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芸術と自然の美を巡る旅  

教科書では教えない明治維新の表と裏、光と影


明治維新の光と影


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教科書が教える「明治維新」は、薩長土肥を中心に行われた江戸幕府に対する倒幕運動と、それに伴う中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化など一連の近代化改革と記されています。










天皇の称号から明治政府と新たに誕生した政権は、倒幕運動の中心になった薩摩藩と長州藩の出身の改革主義的な下級の武士階層が実権を握ることになりました。新政権は、「文明開化」、「富国強兵」、「殖産興業」を掲げ、欧米諸国のような近代的な社会、経済的な諸制度を採り入れることによって、日本を統一的な近代的な国民国家へと脱皮させる政策を推進することになり、近代化政策の

中に教育改革も位置付けられました。



そこに至るまでには紆余曲折がありました。


大久保利通は異国に負けない国をつくるため、『廃藩置県』による中央集権国家を作ることを考えていいました。西郷隆盛が大久保利通の説得によって再び東京に戻り中央政府に加わりました。明治4年、欧米の繁栄と強さを見る事は日本国を率いる者の急務であると考えて、政府の大久保利通を始め、首脳陣が『岩倉使節団』として西欧やアメリカの海外を見て回りに行きました。





『岩倉使節団』の留守政府の活躍


西郷隆盛は国内に残りましたが、残った留守政府は重要事項を決定しないという決まりがありました。しかし、西郷隆盛は大久保利通から託された『留守政府』と呼ばれた日本残留組の西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らの中かには優秀な人材が多く、次々と改革は進んできました。国内には片付けなければならない事が山積みで、中西郷隆盛は、大隈重信・板垣退助・江藤新平ら優秀な人材とともに、次々と改革は進めてきました。このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けました。留守政府は、『学制』『地租改正』『徴兵令』など、のちの世に繋がる新しい政策を次々と打ち立てました。大久保利通は秀才ですが人望がなく、有用な人材をまとめていく力がなかったのに対し、逆に西郷隆盛は薩摩時代から人望があり、気鋭の論客、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助、大隈重信らをまとめて留守政府で成果を上げました。


そのころ、廃藩置県など新政府の政治方針により、武士不満が爆発寸前になっていました。士族の西郷隆盛は人望がり、仲間の声や雰囲気を前から感じていて、直面する役割の終わった武士階級(士族)の行く末に大きな不安を抱えていたようです。いずれ不満は爆発すると感じ取っていた西郷隆盛は、自ららが推進した『明治維新』のために、武士社会の構造を叩き壊してしまった自己の責任を痛感していたと思われます。大久保利通が『岩倉使節団』より早めに帰国したのは、盟友西郷隆盛・間際に滑り込んでいるのを予感し、必死になって止めに入るためだったという説が有力です。大久保利通が西郷の朝鮮行きに反対したのには、西郷の命を心配していたためにと考えられています。





「四民平等」と「三権分立」の理想掲げたを江藤新平


一方、江藤新平は備前国佐賀藩に生まれ、幼い頃は貧しい生活を送りながらも藩校弘道館で学んだ非常に優秀な青年でした、江藤新平の志は高く、副島種臣、大隈重信、島義勇らと親交を深め、脱藩して京で活動するようになり、桂小五郎ら長州藩士を始めとする志士と付き合い見聞を広げました。


江藤新平は、明治の新政府では司法卿、参議との役職を歴任し、司法の分野で能力を発揮し、初代司法卿を務め、司法制度や警察の整備に尽力しました。江藤新平は志が高く、四民平等を訴え、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などは画期的なものでした。明治政権で「四民平等」が認められたのは江藤新平の働きが大きいと考えられています。


