偉大な天才を生み、ヒットラー、スータリンを育てた街・ウィーン
Vienna
ウィーンの街を象徴する「リング」は、世界でも類のないもので、世界で最も美しい大通りに国を代表する重要な歴史的建築分が集中しています。「リング」の大規模な建設事業は。巨大な社会変革の始まりであり、新興の市民階級が政治経済への進出し、社会的にも確固たる地位を築き、建築や美術の分野でも飛躍的な発展をもたらしました。この150年の歴史における歳月は、明暗も含めた多彩な側面での変貌がありました。ウィーンという街の特殊性は、ハプスブルグ帝国の都という運命の影響も大きいと思います。
ハプスブルグ帝国は多くの文明を生み出しました。 フロイトの精神分析、ボルツマンの熱力学、ヴィトゲンシュタインの哲学、ホーフマンスタールの文学、シェーンベルクの十二音音楽、クリムトの前衛的美術などウィーンが生み出した文化はその後のヨーロッパの原理に成長していきました。これらは異質なもの同士の衝突と共鳴が生み出した成果とも考えられ、ハプスブルグ帝国の象徴ともいえるウィーンだから生み出されたものともいえると思います。
ウィーンは。ハプスブルグ帝国、オーストリア・ハンガリー二重帝国の都から,一挙に中欧の小国オーストリアの都に変貌しました。20世紀に入り、ヨーロッパの代表的な都市が巨大化、過密化現象にあった中で、ロンドン、パリと並び称されたかつてのハプスブルグ帝国の首都、ウィーンだけが人口が減少して20万都市にも至っていませんでした。ウィーンが城壁と堀に囲まれていたことが人口増加の歯止めとなっていたのかも知れません。
それが世紀末になって20万人程度の都市が、わずか二十~三十年の間に一挙に200万都市に変貌するという時代が生じました。どんどんウィーンになだれ込んでくる人たちの住居を確保しなければ収拾がつかなくなって、1857年、皇帝フランツヨーゼフがウィーンを囲んでいる城壁や堀を取り込むよう命じました。
ウィーン独特の環状通りが計画され、ウィーン独特のやり方で都市開発が行われました。ウィーンを特徴づけるリングシュトラーゼに沿って、国会議事堂、市庁舎、大学、劇場、博物館、高級ホテル、高級アパートが建築展示場のように並び、文化を守る砦の役割を担うことになりました。ウィーンの環状通りは、産業労働者などの貧しい人々の侵入を食い止める城壁の役割を果たすこととなりました。
ウィーンの環状通りの外側に建てられた下層階級の「賃貸兵舎」と呼ばれた集合住宅では。狭い階段と悪臭漂う廊下、共同水道と共同トイレ、狭くて居心地の悪いうす暗い部屋、無遠慮に騒音を立てる隣人たちと口やかましい家主、家賃が滞るなら容赦なく追い立てを食らうような生活でした。工業の実が提供できる高い賃金に惹かれてハンガリー人、スロバキア人、ユダヤ人がウィーンに移り住んできました。しかし彼らの住むこの年のスラムはヨーロッパでも最悪のもののひとつでした。
環状通り「リング」はウィーンという都市を明と暗にはっきり分けていました。希望と挫折、夢と現実、思想的な「意味」と「実在」、絵画における「光」と「影」、無意識の中のエロスとタナトス、エロスは「人間の根本的な生の衝動(性欲)」であり、タナトスは人間が自分を破壊しようとする「死の衝動」で、フロイトは正常な人間はこの2つが共存している状態であると考えました。ウィーンの下層階級の人々は、極限状態まで追い詰められていました。
精神の領域でもウィーンの世紀末文化を切り裂いている「二つの世界」は、ウィーンそのものでした。ウィーンの「リング」はかつてトルコ軍を防いだ城壁の役割を果たしました。 「リング」は自国の貧しい人々の流入を防ぐ無情な城壁かバリケードのように映ったに違いありません。
