ブルックナーが最後に渾身の力をこめて作曲した交響曲の大集成
Anton Josef Bruckner“Symphony No. 9”
ブルックナーの交響曲第9番ニ短調(は、アントン・ブルックナーが作曲した最後の交響曲で亡くなる4年前に初演されました。 旋律、和声も調性、新しい世界を展開しており、ブルックナーの交響曲の集大成とも評価されています。
ブルックナーは30代で伝統的な音楽理論(和声法・対位法)をマスターし1855年にリンツ大聖堂のオルガニストになりました。しかし1864年ワーグナーの「タンホイザー」に強い感銘を受け、当時の進歩的な音楽の和声法と管弦楽法とヴァーグナーの斬新で大胆な音楽的側面を学び、従来の伝統的な和声の禁則を犯すことに対する免罪符を得ます。後期ロマン派の保守派に属するブルックナーですが、その後ますます後期ロマン派でも急進派に属するワーグナーに傾倒して行きます。
ブルックナーは、自然や美しいものを愛する気持ちが強く、生涯独身でしたが美少女を崇拝している面があり、少女にその場で求婚してしまうような結婚願望を持ち、流行とは無縁で服装には無頓着、生活の不安に対する強迫観念、謙虚さと卑屈とも思えるへりくだった態度と世俗的側面を持っていたようです。一時は深刻な神経衰弱に陥り、死への異常な関心を持ち、敵意に満ちた批評で劣等感から意気消沈して、音楽活動に疑念を抱いてしまうこともあったそうです。このような世俗的な態度と素朴で閉鎖的な性格が、カトリック教徒としての自信や誇りを終生持つことで精神的に支えられ、敬虔なカトリック信仰を人格の基本にもち、人生の神秘性と宗教性を見つめた作品が生み出したとも言えます。常に前衛的で世俗を超越した隠遁者であったヴァーグナーとの大きな違いは、ブルックナーは終世19世紀的人間であり、習得した音楽理論の知識と実践でカトリック信仰の中で独自の世界を構築したことだと思います。ブルックナーは、1868年にウィーン音楽院教授となり、オルガニストとしてヨーロッパで活躍しながら、長編の交響曲をはじめ、いくつかの宗教曲を作曲し、1896年交響曲第9番を作曲し72年の生涯を閉じました。
ブルックナーは急進派ワーグナーを崇拝しながらも、保守的であり古典派的な作風の性格を根持っています。一方で現実とはかけ離れた神話と戯れている面があります。暗黙のうち神話を共有し、現実のブルックナーの音楽の響きに従っていると、神話は無傷で温存され、葛藤や不安に襲われることはなく安心した世界に浸れます。しかしこれは聴き手の心理状態によるのかも知れませんが、現実に音楽の響きを聴いているある瞬間に、ブルックナーの音楽は、たえず変容せよと語りかけるように様々に違って聴こえてくることがあります。ブルックナーの音楽は、それを聴く人の心にある種の緊張を強いてくるのです。そこに留まっていることを許さず、変貌していくことを強いるのはワーグナーに共通するものかもしれません。自分の殻から飛び出し、ブルックナーの神話の世界で音楽に導かれるまま自由に遊んでみることが現実世界とは離れた神話と戯れ、ブルックナーの音楽の響きを楽しむことのように思えてくるのです。
交響曲第9番は1987年8月12日に作曲を開始し、度重なる発病と闘いながら、死の直前まで衰えない創作力で終楽章を完成させるべく力を振り絞りましたが、コーダ直前まで多くの草稿を残しながらも未完に終わりました。第8交響曲での調性の扱いを大胆に発展させ、旋律も音程の飛躍が大胆になり、和声も漠然とした調性の中で動くという、新しい世界を展開しています。ブルックナーが亡くなる4年前に初演された作品で、ブルックナーの交響曲の集大成という評価もあります。
第1楽章:
冒頭からこの世のものとは思えない響きに包まれます。第1主題群はホルンによる激情的な導入主題、全能の神を象徴するような全楽器による強烈な各パートが同一の音を演奏、生演奏でなくては聴けない壮麗な音の響きが心の底まで響き渡ります。温かく穏やかな第2主題は心が温まり優しい名すら儀を感じます。そして第3主題、神秘的な短調の深遠な揺らぎを経て、3つの主題群が幾重にも組み合わされた展開部と再現部と音楽が拡大していきます。寂しげな賛美歌のような音楽を経て、強烈な終結部に向かって拡大して行き、最後は宇宙の拡がっていくような壮大に楽章を終える。この解放感は生演奏ならではのものです。
第2楽章:
短調の速い三拍子の躍動的な生き生きとした音楽ですが、何か不安定な響きも含まれます。優美で舞曲的な旋律を経て、また冒頭の強烈な主題がよみがえってきます。中間部は、早いテンポで快活なリズムにのっておどけているともいえる音楽が繰り広げられ、途中で感傷的な旋律を経て快活なリズムに戻り、またスケルツォがくりかえされます。ブルックナー特有の全楽器の休止があったようだったが、演奏全体が滑らかで濃密に音楽が展開していたので、音楽は休んでいるという感じは全くありませんでした。全体に躍動的で最後は音楽がホール全体に響き渡りました。