一方で、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤新平に対して、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ち、ドイツ帝国を範とする政府内の保守派からは激しく非難され、江藤の主張は通りませんでした。また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招きました。江藤新平は官吏の汚職にも厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及し2人を一時的に辞職に追い込みました。江藤新平の主張は正論が多く、政府内で対立することも多くありました。理想主義者で清廉潔白な江藤新平の優秀さは、大久保利通とも重なる面がありましたが、一方で西郷隆盛と通ずる面もがありました。その結果、江藤新平は大久保利通から強烈な嫉妬と恐怖心を招くこととなりました。


大久保利通は、江藤、後藤、板垣たちを全員辞めさせて、岩倉が戻ったらすぐに政府を立て直し、自分たちの手で欧米に負けない日本を作る意思を強く持っていました。しかし、それは西郷隆盛には受け入れないことでした。緻密に戦略を練ったり、根回しをしたりして政治を動かすことにたけている大久保利通との権力闘争には西郷隆盛も太刀打ちできず、自らのから信念は曲げられず、西郷隆盛は中央政府を退くことを決めました。江藤新平も西郷隆盛と一緒に中央政府を退きました。大隈重信は板垣・後藤らとともに、いずれまた政治に携わってもらうこともあるだろうから、地元に帰るなんてことはしないようにと江藤新平を慰留したそうです。明治新政府で大久保利通は、西郷隆盛と共に新国家建設を進めようとしましたがり決別してしまいました。


江藤新平が民主主義政治の理想として追求した「三権分立」の道は途絶え、現在に至っても、司法権の独立は実現するに至っておりません。





大久保利通の政治


大久保利通は内務省を設立し、地方制度や警察機構の整備を進めて、殖産興業政策を推し進め日本近代化の礎を築きました。一方で、不平士族の武装蜂起に対しては厳罰をもって対処しました。佐賀の乱では、江藤新平を嫌っていた大久保利通は、まだ行動を起こす前に佐賀に対して追討令を出し、戦いに敗れた江藤新平はまともに裁判を受けられず、首を斬られさらし首とされました。また、その首を写真に撮られ、全国的に流れたと言われています。西郷隆盛も西南戦争で殉死しました。


大久保利通は内務省を設立し、地方制度や警察機構の整備を進めたほか、殖産興業政策を推し進め日本近代化の礎を築いでしたが、不平士族の武装蜂起に対しては厳罰をもって対処したことから、西南戦争の終結後、東京の紀尾井坂において不平士族に暗殺されてしまいました。



大久保利通は西郷隆盛とは幼馴染で、共に藩の改革を目指す志士集団「精忠組」を結成し、明治新政府でも西郷隆盛と共に新国家建設を進めよう考えていました。大久保利通は、私利私欲はなく私財を政治改革に差し出す程清廉潔白で、志の高い人でした。優秀で頭脳明晰、緻密に戦略を練ったり、根回しをしたりして政治を動かすことに長けており、部下には頼りになる存在でした。切れ者の大久保利通で自信家だった大久保には、他藩や幕臣の優秀な人材をまとめていく度量はなかったようです。がありませんでした。大久保利通には、自分にはない情に厚さと人望のある西郷隆盛が必須の存在だったのではないでしょうか。『留守政府』の大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任ら優秀な人材たちに大久保利通が加わり、西郷隆盛がまとめ役をして、志の高いメンバーで議論を尽くして、新国家建設を推進していったなら、大久保、西郷、江藤という有為な人材が次々と命を落とすような日本にとっても不幸なことにはならなかったのではないでしょうか。




