ザルツブルグを愛し、愛されたモーツァルトの運命を変えた決断
ザルツブルグとモーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart in Salzburg

写真;モーツァルトが1766年12月に交響曲作曲家として地元デビューを果たしたザルツブルク大聖堂
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは世界中の音楽ファンに愛されている偉大な作曲家です。ザルツブルクは、モーツァルトが1756年に誕生してから25歳まで住んでいた事で、音楽を愛する世界の人々にとっていわば巡礼地になっています。モーツァルトは350の作品をザルツブルクで作曲し、音楽家としてのキャリアを重ね、世界で最も重要で、最も多く演奏される作曲家としての名声をザルツブルクで築き上げました。

モーツァルトが誕生したといわれる家は、ゲトライデ通り9番地に所在する黄色い建物の4階にあり、現在はモーツァルト記念館として残されています。モーツァルトは、13歳のモーツァルトを宮廷楽団のコンサートマスターに任命されましたが、その時の愛用のピアノやヴァイオリンなどの楽器、自筆の楽譜のほか、父レオポルト、母アンナ、姉ナンネルをはじめとするモーツァルト一家の肖像画などが展示されています。
ザルツブルク時代のモーツアルト
「神童」と呼ばれた天才モーツァルトが5歳で宮殿の音楽会をひらき、はじめて自作のオペラを上演しました。ザルツブルグ時代のモーツァルトは宮廷に雇われている音楽家という身分ですので、大聖堂の宗教的行事のための作品、大司教の宮廷のための世俗的な作品が作曲の中心になりますが、モーツァルトはザルツブルグ時代からすでに世俗的な作品においても旺盛な作曲活動を行っています。大まかにいうと、ケッヘル作品番号で350番辺りまでがザルツブルグ時代の作品です。

オペラはその数が少ないのですが、それでも現在もその中のアリアが演奏会で取り上げられるオペラ作品に、「ポントの王ミトリダーテ」(1770年)、「ルチオ・シルラ」(1772年)、「羊飼いの王様」(1775年、コロレード大司教の依頼)等があります。
交響曲は、番号がついている41曲中33番まで、室内楽のディベルティメント、セレナードはほとんど全部(アイネ・クライネ・ナハト・ムジークはウィーン時代)、ヴァイオリン協奏曲はヴォルフガングの作品であることが確実な5曲すべて、弦楽四重奏曲は番号がついている23曲のうち13曲、ヴァイオリンソナタは同じく43曲中30曲、ピアノソナタが同じく17曲中9曲がザルツブルグ時代の作品です。声楽曲のうち、演奏会用アリアは番号がついていないので区別が難しいですが、58曲中25曲がザルツブルグ時代に作曲しています。
モーツアルトは1769年から1771年にかけてイタリア旅行を行い、ローマのシスティーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれています。ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学びました。学習の成果はすぐに現れませんでしたが、円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法とすることになります。モーツァルトはほとんどの音楽教育をザルツブルグ時代中に習得していたと考えられます、ザルツブルグ時代に、その後数々の名曲を柵渠するための技量を充分に備えていたものと考えられます。

モーツアルトの音楽家としての成長の糧となったのは、ヨーロッパ各国を旅して演奏活動しながら多くのことを学ぶ事でした。モーツアルト一家は1763年から1766年にかけてパリ、ロンドン、ネーデルラントを旅行し、フランス王妃、イギリス王妃。ネーデルラント王妃のためにヴァイオリンソナタ集を書き上げました。帰路、スイスを越えて続く中、ローザンヌやチューリッヒでも演奏会を開いています。1771年8月からてミラノに5か月滞在しオペラ『アルバのアスカーニョ(英語版)』の練習と本番に立ち会い、最後となるイタリア行きは1772年10月から1773年3月までのことでこれは最後の大きな旅行になりました。
しかし、新たにザルツブルクの領主司教となったヒエロニムス・フォン・コロレド伯爵は宮廷音楽家の任務についての考えが前任者と異なっており、レオポルトと、この時には宮廷に雇われていたモーツアルトがかつて謳歌したような自由を制限したのでした。

ザルツブルクとの別れの決断
「大司教の町」であったザルツブルクは、ウィーンのような有力貴族を欠いており、音楽をたしなむ階級が圧倒的に不足していました。モーツァルトは、家族とともに1762年にはウィーンへ演奏旅行で訪れ、大好評を博していました。
ここでモーツァルトは、人生の岐路となる決断をしました。モーツァルトはザルツブルクでの宮廷作曲家の職を辞し、ミュンヘン、マンハイムを皮切りに新天地に職を求めて旅立ったのは1777年、モーツァルト21歳のときでした。ミュンヘン、次いでマンハイムへ移り、マンハイム楽派の影響を受けたのに、その後、ウィーンに定住を決意すし、以降フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てることになります。1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』とオペラ『ドン・ジョヴァンニ』、1790年オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ)』 K.588を初演します。

