早く生まれ過ぎた画家・ゴッホのゴーギャンとの共同生活は、なぜ破たんしたのか
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)とポール・ゴーギャン(1848-1903)は19世紀末に名を刻み、その後の美術史に大きな影響を与えました。この二人の個性的な天才画家が、南アルルで共同生活を送り、お互いにその後の画業に影響を与えました。しかし、共同生活は2か月で破綻しました。
二人の出会いはゴッホがパリで開いた個展にゴーギャンが訪れた時が始まりと言われています。都ゴッホの夢は、才能ある芸術家と共同生活を行いながら制作活動をすることでした。都会暮らしで体調を壊すことが多かったゴッホは、アルルに移り住み、彼が才能を認めていた画家たちに手紙を贈りました。この誘いに応じたのがゴッホより5歳年上のゴーギャンでした。ゴッホは尊敬するゴーギャンのために「黄色い家」にひまわりの絵で部屋を飾りました。
ゴッホとゴーギャンは、1888年10月、南仏アルルでゴッホが住んでいた「黄色い家」で共同生活を始めました。ゴッホからの度重なる要請にゴーギャンが折れた形で始まった生活は、強烈な個性がぶつかり合う絵画の実験場でした。ふたりは連れ立って、古代ローマの石棺が並ぶ「アリスカン」なる小道をモチーフに連作を描く。十一月はじめにはカフェの女主人をモデルに「アルルの女」を競作し、同月末にはお互いの椅子を、続いて郵便屋の一家を揃ってモチーフとした。ゴッホの耳切り事件で終わるまでの二カ月間、ゴッホは三十七点、ゴーギャンは二十一点の作品を描きました。速描きのゴッホはともあれ、ゴーギャンの制作量としては異例の多さに驚きます。点数だけをみても、共同生活がいかに濃密な時間であったかがよくわかります。
ゴッホにとってゴーギャンとの共同生活は少なくても当初は新鮮な体験で楽しい毎日でした。ゴッホはゴーギャンを「詩人」呼んでいました。ゴーギャンが想像や思考から絵画世界を広げていくアプローチに驚き、尊敬していました。ゴーギャンは「芸術は自然の象徴なのだ。自然の前で夢を見つつ、そこから抽象を作り出すのだ。」と言って、ゴッホに「完全に想像から描く」よう指導し、励まし続けました。記憶や想像から作品を制作することを好むゴーギャンの影響を受け、ゴッホも新たな表現に挑戦し、ゴッホが想像に基づく制作を試みる契機となりました。
ゴーギャンも新たな展開を見せ、広く平らな色面を用い、現実の形態や色彩を変え、想像に基づいて絵を描くことをさらに重視していきました。
ゴッホ『グラスに生けた花咲くアーモンドの小枝』1888年77
ゴッホは花咲くアーモンドの小枝をホテルに持ち帰り、グラスに生けてこの作品を描きました。ゴッホが魅了されていた浮世絵の鮮やかな色彩と簡潔な洗練された構図の影響を認めることができます。
ゴーギャン『アルルの洗濯女』1888年
色面を用いた抽象的な画面で、高い視点を採用し洗濯する女性を見下ろすように描いています。日々の生活の情景、詩的に美しい絵画空間に高められ、夢の中の出来事のような印象を与えます。洗濯する女性を見つめる後ろの人物は、年齢を重ねた彼女自身のようにも見えます。前景にはゴーギャンが求めた素朴な農村らしさを強調するようにヤギが描かれています。
ゴッホ『アルルのダンスホール』1888年
ゴッホのアルル滞在期の代表的作例のひとつで、ゴーギャンと共に共同生活を送りながら制作活動をおこなっていた1888年に制作した作品で、アルルのレ・リス大通りに面するフォリー・アルレジエンヌ劇場祝祭の夕べの情景を描いた作品です。画面の手前から奥まで無数に描き込まれる人々が犇めき合う様にダンスホールで踊りに興じていて、独特の退廃性に溢れている印象を感じます。描かれる人々も、流行の衣服に身を包む人、伝統的な衣服を着こなす人など多様で混沌としています。画面右側に描かれている唯一観る人と視線を合わせる女性は、ゴッホがアルルを去るまで援助を続けていた郵便配達人ジョゼフ・ルーランの妻ルーラン夫人です。フォリー・アルレジエンヌ劇場の奥や二階にも無数の人々が配されると共に、原色の円で表現される黄色の光がそれらと効果的に呼応しています。一見ゴーギャンの作品と見間違うほど、ゴーギャンの画風を踏襲した作品です。
