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芸術と自然の美を巡る旅  

ジョットによる「聖フランチェスコの生涯」

聖フランチェスコ聖堂  (アッシジ)

Basilica of SanFrancesco d'Assisi

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 アッシジの市壁の内部にある旧市街の西側に壮麗なゴシック建築「聖フランチェスコ聖堂」があります。この教会の前の前の広場にはいくつもアーチの続く回廊がめぐらされ、この街の雰囲気を感じさせます。上部教会は、高い天井から光が満ちた空間で、翼廊にはチマブーエの「磔刑図」、身廊の上部には、ステンドグラスの間に「旧約聖書」と「新約聖書」のフレスコ画が展開しています。壁面下部には、ジョットにより「聖フランチェスコの生涯」が描かれています。





ThePapal Basilica of St. Francis of Assisi is the mother church of the RomanCatholic Order of Friars Minor—commonly known as the Franciscan Order—inAssisi, Italy, the city where St. Francis was born and died. The basilica isone of the most important places of Christian pilgrimage in Italy. With itsaccompanying friary, Sacro Convento, the basilica is a distinctive landmark tothose approaching Assisi. It has been a UNESCO World Heritage Site since 2000





 ジョットのフレスコ画は上堂の入り口を入って右奥から始まり、左右それぞれ4面の壁のそれぞれの面に3場面が描かれます。第1場面から第12場面までが、入り口から見て右の壁に、第17場面から第28場面までが左の壁になり、第13場面から第16場面までの4場面は、入り口の壁に描かれています。




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 ジョットの作品は中心の場面に自然物を配して奥行きをだし、人物の動きや姿勢、表情などが生き生きと表現されています。ジョットの新しい試みはルネサンスの絵画表現の出発点となりました。そこに描かれた鳥に説教するなどの作品はこの聖人のイメージをイタリア全土に広めました。以下ジョットの作品を見ながら、「聖フランチェスコの生涯」をたどっていきたいと思います。




Hadwritten a detail life of saint named Francesco. Giotto seems to have beensympathetic to the life of St. Francis. "St. Francis to break with theFather", "Saint Francis to preach to the birds", such as"St. Francis to receive the stigmata", has left many works thatreflect the life of St. Francis, mural of Giotto in the St. Francis Church Ifelt as it often has been left.




 アッシジのフランチェスコは、フランチェスコ会の創設者で、裸のキリストに裸でしたがうことを求め、悔悛と「神の国」を説いた中世イタリアデ最も重要な聖人デ、カトリック教会で崇敬されており、「シエナのカタリナ」とともにイタリアの守護聖人となっています。





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 アッシジのフランチェスコは存命中から聖人視されていたため、 多くの伝説が残されています。フランチェスコの青年時代は気前の良い散財家で、享楽的な生活を送っていたそうです。隣町のペルージャと、逃亡していた貴族たちがアッシジに戦争を仕掛け、フランチェスコも参加しましたがアッシジは敗北しペルージャの牢獄に捕虜として過ごした後に釈放されました。フランチェスコは出征する騎士に同行を申し出ましたが、このとき彼が神の声を聞いたとされています。



St.Francis seems to live a tremendous life. It seems born to a wealthy merchant,but was a clean break with his father in after it took to heavy illness, itseems went into the life of poverty in accordance with the teachings of theGospel. And "was lightly dressed of as much as possible, first, sleep asmuch as possible sleeps not to spent. Bed, sleeping in the soil and rocks"it seems to have been living like. St. Francis is that it would because oftormented myself had strong feelings for human existence to date about thiscommentator had introduced. The characteristic of the work of Giotto, like thepersonality of St. Francis, to be like that is in the representation of thestrong look and feelings toward the human existence had been written.





「着物を返すフランチェスコ」(ジョット、1305年頃)



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 彼は回心して着ていたものを全部脱いで父に返し、世俗とのきずなを完全に絶って出家しました。フランチェスコがどのように神の道に生きることを決めたかは聖人伝が様々なことを伝えていますが、フランチェスコの回心は数年間の長い過程を経て描かれています。


 ペルージャの捕虜時代の大病が快癒して外に出た時、素直に自然の美しさを感じるようになった自分を発見し、放埓な生活に空しさを感じ、洞窟などに籠って祈りや瞑想を行うようになりました。あるとき、ハンセン氏病患者近づき、抱擁して接吻すると、それまでの恐れが喜びに変わり、それ以来は病人へ奉仕を行うようになりました。ローマに巡礼に出かけて、ホームレスたちに金銭をばらまき衣服を取り換えて、ホームレスの群れの中で過ごしたという伝記もあります。


 アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたとき、磔のキリスト像から「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞き、サン・ダミアノ教会から始め数々の教会を修復していきました。司教の前で父子が価値観の違いで対立したとき、フランチェスコは自分にとっての父は「天の父」だけだとし親子の縁を切りました。


 出家したフランチェスコは、ハンセン氏病患者への奉仕を行い、 森を放浪し、サン・ダミアノ教会やポルツィウンクラの小聖堂近くに住みました。このポルツィウンクラの地は後のフランシスコ会にとり重要な地となります。日々の食事は、様々な肉体労働もしくは托鉢で得、同時期のドミニコ会と共に「托鉢修道会」と呼ばれました。活動の指針を与えたのは福音書に書かれた、キリストや弟子たちの行動で、「神の国は近づいたと伝えなさい。あなた方がただで受けとったものは、ただで与えなさい・・・」というイエスが弟子たちを送り出した時の言葉にフランチェスコは共感しました。フランチェスコは履物を脱いで裸足となり、縄を腰に巻きました。福音書でイエスが命じるまま実行し、イエスの生活を模倣することがフランチェスコの生活となっていました。




 フランチェスコが宣教を始めたのは1208年、ラテン語ではなく、日常語のイタリア語で聖書の教え、悔い改めて神の道に生きよと説きました。歌や音楽も利用して、巧みな説話で人々の心を捉えたと言われています。芸能的要素を伝道に取り入れたことから、「神の道化師」ともました。






「肩でラテラノ大聖堂を支えるフランチェスコ」(ジョット、1305年頃



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 富裕な商人の子弟であったフランチェスコのそうした活動は多くの市民の侮蔑の対象とりました。しかし、その態度に共鳴してフランチェスコと行動を共にする市民が現れ始め、アッシジの裕福貴族ベルナルドも出家の決心と、自分の資産を貧しい人に分け与えてフランチェスコと共に生活を始めました。この後エジディオ、法律家で聖堂参事会員だったピエトロ・カッター二、司祭のシルベストロなどもフランチェスコは仲間に加わっていきました。彼らはフランチェスコも含めお互いを兄弟と呼び合い、二人一組となってイタリア各地に宣教の旅を行い、新たな仲間を増やしていきました。彼らは自らの集団を「小さき兄弟団」と名乗るようになり、これが現在でもフランシスコ会の正式名称です。




 1210年、仲間の数が12人になった「小さき兄弟団」はローマに向かい、教皇イノケンティウス3世に謁見し、活動の許可を求めました。当時の聖職者や修道士は托鉢を禁止されており、修道院の中で祈りと瞑想に身も心を捧げるこれまでの修道会と、「小さき兄弟団」は性格を異にしていました。清貧の実践、托鉢や宣教活動は、当時の教皇庁を悩ませて異端として弾圧した「リヨンの貧者」などとも共通する面あり、やせ細って、汚れたぼろを纏った兄弟団を見たとき、教皇は不快に感じたと伝えられています。何度謁見した後、口頭ではあったが、「小さき兄弟団の活動に認可を与えました。聖人伝によると、教皇は夢の中で傾いたラテラノ聖堂を一人で支えた男がフランチェスコであると悟ったからだと伝えています。


 フランチェスコは福音書に書かれた生活を素朴に実践することだけを考え、その認可を求めたものと推測されます。フランチェスコはポルチウンクラの小聖堂を借り受け、ここを拠点にして規模が拡大していきました。ヨーロッパ中から入会希望者が集まり、1219年の総会には5000人が集まったという史料もあります。フランチェスコは人々からの崇敬を集めるようになっていき、多くの聖人と同様にフランチェスコにまつわる奇跡譚が語られるようになりました。鳥に向かって説教を行った話、うさぎ、魚、水鳥、蝉、コウロギを相手に話をしたと伝説などがあります。





女子修道会の第二会は、1212年にキアラ(クララ)が家を出てフランチェスコの活動に加わったことを起点とするが、その会則が教皇から認可を受けるのは1253年になってからで、フランチェスコの没後27年、キアラが死ぬ僅か2日前のことである。たが、今日ではクララ会と呼ばれている。





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 アッシジのキアラ(シモーネ・マルティーニ、1322年–1326年)