第3楽章:
荘厳で崇高な音楽で、ヴァーグナーテューバが深く豊かな音楽を聴かせます。第1ヴァイオリンによる跳躍で生気のある音楽が始まり、ヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の冒頭のような半音階和声が大胆に進み、金管がまるで動物が吠えているように神秘的な音楽を展開し、ブルックナーが「生への決別」と呼んだホルンとヴァーグナーテューバによる讃美歌のような動機が登場するのが印象的です。第2主題の柔らかく内省的な音楽もすごく美しいです。長い安らぎの様に美しい旋律が展開された後、今までの主題が浄化されより緻密になって輝きを取り戻し、第2主題群が拡大されて密度も濃くなっていき、繊細で神秘的な楽園を思わせる旋律の拡がり劇的に進みます。ミサ曲の動機を感じさせる壮麗な音楽が響き渡り、終結部は、愛と至福に満ちたホ長調の響きで静かに音楽が終わります。
荘厳で甘美な響きに包まれるブルックナーの最後の交響曲は、柔らかな音色からはじまり、自然の悠大な風景のような、ゆったりとした旋律から、力強く生命力溢れる曲調へ。最終章の楽譜には「愛する神に捧げる」と記されており、神秘的で輝かしいファンファーレが印象的です。
ブルックナー最後の交響曲第9番は、この世界というより宇宙そのもののような印象です。遠い宇宙の果てに一瞬にしてワープしたような気分になりました。第1楽章の導入部は正にカオスの中に生れた宇宙のビッグバンで、宇宙の鳴動のような第2楽章を経て、第3楽章アダージョの終結部のカタルシスが過ぎ去ったあとに訪れる静寂は、天国、あるいは全てが「無」に帰ってしまったような印象があります。この曲は音楽が厳し過ぎて、愉しむという感じではないですが、真摯に向きあった時には不思議な感動を覚えました。
今回は、神奈川フィルハーモニー第305回定期演奏会で、「この世のものとは思えない彼岸の響きで満たされた未完の大作」といわれるブルックナー最後の交響曲第9番を主席客演指揮者ゲッツェルさんの指揮で聴きました。その前に演奏された曲は、明るく温かで華やかさもあるコルンゴルトの組曲「シュトラウシーナ」とソプラノにチーデム・ソヤルスランさんを迎えてのR・シュトラウスの心が安らぐ「4つの最後の歌」で、リラックスした気分でブルックナー最後の交響曲に望めました。
ゲッツェル指揮・神奈川フィルの演奏は、オーケストラに一体感がある上を良く響き、心地よい演奏でした。最終楽章の終末観は、バッハの宗教音楽をよく聴いているので、ブルックナーのこの曲の演奏と比較するのは酷な話かも知れませんが、すこし淡白な感じがしました。ただこれがブルックナーのたどり着いた至福の世界だということであれば、納得できる心地良い余韻があって良かったと思いました。
(2015.1.24 横浜みなとみらいホール)
参考
ブルックナーの交響曲第9番ニ短調(は、アントン・ブルックナーが作曲した最後の交響曲です。ブルックナーが他界した際に完成していたのは第3楽章までであり、最後の第4楽章は未完成のまま残されました。実際の演奏では、実演・録音とも、完成している第3楽章までで演奏されることがほとんどです。ブルックナーの交響曲第9番は3楽章まで完成して未完となった作品ですが、25分近くに及ぶ第3楽章の最後の余韻を聴くと、この後に何も付け加えないほうが良い気もします。
ブルックナーは、この9番が完成しなかったら、ブルックナーの宗教音楽で祈りの感覚で、強い歓び、光輝くような崇高な合唱曲『テ・デウム』を第四楽章に充てて、締めくくるようにと話したこともあったそうです。ベートーヴェンの「第九」のように、合唱付きのフィナーレを作り上げたかったことが伺えます。
第4楽章の草稿が少なからず残されているため、この終楽章の補筆を手掛けた研究者達の統一した見解は、「ブルックナーは終楽章をほぼ完成していて、その死後に、楽譜が持ち去られて散逸してしまった。」というものであり、補筆はそれを前提として、残されていた楽譜を再現することを目的として補筆して完成させる試みも行われ、全4楽章版の演奏や録音も増えてきています。
2012年2月に、サー・サイモン・ラトル指揮のベルリンフィルがブルックナーの交響曲第9番の第4楽章を補筆した演奏世界初演、世界初録音しました。サイモン・ラトルとベルリンフィルのこの演奏は、オーケストラの持ち味を最大限に引き出して、スケール感があり一体感のあるハーモニーは響きとしてはすばらしいですした。しかし、第4楽章ては、不思議な音のやり取りから熱を帯びて盛り上がっていき、突然ティンパニーが鳴り響く、きらびやかな音楽は、ブルックナーの教会音楽のような荘厳な音の厚みと深みが感じられませんでした。補筆版で第4楽章を演奏するという取り組みはすばらしいと思いますが、書かれていない音は付け足すのはいかに難しいかを思い知った気がしました。