この作品にはゴーギャンに対する理解と共感を示すかのようなクロワゾニスム的表現が見られ、太く明確な輪郭線によって描写される人々は線と色面とが強烈に誇張され、極めて装飾的に表現となっています。奥行きを感じさせない平面性や日本趣味的な水平と垂直の強調、毒々しい印象すら抱かせる独自の奇抜で原色的な色彩の使用も、ゴッホのゴーギャンの個性に対する歩み寄り感じます。
ゴッホ『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ』
建物の白や青、植物の緑など様々な絵の具が薄く塗られていて、パリ郊外のレストランの華やいだ情景を描いています。ゴッホの作品にしては肩の力が抜けたような 描き方で哀愁すら感じさせます。この作品にゴッホの晩年の作品のような張り詰めた緊張感はありません。パリの画家仲間らと親しく交わりながら筆を走らせた明るさが感じらくつろぎすら感じさせます。
しかし、ゴッホとゴーギャンの共同生活は2か月で破綻しました。この二人の関係がなぜ僅か2か月で破たんしてしまったのでしょうか。
ゴッホとゴーギャンの性格気質の違い
ゴッホは生まれつき人付き合いが苦手な内向的で、他人に関心のない性格だったようです。このため友達ができず社交性や社会生活に対する神尾が得方も稚拙だったようです。孤独だったゴッホがパリでロートレック始め、バリの才能ある前衛画家と知り合って芸術を語る機会に恵まれたことは、ゴッホにとって今まで体験したことのない幸せでしたが。世間知らずのゴッホはこの喜びに舞い上がってしまい、芸術家の共同体をつくることを夢見てアルルに移り、次々とパリで知り合った芸術家たちに手紙を送りました。しかし、この飛躍的な発想に賛同する人はなく、唯一ゴーギャンだけがこの呼びかけに応じました。ゴーギャンがゴッホの呼びかけに応じたのは全く絵が売れず、ゴッホの弟で画商のテオからの金銭的援助を得たいという打算的もあったようです。
友を得ゴッホは、ゴーギャンと連れたって、古代ローマの石棺が並ぶ「アリスカン」なる小道をモチーフに連作を描き、フェの女主人をモデルに「アルルの女」を競作し同じモチーフで作品を描き、二人で一緒にイーゼルを並べて制作したかったのです。
しかし、本来ゴーギャンは静かにひとりで思策を重ねながら湧き出してくる創造力で作品を描くタイプの人でした。ゴーギャンは毎日ゴッホにつきまとわれ、ゴーギャンの制作過程を見られているのは苦痛でしかありませんでした。ゴーギャンから見ると、ゴッホはゴーギャンの絵を気に入っているようですが、”こことそことあそこが間違っている”というように口を出してくることもありました。ゴーギャンは自分の絵をいじられるのは我慢ならない性格で、日常生活の細かな点ではいろいろ衝突していた様です。結局ゴッホとゴーギャンのふたりが幸福な共同生活をおくること自体無理だったのです。
写実主義のゴッホと
想像力にこだわるゴーギャンの考え方の違い
ゴーギャンは「自然をそのまま描くな」との信念を持っており、「万物の創造主である神のように創り出さなければならない」考えていた人でした。一方、ゴッホは「ぼくはモデルなしには仕事ができない。誇張もするし、時にはモチーフを変形もする。けれどもその結果、絵全体をでっちあげることはしない」とベルナール宛ての手紙と主張していました。これは明らかにゴーギャンに対する批判を意味しています。画家としての才能はあっても社会生活のバランス感覚に稚拙なゴッホには、自らの才能に自信を持って語るゴーギャンに、自分の美学を上手に伝えることなどできなかったのでしょう。ふたりの根本的な制作理念の衝突は、お互いの芸術理念を十分理解しきれず、認め合えなかったことが、奇たるべき「共同生活」の破たんの大きな要因だったいうのが一般的な理解のようです。
