ワーグナー『ニーベルングの指環』4部作の最高傑作 と 飯守泰次郎の世界
ワーグナー『ワルキューレ』
Wagner "Die Walküre" The Ring of the Nibelung

飯守泰次郎さんが新国立劇場の芸術監督に就任して、『バジルハル』に続いて『ニーベルングの指環』飯守さんが自ら指揮し新演出で上演しました。『ニーベルングの指環』は前回の東京リングで全幕を鑑賞していましたが、リングの中でも持っても好きな『ワルキューレ』を、飯守泰次郎さんの音楽で味わってきました。
Die Walküre is amusic drama in three acts by Richard Wagner with a German libretto by thecomposer. It is the second of the four works that form The Ring of theNibelung.
『ニーベルングの指環』は4部作を貫くテーマが厳然と存在し、共通のライトモティーフ(示導動機)が全編にわたり使用され、作品ごとに強い関連性を持ちもっています。ワーグナー自身の『ニーベルングの指環』は、プロローグと3つの楽劇からなる巨大な舞台作品で、作曲、台本もワーグナー自身が執筆し『神々の黄昏』『ジークフリート』『ワルキューレ』『ラインの黄金』逆の順で制作されましたが、4作それぞれに独自の個性があり、単独で上演してもストーリー、音楽の両面でちゃんと完結するところが、ワーグナーの作劇・作曲手腕を示しているともいえます。
序夜『ラインの黄金』の最後で、ヴォータンなど神々が完成したばかりのヴァルハラ城に入場し、大編成のオーケストラによる華やかな幕切れで終わります。ラインの黄金で作られた、世界を支配する力を持つ指環(ニーベルングの指環)を手に入れることが出来なかった神々の長ヴォータンは、世代を超えてこの指環の奪還目指しています。指環には、これを作ったニーベルング族のアルベリヒによる「指環の所有者に死を!」との呪いがかけられています。
第1幕
[前奏曲]
『ワルキューレ』》場面設定、登場人物、音楽が一変する。嵐の森を疾走するジークムントの様子を描いた低弦楽器がうねるように活躍する前奏に続いて幕が上がり、斜めに傾いたフンディングの館の薄暗い内部が登場します。生と死のような深刻なテーマに使われるニ短調基調として、冒頭から弦楽器による上昇・下降を繰り返す激しい音楽、低弦が奏でる5連符を伴う旋律は「嵐の動機」。次第に管楽器も加わり、音楽は一層激しさを増していきます。金管楽器は「ドンナー(雷)の動機」、稲妻の描写のように鳴り響くティンパニは雷鳴をも表しています。嵐の森の中で逃走するジークムントをフンディングらが追撃する様子を描写していると思われます。ホルンに導かれチェロが「ジークムントの動機」奏でられます。
[第1場]
激しい追跡を逃れ、疲れ切った男・ジークムントは、フンディングの館にたどり着き倒れます。この館はトネリコの大木を囲むように建てられた斜めに傾いた木造の素朴な造り。妻・ジークリンデは傷を負った男をいたわって水を与えます。ヴァイオリンとヴィオラが「ジークリンデの動機」が演奏されます。チェロのソロは、彼女が男に次第に魅せられていく様子感じさせます。2人は幼い時に生き別れた双子の兄妹なのを知らぬまま、互いの眼差しに惹かれ合うものを感じます。2人は薄暗い中で見つめ合い、低弦による「ヴェルズング族の苦難の動機」などの諸動機が美しく絡み合います。ホルンの「フンディングの動機」の断片が家の主が戻ってきたことが暗示させます。
[第2場]
[第3場]