岩倉具視と伊藤博文の実績


大久保利通の盟友だった、岩倉具視は、明治初期に何をする者達なのか明確にされなかった華族達に対して華族統制政策を強め組織化をはかり、華族懲戒令を定めるとともに華族の財産の保護に努めました。岩倉具視の頭にあった華族とは欧州型の貴族であってその使命とは皇室を支えることでした。そこで岩倉は強烈な華族統制政策をとるようになった。まず全華族を組織に組み込むため、会館に部長局を設置して自ら督部長となり、出身別に6部に分け各部長を設けるなどして組織化をはかり、華族統制を強め、華族懲戒令を定めて、華族の品位を汚したものは処罰するとともに華族銀行と呼ばれた第十五国立銀行を創設し華族の財産の保護し華族に連帯感を持たせようとしました。さらに宮内省の中に華族局を設け華族の統制の役割を持たせ、政府宮内省の管轄下で華族統制につとめ、帝国議会の貴族院が開財産の保護にもあたった旧武家も旧公家も同質化して国家への役割を定めました。しかし、これで、四民平等の理念は崩れ、華族・貴族という特権階級が固定化することになりました。



伊藤博文はドイツやオーストリアの憲法調査を行い、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手しました。1885年に太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後の初代内閣総理大臣に就任しました。井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたりました。君主大権の強いドイツ型の憲法でしたが立憲主義的憲法理解を示し、1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定しました。憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させたことは伊藤博文の功績でした。


1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任。第2次伊藤内閣では衆議院の第一党だった自由党に接近し、日清戦争では首相とし日清講和条約に調印しました。第3次伊藤内閣を組閣しましたが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(1次大隈内閣)を成立させました。1900年には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開きました。しかし、伊藤博文が軍部を握る山縣有朋らと妥協した結果、軍事統帥権を三権から分離し絶対君主たる天皇の専権事項としたため、文民統治の機能を欠き、天皇および側近のチェク機能が崩れると軍部の暴走を許すという構造的欠陥を内包しており、後に、軍部は統帥権を振りかざして軍国主義化に邁進し軍部大臣現役武官制により内閣(行政権)をも脅かす存在となりました。また、権力者や特権階級の犯罪的行為を裁く司法の独立は潰えました。



日露戦争後の朝鮮・満州の処理問題に尽力し、韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪しました。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されて死亡しました。






伊藤博文の死後の明治政府


伊藤博文の死後三代内閣総理大臣だった先の山縣有朋は「国軍の父」と称され、軍の統制を図りました。彼はのちの総理大臣人事にも発言力のあったキングメーカーとなり、第一次内閣総理大臣桂太郎や第18代内閣総理大臣の寺内正毅は山縣閥の人間であった。そのほか長州からは大村益次郎、井上馨、前原一誠、広沢真臣らがおり、まさに長州藩閥政治といえます。


山縣有朋が軍の基礎を作ったことから、軍部への影響力は大軍の統帥権独立による暴走に繋がったと言われています。山縣有朋は、藩閥政治推進、社会運動弾圧の代表的人物として、「軍国主義者」「帝国主義者」「反動」「ファシスト的」「巨魁山県有朋」などと評価されました。



長州の下級武士から出世した政府の高官のモラルの低さは目に余るようだったようです。伊藤博文ら長州勢が料亭よく集まっていましたが、大蔵大輔の井上馨は秋田の銅山を不正に差し押さえて私腹を肥やそうとするような人物でした。同じ長州の山県有朋は自身のカネ、女や自らの権力行使にわたり悪い噂が絶えることの無かった人物でした。一方、伊藤博文の女好きは有名で、芸者だけでなく、未成年や人妻にも手を出していたとのことです。長州の下級武士から出世した政府の高官のモラルの低さは、その後の政治の利権・金権体質を生んだと言われています。




教育政策


当時の日本には、国家主義的な教育環境の素地があり、これに基づいて教育改革も構築されていった状況が考えられます。この潮流は、1889年の大日本帝国憲法の発布によって鮮明になります。天皇主権の欽定憲法に基づき、教育にかかわる法令は、教育財政制度の他は全て勅令として発せられ、内閣から枢密院の審議を経て天皇により裁可されるという手続きがとられました。1890年、忠君愛国が教育の基本であることが強調した「教育ニ関スル勅語」が発布されました。さらに、紀元節など学校での儀式で勅語を奉読することが定められ、明治政府の教育政策は、国家主義的性格を強めていきました。