それでもふたりの互いのことを思っていたという事実にこの芸術家の心情、友情の複雑さを感じます。2人の椅子、すなわちゴッホ『ゴーギャンの椅子』とゴーギャン『肘掛け椅子のひまわり』が象徴的でと言えます。
ゴッホが描いたゴーギャンと
ゴーギャンが描いたゴッホ
2人は互いのことを思っていたという事実にこの芸術家の心情、友情の複雑さを思った。2人の椅子(ゴッホ『ゴーギャンの椅子』とゴーギャン『肘掛け椅子のひまわり』が象徴的である。
ゴッホは『ゴーギャンの椅子』
アルルでの共同生活が破綻する前を描いた作品です。ゴッホは生涯で1点しかゴーギャンの肖像画を描きませんでした。この作品では、ゴーギャンが使っていた椅子によって、そこに座るべきゴーギャン自身の存在が表現されていますゴーギャン自身の姿は描かれていませんが、座面の蝋燭、二冊の小説本、床のカーペットと壁のガス灯など配置されたモチーフは、ゴーギャンの都会趣味と知性的な嗜好を表現しています。ゴーギャンの色彩理論の影響と思われる隣り合う色彩の高度の調和を感じさせます。ゴーギャンの椅子を描くことでその存在感が感じられる貴重な「象徴的肖像画」として位置付けられ貴重な作品となりました。『ゴーギャンの椅子』に描かれている蝋燭は、象徴的な意味をもつと同時にゴッホの心象をも映しています。
ゴーギャン『肘掛け椅子のひまわり』
ゴッホの死から11年後、ゴーギャンはタヒチでこの作品を描きました。ゴーギャンは友人に頼んでひまわりの種をヨーロッパからタヒチに取り寄せ、この作品を完成させました。ゴッホが好んで描いたモチーフノ「ひまわりは」ト「肘掛け椅子」を組み合わせることで亡き友に思いをはせました。この作品は、晩年のゴーギャンがゴッホを意識して描いた重要な作品といえます。アルルでの共同生活の後、再会がかなわなかったゴーギャンがゴッホに対する尊敬を込めた描いた傑作ではないでしょうか。
ゴッホの病気について
ゴッホの絵画は精神障害による激情や狂気が芸術的創造をもたらしたと考える人も多いように見られますので、ゴッホの絵画に魅力を感ずるものとして。ゴッホの名誉のため、ゴッホの絵画とゴッホの病気らについて正確な情報に基づき、ゴッホの絵画は、その知性と天賦の才能、絶えざる努力ゆえに晴らしく創造的で、精神障害による激情や狂気が芸術的創造の源ではないということを説明させていただきます。
アントワープでフィンセントは乏しい資金を画材やモデル代に回してしまったために満足に食事も摂れず、肉体的にぼろぼろになっていました。歯も10本以上が抜けかかっていました。栄養失調が原因でしょうが、他にも歯が抜ける理由があったようです。
歓楽の街アントワープでどうやら梅毒に罹患してしまったようなのです。アントワープ時代にゴッホが梅毒の診断を受けた時、既に彼は33歳でした。それから、アルルでのクリスマス直前の最初の発作性精神変調まで2年ちょっと経過しているにすぎません。
アルル時代の強烈な色彩は、軽躁状態と結びついているように考えられます。一方、発作性精神変調をくり返さなければ描かなかったかもしれないと感じさせる絵画もかなりあります。発作性精神変調の影響をはっきり指摘できるのは、サン・レミ時代の1890年3月から4月にかけて書いた「北の思い出」「農家(北の思い出)」「馬鈴薯を刈り入れる農夫」「雪に覆われた畑を掘る2人の農婦」などの作品群が考えられます。フィンセント特有の波打つ描線で描かれてはいますが、色彩の精気に乏しく、何だか、隙間だらけの印象を与える絵ばかりです。アルルでひどい発作性精神変調を起こして、2カ月間にわたって意識が充分に戻らなかった時期に描かれたものです。
発作の直前に描かれた「アルルの女(ジヌー夫人)」や「花咲くアーモンドの枝」にみられる見事な色彩と構成が一時失われています。しかし、その後しばらくしてから描かれた「黄色い背景の花瓶のアイリス」では、黄色い壁とテーブルを背景に花瓶、緑青色の葉、群青色の花が見事に構成され、強烈な輝きを放っています。この傑作から何らかの疾患へとつながる道を見つけることはできません。