暗い広間に1人残されたジークムントは、父が「最大の危機に際して剣を与える」と言っていたことを思い出し、「ヴェ~ルゼ!」と父の名を叫びます。その時、中庭のトネリコの大木に突き刺さった一振りの剣に光が差す。金管楽器が「ノートゥングの剣の動機」を何度も繰り返します。そこへ、夫フンディングに睡眠薬を飲ませ熟睡させたとジークリンデがやって来ます。ジークリンデは盗賊によってフンディングへ贈られことと打ち明け、結婚祝いの宴の最中、灰色の衣をまとい、帽子を深く被った圧倒的な存在感を持つ謎めいた老人が現ことを話します。背後で「ヴァルハラの動機」が鳴りこの老人がヴォータンであることを暗示させます。老人の鋭い眼光で周囲の者を威嚇しますが、ジークリンデは得も言えぬ親しみと温かさを感じ、思わず涙を流したと言います。老人はトネリコの木に剣を深々と突き刺して、悲しみにくれるジークリンデに「これは世に2つとない剣だ。この幹から引き抜くことができた者のみが所有者となると伝えます。
トランペットにより高らかに「ノートゥングの剣の動機」が吹奏され、どんな屈強な男でも引き抜くことができずトネリコの木に突き刺さったままで歳月が過ぎ、今ジークリンは剣の持ち主はこの男だと確信し、運命の出会いを喜びます。突然暗かった室内を月光が照らし、ジークムンドが『冬の日は過ぎ去り』とイタリア・オペラのアリアのように愛の歌を歌います。ジークリンデも『あなたこそ春です』と返し、 愛の2重賞の様相を呈してきますが、二人の声は最後まで決して重なることはありません。
第2幕
[前奏曲]
第2幕への前奏曲は進軍ラッパのようなトランペットの動機に導かれて、弦楽器が「ワルキューレ歓呼の動機」を激しく波打つように奏でます。この部分はジークムントとジークリンデの愛の逃避行をも表現しているようです。イ短調は陰りを感じさせ、ジークムントとジークリンデの悲劇的な未来を暗示しているかのようです。
[第1場]
舞台は遠方まで続く2枚の大きな板で荒涼とした雰囲気を感じさせます。武装したヴォータンが、完全武装したワルキューレである娘のブリュンヒルデを伴って出てきます。ブリュンヒルデの第一声は「ワルキューレの歓呼の動機」に乗せた「ホヨトホー!」の叫び声でホール全体に強烈に響き渡ります。ワルキューレとは、ヴォータンが智の神エルダに産ませた9人の娘たちの総称で、戦場で命を落とした勇者をヴァルハラ城に運び、再び命を与えて城を警護させています。ブリュンヒルデは乙女たちの長女で、ヴォータンの愛情と信頼を一身に受けています。
そこへヴォータンの正妻である結婚の神フリッカが現れ、ブリュンヒルデは、その場を去ります。結婚を司るフリッカは、フンディングから告発を受けたと「フンディングの動機」が演奏されます。フリッカはジークムントと夫のあるジークリンデの恋愛は不倫で略奪愛のみならず、2人は兄妹で近親相姦という忌むべき関係だと断じ、罰を与えることを要求します。ヴォータンは神々の掟に縛られない存在、神々の支配体制を守るための勇者としてジークムントについては要だったと釈明しますがフリッカは聞く耳を持ちません。バス・クラリネットとファゴットが「ヴォータンの不機嫌の動機」を奏でます。フリッカはフンディングに勝たせることを約束させられてしまいます。
[第2場]
ブリュンヒルデは優しくヴォータンの苦悩を聞こうとします。ヴォータンは、世界を支配できる力を持つニーベルングの指環の由来について語り、ヴォータンの戦略や想いが自らの言葉でストレートに明かされ、話の内容に沿ってライトモティーフが次々と演奏されます。ヴォータンの長々とした話は、指環の話におよび。指環を得た巨人ファーフナーは指環と莫大な財宝を守るため大蛇に変身森の中に住み着いているが、指環が誰渡ることを恐れ。智の神エルダに答えを求めたが、エルダの予言では、アルベリヒの世界支配が現実になれば、神々の世界は終焉を迎えるという。契約に縛られている神が指環に手を出すことはできないが、神ではない誰かに指環を奪還させようと考えて、人間の女性との間に勇者を産ませたのがジークムントであった。ヴォータンはジークムントを自由な勇者にしたかったが、フリッカにその魂胆を見抜かれて、彼女の言葉に従わざるを得なくなったことを説明した上で、ブリュンヒルデにジークムントを倒すよう命令します。
[第3場]
