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現代演出・ホモキの段ボール箱の演出、原作と違った設定はどこまで許されるか?

モーツァルト『フィガロの結婚』

Mozart'Le Nozze di Figaro'

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 『フィガロの結婚』は、ロレンツォ・ダ・ポンテの台本のオペラ全4幕のオペラで、日本語字幕付原語(イタリア語)上演2006年の10月、ノヴォラツスキー芸術監督就任シーズンの第1作として上演されたのが、アンドレアス・ホモキ演出『フィガロの結婚』でした。私はその1回目のホモキ演出『フィガロの結婚』を鑑賞し、新鮮で面白い演出だと感じました。しかし、ホモキ演出の『フィガロの結婚』はシーズンおきに上演され続け、2017年4月の『フィガロの結婚』も同じホモキ演出版で決まっていました。





Aprominent Mozart opera. This opera buffa masterpiece unfolds around the storyof the Count and the Countessa Almaviva, their servant Figaro, Figaro'sbetrothed Susanna and the count's page Cherubino. usical highlights includeFigaro's aria <Non Più Andrai>, Cherubino's aria <VoiChe Sapete Che Cosa è Amor> and the Countessa's <Porgi Amor>, amongother well-known pieces.Director Andreas HOMOKI (currently the General Directorof Opernhaus Zürich) created the set to be a space "outside of time",noting that in this work Mozart deals with the troubles and worries of humanitywhich are unchanging. Everything is arranged in black and white, the designthat changes with the passage of time representing the breakdown of feudalsociety. Conducted by Constantin TRINKS. When you click the "Translate to English" in the lowerright, you can read this article in English.




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アンドレアス・ホモキ演出の『フィガロの結婚』

 ホモキ演出の『フィガロの結婚』がなぜこんなに歴代の新国真理烈劇場のオペラ芸術監督に好まれるのでしょうか。アンドレアス・ホモキの段ボール箱の積み重ね」には、賛否両論がありましたが、卓越した演出は、現代演出にもかかわらず奥深く感じられ、作品の本質に迫ってゆく力を持っているようです。賛否両論があった「段ボール箱の積み重ね」は、登場人物たちが生き生きと交錯するシンプルな空間と、その空間が第2幕フィナーレのアンサンブルの中で崩壊し歪み、ついに最後まで旧に戻らぬという、「歴史からの解放」の面白さは、新鮮さを失っていないと考えているようです。



第11幕、

 幕がが上がっていて、ステージには白い床と天井と壁に囲まれた、何もない空間が遠近法的に広がっています。 序曲の途中から、ステージ上に「白い箱」がたくさん現れてきて積み上がっていく。これが舞台装置になります。これらの「箱」はテーブルや椅子や道具箱などを象徴的に表しています。


『フィガロの結婚』の物語、登場人物の衣装は、白と黒を基調にしたモノトーンにデザインされている、人物のキャラクターをすっきりと描き分けていますので理解しやすくなっています。アルマヴィーヴァ伯爵やケルビーノが隠れるのも「箱」です。


第2幕

 「箱」以外の唯一の装置、白く塗られた人が入れるほどの「衣装箪笥」が置かれ、ケルビーノが隠れたりスザンナが入れ替わったりします。第2幕の途中から、ステージ上の空間が歪に傾き、壁と天井に隙間ができてきます。

a0113718_15591375.jpg 3幕から第4幕にかけて「衣装箪笥」は場所を移動し、庭園の東屋に役割を変える。空間はさらに歪に崩壊寸前まで変形してしまいます。この空間の崩壊は、『フィガロの結婚』の時代、フランス革命前夜の社会構造の崩壊と変化を象徴しているようです。

 


 ホモキ演出の大きな特徴は、舞台上には段ボールの箱が高く積まれ、壁も天井もモノトーンの紙を貼ったような壁となり、遠近法で奥が狭くなっています。歌手たちは、ロココの衣裳と鬘をつけて現れ、浮気な伯爵とその妻、召使いフィガロと恋人のスザンナの物語を演じていきます。


 白をを基調とした舞台で、三方を白い壁で囲い、舞台には、椅子になったり、壁になったり、伯爵やスザンナが隠れるための家具になったりする引越用の白い箱とクローゼット1棹のみです。この無機質で不安定さを感じさせ舞台で、衣装もモノトーンで統一された、そのすごくシンプルな舞a0113718_15595364.jpg台。余分な視覚情報がないから、観客は音楽や演技に集中でします。観客の想像力が引き立てられます。ライトの加減で、白い壁にくっきりと映る影が、演者の心象を表しています。段ボール箱の装置は実は非常に緻密につくられています。舞台は段ボール箱で四角く囲まれているのですが、周りにあった壁は幕が進むにつれ、象徴的な事件が起こるたびに傾いて壊れていきます。床は傾き、いつのまにか家の内と外の境界がなくなっていきます。何もない空間にモノが積み上げられ、そこが人々の生活の場として生き生きとした空間に変わってきます。