西洋化政策による日本文化材の破壊


また明治近代政権によって江戸という時代は「全否定」されました。廃藩置県を機に、江戸時代の城はすべて陸軍省の財産となりましたが、要塞として必要な城は「存城」、不要な城は「廃城」になりました。この時40城余りが存城となりましたが、文化財として保存されず、軍用地確保のために建物を壊したり、石垣や堀を壊したりの扱いでした。廃城処分となった約150城残っていましたが、天守閣は、巨大なため無用の長物と判断され、破壊されるか安い価格で払い下げられました。存城処置となってもその後結局払い下げられた天守閣も多く、現在国宝の松江城、世界遺産でもある姫路城も低価格で買い取られ、江戸時代以前に建設された天守閣が現在も元の姿で残っている城は、弘前城、国宝松本城、国宝犬山城、特別史跡・彦根城跡、国宝姫路城、国宝松江城などわずかしか残っていません。



仏教伝来から既に千四百年近く経っていた明治維新といわれるこの時点に於いて、仏教の影響を受けた文化的、精神的諸要素は、美しい風土を創り上げており、人びとの心に浸み込んでいました。薩長新政権が打ち出した思想政策によって、「廃仏毀釈」という日本文化の破壊活動は仏教施設への無差別、無分別な攻撃、破壊活動は、薩摩、長州という新しい権力者による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動でした。それまで千年以上の永きに亘って「神仏習合」というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきました。「王政復古」により、すべてを大和朝廷時代が本来のあるべき姿であると考え、日本の風土に溶け込んで進化してきた仏教は、宗教としても文化的価値としても徹底的に弾圧されました。興福寺だけで二千体以上の歴史を刻んできた仏像が、破壊されたり、焼かれたりしました。格式を誇った内山永久寺は、徹底的に破壊され尽くされ今やその痕跡さえ見られず、この世から抹殺されてしまいました。日本美術の傑作が失われてしまったことを思うと、明治維新の「王政復古」の名の下に行われた日本史の一大汚点といえます。





参考資料

芳 即正 (), 毛利 敏彦 (編集)「西郷隆盛と大久保利」2004

立石 優 () 「 西郷隆盛と大久保利通 破壊と創造の両雄」(PHP文庫) 2017

佐々木 克 () 「大久保利通と明治維新」1998

家近 良樹 ()  西郷隆盛 維新150年目の真実 (NHK出版新書 536) 2017

原田 伊織『三流の維新 一流の江戸』2017年、ダイヤモンド社

伊藤 之雄()『伊藤博文 近代日本を創った男』2009年、講談社

井上 寿一 ()『明治維新の正体』2019

鈴木 荘一 () 『山県有朋と明治国家』2010

畑中 章宏() 『廃仏毀釈 ――寺院・仏像破壊の真実』2010年、ちくま書店

司馬遼太郎() 「翔ぶが如く」文藝春秋社 2002

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』








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by desire_san | 2011-01-22 01:43 | 日本の旅と文学・映画・ドラマ | Comments(15)
Commented by Histry Deainer at 2018-12-04 14:23
西郷隆盛は岩倉使節団が居ない間に江藤新平による長州追い落としがあり、それに嫌気がさしてノイローゼ。半年で帰ると言っていた岩倉使節団は結局2年に伸び、調整役の様になっていて疲労困憊の西郷隆盛は親友の大久保利通と久しぶりに対面。その時既に朝鮮に西郷隆盛を使節として派遣する事が後1歩の所まで決まっていが、板垣退助は西郷隆盛を派遣すると朝鮮人に殺されるぞと煽りまくっていたので、岩倉使節団が帰ってからと決定を先延ばしにしていた。外遊で、色々と視察して見聞を広めた大久保利通は国内が定まってないのに外国に出兵するなんてあり得ないと西郷隆盛を諭す。西郷隆盛は盟友大久保利通の考えを理解できず失意のまま薩摩に戻り隠居する。それが私の理解です。
Commented by Urtra_histry teller at 2018-12-04 14:27
大久保は薩摩の人は政治に向かないと思って、薩摩以外の人とも積極的になかよくしてましたから。