ゴッホ最晩年の代表作『オーヴェールの教会(オーヴェールの聖堂)』はかの有名な耳切り事件後、精神的に不安定となったゴッホが、パリ北西のオーヴェール=シュル=オワーズで、画家の友人で精神科医のポール・ガシェのもとで治療・療養生活を過ごした最後の二ヶ月間で描かれた作品の中1点です。
空間が渦巻いた深い青色の空を背景に、逆光的に影の中に沈む重量感に溢れた『オーヴェールの教会』非常に厳めしい雰囲気を醸し出しています。構造的にほぼ正確に描かれていますが、波打つように激しく歪んでおり、教会の異様な近寄りがたい雰囲気を強調しています。これをゴッホの不安と苦痛に満ちた病的な心理・意識世界の反映と解釈する見方もありますが、私はこの作品を見て、ゴッホの画家として技術的・表現的な革新性溢れる個性的な表現と感じました。ゴッホ最晩年期の筆触の大きな特徴であるやや長めで直線的な筆使いと、この絵から感ずる精神的迫真性は比類ない迫力でした。画面中央から上部は暗く重々しい色彩ですが、下の部分は大地の生命力を感じさせる明瞭で鮮やか色彩が配されています。このような明確な色彩的対比はゴッホの作品の中でも秀逸で円熟期の作品のようにさえ思えてくるのです。
「その知性、天賦の才能、絶えざる努力ゆえにゴッホは素晴らしく創造的な人物であった。その疾病ゆえにではなく、その疾病にもかかわらず、かれは天才だった。この事実はゴッホの創造したものへの賞賛をいっそう高めることだろう」病気による発作に見舞われた後もその沈着な制作態度は変わりませんでした。彼の勢いのある筆使いタッチも「風景画のあるものは最大限の速さで描いたのに、僕の描いたものの中で一番いいのに気づいた。」という明瞭な自覚の上で行われたのです。ゴッホの作品の中に狂気を感ずる作品があることは事実ですが、それらの作品からゴッホの真の傑作を論ずるのは無意味だと思います。激情や狂気でゴッホの真の傑作は制作するのは不可能だと思います。激情や狂気が芸術的創造をもたらしたと認識するのは愚かな取り違えで、ゴッホの実像を大きくゆがめるものだと思います。
ゴッホが画家として本格的に活動したのは自殺する前の10年間程度でした。画家として名を知られ、絵を売れるまである程度時間がかかるのは当然で、ゴッホは生涯絵が売れなかった、と決めつけるのも短絡的だと思います。ゴッホが精神障害を発症したのは、さまざまな要因が重なった結果で、リキュールの一種「アブサン」などの過度の飲酒、乱れた食生活に加えて、ゴッホが敬愛したゴーギャンとの関係の悪化も原因と考えられています。耳切り事件の後、病気の症状が出るたびに再発するのではないかという恐れが強まり、その恐怖心が2年後の自殺につながったと考えられています。ゴッホが自信家で自己主張の強いゴーギャンと出会ったのは、もしかしたらゴッホの最大の不運だったのかもしれません。もちろん、これはゴーギャンの責任ではありませんが、精神的病気が悪化することなく、自殺せずにもっと長生きしていれば、ゴッホは多くの人に知られ、絵も売れて、また違った人生もあったかもしれません。しかし、これも運命なのでしょうね。
参考文献:
ゴッホとゴーギャン展 公式カタログ
VincentVan Gohg , 木下長宏 訳「ゴッホ自画像の告白 」1999/1
ゴッホ (著)二見史郎、他訳「ファン・ゴッホの手紙」 みすず書房
フランソワーズカシャン 「ゴーギャン―私の中の野性」
(知の再発見双書) 1992
二見史郎「ファン・ゴッホ詳伝」2010 みすず書房
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「ゴッホが南仏アルルを、ゴッホ自身は『南仏の日本』と思い込んでいたのはなぜか?温暖な地中海性気候は、日本の瀬戸内海を思わせ、澄み切った大気と明るい陽光に恵まれたアルルを、南仏の日本と思ったのは無理できなくもないと思います。ゴッホは、自分の絵を浮世絵のような作品と見なし、アルルを南仏の日本だと思い込んでしまったののは思い込みの激しいゴッホの性格から来ていると思います。