 衣装はロココ調のとても装飾的な衣裳を伯爵や伯爵夫人は着ていて、他方フィガロやスザンナは黒く、飾り気のない衣裳で普通の何も飾りのないシャツのような服を着ています。幕が進むにつれてどんどん衣裳を替えていって、最終的に、4幕の最後にはみんな真っ白な下着姿で、裸足で、しまいにはかつらも取って、誰も見た目の区別がつかないような状態になっていきます。


 「旧体質=アルマヴィーヴァ伯爵と伯爵夫人」と「新体質=フィガロとスザンナ」との位置関係が微妙に入れ替わっていくに従って、出来上がっていた空間が崩壊して行きます。衣裳と鬘も次第に脱ぎ捨てられ、人間たちはありのままの姿に、剥き出しになってきます。この衝撃的ともいえるホa0113718_16004682.jpgモキの美術や衣裳の仕掛けは、「封建主義や階級制度の崩壊」を「時代性や歴史性を取り払う」ことで、を視覚化し、風刺性に富んだ劇世界をモーツァルトの軽やかで美しい音楽とともに疾走して、観る人に直接感じさせようとしているようです。本当人々が生まれながら持っている階級とは関係ない人間としての個性、平等性というものを最後は表していいます。4幕ではフィガロと伯爵も見分けが殆どつかないという現実を観る人に示しています。


 ホモキが演出した新国立劇場の舞台では、オーケストラも歌手もこのコンセプトに沿って、生々しい革命前の興奮や新しい時代に対する期待感等を表現したかったようです。新国立劇場の演目の中でも、ホモキ演出は、どの国・劇場で上演されても好評で「普遍性」をもった優れた演出とひ評価かされています。 


a0113718_16015389.jpg ホモキに限らず、多くの演出家は、モーツァルトのオペラの中心をなしているテーマは「秩序とエロスの衝突」と考えられています。人間が社会生活を営むには秩序が必要ですが、人間の本能(エロスの力)は秩序と衝突を起こすことがあります。の対立は、秩序を破壊し、新しい秩序の再構築が行われます。モーツァルトはこのテーマは具体的歴史上の関係ではなく、人間の普遍的な問題として取り上げ、舞台空間に時代設定は必要ないと癌が得ているようです、非歴史的なオペラと考えている演出家が多いため、モーツァルトのオペラを現代演出で上演されることが多くなっています。


 このクールな舞台は、日本が世界に向けて自信を持って発信できる高い感性を持つ、と、大変な評判をとりました。以来再演を重ね、今年で4回目の公演で、この劇場から生れたレパートリーとして初台の地にしっかりと根づいた感があります。


 バイタリティー溢れる青年フィガロと、可愛らしい恋人スザンナが、次々に起こるトラブルを乗り越えて結婚するというお話たてで、スザンナに御執心で、盛んに「パワハラ」を試みる伯爵や、血気盛んな少年ケルーノ、生きることの気だるさを訴える伯爵夫人、物欲、色欲、その他、数多の煩悩をかかえた人たちが引き起す上を下への大騒ぎ。その中で、総てがほころび始めたフランス革命前の社会の空気が、モーツァルトの音楽の中にしっかりと表現されているといわれます。


 ホモキの打ち出した「秩序の崩壊」は、客席をハラハラさせてフィナーレにはでは女も男も白一色の下着姿になり、身分の差がなくなるという斬新な演出で、18紀に生まれた古典の真髄をえぐり出し、現代に生きる我々に単純にして明快で説得力を持った新しい舞台を再構築して見せました。




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  ベルリンを中心に欧州で活躍するアンドレアス・ホモキの演出したこの舞台は、新国立劇場のために7年前の2003年に初演されました。『フィガロの結婚』というオペラが描いている人々と社会を、見事に描き、その本質を詳らかにし、余分な装飾をすべて削り取ってしまったら、残ったモノは「白い箱」だけになった。この演出の鋭角的な切り口は高い評価を受ました。オーケストラを最小限の小編成にして、アンサンブル重視し、右側などはチェンバロを置いて、ある意味での逆転は、アンサンブルでの不調和が感じられましたが、オペラが進んで行くにつれて、アンサンブルが整って、弦楽器は編成の少なさにも観客は慣れてきました。こうして、アンドレアス・ホモキの演出による『フィガロの結婚』は2017年のシーズンラインアップでも、またホモキ演出『フィガロの結婚』が上演され、2006年のから何シーズンかおきに上演されているから。これで5~6回目になります。


 しかしいくら良い演出だと言われても、高いお金を払って何度も同じ演出で『フィガロの結婚』を見る気にはなれず、それ以来モーツアルトの傑作『フィガロの結婚』とご無沙汰しておりました。




オーソドックスな演出の『フィガロの結婚』

2016年の4月、新国立劇場オペラ研修所終了講演で『フィガロの結婚』をオーソドックスな演出で上演されることを知り、久しぶりに『フィガロの結婚』の舞台を見に行きました。


a0113718_16043088.jpg 粟國淳さんの原作に忠実なオーソドックスな演出で『フィガロの結婚』の舞台を生で鑑賞して、ホモキの舞台を観ていて忘れていた肝心なことに気が付きました。元来は『フィガロの結婚』はオペラブッファであり、すてきなアリアや二重唱、三重唱がたくさんあり、音楽の力で完成度の高い魅力あるオペラに仕上がっているのです。凝った演出がなくても、音楽やアリア、二重唱、三重唱を楽しむことができるオペラであることを身にしみて感じました。