江藤新平が薩摩、肥前だけで政府を固めてしまおうと長州追い落としをしたのとは大久保は対照的でした。
その江藤新平に担がれて、大久保の追い落としにまで加担させられていたのが西郷隆盛ですから、大久保の気持ちは分からないではないですよ。
Commented by Weat_Histrian at 2018-12-04 14:31
郷隆盛が死んだ後、大久保利通も殺されてしまいました。大久保利通は友を犠牲にしてまで急ぎすぎて、結局のところ、残ったのは、私利私欲にまぎれた長州の山形有朋のような人たち、優秀な大久保利通が西郷隆盛を手放すべきではなかったという考え方もあります。

私利私欲にまみれた政府に絶望して、後世の為に人材育成すべく作ったのが慶應義塾というのはあまりにも有名な話です。

因みに大久保は「うちの国の者は政治には向きません、戦には良いが」と語ったそうです。大久保は西郷が不向きの政治の世界に居る事が西郷の為にならないと考えたのかもしれませんね。
Commented by Quaniteriot at 2018-12-05 14:31
西郷があれだけ民に対して優しかったのに、大久保があれだけ西郷を支えてきたのに、ということでしょう。それならば一口で言えば「明治という産みの苦しみ」だと思います。皆が暗中模索にいるのだから、それ相当の軋轢も生まれたのだと思います。西南戦争で、西郷が「もうここらでよかろうかい」という最期の言葉を吐く時に、本当の西郷の気持ちが分かるような気もします。
Commented by Ai_Dai at 2021-09-12 19:26
戦後政治の見直しに興味を持ち、では明治維新は如何だった興味を持ちました。
尊王攘夷の人たちが明治になって急に尊王開国になったのか?質問したらよく説明なく文明開化に目覚めとはぐらかされた中学の歴史で記憶してます。
その後調べて見ると薩長の志士と呼ばれる方々はほとんど激動の時代に死んでしまい、その次の世代の方が明治に生き残り、運もあり高官となりました。
しかし、実力のなさを認めてたので逆に旧幕臣を用いることにも抵抗なかった。
だから、トップ以外にはいろいろの人材の登用ありました。
ただ、宣伝用として吉田松陰など持ち上げることをしました。吉田松陰が長州で活躍した時期は約2年だし、伊藤博文、山形有朋など松下村塾の端の方にいただけで崇めるほどの薫陶を受けたとは思えません。
自分は将来、明治維新の見直しがあれば戦後歴史の見直し以上に教科書が変わる可能性あると思ってます。
問題提起ありがとうございます。



Commented by Eijin at 2021-09-12 19:28
明治時代を一冊の本で理解するのは、ほぼ不可能です。
主な視点でさえ、以下の項目があげられるかと思います。
和辻哲郎の「鎖国」から読み解く江戸時代。
開国後のアメリカに動き、英国やフランスと薩長の関係に関する分析。
江戸城の無血開城の考察。
日本の海外の査察から浮かび上がる解析。
廃藩置県における藩の経済状況。
不平等条約の背景。
金本位体制からの経済的進路の考察。
天皇と維新政府との関係。
等々…
ましてや明治政府に関わった一人一人に関して考えていかにばなりません。

Commented by Echigo_Taba at 2021-09-12 19:30
歴史はいいねぇ~幕末・明治維新は特に面白い。
歴史は人が作ります・・・動かすのはそれも登場人物のたった2割だけの人間です。個人的に坂本龍馬の盟友・小松帯刀さんも気に入ってますが残念ながら本流ではない。