ブリュンヒルデはジークムントとジークリンデがやって来るのを見つけます。ジークムントは疲れきったジークリンデを休ませようとします。ジークリンデは錯乱状態に陥り、ついには気絶してしまいます。そんな姿にジークムントはフンディングとの戦いに勝利することを誓い、オーケストラは「ヴェルズング族の動機」「ノートゥングの剣)の動機」を演奏します。
[第4場]
「運命の動機」とともに、ブリュンヒルデがジークムントの前に姿を現し、「死の告知の動機」に乗せて、ジークムントは死ななければならないこと、死後、ヴァルハラ城に上がり、父ヴォータンとも会えることなどを告げます。ジークムントはジークリンデとの別離を受け容れることが出来ず、別れるくらいならジークリンデを殺して自分も死ぬとノートゥングを振り上げます。相手のために自分の命すら惜しむことのない人間世界の愛の深さに心を動かされたブリュンヒルデは父の命に背いてジークムントに味方することを決意します。
[第5場]
ジークムントがジークリンデを介抱していると突如、フンディングの角笛が静寂を切り裂き、力強い「ノートゥングの剣の動機」とともにジークムントがノートゥングを振るってフンディングに挑み闘いがはじまります。「ワルキューレの動機」でブリュンヒルデも登場しますが、「槍の動機」が演奏されヴォータンが登場。自らの槍でノートゥングを粉砕してしまいます。悲しい宿命を強調する「運命の動機」とともにジークムントはフンディングの槍に突き抜かれて命絶えます。ブリュンヒルデは気を失ったジークリンデを救い、砕かれたノートゥングの破片を集め、愛馬グラーネに乗ってその場を逃走します。ヴォータンはフンディングに「下郎、フリッカの所へ行け!」とはき捨てるように命じ、一撃でその命を奪ってしまいます。ヴォータンの心中を表す「不機嫌の動機」とともにはヴォータンは自らの命に背いたブリュンヒルデを追って雷鳴とともに姿を消とます。
第3幕
[前奏曲]
第3幕の前奏曲は有名な天駆けるワルキューレたちの動きを描いた「ワルキューレの騎行」の音楽です。「金管楽器が「ワルキューレの動機」を反復する中、木管楽器は入れ替わりながら天駆けるワルキューレたちが風を切る音と考えられる木管が奏でる16分音符が絡み合います。上昇下降を繰り返す弦楽器の和音を構成する音を一音ずつ順番に弾き、リズム感や深みを演出した演奏は、高速で空中を上下するワルキューレたちの動きを表現しています。このような複雑な重構造の音楽に加えて響きにくく暗い雰囲気を醸し出す調とされるロ短調をあえて基軸となる調性としています。大オーケストラを全開にしてエネルギッシュな音楽を奏でさせるワーグナーの手法は、この難しい調を見事に活発に使いこなして斬新な音楽にしています。物語の中の人物や事象の状態を生き生きと描き出していくワーグナーの作曲技法を象徴した傑作音楽といえます。前奏曲はそのまま第1場へ突入していきます。
[第1場]
ワルキューレたちは戦いで死んだ戦士の中から真の勇者を選び、天上のヴァルハラ城に運び、再び命を与えてその防備に当たらせるという任務を持っています。『ニーベルングの指環』では『ワルキューレ』の第2幕の終わりまで合唱がなく、初めて8人のワルキューレたちが声を張って重唱を聴かせます。ワルキューレたちが待つ場内にブリュンヒルデしみにくれる1人の女性・ジークリンデを伴って戻ってきます。ブリュンヒルデは父の命令に背いたため追われていることを明かし、自分と連れてきた女性を助けてほしいと妹たちに頼みます。神々の長であるヴォータンに背いたことを聴いた妹たちは恐怖におののきます。やり取りを聞いていたジークリンデは、庇うように抱きしめたブリュンヒルデの手を振りほどき、「私のことでそんなに気を揉まないで。ジークムントが死んでしまった今、自分も生きている意味はないので殺してほしい」「この至上の軌跡、この上なく気高き乙女よ。」と美しく悲しいアリアを歌います。