 序曲に始まり、第1幕で、最初に結婚を控えたスザンナとフィガロの歌のやり取りから始まります。スザンナ村紗智さんは、澄んだ清らかな歌声で、清純なスザンナの魅力を漂わせていました。ケルビーノ役の役の竹村真美さんのアリア「もう自分が何か、どうすればよいか分からない」、第1幕を締めくくるのはフィガロ役の千葉悠一さんが最も有名なアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」を唄います。


 2幕では、 ケルビーノのアリエッタ「恋とはどんなものかしら」で燃え上がる少年の恋心を発a0113718_15573715.jpg散させます。伯爵が帰ってきて、この喜劇のクライマックスといえるアンサンブルが続きます。伯爵夫人がケルビーノを衣裳部屋に隠し、衣裳部屋にいるんだろうと疑う伯爵にうろたえる伯爵夫人と影で気をもむスザンナ、3者3用の心が映し出される三重唱「スザンナ、さあもう、出てきなさい」は場面です。ケルビーノとスザンナの緊張の興奮の二重唱 「開けて、早く、お開けなさい」も伯爵の「もう出てこい、小僧め」と怒鳴りますが、ケルビーノとスザンナは入れ替わっており、衣裳部屋からスザンナが出てきて、伯爵の疑いが音楽の中で空転し、伯爵夫人に謝らざるえないところは見ていて楽しい場面です。


 3幕では、伯爵と伯爵夫人の「ひどいぞ、どうして今まで」の二重賞の後、伯爵役の大野浩二さんが独白「もう訴訟に勝ったのでは・・」を見事に歌い上げます。そのあと、一人になった有名な伯爵夫人役の西尾友香理さんのアリア「スザンナはもう来ないわ・・・・甘さと喜びの美しい時は・・」は伯爵夫人の複雑な心境から伯爵を取り戻そうとする決意と希望に高まっていく見事なアリアでした。共同戦線をはる伯爵夫人とスザンナが逢引の手紙を書きながら歌う二重唱「そよ風に寄せる」も、本当の愛を勝ち取ろうとする二人共鳴する美しいものでした。


 第4幕ではフィガロのアリア「もうすっかり用意ができた」スザンナの「早くおいで、素晴らしい時よ」など聴きどころの歌で結ばれ、ストーリーは、ハッピーエンドに導かれます。


 オペラ研修所終了講演の日本人歌手だけの舞台でしたが、『フィガロの結婚』の美しい歌と音楽を楽しむことができました。主要な配役の歌手の力量が高くバランスが取れていました。特に伯爵夫人役の西尾友香理さんとスザンナ役の竹村真美さん、2人のソプラノの高音の伸び、声量音域の広さ、声量とも十分で存在感があり舞台を引き締めていました。将来楽しみな歌手の歌をたくさん聞くことができました、



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ホモキの斬新な演出を問い直す

 その後20174月に久しぶりにオペラパレスでアンドレアス・ホモキ演出『フィガロの結婚』を鑑賞しにいきました。ホモキの演出を再度観たかったわけではありませんが、新国立劇場のメイン公演の『フィガロの結婚』は相変わらずホモキ演出の舞台で観るしかなかったからです。


 新国立劇場の定期公演の『フィガロの結婚』は、さすがにレベルの高い音楽を聴かせてくれました。フィガロ役のガロ:アダム・パルカはハンサムで憂いさえ感じさせる容姿でコミカルにこの役を演じ、伯爵夫人役はアガ・ミコライは優雅さとともに人間味と品の良さを滲ませていました。アルマヴィーヴァ伯爵役ノピエトロ・スパニョーリは浮気者でありながらどこか憎めない可愛いい男の魅力を感じさせ、新国立劇場研修所出身の中村恵理はヨーロッパで実績を重ねているだけあって、キュートで気が強く賢い女性という印象で存在感を感じさせいました。ヤナ・クリコヴァ演ずる小姓ケルビーノは奔放なのにキュートでしたが、アリアも美声で聞かせてくれました。ウルフ・シルマーの指揮による東京フィルが、モーツアルトの疾走感と軽快さ、明るさで、舞台上の物語をぐいぐいと引っ張っていました。



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 しかし、2度目に観たアンドレアス・ホモキ演出の舞台は、最初に観た時と同じで、当然ながら斬新さを感じなかっただけでなく、ガイディングレシーバーの同じ説明で、同じ美術展を観る様な気分になりました。一言でいえば、「封建主義や階級制度の崩壊」という同じお説教をもう一度聞かされているようで、理屈っぽくしつこい舞台という感がぬぐえませんでした。、私は美術展でガイディングレシーバーは使ったことがなく、自らの感性に従って絵画作品を見ることに慣れているので、余計そう感じたのかもしれません。