それと、歴史に入っていくには小説からが多いようです。
私の始まりは小学生の漫画:鞍馬天狗です、勤王の志士だったようですね、洗脳されてますね(爆)

dezireさん まとめていただき、ありがとうございました。




Commented by Eijin at 2021-09-12 19:33
「明治維新」を理解するうえで、一部分に限って考察するという方法もあります。
そして各分野から考えてみる、と言う事です。

例えば、
大学時代に「結婚」岩波新書・絶版 (川島 武宜)を読んで、この本の中に
(教育/天皇制/家族制度/教育勅語)の様々な取り組み、考え方、歴史的意味、その意図を読み解きました。

このように制度、取り向く姿勢、現状など、
複雑に絡み合っているので、じっくりと説き組まれた方が良いかと思います。



Commented by Barbarossa at 2021-09-14 13:06
廃藩置県の前に似たような構想で郡県制があって、それを提案したのはなんと小栗忠順。ちなみに当時反対派の一番手は長州藩。構想をパクったかどうかはわかりませんが、小栗の先見性がわかる一端ですね。


Commented by dezire at 2021-09-14 13:07
本来なら、新政府に小栗忠順、勝海舟のような優秀な幕臣を活用すべきだったように思います。江藤新平は、優秀な幕臣を活用しようとしましたが、大久保利通や長州勢から、強く反発されたようです。はじめから薩長藩閥政治ありき、だったような気がします。
Commented by Eito at 2021-09-14 19:46
この日本を理解するためには、その歴史、大きな起点を見定めなければ不可能と感じています。
日本の歴史の多いき起点の二つ目は第二次世界大戦の終了だっと思っています。
この事により、視点、文化、生活が一変したとおもっています。

これは二つ目であって、最初ではない。
一つ目から繋がっての起点であると考えています。
この一つ目が明治維新だと思っているんです。

文化の関係では
「裸はいつから恥ずかしくなったのか」中野明・著
「盆踊り 乱交の民俗学」作品社・刊
を読むと、価値観が江戸期と明治期では180どに一変しているのが分かります。

または「歌舞伎」は江戸期の内容で止まっていて変化できなくなっている、と感じています。

この大変化(明治維新)で、何が(文化・制度機構…)、どうして、どう変化させられたのか
詳しく知りたいと思っているだけです。

Commented by Eivito at 2021-09-15 15:06

「明治維新」が民主主義革命に至らなかったことを考えると、「明治維新」は権力者が変わっただけで、日本の利権、金権体質は変わらなかったとすれば、国民生活を著しく変化させたという視点からすれば、より大きな分岐点は「ペリーによる日本開国」だったかもしれないとも考えられます。

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お考えは、良く分かりました。
それに異議はありません。

それはそれで、
私は、そうならざるならざるを得なかったのではないか、と見ています。

>より大きな分岐点は「ペリーによる日本開国」だったかもしれないとも考えられます。

まず、この事ですが、アメリカは、明らかに日本に手を伸ばそうとしたはずです。
ところが出来ませんでした。それどころではなくなります。
南北戦争が起きたからです。

アメリカが手をだしたのを見た諸外国は直接に手を出すとアメリカとの関係を悪化すると見たのでは。
だから討幕派と幕府派に分かれて内乱状態にしようと画策した節が見られます。
内乱に乗じて制覇しようとした目論見を感じるんです。
その結果は無血開城という形でとん挫する。

外には「帝国主義」の国がゴロゴロしている。
中は統一感がない。


ここで江戸時代を考えます。
江戸時代は「近世」とする意味を押さえたいと思います。
一般的には「古代」「中世」「近代」「現代」に区分されています。
江戸時代は、そのいずれにも当てはまません。
世界的に類を見ない完成度の高い「封建国家」だからです。
この「近世」は250余年も続く一大時代です。
そして、この時代が日本人(農民も政治家もすべての国民)の精神を形作ったと見ています。

