45歳で散った『エコールド・パリ』の貴公子
Julius Mordecai Pincas
アンリ・ルソー、ユトリロ、モリディア二、シャガール、マリー・ローランサン、ヴァン・ドンゲン、キスリング、藤田嗣二、らとともに20世紀前半、パリのモンマルトルに集まった外国出身の芸術家たち『エコールド・パリ』を代表する画家であるパスキンの日本では珍しい回顧展がパナソニック汐留ミュージアムで開催されていました。
Jules Pascin in Principality of Bulgaria, it was a painter who was born from Italian Serbia mother and Spanish Jewish father. He in order to avoid service in the Bulgarian army, attended art school in 1903, and spent most of Pascin before moving to Munich, Germany, traveled to because of the time in the United States, first-order at the outbreak of world War Pascin, his south of time that was educated in Vienna. He was known as the best he has been identified in strongly modernist movement and Montparnasse of artistic circles in Paris painter in,, has been referred to as the "Prince of Montparnasse",
パスキンにブルガリアで裕福なユダヤ系大家族に生まれ、ウィーンで絵画の教育を受けました。早熟な才能で、ミューヘンで素描画家として活躍し、ドイツ表現主義や分離派の影響も受けました。第1次世界大戦後1920年代、パリのモンマルトルに集まった外国出身の芸術家たち『エコールド・パリ』のボヘミアン画家での一人として活躍しましたが、一時アメリカのーヨーク移り、アメリカ南部やキューバの温かい空気にも触れました。第2次大戦後パリに戻り虹色に輝く光線と詩情豊かな色彩で、ほのかなピンク色の『真珠母色』と呼ばれる珠のような輝きを放つ柔らかな美しい色で女性を描き、人気を博しました。
パスキンは、裕福な家庭に生まれ雑誌の挿絵で収入を得てあり、経済的には裕福で、パリでも山高帽に白いスカーフ、黒のスーツで通り、仲間たちに気前よく振る舞い人気者で、「モンパルナスの貴公子」と呼ばれていました。
非常に薄手の画布の上に素早く軽いタッチで、虹色に輝く空気のようなおぼろげな魅力を放ち、『真珠母色』の時代と呼ばれました。円熟期には柔らかくぼかした虹色に移ろう色合いは、独特の官能的な雰囲気を醸し出していました。そのため、作品のほとんどが、衣類少なめか裸体の女性像で、母性を感じる豊満さの緩やかな肉体。肌色は美しく、内側から輝くような憧れの美肌でした。
確かに作品を見るとパスキンの作品は小さな少女を描いても、官能性を帯びエロスの甘い香りを放っています。おそらくこのような独特の官能性が人気を博し、画商からの要求もこのようなモチーフが多かったと推測されます。しかし、パスキンはどんなところでも素描していたようで、描くことが生活の一部だった生まれついての絵描きでした。純粋に少女を描いた作品は詩情にあふれていました。そんな彼には、画廊との契約を束縛と感じてようです。
Despite his social life, Pascin created thousands of watercolors and sketches, plus drawings and caricatures, which he sold to various newspapers and magazines. He studied the art of drawing at the Académie Colarossi and, like Henri de Toulouse-Lautrec, he drew upon his surroundings and his friends, both male and female, as subjects. He wanted to become a serious painter, but in time he became deeply depressed over his inability to achieve critical success with his efforts. Pascin struggled with depression and alcoholism. According to art critic Gaston Diehl, he committed suicide at the age of 45 on the eve of a prestigious solo show.
亡くなる年に描かれた『三人の裸婦』は、安らぎを感じる暖色です。退廃的画家と見る人もいますが、絵を描くのは暖かい癒しだったようです。『真珠母色』は真珠のお母さんの色で曲線的に震える線は、優しくノスタルジックです。
水彩画を思わせる「ソフトフォーカス」の画風で女の魔性と聖性を描きました。男を破滅させる魔性の女と無垢な少女の間を揺れ動くパスキンの芸術は、モンパルナスの放蕩息子ともいえる人生とのコインの裏表といえます。娼館に入り浸る一方で、自分の妻エリエーヌと仲間の画家の妻の間で揺れ動き、四十五歳の時、血文字で愛人の名を書いて自殺しました。不倫、束縛と感じる画廊との契約、アルコール依存症、ユダヤ系画家としての孤独が彼を追いつめたといわれています。
(2015.3 パナソニック汐留ミュージアム)
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エコール・ド・パリは、20世紀前半、各国からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを総称するもので、まとまって芸術活動をしたわけでもなく、印象派のようにグループで作品展を開いたわけでもない、この時代のフランス人以外の画家たちの漠然とした呼び名と考えてもよいのではないでしょうか。パスキンは『エコールド・パリ』の貴公子と呼ばれたそうですが、エコールド・パリの英雄的存在というわけではなかったように思いました。
http://tarutana.exblog.jp/20807745/
いるのですね。(とてもうらやましいいです。笑)
パスキン展はわたしも行きました!
今年はまだまだいろんな絵画を楽しみたいと
思っています。
いいですよね、絵画
ではまたです。
今東京では、ルーブル美術館展、ワシントン・ナショナルギラリー展ねボッチチェリの展覧会といろいろ開催されていますね。私も順次出かけて行って、またプログにレポートを書きますので、読んでご感想など頂けると嬉しいです。