バッハが『ロ短調ミサ曲』をなぜ作曲したか?
" Mass inB minor " by JohannSebastian Bach
Mass in B minor " of Bach,is the culmination of Bach that exceeds the 60-year-old has been collected atthe end of life. Bach f has been the religious music activities as a ProtestantLutheran, which is representative of the church cantata. Bach, depression in the area of the Catholic Mass song, has soundedeven Gregorian chant. Bach is to tackle in Christian music in a way thatexceeds the sect, was reached in the universal religious values. I admit the view that it is a "B Minor Mass"
バッハはプロテスタント・ルター派の作曲家で、ミサ曲を作曲する必要はありませんでした。プロテスタントのバッハが、カトリックの典礼様式であるミサ通常文への作曲を何故思い立ったか。一つの可能性としては、カトリックであるドレスデン宮廷から注文を受けたということがあります。バッハは「宮廷作曲家」でり、自身の芸術的能力を示すためにも、ドレスデン選定侯に作品を献呈することは大きな意味があります。レスデン選定侯はポーランド国王も兼ねていたためカトリックでしたが、ルター派のプロテスタントの教会でもミサにおいて〈Kyrie〉と〈Gloria〉は演奏されていたので特に違和感もなかったと思われます。
しかしより大きな要因として信仰上の理由があったと思われます。バッハの時代、社会全般で新・旧両派の対立は激しく何十年にも及ぶ戦争が幾度もヨーロッパ各地で起こっていました。ドイツでも30年戦争が戦われ、バッハの時代まだのその傷跡が残っていたと思われます。まだまだ両派の争いが、現実の戦争に繋がりかねない状況もあったと想像されます。
外的社会の「平和」がなければ内面の「平安」も得がたいのも事実であり、ミサにおいて「平和」を願っても不思議はありません。バッハ自身はプロテスタントの環境の中で育っていますが、仕事の面ではカトリックの宮廷とも関係を持っており、両派の葛藤に巻き込まれて内面の「平安」を求めていたとしても不思議はありません。
バッハ自身はルターの聖書のドイツ語訳や解説書を深く読み込んだと言われており、結局ルターの唱えたことは、教会の枠を越えて聖書のみに基づいた信仰に帰れと言うことであり、現実の両派の対立はこれとはかなりかけ離れた状況であったのではないかとおもわれる。そこで音楽によって、本来キリスト教のあるべき姿を描き出そうとしたと考えていたと考えても不思議はありません。
バッハは年齢とともにカトリック対プロテスタントという対立的な考え方から離れ、カトリックに対して寛容になってきたバッハは、新旧両派の融合と言うことを痛切に望み、音楽を通して体現しようと試みたのではないかと考えられます。『ロ短調ミサ曲』は、いろいろな宗教界派を超えて、バッハが神の霊感を受けて作曲したともいわれています。
『ロ短調ミサ曲』は「宗教上の普遍性を持つ『全教会的(エキュメニカル)』なミサ曲とみなされる」と表現し、「宗教上の普遍性を持つと言うことは、すべてのキリスト教徒にとって心の支えとなることを意味し、信仰上の対立は克服されている」としているという説もあります。また『ロ短調ミサ曲』を「カトリックをもプロテスタントをも超えた汎宗教的態度によって綴られ、神に捧げられた」と表現している研究者もいます。
また、音楽家・芸術家としてのバッハという観点から見ると、グレゴリオ聖歌以来数多くの作曲家がミサ通常文に作曲しており、音楽様式の観点からミサ曲の中には声楽曲のすべての要素が集約されている見ることができます。バツはの『ロ短調ミサ曲』には、数百年にわたる声楽曲の多様な様式が融合しているとみることができます。合唱とオーケストラで協奏曲のように絡み合う「協奏曲的な要素」、合唱だけで協奏曲のような絡み合いをする「協奏的合唱フーガ」、無伴奏の対位法的に作曲されている「ア・カペラ様式の合唱フーガ」、唯一の完全が成立する『古様式』を特徴付けるような作曲法、グレゴリオ聖歌を定旋律として対位法に展開する『定旋律の技法』、同じ旋律の模倣していく『カノンの技法』、このほかにアリア様式も取り入れられています。これらのすべてを融合した形で、後世に記念碑的作品として伝えることを意図したものと考えられます。