ブリュンヒルデは、ジークリンデがその胎内にジークムントの子どもを宿していることを告げ、同じ高さの旋律を木管の刻みに乗せてホルンで奏で、ブリュンヒルデが「こよなく崇高な英雄」と「ジークフリートの動機」の旋律で歌うのを聴き、ジークリンデは意欲を取り戻します。ヴォータンが近付いてくる中、し、ブリュンヒルデは、東の森の中では大蛇に変身したファーフナーが指環を守っていて、ヴォータンも敬遠して近付かないと教えも、先に集めたノートゥングの破片を渡し、胎内の子がいつの日か、この剣を鍛え直し、それを振ることを予告します。ブリュンヒルデは勝利への願いを込めて子どもにジークフリートという名を与えます。ジークリンデはブリュンヒルデを抱きしめ、「愛の救済の動機」で「ああ、天にも昇る気持ちです!」と心からの感謝の気持ちを伝え東の森へと去っていきます。このシーンは極めて感動的で、ブリュンヒルデの魅力が伝わってきます。
[第2場]
ジークリンデと入れ替わるように怒りを爆発させたヴォータンが現れます。ワルキューレたちは姉を庇おうとしますが、「不機嫌の動機が強烈に演奏され、ブリュンヒルデ自ら父の前に進み出ます。ヴォータンは「死の告知の動機」(譜例27)とともに自らの命に背いたブリュンヒルデへの処罰を宣告します。それはブリュンヒルデをワルキューレから除名した上にその神性も奪いとった無防備のブリュンヒルデを岩山の頂上に眠らせ、最初に目覚めさせた人間の男のものとするというものでした。
ヴォータンとブリュンヒルデだけが残り、ブリュンヒルデは、自分が命令に背いたのは、父の本当の気持ちを汲んだためであり、逆らう意思はまったくなかったこと、そしてジークムントの愛に心を動かされたことを切々と訴えます。ヴォータンの気持ちは次第に愛娘への愛情に動かされ始めます。ブリュンヒルデは最後の、そしてたったひとつの願いとして、無防備となって眠る自分の周りを燃え盛る炎で囲み、真の勇者しか近付けないようにしてほしいと懇願します。
この願いを聞き入れたヴォータンは、ブリュンヒルデの瞼に口づけし、神性を奪った上で眠りに落ちたブリュンヒルデを優しく横たえます。「ワルキューレの動機」が全オーケストラで高らかに奏され、「ヴォータンの告別」と呼ばれる『ニーベルングの指環』のハイライト。ブリュンヒルデの思い出をしみじみと語る。ヴォータンとブリュンヒルデ父娘の愛情あふれた光景でした。ヴォータンは槍を天に振り上げて「この槍の穂先を恐れる者は、決してこの炎を越えてはならない」と宣言され、続いて金管楽器による「ジークフリートの動機」の旋律が輝かしく反復されました。ローゲのライトモティーフが火そのものを表わしていました。ラストシーンでは、ヴォータンとブリュンヒルデ父娘の愛情がドラマティックに描かれていて後味の良い終わり方は心地良いものでした。ブリュンヒルデを目覚めさせるのがジークフリートだという暗示も与えているように感じました。
この願いを聞き入れたヴォータンは、ブリュンヒルデの瞼に口づけし、神性を奪った上で眠りに落ちたブリュンヒルデを優しく横たえます。「ワルキューレの動機」が全オーケストラで高らかに奏され、「ヴォータンの告別」と呼ばれる『ニーベルングの指環』のハイライト。ブリュンヒルデの思い出をしみじみと語る。ヴォータンとブリュンヒルデ父娘の愛情あふれた光景でした。ヴォータンは槍を天に振り上げて「この槍の穂先を恐れる者は、決してこの炎を越えてはならない」と宣言され、続いて金管楽器による「ジークフリートの動機」の旋律が輝かしく反復されました。ローゲのライトモティーフが火そのものを表わしていました。ラストシーンでは、ヴォータンとブリュンヒルデ父娘の愛情がドラマティックに描かれていて後味の良い終わり方は心地良いものでした。ブリュンヒルデを目覚めさせるのがジークフリートだという暗示も与えているように感じました。