マルクス的な歴史観は「科学的」と訴えますが
これに異を唱えたのがマックス・ウエーバーです。
「プロテスタントの倫理と資本主義の倫理」が、それです。
同じように「近世」は歴史的にマルクスの歴史観を打ち砕いています。

Commented by Eijin at 2021-09-15 15:08
明治期に話をもどせば、
各藩が孤立した「荘園」とするならば
それを解体することによって市民革命で資本主義に移行すると考える人もいます。
だが、これはかなり無理があります。

動いたのは「市民」ではなく「下級武士」だったからです。
とにかく統一しなければならないので、火急的速やかに事を運ばなければならない。
なりふり構わずに行った結果が書いておられる現実になったのではないか、と見ています。
「廃藩置県」が混乱なく出来たのは、各藩とも経済的にかなり疲弊していたという理由が隠れていたと、読んだ事があります。
開国の条件は整っていたと言えるかと思います。




Commented by Wigh_Rezo at 2021-09-15 15:09
私も歴史でも政治でもそうですが、一元的に考えるのは危険だと思います。
しかし、昔も今も政治的支配者は、自分が都合の良いように一元的に考える傾向があります。
それだけでなく、自らの政治権力で、マスコミも教育も一元化しようとします。
これが、多くの歴史的誤りを生みます。

マルクス主義の理論は「科学的」ですが、彼は志の高い天才なので「人間の我欲とエゴ」を読み切れなかったので理想像を描くところまでだだったのでしょう。
マックス・ウエーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の思想は、経済のグローバル化と新自由主義の社会ととなり、「勝ち組・負け組」,「競争社会」,「成果主義」の社会で、ヴェーバー自身「専門家が,その専門分野での分析視角からすれば簡単には思いつかないような問題設定を提供するのがせいぜいである」と苦悩を述べています。私は一読しただけでで議論に足るお話は出来ませんが、マルクスもヴェーバーも、改革を志す人は読んでおくべきだと思っています。

問題は、一世紀以上過ぎた歴史については様々な論考ありますが、直面する問題、例えば「コロナ禍」に対しては、専門家の意見や他国の成功例があるにもかかわらず、本質的な議論は封じられ、感染爆発、医療崩壊に至ってしまう、過去の歴史に対する反省もなく「コロナ敗戦国」になってしまう日本の風土を、日本全体で論じなければ、民主主義後進国から脱皮することは出来ないのではないでしょうか。


Commented by KATUMI_ENDO at 2022-02-05 16:02
渋沢栄一の歴史のご紹介ありがとうございました。

明治政府は近代資本主義経済国家の建設が目標だったので、を経済界に尽くした功績は大きいと思います。半面日本社会に富の偏重・貧富の差を生んだ原因を作ったと言えます。

渋沢だけではありませんが、伊藤博文、井上薫に政治資金を提供し、彼らから利権を得て事業を進めた点で、今の利権政治の父とも言えます。富国強兵政策に貢献したことは、朝鮮の非人道的支配、更には中国への侵略戦争の礎となっているとも言えます。

また渋沢は仕事ぶりは真面目であるが、無類の女好きで妻以外に二人の女性(一人は愛人、もう一人は後に離婚・再婚し後妻になった。)との間に子供が七人(全員で10人)、庶子を合わせると子どもは20人くらいになり、財産目当てで「渋沢の子供」と名乗り出られても、渋沢には真偽が解らなかったほどでした。

「晴天をつけ」で渋沢栄一の功績を見直すことは否定しませんが、日本のお札の最高額の一万円札の肖像に使うことは、西欧など世界からも批判の声が上がっています。
渋沢栄一は、千円札がいいところです。今の三人から一番尊敬できる人物を選ぶなら、北里柴三郎さん、女性重視をアピールしたいなら津田梅子さん、渋沢栄一を一万円札の肖像に押したのは安倍晋三氏だそうですが、先進国では例のない失態、と言われても仕方ないと思いますね。