『ロ短調ミサ曲』をもって音楽史はバロックの時代に終わりを告げたというのが一般的な見方です。シュヴァイツァーは「かくして、バッハは一つの終焉であり、バッハからは何も生ずることが無く、すべてが一人バッハへと導かれて行くのだ。」書いています。音楽史でよく言われる言葉に「J.S.Bachは"Bach"ではなく"Meer"である。」というのがあります。"Bach"はドイツ語で「小川」を意味しますが、それまでの西洋音楽の要素のすべてがバッハによって集大成されているという意味から、すべての水が流れ込む「海"Meer"」に例えているのです。
バッハはライプツィッヒに着任後10年ほどして、教会カンタータに新しい作品が見られなくなる頃からラテン語に作曲することが増え始めました。ライプツィッヒでの市参事会等との確執で自らの地位を高めるためにドレスデン宮廷にも地位を得たいと言う狙いがあったようです。ラテン語の典礼文に作曲することによって自らの作品を恒久的に残していくことを目指したのかも知れません。バッハの場合はKyrieとGloriaだけのものをミサブレヴィスと呼んでいます。曲ともほとんどが以前に作曲した教会カンタータのから要素を借用し風刺などを交えて引用しています。
ミサ曲は個人の罪を悔恨し、自らの弱さを神の前に投げ出すKyrieに始まり、信仰告白Credoや聖餐式を経て自己の内なる平和と信徒同士の平和を実現し、さらに全世界の平和を希求です。『ロ短調ミサ曲』に表現された“祈りの境地”の高さには驚かされます。神の世界では祈りこそが“究極の力”であり“現実”であるとバッハの音楽は語りかけてきます。この音楽に向き合うとき、あらゆる世俗的なものを超えて、純粋な光とならなければならない。終曲Dona Nobis Pacem (我らに平和を与えたまえ) は、21世紀の私たちに投げかけるバッハのメッセージであり、私たちの未来への宣言です。音楽監督の三澤洋史さんは、この演奏会のパンフレットにそのように書かれています。
神への信仰は「私たちは神から愛されているのだ、許されているのだ」と認めるところから始まります。祈りは感謝から始まり、自分が唯一の存在であり、神から愛されていることを知ります。
『ロ短調ミサ曲』は、ミサ曲のわりには暗く短調のミサ曲となっています。それは、人間の悲しみ、痛み、弱さを感じさせます。神への告白、洗礼、神の許しを信信頼、カトリックに対する敬意も感じられます。『ロ短調ミサ曲』の最後は、Gloriaと同じと同じメロディーが出てきます。感謝から始まり、それが純化して信仰に発展します。「我々に平和を与えてください」『ロ短調ミサ曲』の最後は平和の祈りで終わります。『ロ短調ミサ曲』は、世界の平和が実現するまで終わらない、と訴えているようにも感じられます。
【参考文献】
東京バロック・スコラーズ「バッハロ短調ミサ曲」ガイドブック
クリストフ ヴォルフ (著), 礒山 雅 (翻訳)「バッハ ロ短調ミサ曲」
徳善義和、百瀬文晃編
「カトリックとプロテスタント~どこが同じで、どこが違うか~」教文館
クリストフ ヴォルフ (著),礒山 雅 (翻訳)「バッハ ロ短調ミサ曲
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ルター派のプロテスタントであるバッハが『ロ短調ミサ曲』をなぜ作曲したか?ということに対する dezireさんのご説明、非常に共感致しました。 バッハは信仰深いキリスト教の信者であり、キリストの教えを信奉して、その理想を伝えるためにたくさんの音楽を札は作曲しました。 バッハにはキリスト教に対する理想があり、当時の腐敗したローマカトリックに失望してねルター派のプロテステントの道を選んだのだと思います。しかし、今度はカトリックとプロテスタントの争いや、プロテスタント各派同市の荒祭が絶えず。そのような状況に失望していても不思議はありません。バッハが真に求めていたのは、カトリックもプロテスタントも高いに良いところを取り入れて、世界へ輪のために協力して、やがて一つのより高い次元のキリスト教に生まれ変わることだったのではないでしょうか。『ロ短調ミサ曲』はそのようなバッハの願いを込めて、全身全霊で作り上げた素晴らしい音楽だと思います。
Takahshiさんのご意見に全く同感です。バッハは一会派のかにとどまっているような小さな芸術家ではなく、人類全体を視点に音楽の世界を築いた偉大な芸術家だと私も思います。
1) 「カトリックのクレドの典礼文は4世紀に開かれたニケアとコンスタンチノーブルの宗教会議において認められた教義に拠っていますが、この音楽は二ケア信経に基づくと言えます。」の謂わんとするところを教えてください. 特に「拠っていますが」の「が」の意図が知りたいです.