女性もこの新しい運動に加わりました。アッシジの貴族の娘であるキアラ(クララは、フランチェスコの考えに共鳴して家を出て、フランチェスコによる剃髪の後、近隣の女子修道院に身を寄せて清貧の生活を送りながら手仕事で生計を立て、病人などへの奉仕活動に身を捧げました。これに共鳴し、キアラの下に女性達は手仕事で生計を立てて、病人の世話などを行い「貧しき貴婦人たち」と呼ばれました。これが後にクララ会と呼ばれたフランシスコ会第二会(女子修道会)の始まりです。



 フランチェスコはイスラム世界への宣教にも意欲をもっていました。十字軍の行為に幻滅し、イスラム陣営に乗り込んでスルタンと会見しキリスト教への改宗を迫りました。神の庇護があるかを競おうとフランチェスコはイスラム法学者との対決を望み神明裁判を行ったという言い伝えもあります。




会則問題と隠棲

 フランチェスコが不在の間に厳しい規律を緩和しようとする動きや兄弟団が寄進された建物に定住あり、アッシジ市が寄贈した建物の建設もあり、それらはチェスコにとっては容認ことでした。国を越えて信者を増やしていた小さき兄弟団は組織化を必要との円滑な運営しフランチェスコの求める規律は厳しすぎると感じていました。フランチェスコの死後、「穏健派」と「厳格派」の対立の萌芽が現れていたのです。フランチェスコは兄弟団内部の調整を試みますが、事態は行き詰りました。フランチェスコは雛が多すぎて翼の下に置ききれない雌鶏の夢を見、自分の能力を越えたところまで兄弟団が成長したことを悟ります。フランチェスコは、1220年に兄弟団の総長職を古くからの同志であるカッターニに譲り、精神的指導者として隠遁生活に入りました。フランチェスコはフォンテコロンボの隠所にひきこもり、兄弟団の後見人であるウゴリノ枢機卿の助言も受けながら、大幅な妥協を強いられて会則を書き直し、教皇に提出し承認されました。これ以後、フランチェスコは初期の同志数人と共に森や洞窟で祈りと観想に日々を過ごしました。この時期、クリスマスの日、厩舎や飼葉桶を設えた上で雄牛やロバを連れてきてミサを行ない、フランチェスコが赤ん坊を抱き上げる姿を見たというエピソードがあり、世界中のカトリック教会では今日に至るまで、クリスマスになると聖堂内に厩舎の模型を設えています。





「聖痕を受けるフランチェスコ」(画:ジョット、1325年)

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1224年ラヴェルナ山中で六翼の天使から聖痕を受けたとされていいます。聖痕とは、十字架刑に処せられたキリストの5か所の傷と同じものが身体に現れたと言い、キリストの模倣を徹底させようとしたフランチェスコの高い精神的境地を象徴する奇跡とされています。



聖痕を受けた後フランチェスコは再び各地を回り始めるが、身体が弱り頭痛に悩まされ目はほとんど見えなくなり、キアラの看病を受けました。フランチェスコの代表作『あらゆる被造物の賛歌』この時期に作られました。フランチェスコは教皇の医師団の診察を受けたが病状は回復しませんでした。死期を悟った彼は活動の原点だったポルチウンクラへの帰還を希望しました。聖人の評判が高いフランチェスコの聖遺骸を切望する都市が多かったため、アッシジから軍隊に護送されてフランチェスコは故郷に帰り、1226年の103日に『太陽の賛歌』の斉唱と『ヨハネ福音書』の受難の箇所の朗読が行われるなか、フランチェスコは地面に敷いた苦行衣の上に裸で横たわって息を引き取りました。遺骸はアッシジに運ばれキアラたちの最後の別れを受け、サン・ジョルジュ教会に葬られました。フランチェスコを庇護して助言を与えていたウゴリーノ枢機卿のグレゴリウス9世の計らいで、フランシスコの列聖が宣言され、1230年に建てられた壮麗なサン=フランシスコ大聖堂の地下に移葬されました。



 フランチェスコの思想を表すものとして「被造物の讃歌」(太陽の讃歌)があります。「もの皆こぞりて御神を讃えよ、光のはらから(同胞)なる日を讃えよ」そこでは太陽・月・風・水・火・空気・大地を「兄弟姉妹」として主への讃美に参加させ、死までも「姉妹なる死」として迎えました。フランチェスコ自身の内部では、清貧と自由と神の摂理とが分かちがたく結びついており、この三者が調和してこそ、簡素で自然で純朴な、明るい生活を営むことができるのです。フランチェスコは西洋人としては珍しいほど自然と一体化した聖人として、国や宗派を超えて世界中の人から敬慕されています。