 元来ホモキの演出は、モーツアルトが『フィガロの結婚』で伝えたかったこと、あるいはホモキa0113718_16050796.jpgホモキの演出は、モーツアルトが『フィガロの結婚』で伝えたかったこと、あるいはホモキがそのように思ったことを舞台で見える形で示そうとしたのだと思います。 


 しかし、もっと本質的なところに戻って、モーツアルト自身がその意識を強く持っていたのでしょうか。モーツアルトの代表的傑作『ドン・ジョバンニ』『コジ・ファン・トッテ』『魔笛』を見て、もそのような強い主張は感じられません。ましてや、歴史学、哲学、人文学の専門家でもないモーツアルトが、フランス革命前夜の社会構造の崩壊と変化を予感して、オペラに表現したとは考えにくいとは思います。


 オペラブッファを、当時用いられていた不可避の体制への明確な反発であり、作曲の自由の象徴とナッテオリ、オペラ・ブッファの製作の拠点であったナポリのでは、喜劇オペラを振興したマリア・カロリーナ王妃をはじめ、民間劇場を支援した貴族の多くは「自由、平等、博愛」を標榜するフリーメイソンに参加しており、そこで上演される作品群にもまた「自由、平等、博愛」の精神を本営していました。オペラブッファを確立した一人であるモーツアルトも自由、平等、博愛」の精神を持ってオペラを作曲していたことは事実だと思います。しかしだからと言って、『フィガロの結婚』が、「封建主義や階級制度の崩壊」を主要テーマとして作曲したオペラと考えるのは短絡的にナウな気がします。オペラーッファはあくまで喜劇であり。舞台で社会的に地位の高い人の愚かな行為やこの理不尽や笑い者にする程度のもので、「封建主義や階級制度の崩壊」を明確に描く帆と政治的で過激なものは考えにくいと思います。モーツアルト自身がそういう意識を強く持っていたならば、オペラとして完成度の高い『フィガロの結婚』の舞台と音楽をオーソドックスな演出あっても見ても、政治的批判と人類の未来を予言ができるでしょうか。


 モーツアルト自身が伯爵の愚かさを笑いものにする喜劇を作りたかっただけで、「封建主義や階級制度の崩壊」を主要テーマとするような大胆なななことを全く考えていなかったかもしれないとすれば、ホモキの演出は一つの問題提起にすぎず、新国立劇場で6回も観客に見せるほ価値があるのでしょうか。


 ホモキの演出は『フィガロの結婚』そのような要素があることをを分りやすく解説してくれた意味で、最初にホモキの『フィガロの結婚』を観る価値はあったと思います。しかし、元々完成度の高いオペラに、度同じ解説をつけられるのは、モーツアルトの卓越したすばらしい音楽を味わうには。邪魔でしかないように感じました。



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オペラは「演出家の時代」?演出家は何をやってもよいのか?

 実は、『フィガロの結婚』が好評だったので、2007年、プッチーニの『西部の娘』もアンドレアス・ホモキの演出で上演されました。演出は、台本の時代設定を1850年だか、舞台は大雑把に現代、人の心が荒廃し希望のない混沌とした世界を対比するように整然と並んだダンボール、人が入るくらいの大きなダンボールが、舞台上にうずたかく積まれ、500個くらいはあったのでしょうか。


 このオペラは、1幕は、鉱夫たちのたまり場となっている酒場ポルカ、2幕が、山の中にあるミニーの小屋、3幕は、カリフォルニアの大森林、というように特定になっていますが、今回は全幕場面の転換が全くなく、ダンボールが積み上げてあるという演出なので、1幕は倉庫のように思え、2幕はでもミニーが倉庫に住んでいるように見えました。


 始めてプッチーニの『西部の娘』を鑑賞した私には、この時代設定を含めて音楽以外のものは何もかも変えてしまったこの舞台では、ほとんどストーリーを追うことができず、ひたすら山積みのダンボールを見せられて、苦痛以外の何物でもありませんでした。ダンボールのことは気にしないようにして音楽だけを鑑賞ししようと努力していましたが、山積みのダンボールが鬼になって、ストーリーが分らなくなってしまい、散々な舞台でもう2度とホモキの舞台は観たくないと思ったほどです。このホモキの演出の『西部の娘』は、それ以降再び新国立劇場で上演されることはありませんでした。やはりよっぽど不評だったのでしょう。私個人的にも、今まで上演された新国立劇場のオペラとしては、最低の演出だったと思っています。


a0113718_16100117.jpg ひとつのオペラ上演には大変なお金がかかりますので、オペラ劇場は客がたくさん入る演目を上演しなければ採算が取れないため、人気のある同じ演目を何度も上演されることになります。そのため常連客は同じ演目を何度も見ることになるので、昔ながらのオーソドックスな演出ばかりでは飽きてしまいます、そこで、演出家には、個性手は気で奇抜で一般客受けする演出で上演することが求められます。現代のオペラ界は演出家の時代と言われ、特に西欧では奇を狙ったような現代演出が主流となっているようです。西欧の一流歌劇場の公演でも、ストーリーと何の関係もない巨大なオブシェが舞台に登場させるなど、私から見ると目に余る演出も多くみうけられるようです。


