アムステルダム繁栄以前のオランダの中心都市
ユトレヒト
Utrecht
ユトレヒトは8世紀よりオランダの宗教の中心でした。現在でもオランダ・カトリック教会で最も重要な地位をユトレヒト大司教が担っています。復古カトリック教会の大主教座や、プロテスタント教会の教区事務所もユトレヒトに置かれています。17世紀に始まるオランダ黄金の時代にアムステルダムがオランダの中心となるまで、ユトレヒトはオランダ(現在のオランダ国土と言う意味で、ベルギーやルクセンブルクは除く)で最も重要な都市でした。
Utrechis the capital and most populous city in the Dutch province of Utrecht. It islocated in the eastern corner of the Randstad conurbation and is the fourthlargest city in the NetherlandsUtrecht's ancient city centre features manybuildings and structures several dating as far back as the High Middle Ages. Ithas been the religious centre of the Netherlands since the 8th century. It lostthe status of prince-bishopric but remains the main religious center in thecountry. Utrecht was the most important city in the Netherlands until the DutchGolden Age, when it was surpassed by Amsterdam as the country's cultural centreand most populous city.
ユトレヒト旧市街でひときわ目立つ大聖堂の塔の姿が今日望めるのは、その塔を越える高さの建物を建ててはいけないという暗黙の了解が長い間守られてきたことによります。旧市街の中心を流れる旧運河は、元はライン川の支流であったものを運河にしたもので、現在でも市街地を曲がりくねって流れています。旧市街は19世紀まで存在した城壁の内側エリアにコンパクトにまとまっており、古い街路構成を今でもミルことができます。旧市街を取り囲む運河は、元は城壁を囲む堀であったものであり、砦も残存し新市街の外周にブラウカペル砦やビルトストラート砦などがあります。
大聖堂は、1254年に造られた教会で、北フランスのゴシック様式で建設されました。1381年に建設された高さ112mの大聖堂の塔は、オランダで最も高い教会の塔で、1580年より、プロテスタント教会となっています。聖カタリネ大聖堂は1853年以降、ローマ・カトリック教会のユトレヒト大司教座が置かれている大聖堂です。
ユトレヒトには、オランダ最大の大学、ユトレヒト大学が置かれています。ホーホ・カタライネは中央駅と旧市街の間にあるショッピングモールで、中央博物館はユトレヒトで最大の博物館です。
Utrechtis host to Utrecht University, the largest university in the Netherlands, aswell as several other institutions of higher education. Due to its centralposition within the country, it is an important transport hub for both rail androad transport.
ユトレヒトの起原はローマ帝国が47年頃に建てた要塞でローマ帝国の国境であるライン川河畔にありました。6世紀になると、ユトレヒトはフランク人の勢力下に置かれ中世を通じて、北ネーデルラントでもっとも重要な都市でした。1579年、ネーデルラント北部7州はユトレヒト同盟に調印し、スペインの支配に抵抗することを決意した。ユトレヒト同盟はオランダのはじまりとされています。
ユトレヒトは以前に前に仕事で行きました。
ユトレヒトと言うとユトレヒト条約。 1700年代前半、スペインとアメリカで行なわれていた戦争の講和条約でした。ユトレヒトを訪れた時、旧市街の石畳に立って18世紀の複雑なヨーロッパの状況に思いを馳せていたような記憶があります。
ユトレヒト条約の話題に出ておりますので、コメントさせていただきます。1713年、スペイン継承戦争・アン女王戦争の講和条約が交わされました。フランス・ブルボン家フェリペ5世のスペイン王家衣装は認められ、フランスブルボン朝の力を抑え、イギリス・オランダ・プロイセン・オーストリア・スウェーデンなとの勢力均衡を維持することにあった。これ以降の国際関係においてはこの勢力均衡が図られました。イギリスが海外領土を拡大しイギリス帝国繁栄の第1歩を築き、スペインのアメリカ大陸植民地支配は終わりを告げることとなりました。オランダはスペイン領ネーデルラントの数市を獲得しました。