『ワルキューレ』では、歌手が歌うメロディーとオーケストラの旋律が対位法的に絡み合いながら、物語を進めていくだけではなく、登場人物の心理や実際に登場していない人やその状態までも立体的に表現されていく。和声の解決が行われないまま半音階進行で転調を繰り返し、音楽が連綿と続いていく「無限旋律」の色彩も一層強まっている半面、調性感は依然明確であり、随所に口ずさめる名旋律が現れる。このように深みと分かりやすさが同居して、ワーグナーの『ニーベルングの指環』4部作の中でも、一番分りやすく感動できるものでした。
「ワルキューレの動機」を展開させながら空飛ぶ馬に跨り、8人の天駆けるワルキューレたちの動きを音楽で表現した「ワルキューレの騎行」の音楽は、舞台『ワルキューレ』に絶大な効果と魅力を与えています。金管楽器が「ワルキューレの動機」を反復する中、木管楽器は入れ替わりながら16分音符で絡み合い、天駆けるワルキューレたちが風を切る音を感じさせる木管が奏でるこの16分音符と、上昇下降が繰り返される弦楽器の和音を構成する音を順番に弾いていくこきリズム感や深みを演出する演奏は、高速で空中を上下するワルキューレたちの動きを体感させます。重構造の音楽によって物語の中の人物や事象の状態を生き生きと描き出す。これこそワーグナーの作曲技法のひとつのスタイルを象徴した音楽といえます。
「トーキョー・リング」と呼ばれたキース・ウォーナー演出による新国立劇場のプロダクションの第3幕では、病院の救急病棟という設定に読み替えられ、ワルキューレたちはストレッチャーを押しながら遺体や負傷者を慌ただしく運んでいく演出でしたが、今回の第3幕の最初ではそれを踏襲したような演出でした。
「トーキョー・リング」のキース・ウォーナー演出では最後に大きな木馬を登場させたり、奇を狙ったような演出でしたが、今回の『ワルキューレ』では、第2幕まで演出らしい演出がなく、ひたすら歌とオーケストラの音楽だけで、ひたすら長大な音楽を聴かせるような舞台で、聴衆にはワーグナーをひたすら音楽だけで理解することを求めているように感じ、1場1場が非常に長く感じられ、かなり疲れる舞台でした。第3幕の最初では光を使った明るい舞台手となりましたが、物語の進行は音楽が完全に主導権を握っており、最後の最後で舞台全体を炎で囲み、眠っているブリュンヒルデがレーザー光のリングで美しく守られるすごい演出で締めるという演出は、演出家ゲッツ・フードリツヒの手法かもしれませんが、演出に彼を選んだことも含めて飯守泰次郎さんの意図を強く反映したであろうと考えられます。
飯守泰次郎さんは、1966年、ミトロプーロス国際指揮者コンクールに入賞し、ニューヨーク・フィルを指揮した際にフリーデリンド・ワーグナー(ヴォルフガングの姉)に見いだされ、バイロイト音楽祭のマスタークラスに招待されました。ヴォルフガングの兄、ヴィーラント・ワーグナーが活躍した最後の時期に、飯守さんはカール・ベームが指揮する『ニーベルングの指環』や『トリスタンとイゾルデ』を現場で体験し、『タンホイザー』のコレペティトゥールに急遽起用され重責を果たし、バイロイトの音楽家たち信頼を得てきます。ここでマンハイム歌劇場の音楽監督ハンス・ワラット出会い、アシスタントに抜擢され、三年間にわたのドイツ語オペラのレパートリーを身につけ、『さまよえるオランダ人』『ローエングリン』『タンホイザー』を初めて指揮しました。1971年に日本人で初めてのバイロイト音楽祭音楽助手に就任以来、20年以上、飯守はさんは夏をバイロイトで過ごし、ベーム、ブーレーズなど錚々たる指揮者との共同作業で経験を重ねていきました。飯守さんは、バイロイトというワーグナーの聖地で、偉大な指揮者と音楽作りに参加し、名歌手の歌唱や演技を体験するという貴重な体験を20年以上にわたって続けてきました。そのような至高の経験を経た飯守泰次郎さんであるがゆえに、『ニーベルングの指環』は音楽で聴かせる楽劇として、21世紀の日本で高水準の楽劇を生み出したいという強い意志を感じました。東京フィルハーモニー管弦楽団の演奏は飯守さんの強い意志を反映して、オペラパレス全体に良く鳴り響いて、表現力も豊かな迫力ある演奏でした。