 しかし、オペラは総合税術であり、作曲家が当時の脚本家、演出家と作り上げた舞台をより良い形で再現するのが、基本だと思います。ホモキの演出の『フィガロの結婚』が好評だったからと言って、ある意味で観念的な演出の『フィガロの結婚』を毎年見せる新国立劇場は、本当にお客のためを思って公演を重ねているのか、疑問に思うこともあります。


 演出家の時代という言葉に乗って、演出家の多くは理屈を付けて奇抜な現代演出をしたがりますが、演出家は現代アートの芸術家ではなく、作品としてすでに完成度の高い総合芸術である名作オペラの芸術性をそこなうことなく、作曲家の意図を再現させるべきであり、あくまで脇役であることを意識すべきだ思います。


 近年、アメリカのメトロポリタンオペラでは、今まで中もくされていなかった、隠れた名作オペラを見事な演出で魅力ある作品に磨きなおして上演して、成果を上げています。ロッシーニの『ランスへの旅』は、メトロポリタンオペラで再評価され、『セビリアの理髪師』以外はイタリアでしか人気のなかったロッシーニの作品に光が当たり、ロッシーニの知られざる傑作が各国で招宴されるようになりました。これは世界的なメトロポリタンオペラだからできることかもしれませんが、演出家の時代というなら、今まであまり人気のなかった作品や、ミュージカルなどオペラ以外の傑作を演出の力で魅力あるオペラを作り上げることが、本当の才能ある演出家の使命ではないでしょうか。


参考文献:

平尾 力哉 () 「オペラ演出家の読み解く オペラ『フィガロの結婚』」2012

寺崎裕則著 「音楽劇の演出 オペラをめぐって」東京書籍、1995

森岡 実穂 「現代社会を映す鏡としての、さまざまなオペラ演出」

新国立劇場『フィガロの結婚』パンフレット 


                         