2) 「グレゴリア聖歌」には広辞苑にも載っている「グレゴリオ聖歌」という定訳があるので, そちらに直されたほうがよろしいかと存じます. (少々細かいことを言うと, 日本の教会はラテン語の人名を奪格で書くという習慣があって, Gregoriusが「グレゴリオ」になっています. 「グレゴリア」と書くと, 普通に欧州の(印欧語系)言語の感覚を持っている人は絶対に女性名だと思うので, とても奇妙に響くと思います.
3) 「第4部はプロテスタントでは歌われない部分を集めたものと言えます。」LutherがAgnus Deiをドイツ語に訳したものには旋律がつけられて, 礼拝で歌われます. ヨハネ受難曲の最後のほうに出てくるのはご存知ですか? ちなみに, 昨今の業界では, 18世紀のLeipzigの教会ではAgnus Deiもしばしばラテン語で歌われていたという説がもっぱらです
聖餐式(ミサといっても問題ない)でのキリエ、アニュスデイは他ならぬマルチン・ルター作曲のものを歌っています。サンクトス・ベネディクトゥスも同様だったと思いますが、今、手元に式文集がないので断定的なことはいえません。さすがに日本語で歌いますが。
ルーテル教会ではクレド(バッハの表現では「シンボルム ニケアム」、一般には二ケア・コンスタンティープル信条 ルター派では単に「ニケア信条」と呼びます、面倒くさい話ですが、原ニケア信条というのがあり、礼拝で唱える・歌うことはルター派でもカトリックでもありません)を歌わないのが欧米での一般的な礼拝ですが、歌うのが禁止されているわけでもありません。現にアングリカンチャーチではアングリカンチャントで歌うのだそうです。
そういう意味ではヘンデルのメサイア、ベートーベンのミサソレムニスと似ています。
「グレゴリア聖歌」は「グレゴリアンチャント」からの連想でしょうね。
https://www.youtube.com/watch?v=n3nZXccFkFQ
まぁ、上記の書き込みへはほかにも言いたいことがあるのですが、第1部~第4部という表現は私は始めて聞きました。キリエ・グロリア・クレド(ニケア信条)サンクトス・ベネディクトス・アニュスデイで必要十分というか、みんなそういっているのではないでしょうか?
メサイアじゃないのだから。
バッハが最後まで関わったのは一般的にはフーガの技法とされていますが、実はロ短調ミサでしたから、遺言なのでしょう。最後のドーナでは自然と涙が溢れます。
それでもマタイ受難曲の方を愛するのは、バッハの声楽曲の特長である、言葉と音楽とが強く結び付いている事でしょうか。その点で、ロ短調ミサはその殆どの部分がカンタータからのパロディの為、それが有りません。逆に言えば、それが普遍性を持っているという事が言えますが。