歌手陣も大変充実していました。ブリュンヒルデ役のイレーネ・テオリンは、高度のドラマティクな声といくつもの長丁場を含んだ3つの作品をひとりで歌い切ったうえ上、女性のあらゆる性格、感情を見事に演じ、表現力物語の紆余曲折中で人間として成長も演じきり究極のソプラノ役と言ええるこの役を見後に演じていました。
ジークムンド役のスティファン・グルドは張りのある勇者の威厳男らしさと、自分の運命の悲劇性を憂うる情感あふれるアリア『冬の日は過ぎ去り』を歌いつつ、愛するジークリンデを優しく包む繊細さを見事に両立させていました。
全体として充実した舞台で、特に第3幕は大変感動し、今も余韻が耳に残っています。
参考文献:新国立劇場「ウェルテル」パンレット
音楽の友社編・スタンダードオペラ鑑賞ブック「フランス&ロシアオペラ」
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久しぶりにオペラの記事で、大変興味をもって読ませていただきました。概ねたことを分りやすく書かれていて、他へ編共感致しました。今回の『ワルキューレ』の舞台もそうですが、ブリュンヒルデとヴォータンの父と娘の愛の週末は感動的ですが、ヴォータンは始め自分の命に反したブリュンヒルデに、その前に自分の娘ジークリンデに与えようとしたように、「身の毛がよだつ」屈辱を与えようとします。ヴォータンの子供であるジークムントとジークリンデは近親相姦という社会規範に著しく反した恋に落ち『ワルキューレ』では父ヴォータンに容赦なく抹殺されます。この二人から生まれたジークフリートは「最も自由な英雄」として、詐欺の『ジークフリート』で、父に忠実なブリュンヒルデと結ばれますが、ジークフリート自体生まれながらにしてアウトサイダーであり、社会規範の破壊者となる可能性を秘めており、その後の悲劇性を生みます。『ワルキューレ』だけを切り離してみると親子愛の感動があるかもしれませんが、『ニーベルングの指環』全体の中では、ワルキューレ』の話は全体と矛盾いるように感じました。母親の存在が全くないのも、ワーグナーの楽劇に男尊女卑の古い思想を感じすにはいられませんでした。それが『ワルキューレ』の音楽のすばらしさを否定するものではありませんが、これはオペラではなく「楽劇」としてみるべきだというのは、優れたオペラに見る人間ドラマとしての魅力が欠如していて、総合芸術としてのワーグナーの楽劇のかけている面を観世素にはおれませんでした。

『ワルキューレ』の充実したなようの分りやすい鑑賞レポート、拝読しました。実は最終日のチケットをとっておりまして、楽しみにしておりました。大変良い予習となりました。
いつも本質を突いた記事を拝見さていただき、ありがとうございます。

いつも気品があっておひとやかな Kinoshita さんから過激なコメントを頂いて少し驚いています。『ワルキューレ』を「楽劇」であるのは、総合芸術であるべきオペラと呼ぶには人間ドラマとしての魅力が書けているから、というのはワグネリアンが読んだら激怒するでしょうね。御承知で書いておられると思いますが、ワーグナーの「楽劇」は演劇性やストーリーの論理性よりも、音楽の力でを圧倒的に重視しています。それは別として、ワークナーは男尊女卑の的価値観が根底にあり、『ニーベルングの指環』全体として哲学的に矛盾があり、全体のストーリーに説得力がかけているということは私も共感します。ワーグナーは人間としては血管の多い人ですが、音楽家としては希有の天才ですすので、「楽劇」だけを楽しむべきだというのは一つの考え方としてありうると思いま。、
Kinoshita さんに対してもコメントしましたが、ワーグナーは、にヴェルディーのような演劇性やプッチーニのようなロマンティシズムには興味がなかったのでしょう。ほとんど音楽の力だけで舞台を作り上げたので「楽劇」読んで、イタリアオペラなどとは一線を画したかったのだと思います。Kinoshita さンもそうですが、女性の方がワーグナーの「楽劇」に抵抗を感ずるのは、彼の思想の根底に「男尊女否」的なものがあるため、女性の視点で見ると、全体のストーリーが脈絡を欠いているを顕著に感ずるのだと思います。