 ただ神を讃美し、小鳥やオオカミなどをふくむ神のあらゆる被造物を自分の兄弟姉妹のように愛し、福音を伝え、単純と謙譲の道を歩む。フランチェスコは、ウサギ、セミ、キジ、ハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれます。



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魚に説教を試み、オオカミを回心させた伝説が知られ、とくに小鳥に説教した話は有名です。『聖フランチェスコの小さい花』などにも小鳥を相手に説教したという逸話が数多く伝えられています。万物兄弟の思想とエコロジーの聖者として、現代社会にも重要な価値観だと思います。そのため、ヨハネ・パウロ2世は、1980年、フランチェスコを「自然環境保護(エコロジー)の聖人」に指定しました。またアメリカ合衆国カリフォルニア州を発祥の地として「アッシジのフランチェスコに帰れ」を唱えたヒッピーのムーブメントが世界的な広がりをみせました、歴史学者のリン・ホワイト・ジュニアは、1968年『機械と神』で、生態系の破壊に先立つ「地球の危機」を指摘し、その解決法を暗示するものの一つとしてフランチェスコの精神へ立ち戻ることを提起しています。


 ジョットの浮き彫り的な空間表現や、内面に迫る心理描写など革新的な様式を確立した画家ジョットの「革新的な表現」も、人物の個性を表すところまでは行ってないんだが、イエス誕生の場面の父ヨセフだけは、憮然とした様子なのがおもしろいです。



 「 画家は自然に対して多くを負うている。自然のなかから一番良いところ、一番美しいところを取り出して、たえず自然の模写と再生につとめる画家たちに対して、自然はいつも模範の役割を果たしてくれる。画家たちがこのように自然に従うようになったのは、私見では、フィレンツェの画家ジョットのおかげであると思われる。その理由は、戦乱のために長い間正しい絵画の規則や技法が忘れられてしまっていたとき、凡庸な同時代の画家のなかにありながら、ひとり、ジョットが、天賦の才によって、良好と呼び得る状態にまで持ちあげてくれたからである。」



実物写生という法は、過去二百年ほどの間はすっかりすたれていたが、ジョットはその画風を再興し、近代的なすぐれた絵画を復活させたのであり、その方法にかけては、前にも述べたように、誰ひとりジョットに匹敵するほど見事な絵を描くことはできなかった。

 「絵画という忘れ去られていた芸術を確かな見事な手つきで復活したのはこの私である。自然に欠けているもの以外に私の芸術に欠けているものはなにもない。 私よりも見事に、私よりも多くを描いた人はない。あの青空に鳴りわたるすばらしい鐘楼を君は讃えるが、あの塔も、私の設計によって、大空にそびえたのだ。」

ジョットの場合、建築的要素を生かした背景に、人物表現はと言うと、もっとずんぐりむっくりで男女ともにもっと男性的。かつ、人々や聖人たちの服装はみな、無地で胸や袖口などに金色で模様(つまり刺繍)がほどこされている程度。聖なる場面の背後を飾る布や、祭壇にかけられた布には細かい模様が入っているが、聖母であろうが誰であろうが、纏っているのはみな無地の生地。これはこれで、背景から人物をはっきりと浮き立たせる効果を出しているのだが、ともかく、その意向に大きな違いがあるのは明らか。





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 フランシスコ会士、より徹底した従順・清貧・貞潔に生き、貧しさを礼賛し、物質的な豊かさだけでなく、精神的、知的な豊かささえも認めませんでした。清貧と平和の思想は共通していますが、学問や理論の重要性を認めたドミニコ会との明確な違いもあります。フランチェスコは「心貧しいことこそ神の御心にかなう」と主張し、修道士に学問や書籍は不要と喝破しています。フランチェスコはまた、人間にとって本当に必要なものは愛と平和だけであり、それ以外のものはすべて不要だと主張し、清貧の思想は彼の平和主義と結びついていました。キリスト教とイスラムの宗教対立の時代、キリスト教世界が十字軍の熱狂の時代に対立する陣営に自らの思想を説きに出かけています。一方「万物兄弟の思想」は、托鉢修道士同士が互いに兄弟と呼び合う関係を生み出した。