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by desire_san | 2017-04-25 19:28 | オペラ | Trackback | Comments(27)
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Commented by Keiko_Kinoshita at 2017-04-25 06:03 x
こんにちは・いつも素敵なトピックを提供いただきありがとうございます。
dezireさんがおっしゃるように、傑作オペラは、すでに完成度の高い芸術ですので、差の作品の魅力を忠実に観客に伝えるのが、演出家の最も重大な役割だと思います。本来素晴らしい作品を、わざわざ現代に時代設定を変えて、オペラ本来の雰囲気を壊してしまうのは、邪道だと思います。それよりも、dezireさんが植言われるように、あまりに注目されていない作品を演出の力で輝かせて、多くの人を魅了し、新たに傑作オペラの舞台を作り上げることに、一流の演出家は努力してほしいですね。
Commented by Haruma_Takahsshi at 2017-04-25 06:29 x
こんにちは。
オペラはよく見ますが、やはりMETのようなオーソドックスなえんしゅつのぶたいがすきですね。以前ムーティ指揮のウィーン国立歌劇で「ドン・ジョヴァンニ」を鑑賞しましたが、登場人物の衣装のがだんだん時代を下って現代風になっていくえんしゅつでした。「ドン・ジョヴァンニ」の物語が時代を通して受け継がれ伝播していく様子を表しているのだそうですが。そんな誰でも知っていることをわざわざ舞台で表現することに意味があるのでしょうか? オペラではなくファッション・ショーを見せられたようで、せっかくの一流のキャストでのドン・ジョヴァンニ」の舞台が興ざめしてしまいました。演出家が作曲家がその作品を意図していないことをオペラに加える権利があるのでしょうか。ご指摘のようにウィーン国立歌劇は昔はすばらしい演出が多かったですが、最近は目に余るようなひどい現代演出の舞台があるようですね。
Commented by desire_san at 2017-04-25 19:35
Kinoshitaさん、いつも私のブログを読んでいただいてありがとうございます。
私も全く同感です。成度の高い芸術である傑作オペラを。より美しく見せるのが演出家の一番大切な仕事だと私は思っています。
Commented by desire_san at 2017-04-25 19:41
Takahsshiさん、私はチケットが高いので、もう何年もウィーン国立歌劇のオペラの舞台を観ていませんが、オーストリアに住んでするオペラ好き友人から、かなり奇抜な演出が多くなったと嘆いているのを聴いたことがあります。ウィーン国立歌劇のオペラがなぜそのような方向に試行しているのか、私には理解できません。これについて何か情報がありましたら、ご教示お願いいたします。
Commented by Masayuki_Mori at 2017-04-26 05:20 x
おはようございます。初心者にもわかる丁寧な説目をつけて、ご自分独自のご見解もしっかり書かれている dezireさんのブログを楽しみに読ませていただいております。
オペラの演出の話題は、大変興味を持っておりました。ご紹介のホモキ演出の『フィガロの結婚』の舞台は、私は大変良い演出だと思っています。オペラも新作で親しみ深いオペラがオペラが生まれず、隠れたる傑作オペラの発掘も簡単な話ではない昨今は「演出家の時代」となるのは仕方がないと思っています。現代演出も、好き嫌いがあり、当然我慢できないえんしゅつもあるとはおもいますが、数世紀の歴史を経て高い評価を得ている傑作オペラは、現代人にも学ぶべき内容だと思いますので、現代に生きる我々が自分にも関わりうる現代的問題を含んでいると感じるように現代演出で招宴するのは、大きな意味があると思います。METのように作曲家の思いを伝えるオーソドックスな演出も重要だと思いますが、優れた現代演出の舞台もたくさんあり、オペラ界を活性化するために必要だと、私は思っております。
Commented by desire_san at 2017-04-26 05:31
Mori さん、いつも貴重なご意見ありがとうございます。
朝起きてブログを開くと、Mori さん、の興味深いコメントが入っていて、何か今日もいいことがありそうな気分になりました。
Mori さんのご意見はね体験ごもっともであり、ホモキの『フィガロの結婚』の演出も、オペラ界の大きな成果だと思ております。
ただ、これは好みの問題でもあり、未だ見たことのないオペラを始めて官署するときは、やはりオーソドックスな演出でないと、本来どんなオペラなのか理解することができません。
Mori さんが描かれているように、オーソドックスな演出と斬新で優れた演出の両立がオペラ界の発展のために重要であるという考え方には、全く異存はありません。
Mori さんから見て優れた現代演出の舞台がありましたら、教えていだけると、私も鑑賞したいと思いますので、よろしくお願いいたします。
Commented by rollingwest at 2017-04-27 21:28
モーツァルト・・、ロック好きのRWにとっては対極的位置づけかも~
Commented at 2017-04-27 22:27 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by usakichi71 at 2017-04-27 22:41
dezireさん、こんばんは。私も先日新国立劇場で「フィガロの結婚」を観てきました。演出について、あまり好きになれず、深く考えてもいませんでしたが、文章をお読みして、色々と深い意味があった事を知り、大変勉強になりました。ありがとうございます。
「フィガロの結婚」は音楽が楽しいので、機会があればまた観たいですが同じ演出なら、私も、観ないと思います。オーソドックスな分かりやすい舞台の方が歌に集中出来ますね。
Commented by desire_san at 2017-04-28 08:42
usakichi71さん、コメントありがとうございます。
新国立劇場で「フィガロの結婚」の演出の意味は、私も初めて舞台を観たときは分かりませんでした。。まして、「フィガロの結婚」の作品自体を始めて観ることには、「フィガロの結婚」の作品そのものが良くわからなくなってしまうこともあるのではないでしょうか。「フィガロの結婚」は好きでも、この演出ではもう一度は観たくないと思う人も多いのではないでしょうか。新国立劇場川では「永遠に残る」名演出を歌立っていますが、「永遠に残る」はほめ過ぎですね。もうそろそろオーソドックスな演出に変えてほしてと思っています。
Commented by ゆりこ at 2017-04-29 04:15 x
オリジナルからかけはなれた演出にはアレルギーを感じます。私のオペラ好きの友人もみんなそう考えているようです。。それなのに、全く時代設定などを無視し、原作とかけ離れたようなテーマの演出の舞台が増えているのはどうしてなのでしょうね。不思議でですね。
Commented by Voltamate_558 at 2017-04-29 04:22 x
新国立劇場ででホモキ演出を何度も観ています。まあ低予算で舞台、衣装にお金をかけられないからこの演出の舞台で毎回招宴しているというところでしょうか。最近の他の演出は、このエピソードが同時進行する脚本を観客にわかりやすくするために、舞台を上下3段にしたりしています。3幕、4幕は展開が錯綜しまするのを避けるためでしょうか。彼は今たしかチューリヒの総監督ですから、もっと新しい切り口を取り入れていることでしょう。
Commented by Georg_charls at 2017-04-29 05:08 x
初めてさの作品を観る人は、オーソドックスなものを体験し、次に前衛的なものもみたいです。体験しなくてはわからないし、今までもっていたイメージを壊す楽しみもあります。
 前衛的な演出をみる人というのはもともと伝統的な演出を知っている人が前衛のではと思います。ですから、前衛的なものだけみていると飽きることになり、劇場側は伝統的なものも提供することが
求められていると考えます。