今回の『ワルキューレ』の舞台は、単独で見ると音楽も素晴らしく、感動的な舞台でした。
音楽の分野で仕事をされているTakahsshiさんにも十分楽しめる舞台だと思います。

オペラはすはなので、もっぱら録音をオーディオ装置で聴いています。『ワルキューレ』では、クナッパープッシュの凄みのある雄大な演奏を聴くと身体が厚くなる思いを体験します。
私もこの舞台を鑑賞しましたが、レポートに関しては全く同感で的確に分りやすく本質を表現されているのに敬服いたしました。
コメントの中でワーグナーの楽劇についていろいろご意見があるようですが、ワーグナーの芸術思想の根本には、文学や演劇あるいは宗教や哲学までをも包含した音楽の総合芸術化の追求がありました。ワーグナーは若いころから演劇に特に強い関心があり、音楽と文学など他分野の芸術との接近という芸術思想を強く持ったいました。ワーグナーは「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」と「女性による献身的な自己犠牲による魂の救済」という生涯を通じたテーマに彼の思想性が明確にでています。

ワーグナーは、イタリア・オペラのようなオペラより深く、総合芸術化の追求したというお話は初めて知りました。ワーグナーとヴェルディの作品は、全く違く価値軸の上に立っているとすると、どちらがより総合芸術として完成度が高いかという議論は無意味ということになりますね。
ワーグナーは近代の作曲家ですね。神話的主題を下敷きにしてしながらも、心理を深く掘り下げ、みごとな近代劇にしています。
ジークムントを演じたステファン・グールド、初役とは思えない歌唱でした。来年のジークフリート役が楽しみです
ワーグナーは近代の作曲家ですね。神話的主題を下敷きにしてしながらも、心理を深く掘り下げ、みごとな近代劇にしています。
ジークムントを演じたステファン・グールド、初役とは思えない歌唱でした。来年のジークフリート役が楽しみです
他の作曲家のオペラと比べて、ワーグナーの楽劇は、音楽のぶ厚く深みのある重量感で、舞台全体の重みと迫力がすごいですね。
ファン・グールドは「トウキョウ・リング」でジークフリートを歌っていた人ですが、ジークムント役は、かなりスマートでかっこよく感じました。
良い席で鑑賞されて良かったですね。ワーグナーの「ニーベルングの指環」は、音楽のスケールが大きく、複雑な旋律が絡み合っているので、個々の楽器の音を聴き分けられるような1階席の前の方で聴く音楽ではありませんね。
私はいつもオペラは3階席です。テレビや映画でないので歌手のかぉが見えないほうがよいのと、音楽全体を全体として感じられるからです。
「ニーベルングの指環」4部作はは前回通して鑑賞していますので、『ジークフリート』に行くかどうか、ちょっと迷っています。
kana
お書きになっているように、私も楽劇や演奏会を鑑賞しても、しばらくじかんがたつと、その感動が記憶すら消えてしまうので、その感動が消えないうちにできるだけ丁寧にブログに感動を記録しいてます。改めて書いていると感動がよみがえってきて、心に定着する効果もありまね。
こちらのレポートも読ませていただきました。
主要キャストが素晴らしかったですね。
オケに関しては色んな意見があると思いますが、日本にいてこれだけの舞台が鑑賞できるのはとってもありがたいことだなと思います。
海外のオペラハウスの来日公演はものによってはあまりに高すぎて手が出ません。
それに指輪の4部作全てを観ることはできませんものね。
私のブログを読んでいただきありがとうございます。
海外のオペラハウスの来日公演はチケット代が高いので行ったことがありませんが、今回の主要キャストと演奏が『ワルキューレ』を鑑賞して、これ以上何を望むのかと思うほど満足いたしました。