しかし宮廷音楽家として庇護を受け、世間知らずで自由奔放な生活に慣れていたモーツァルトには、フリーの音楽家として厳しい世の中を渡っていく才覚も手腕、力量もありませんでした。モーツァルト自身の品行の悪さや浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれず生活が困窮します。これには。モーツァルトの天才に怖れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする憶説もあります。
1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番、9月にオペラ 『皇帝ティートの慈悲』9月30日、ジングシュピール 『魔笛』を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、11月から病状が悪化し、レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日35歳10ヶ月の若さでウィーンで世を去りました。
もし、モーツァルトがザルツブルクで音楽活動を続けていたら?
モーツアルトがザルツブルクを離れたのちの苦難と命を縮めた原因は、ザルツブルクでの宮廷作曲家の職を辞し、慎重な読みもなく、新天地でフリーの音楽家として生きる道を選択したしまったことだと思います。新たにザルツブルクの領主司教となったヒエロニムス・フォン・コロレド伯爵はモーツアルトがかつて謳歌したような自由を制限しようとしたと言っても、3年間のパリ、ロンドン、ネーデルラントからスイスを超えた大領湖に加えて、ミラノの半年近く滞在するなど旅に明け暮れた行動は、宮廷音楽家としては目に余るものと映るのは当然のことだと思います。本来音楽の理解者であった伯爵は、モーアルトに宮廷音楽家としての仕事を熱心に遂行してもらいたかったのであって、ザルツブルグにいても、その後ウィーンで作曲した交響曲第39番、第40番、第41番の3大交響曲、後期の弦楽四重奏曲集、ピアノ協奏曲の作曲はできたはずですし、時々ウィーンで演奏することまで制限することまでするはずもなく、オペラ『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ)』『魔笛』の作曲も行えぬはずだと思います。ザルツブルクの領主司教は当然宗教音楽の作曲も応援するはずですから、『レクイエム』だけでなくより優れた宗教音楽も作曲しえたはずです。何よりも、35歳という短命で世を去ることなく、残りの人生でより多くの円熟した交響曲、協奏曲やオペラを残してくれたと思います。恵まれたザルツブルクでの宮廷作曲家の職を短絡的に辞し、ウィーンでフリーの音楽家として活動する道を決断してしまったモーツアルトの行動は、音楽史にとって大きな損失であったのではないでしょうか。
参考文献:海老沢敏 (著) モーツァルトの生涯 1984/6
吉田秀和(著)、 モーツァルト その音楽と生涯 2014/8
モーツアルトは、バツハ、ヘンデルのポリフォニーに触れて、痛烈に震駭され率直にこの世界に身をさらし学びました。その後、彼の作品は大変な幅を増し、イタリア、フランス、ドイツの音楽の流れに身を浸し、それから自らの音楽を作り出したのだと思います。モーツアルトが、ポリフォニーとモノホニーの総合者として比類ない地位になったと考えています。
実は、この「モーツァルトの運命を変えた決断」というのは、全く私の自己流の解釈です。私が今まで読んだ本でこのような視点で書いているのを見たことがありません。専門家がこのような考え方をどう思われるか興味のある所ですが、特に異論をコメントしてくる方もいないので、結構当たっているのではないかと勝手に思っています。
モーツァルトがもっと長生きできていれば、どんな音楽を私たちに届けてくれたでしょうね!
『神モーツァルトと小鳥たちの世界』という本に、モーツァルトが鳥のさえずりの旋律を楽譜に書き込んだことという記述があります。自然の音からも、ふるさとの山水の色からも、子供のころから旅してきたヨーロッパ中の最先端の音楽からも、美しいものを沢山吸収して、彼の音楽は生まれたのでしょう。desireさんのブログをいつも拝見していると、そんなふうに思えます。
ps. ギャラリー扉のあおさぎのお写真も素敵ですね。
ザルツブルグは音楽の聖地と呼ばれており、ザルツブルグ音楽祭には世界中から名指揮者や名演奏家が集まります。いろいろ音楽祭がありますが、大作曲家と言われる人は、その地で音楽祭が開かれますが、個人を偲ぶ音楽祭でこれだけ世界集から人を集められるのは、モーツァルトだけです。ザルツブルグに留まって長生きしていたら、音楽の歴史は一変していたでしょうね。
snowdrop-momoさんのブログは日本調で、私の美意識からすればこの方が望ましいのですが、私の場合話のネタが西欧芸術の方が多いのと、エキサイトブログの画像の許容量が3割を切っているため、西欧の旅の記録はこのブログに収めたいという目標もあります。西洋かぶれでは決してないのですが、仏像や水墨画、浮世絵 のテーマを書く余裕がなく、残念ですね。
25年には祝祭劇場(現在の祝祭小劇場)が完成し、ワルター、トスカニーニ、フルトヴェングラー等が次々に登場して最盛期を迎えるが、ナチの台頭、それに続く第二次大戦で一時衰退。戦後はカラヤンの華々しい活躍の舞台として往年の名声を取り戻し、現在に至っている。
祝祭大劇場(1960年落成)他5つの会場でイヴェントが同時進行する。プログラムは、例年7月から8月末までの40日間にオペラ、コンサート、演劇あわせて150から170の公演が持たれ、時代の先端を行くアーティストが揃う。
2001年の私も参加した「ザルツブルク音楽祭オペラツアー」では、『イェヌーファ』(ガーディナー指揮:ベーレンス、マッテイラ出演)、『ナクソス島のアリアドネ』(ドホナーニ指揮:ポラスキー、デッセィ、グラハム出演)、『フィガロの結婚』(カンブルラン指揮:マルターラ演出、デノケ、エルツェ、シェーファー出演)、『コジ・ファン・トゥッテ』(ザグロセック指揮:ノイエンフェルス演出、カサローヴァ、トロートス、ハヴァラタ出演)等を観劇することができツアー参加者全員大満足であった。

