしまったとは驚きです!
平仮名をアルファベットのように横書きする洋風版画風の作品には、西洋への好奇心があふれていますね。
こちらはあべのハルカス美術館の展覧会を3回にわたって記事にしましたが、それでも断片的にしか書けなくて…
3つの記事のどれか1つでも結構です、貴記事をトラックバックしてくださると、大変光栄です。こちらもTBを試みましたが、不慣れでうまくゆかなかったかもしれません。ご容赦ください。
あべのハルカスの北斎展では、今まで日本では見られけなかった北斎の作品が見られ、知らなかった北斎の作品が観られてよかったと思います。
ただ、この北斎人気は異常ですね。美術館は大変な混雑で、1回では全体像を見ることができませんでした。
私も、緒形拳さん主演の映画「北斎漫画」を見たことがあります。緒形拳さんの名演で、北斎の人間としてのイメージはこの映画により、焼き付いています。現代の俳優で映画「北斎漫画」をリメイクしてほしいですね。北斎は誰ならできるでしょうか。
「8Kスーパーハイビジョン,リアルタイム3D CGによる超臨場感空間『北斎ジャポニズムの世界感』」のことは、初めて知りました。ありがとうございます。
美術展が非常に混んでいて、主だった作品を見るだけでかなり疲れましたが、やはり天才画家・北斎の作品群を生で見ることができて、良かったと私も思いました。
北斎の画法はリアリズムではなくて、造形も画面構成も想像の産物で、有名な「富嶽三十六景」も北斎の架空の風景を創造なのですね。
snowdrop-naraさんののブログは2つあるので、あべのハルカス美術館の展覧会を3回にわたって描かれた記事があるのを見落としていました。
早速、訪問させていただきます。
たくさん本を読まれてるんでしょうね。
わかりやすくまとめられていて初期の頃の北斎は知らなかったので勉強になりました。
ハルカス美術館では直筆の絵にもスポットを当てられていて興味深かったです。
素晴らしい記事、ありがとうございます。とても勉強になりました。
北斎の絵はたくさん見てきましたが、ほとんど北斎のことを知らなかったので、これからは見方が変わるかもと思いました。
感覚的に、この構図好きだなあとか、この色いいなあとか、こんな描き方するんだとか、それだけでも楽しいですが、北斎のことを深く知るともっと別の見方ができますね。
ありがとうございました。
他の記事も興味深く拝見しました。
また、時々お邪魔します。よろしくお願いします。
浮世絵の絵師の中でも、これほど長きに渡る創作人生を、画業の変遷を辿りながら概観できる人物は少ないのではないでしょうか?
今回の展覧会は、晩年中心でありながらも、この北斎という芸術家の多彩な画業をコンパクトに見ることのできた貴重な機会であったのでしょうね。
約200年前の日本を生きた、まさに国の宝(国宝?)の作家の作品の多くが、海外から来日するというのも、複雑なものがありますね…。
今回の北斎展では、今まで見たことのなかった珍しい肉質画を色々見ることができ、北斎という画家のいろいろな才能を知ることができて、良かったですね。
私もこの北斎展で、北斎が驚く帆と多様な作品を書いていることを知りました。
すみだ北斎美術館開館記念で展示された北斎の傑作肉筆画「隅田川両岸景色図巻」では、日本画の主流の絵巻物でも、こんなに繊細な表現ができることを知り、改めて北斎の才能の偉大さを知りました。
北斎は、様々な構図や色彩の作品がありますが、これは北斎が常に挑戦的に新しい美を追求していたからでしょうね。 知れば知るほど北斎の新たな魅力を発見する、このような画家は世界でも少ないのではないでしょうか。
私も全く同感です。 生涯、常に新しい美術に挑戦し、研鑽を積んできたところが、北斎の凄いところだと思います。
多くの芸術家は、たいてい最盛期があり、晩年は巣過去の自分の作品の模倣に終わる人が多い中で、晩年の作品中心で、これだけ充実した美術展ができる芸術家は、希でしょうね。
明治期になって海外から西洋文化が到来すして、海外コンプレックスから優れた日本画がどんどん海外に流出してしまったのは全く残念で、明治期、北斎よりはるかに美術的に活の低い洋画を手本にすることが日本美術の主流となった時代もあありましたので、大栄博物館やボストン美術館に、日本にある作品より優れた日本の美術品があるのは、寂しいですね。
北斎、本当にいいですね。日本が世界に誇る絵師だと思います。今年はテレビでも関連番組が目白押しでファンには嬉しい限り、これからもいろいろな場で北斎の作品を見るのを楽しみにしています。できれば海外にある作品を見たいです。
先日は拙記事3つにトラックバックをありがとうございました。
こちらからもそれぞれTBさせて頂いたのですが
週末は1つしか成功せず、
平日(22日だったと思います)に残りの2つを送信し終えました。
お気づきの時にでもご承認くだされば幸いです。
年明けにまた北斎について記事を1つだけ書きますので、
その時でも結構です。
改めて貴記事を拝読しました。
北斎は美人画家や風景画家として成功したいというより
とにかく全てを描きたいという究極の画家だったのだと、感じ入りました。
視覚世界を円や三角に分析したり、真行草を究めたり
オールマイティですね。
富士山や北斗七星への宇宙的、哲学的な関心も興味深いです。
レオナルドのような総合芸(技)術家ではないにせよ、世界をつかみ取ろうとする意欲に満ちています。
desireさんが力を注いで執筆なさるにふさわしい巨星ですね。
今回の「北斎―富士を超えて―」や 「すみだ北斎美術館」 の海外から帰ってきて展示された作品を見て、改めて北斎の絵師としての偉大さを知りました。日本の画家でこんなにスケールの大きいか画家は、北斎でしょうね。
ただ、残念なのは、北斎の幅広い活躍を知った作品が、殆どで大英博物館やボストン美術館など海外が保有していることですね。
トラックバックありがとうございます。
トラックしていただいたブログ、総て表示させていただきました。
北斎の田の浮世絵師との大きな違いは、ご指摘のように、オールマイティで、水墨画、絵巻から天井画まで、風景や美人だけでなく、描きたいものは全て作品を残していることです。
私が、世界の大画家に匹敵すると思っているのは、この活動のスケールの大きさです。
ただ、残念なのは、スケールの大きさを感じさせる傑作が、殆ど海外が保有していることです。明治の西洋化政策のなかで、北斎の傑作の多くが、西洋に流れていったものと考えられます。
遅ればせながら記事を拝読しました。
これだけの情報を整理されて、凄いですね!
またそれだけ北斎の画業が多彩ってことなのでしょう。
私は北斎の凄さはやっぱり構図だと思っていて、
とても理系な人ではなかったろうかと推測しています。なので時に理屈っぽかったり、あざとすぎたりして、実は鼻につくこともないではなかったんですが、ご指摘のとおり、血のにじむような研鑽を重ねてのあの画業、っていうのは今回の展覧会でしみじみ感じました。特に肉筆画! 命を削って描いていたことが良くわかります。こちらで紹介されているものとは違いますが、鐘馗図も良かったですよね~。
森羅万象、生きとしいけるものをこれほど真摯に見つめた人は稀有なのではないでしょうか。「宇宙」という言葉がこれほど似合う画家もいないですね。
すみだ北斎美術館は私が関東に住んでいた頃にはまだなかったので、ぜひ一度行ってみたいです。
以上、brattでしたm(_ _)m