Commented by Georg_charls at 2017-04-29 05:42 x
だいぶ昔から海外も含めて、演出家の勝手な独善としか言いようの無い演出が多々あり、音楽こそが重要という点が置き去りにされた状況となって久しいです。「演出家の自己主張のためにオペラがあるのではない」と勅使河原三郎さーの「魔笛」の演出を厳しく批判しまし。奇抜な演出や読み替え自体を批判したいのではなく、変わった斬新な演出でも本質を突いているものなら納得できます。
Commented by Riegal_777 at 2017-04-29 05:49 x
ホモキによる「ばらの騎士」(は、エンディングで元帥夫人をポツンと1人ステージに残して彼女の老いの孤独を表現という、正にオペラの本質を突いた誰もやらなかった演出を大胆にやってのけ感銘深いものでした。同じホモキでも2010年のではミミの寂しさ悲しさがまるで描かれてなく、単にロドルフォとのその友人らの関係性だとか背景のみに力点が置かれたような陳腐な演出でした。「フィガロ」は物語は音楽は偉大ですし、第3幕の伯爵夫人の孤独を歌うアリアこそあのドラマの音楽的頂点であり、その前後をどう演出するかが演出全体のレベルを左右すると思いますが、白黒と色変化を伴う階級間の相克などの問題として置き換えていたようですね。どうにでも読めるのはモーツァルトの凄さですが、ドラマの主題にいかに迫っているか、その本質を突いた演出否かがオペラ演出の評価を左右すると思います。
Commented by Yeidlcvat at 2017-04-29 08:51 x
演劇の世界における前衛的な演出の葛藤は、秩序と調和、破壊と混沌、その間をスパイラル的に突き進んでいるような勢いがあり、抽象芸術のような舞台も存在するようです。オペラの場合それだけで高い芸術性のあるオペラ音楽が中心にあるため、それが歯止めとなっていいますが、音楽事態が前衛的な音楽のオペラでは、オペラとは言えない舞台になっているようです。
Commented by desire_san at 2017-04-29 09:17
演劇の場合、オペラのような確固たる秩序基盤がないため、演出家の遣りたい放題で、「秩序と調和、破壊と混沌。その間をスパイラル的に突き進んでいる」ような状態のようです。「蜷川幸雄×シェイクスピア」では、俳優は全員男性で、小栗旬ら若手イケメン俳優から、市川猿之助・筧利夫・長谷川博己などジャンルの違う強烈な舞台俳優まで出演し、言葉に表現な出来ないほど奇抜さ勝負の舞台だったそうです。シェイクスピアの時代には男性の俳優が女性役を演じていたこと発送から来ているそうですが、この強烈に男っぽいメンバーでイロモノも行ったというのですから、どんな舞台だったのか、想像もつきません。「世界の蜷川」がこんな調子ですから、演出家という生き物は、私たち秩序と品性を重んずるクラシック愛好家の世界位で勝手に暴れられたら、傑作オペラが「得体のしれない」ものにされてしまう危険もあるわけですね。そこで大切なのが、音楽を統括する指揮者や音楽監督の力量なのだと思います。
Commented by veldi_wagner at 2017-04-29 16:40 x
モーツァルトの音楽と、こういう演出とは、どうしても相容れない「無理矢理」感があります。ちょっとそれますが、工場の中という設定でワーグナーを演出したのを、何かで見たことがあります。やはり現代的な「芸術性」と、「奇をてらう」行為との境界が、私には見えません。やはり、モーツァルトがイメージしたであろう世界観を、リアルに演出するのが自然だと思いました。逆に、演出が先にあるのなら、モーツァルトではない、このための音楽をつければいいと思います
Commented at 2017-04-29 16:47 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by pelleas2016 at 2017-04-29 16:48 x
こんにちは。
非常に深いご考察のレポ、読ませて頂きました。
第4幕の伯爵とフィガロの衣装の類似、拝読するまで気がつきませんでした。
また、舞台壁のいびつな変化が旧体制の崩壊を示唆すると言うステレオタイプな理解をモーツァルト自身が考えていたのか、と言う視点もとても興味深く読ませて頂きました。
そうですね、実際ボーマルシェ自身は立憲君主制を理想としており決して身分制度の崩壊まで希望していたわけではないようですし、フィガロの後日談である罪ある母でフィガロが伯爵一家を守る老忠臣になっている事を考えると、単純でステレオタイプな解釈に繋がるダンボール演出は何度も続けて繰り返す意味は無いかもしれませんね。