「フランシスコの平和の祈り」と呼ばれる祈祷文は、マザー・テレサやヨハネ・パウロ2世、マーガレット・サッチャーなど著名な宗教家や政治家が公共の場で引用し、聴衆と共に朗誦されています。博愛と寛容の精神を逆説で説く内容はフランチェスコの精神をよく表現しており多くの人々に愛唱されています。




参考文献

キアーラ・フルゴーニ (), 三森のぞみ (翻訳)「アッシジのフランチェスコ」 2004/11/25








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Giotto ジョット『聖フランチェスコの生涯』 アートギャラリー 

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by desire_san | 2014-12-29 22:08 | イタリア・ルネサンス美術の旅 | Comments(7)
Commented by tkomakusa1t at 2014-12-26 08:00
お椀を伏せたような山にたくさんの家がありますね。
素敵な路地がたくさんあり建物も煉瓦だったり
石だったりで二本の風景とは全く違いますね。
初めて聞く街の名前ばかりでいろいろな国の事をご存知ですね。ツア-でしか行ったことがないのでありきたりの
街しか行ったことがないので、とても新鮮です。
Commented by Ich at 2014-12-26 21:42 x
こんにちは^^ 聖フランチェスコの生涯を拝読し大変参考になりました。ジヨットの絵も良いですねー。清貧、自由、神の思想、このことによって簡素で自然で純朴な明るい生活が営むことが出来る、と。聖人と言われる人間に圧倒されます。
Commented by desire_san at 2014-12-27 12:23
Ichさん、コメント゜ありがとうございます。
聖フランチェスコは中世にイエス・キリストの再来といわれた方で、その生涯をイエス・キリストの本来の思想の布教に捧げました。私もアッシジに行くと言うので、初めて聖フランチェスコの勉強をしましたが、感動しました。新しいところではマザー・テレサの本も読みました加勢、この方もイエス・キリストの再来といえる方だったように思えます。
Commented by blues_rock at 2017-04-05 16:00
ブログを拝見していたらアッシジの記事を拝見して懐かしく訪ねた時のことを思い出しました。
もうかれこれ20年あまり前のことになりますが、大晦日から元日にかけて確か二泊三日滞在したように記憶しています。
ウンブリア山中にある石造りの小さな町(古都)でフランチェスコ教会とジヨットのフレスコ画、キアラ像など、今でも鮮明に懐い出します。
大晦日の深夜、氷点下のシンシンと底冷えする広場に集まった若者たちが、何やら楽しそうに合唱していているのを一人で眺めていました。
もう一度、今度は、ロングステイしたい静謐な町でした。

Commented by desire_san at 2017-04-06 04:50
blues_rockさん、コメントありがとうございます。
私がアッシジに行ったのは数年前でしたが、清貧な生活で神を信仰する道を唱えた聖フランチェスコの町とは思えないほど、フランチェスコ.大聖堂は豪華なのに驚きました。フランチェスコ.の教えに共感し時世たちに清貧な生活を指導したアキラの功績を絶称えて作られたアキラ聖堂も驚くほど立派で豪華な建物でした。アッシジはすっかり観光地化して、毎日早朝から夜中まで観光客でにぎわってたいました。私の目的はフランチェスコ.大聖堂のジヨットのフレスコ画やシモーネ・マルティーニの壁画を見ることでしたのでルネサンス美術の町としては大変満足できました。

Commented by heart_Maria at 2019-06-12 00:31 x
歴史や絵画は全くの門外漢なのですが、確か森の動物たちが集まってこの人の説教を聞いたという逸話があったような気がします。
 昔、この人を題材にした「ブラザーサン・シスタームーン」という映画がありました。
この地域の、それまでの形式ばって堅苦しい教会は閑古鳥が鳴いているのに、フランチェスコのたてたおんぼろ教会は生き生きとして大勢の人が集まっている、そんなシーンが思い出されます。
Commented by ueder_Janmel at 2019-06-12 00:33 x
歴史や絵画は全くの門外漢なのですが、確か森の動物たちが集まってこの人の説教を聞いたという逸話があったような気がします。
 昔、この人を題材にした「ブラザーサン・シスタームーン」という映画がありました。
この地域の、それまでの形式ばって堅苦しい教会は閑古鳥が鳴いているのに、フランチェスコのたてたおんぼろ教会は生き生きとして大勢の人が集まっている、そんなシーンが思い出されます。

by desire_san