参考文献
朝比奈 隆 (編)『交響曲全集』
(音楽現代名曲解説シリーズ) 2000年、芸術現代社
ハンス=ヨアヒム・ヒンリヒセン (著), 髙松 佑介 (翻訳)
『ブルックナー 交響曲』2018年、春秋社
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ブルックナーの交響曲第9番は、やはり生演奏で聴く違うのですね。ブルックナーは現世的現実と理想がうまくかみあわない人のようですが、彼の音楽は,批岸のような一切を超えたところにあって,超絶的なものに意味を与える信仰が必要だったのだとおもいます。しかし音楽の歓喜の苦悩の大きさと深さ,拡がりと重さはすばらしいと思います。このような感動はね確かに生演奏で聴かないと感じられないものでしょうね。
この曲は第3楽章で終わっていますが。それでも十分な完成度の作品だと思います。ブルックナーが亡くなってから、残されたわずかな資料で第4楽章真で完成させようというのは、やはり相当難しいのでしょうね。
ブルックナー『交響曲第9番ニ短調』のような複雑な音楽は、私は家で聴いても、何が痛いのか分かりませんでした。生演奏で聴いて、初めてなんとなくわかったというところでしょうか。
9番はゴシックのカテドラルを連想させます。夕べ久々に聴き返していると、記憶のなかのアミアン大聖堂と重なって歌ができました。ありがとうございます。この欄にそぐわなければ、編集削除なさってくださいませ。
天突きさすゴシック聖堂見下ろして十字のかたちの文受けたまへ
ブルックナー交響曲第9番は、ブルックナーの最後の交響曲なので、ワーグナーの「バジルハル」のようにブルックナーの哲学や宗教に対する畏敬の念を感じました。
アミアン大聖堂に行かれたのですね。ゴシックの大聖堂の最高傑作ともいわれているので私も是非行きたいと思っています。
ケルン大聖堂には行ったのですが、美しいステンドグラスに心を奪われて宗教的なものを十分味わえずに帰ってきてしまいました。私の場合いつもそんな傾向にあるので、もしアミアン大聖堂に行く機会があったら、宗教体験をしてきたいと思いました。
ブルックナーの交響曲第9番は、古今東西の交響曲の中でも大傑作の一つで、聴き手を沈黙させてしまうほどの圧倒的な力(魅力)があります。曲自体が「巨大」なので、気力が充実していないと聴きにくく、小生もブログ上で、CDの聴き比べを書いていますが、残念ながらブル9はまだ数枚程度しか進んでいません。(不協和音も多く、現代音楽を思い起こさせる所もあり、大変に興味深いにもかかわらず)
ブル9の実演は、2013年に、メッツマッハー指揮:新日本フィル、スダーン指揮:東京交響楽団、インバル指揮:都響で聴きましたが、2014年は、下野竜也指揮:読響だけでしたので、2月にティーレマン指揮の演奏を楽しみにしております。
ブルックナーの交響曲第9番は、音楽史に残る名曲とは知っていたのですが、お書きになっているように、曲のスケールが大きく深淵な内容なので、気力が充実していないとこの曲と向き合えませんね。私は気力が落ち込んでいる時に音楽を聴いて気分を持ち上げようと期待して聞くので、なかなか家ではこの曲は聴けません。 失われたアウラを求めてさんが、子の大曲をいろいろな演奏で聴かれているはすごいと思いました。あとでゆっくり拝読させていただきます。
ところで、合唱を取り入れる構想があったというのははじめて聞きました。そのような記録があるのでしょうか?
一楽章でこれまでの人生に対する問題提起をし(楽章のコーダの最終和音は第三音の欠けた空虚5度で本来の解決的決尾ではないから解決していないと思います)、二楽章でそれに対し宇宙的無限の空間でもがく姿(最初からほぼ全ての音を使い切るこれまでのブルックナーの作品には無いミステリアスな無調的空間)、三楽章ではゆったりしたテンポの中で何度か悲劇的に咆哮しながらもその問題に対し一定の解決を見る永遠に天まで続きそうなE-durの完全5度の透き通った和音での結尾(言うなればドヴォルザーク交響曲第9番の最後の和音の様にffからpppまで消えるまで延ばし続けるE-durの完全5度の和音の様に)。
これに続くものは全く無く、ここまでを以てブルックナーの遺書の結末であると考えるから三楽章が最終楽章で良い。
これが私の本当に私的なブルックナーの第九への思いです。
モーツァルトがブルックナーに与えた影響は、交響曲における第3主題の確立、モーツァルトのメロディをブルックナーが移調して使っているなどいろいろあります。