最近では秋に来日したウィーン国立のフィガロを見に行きましたが、オーソドックスで品のある演出が実に安心できて美しかったです。
また、御記事を読ませて頂くのを楽しみにしております。
改めて勉強にもなりました、ありがとうございます。
Commented by desire_san at 2017-04-30 06:46
pelleas2016さん、コメントありがとうございます。
私もそう思います。 そもそも、モーツアルトは、純粋な芸術家で、そんなに政治や社会の体制に興味がなかったのではないかと思います。
この演出は、演出家ホモキが、「フィガロの結婚」を使って、自分の主張をしたかったのではないかと思います。 
Commented by Arpiartist at 2017-04-30 07:10 x
観ました。ダンボールの舞台で視覚情報に対して「これは何なんだ」とわれ知らず考えることを強要されるよう。さらに、抽象的な舞台の上で、オペラの「日常」は消え、登場人物のキャラクターのやりとりの面白さも減じられざるをえない。まして最後はみんな白い同じような衣装となり、個性は剥奪される。つまりキャラクターが解消されるわけで、それがそもそも劇というものか。革命前夜という時代に引きずられ、階級意識が人間を決定するすべてであるかのよう。だから、ケルビーノに対して、ゴヤのスペイン独立戦争の絵を思わせるシーンまで、演出する(下『1808年5月2日、マムルークたちの攻撃』)。人間は、社会の中で、ひとりひとり独自の立場や性格の中で自分を演じているともいえないか。個人の差異・区別がなくなるのが「普遍的人間」「本来の存在」だというホアキ氏の解釈は、危ういものがある。やたら自己主張が強く、歴史を超えるといって歴史に振り回され、音楽に集中できないような演出。そのためもあるだろうか、音楽もこじんまりとまとまり、わくわくどきどきがあまり感じられない上演だった。
Commented by Newtromist at 2017-04-30 07:18 x
フィガロが封建制の問題点等を音楽の中に隠しているどうか、私はぜひそれを
知っている人がいるなら教えてほしい気がします。意味合いは違うにせよ、コシ・ファン・トゥッテを悲劇として終わらせる演奏が最近は多いようです。このオペラで最終的には2つのカップルが分かれてしまうことを暗示するように書かれているのかもしれませんが、クレンペラーがこの曲は難解だ、といったことがこの暗示のことを言ったのかどうか私にはわかりませんが、両者をつなげるとなんとなく居間の悲劇的演出が理解できる
のでそう考えています。誰かが曲の解説をしてくれると嬉しいのですが。やや問題ありと感じる演出は、バイロイト音楽祭でしばしば見かけます。演出家が戦争を知らない世代を迎えたからだと思うのですが、鉤十字の旗を出したりして、な
にか、ットラー賛美、あるいはトリスタンの愛の二重唱の場面でだれかが二人を監視している(ブランゲーネのことではありません)。とにかく不快感、嫌悪感を感じさせる演出を前衛的とみなし、バイロイトがその最先端の様相は正直悲しくなります。最近、ほぼ全く受け付けなくなってしまいました。ワグナーの音楽はロマン派の耽美的な香りが最近は強烈に感じさせます。
Commented by Xecfqtes at 2017-04-30 07:21 x
上演作品をアレンジすることについて
やはりこれは、原作を見飽きた人向けの余興のような気がします。私などたまにしか実演をみない者は、オリジナルを観たいです。時代の雰囲気を感じるのも、観劇の楽しさのひとつだし。モーリスベジャールのモダンダンスや創作落語は、それ自体がオリジナルだから面白いです
Commented by Haroemoryus at 2017-05-01 20:27 x
desireさん こんばんは。
オペラの演出に関するdesireさんのご意見、私も同感です。
以前MetでRobert Carsenの新演出の「ばらの騎士」を見ましたが、Metのオペラの演出はオーソドックスなものが多く納得できますね。Met以外の舞台では消化不良を起そうな、内容理解困難な演出がおおくなりましたね。
「ばらの騎士」の舞台のはなしですが、第一幕で、オクタヴィアンが再登場する時、バラをおみやげに持ってきます。元帥夫人は、今までは、年を重ねた自分に幻滅した様子の演出でしたが、今回は、
オクタヴィアンが持ってきたバラを手に退場します。これが三幕の退場場面の伏線になっています。第三幕では、オクタヴィアンとゾフィが一緒に帰らない演出で、したがって、モハメッドがハンカチを探しに出てくる場面がありませんでした。それでモハメッドが黒人の少年という必然性がなくなります。脚本を書いたホフマンスタールが、これを見たらどういうでしょうか?私はブラボーと叫たくなりました。
Commented by Marquros_Rinda at 2017-05-02 13:56 x
こんにとは。
オペラの演出というのは気になっていました。『フィガロの結婚』評の深い考察に私も共感しました。私も封建社会の崩壊を予測というより、フリーメーソン的自由というか、モーツアルト流の天真爛漫な自由をハッピーエンドに持っていける筋書が、モーツアルトのオペラの本質であり魅力だと私は思っています。学者のような理屈っぽさは、モーツアルトには似合わないと私は思います。

  『フィガロの結婚』は数年前、京都市交響楽団の演奏会に

 息子が招待してくれて夫婦で聴きに行った思い出があります。

  また私が見た映画の中でも最も美しい『カオスシチリア物語の

 エピローグ』で美しい映像と共に母のテーマとして出てくる

 アリアが非常に美しい曲でした。映画のテーマ音楽と思っていました。

 しかし数年前これが「フィガロの結婚」の第四幕の場のバルバリーナの

歌うアリアであるとわかり、やはりモーツアルトの音楽のすごさ-現代的な

新鮮さを感じました。

Commented by Dr.Markurquros at 2017-07-18 16:21 x
観ました。ダンボールの舞台で視覚情報に対して「これは何なんだ」とわれ知らず考えることを強要されるよう。さらに、抽象的な舞台の上で、オペラの「日常」は消え、登場人物のキャラクターのやりとりの面白さも減じられざるをえない。まして最後はみんな白い同じような衣装となり、個性は剥奪される。つまりキャラクターが解消されるわけで、それがそもそも劇というものか。革命前夜という時代に引きずられ、階級意識が人間を決定するすべてであるかのよう。だから、ケルビーノに対して、ゴヤのスペイン独立戦争の絵を思わせるシーンまで、演出する(下『1808年5月2日、マムルークたちの攻撃』)。人間は、社会の中で、ひとりひとり独自の立場や性格の中で自分を演じているともいえないか。個人の差異・区別がなくなるのが「普遍的人間」「本来の存在」だというホアキ氏の解釈は、危ういものがある。やたら自己主張が強く、歴史を超えるといって歴史に振り回され、音楽に集中できないような演出。そのためもあるだろうか、音楽もこじんまりとまとまり、わくわくどきどきがあまり感じられない上演でした。た

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