このような世紀末のウィーンは、多くの「異端児」「反逆児」を生み出しました。グスタブ・クリムトはこのような「賃貸兵舎」に育ちました。クリムトの弟子、エゴン・シーレはその極限状態でのエロスとタナトスの生々しい葛藤を赤裸々に描きました。フロイトの精神分析やシェーンベルクの十二音音楽も「異端児」「反逆児」だから成し得たことかも知れません。
しかし、世界の歴史を変えたウィーンが作り出した異端児は、アドルフ・ヒトラーでしょう。ヒトラーはウェーンで息の根を止められそうなどん底生活を味わい、自らの不遇、苦境、飢えを体験し、それに対する憤りが次第に、ウィーン文化を担い富を築いていくユダヤ人に対する憎しみに集中されていきます。20世紀のウィーンの学術、思想、芸術はヒットラーの敵となります。
同じ時期ウィーンには、ソビエトの過激な革命家、トロツキー、ソビエトの2代目最高指導者、スターリン、ユーゴスラビアの元帥、チトー、それに精神分析の創始者フロイトが同じ時期にすぐ近くに住んでいたのでした。当時のウィー社会に対する受け止め方や何を学んだかは、それぞれ異なると思いますが、少なくても過酷な格差社会の体験が、過激な指導者を生む土壌であったことは間違いないと思います。
ウィーンに集まってきた人々は「リング」の外に置かれ、「リング」を基本とした都市改造は一時的に過酷な格差社会の歪を生み出しました。その結果、現代の多くの大都市のように、旧市街の中とその近辺にはスラムの広がりは起こりませんでした。長期的な眼で見ると、都市の荒廃を防ぎ、文化の衰退からウィーンを護ることになりました。
ウィーンの郊外には潜在的に住宅地となりうる広大な18世紀の避暑地がありました。主要道路や商店街がある村の平屋の建物は、もっと効率的な高層の都会的な建物に建て替えることができました。平屋の村の建物を取り壊して、賃貸も可能なより高い建物に取り換えることが経済的に意味を持つようになりました。こうして郊外は、貴族の夏の別荘に加えて市民の住宅や公共的建物、教会、修道院、旅館、居酒屋などが建設され、年に吸収された農村の中核となりました。
「リング」は、新たな移住者を締め出す城壁の役割をしたことは間違いありませんが、「リング」が設けられたからこそ、ウィーンは、他の大都市のような歓楽街やスラム街が混入し、悲惨に汚染された現代都市の運命から免れたといえると考えられます。ウィーンが、大都市にもかかわらず今でも世界で有数の美しい街・ウィーンであり続けたことは、ヨーロッパの都市計画に大きな示唆を与え、小国の都でありながらヨーロッパの象徴的な都市となったのだと思います。
経済発展を優先し、規制緩和を進める仁日本をはじめとするアジア諸国をはじめとする主要都市が煩雑で美しさを失い地方都市が疲弊していくのに対し、厳しい規制で美しく住みやすい街並みを維持して、地方都市も含めて個人商店が生き生きと科とどうしているドイツやオーストリアなどの美しい街並みをあるいていると、規制緩和一辺倒の経済政策が本当に国民の生活をよくしているのか、感がせられさせられました。
参考文献
トビタテジャーナル「ウィーンからアリアドネの糸を追って」Apr 3, 2015
伊藤 雅春, 小林 郁雄, 澤田 雅浩 「都市計画とまちづくりがわかる本」2017
ワールド航空サービス「ウィーンの歴史〜 リング通り150周年」2015
アルチンボルドは、ルチンボルドはウィーンにて フェルディナント1世の宮廷画家となり。野菜や果物、木の根などで構成された独特の肖像画をたくさん描いていますね、彼の作品については、風変わりなものに魅了されていたルネサンス期を反映しているものであって、彼が精神的病の産物ではないと考えるの図普通のようです。