東の果ての国・日本に憧れていたゴッホが、なぜアルルに行ったのかは、これについてきちんとした回答は、どの本にも書いておらず、まったくわかりませんでした。
Hara_Mearyさんのお話は、この疑問に対して、ひとつの可能性のある回答で、思い込観の激しいごつほだつたらありうる話だと感じました。
貴重な見ご意見ありがとうございました。
この記事も素晴らしいですね、、と言いながら私の知識、見識不足で分からない所も多々ありますが、興味深く読まさせていただきました
誰かが書いていました。
それほどに気に障る人だったようです。
ゴッホの最後の理解者のテオは、
ゴッホから来る手紙を煩わしく思っていて、それがゴッホの耳に入ったのが自殺の原因と聞いた事があります。
コーギャンはタシチ(だったけ)で、存分な絵画を残してと聞いています。
ところが、ある病気が流行った結果、幾つもの、その絵と家は焼き払われてとか・・・
残っていれば億以上の価値が手に入ったはずですが・・・
それも運命でしょうか・・・
ゴッホの繊細の人とゴーギャンのダイナミックな人が上手くいくわけがないと後では理解できても当事者には最高の友情が築けると思ったのでしょうね。悲しすぎますね!テオがもう少し生きてくれれば二人の努力が報われたかもしれませんが・・・
晩年の最近の絵には従来になかった色彩の美しさがあります。ゴッホはそれを乗り越え遠くへ進んでいる。もし形体の歪曲によって象徴的なものを見ようとする人々があれば、ゴッホの絵の多くにその象徴を見出す。いいかえれば自然や生物に関するきみの思想の縮図の表現にそれがみとめられます。画面のうねりや歪み、渦巻く星たちは、ゴッホが意識的に計算して描いたものである比重が高いように思えます。宇宙観や自然観、宗教観など人間精神の奥底や不可視の領域を描きだす手段だったのかも知れません。
『オーベールの教会』のように、歪んでいても辻褄が合っているゴッホの絵画について、あれは、遠近法が成り立つか、ぎりぎりの臨界点を探った絵ではないのか」。そうかも知れない。ゴッホは写実描写の限界を探っていたのか?という説もあります。
そんなポール・ゴーギャンにも、画家としての名声がわきあがる時期が来たのは、ゴーギャンが死ぬ直前でした。南洋の絶島にいるゴーギャンにとっては、作品が売れるようになって、金が入るようになっても、いまさら金に何の意味があるというのか。天涯孤独の身になったゴーギャンにとっては、金も名声ももはや何の意味をもたなくなっていました。ゴーギャンは、南洋の絶島のようなところで人生最後の日々を死に向かって生きていたような状態でした。
このように、ポール・ゴーギャンは、芸術家としては、後世に偉大な影響を及ぼした。20世紀の芸術は、ポール・ゴーギャンなしでは考えられない。ピカソもマティスも、またシャガールもゴーギャンの申し子といってよい。タヒチ時代鮮やかな色彩については言うに及ばず、フォルムについても、その独特の単純さが、かえって無限のインスピレーションを見ているものに及ぼした。そのインスピレーションが20世紀の芸術を駆動してきたのであり、ゴーギャンこそはそのインスピレーションの源でした。
その逆もあります。
生きているときは評価は高かったが、亡くなって、後に評価が亡くなった画家も多々います。
ただ評価が無くなったことで、その名声も消えてしまうので、その評価の痕跡は残りません。
亡くなった後で評価が上がる画家を悲劇の人と見る事は、私はどうも違うように思えます。
この画家は、後の評価を期待して描いたわけではないからです。
この画家は、生活の困窮さえも気にならず(有名な画家のほとんどが低層界の人)、
己の突き上がる情熱に支えられて、描きたいように描き、精一杯、描く事に人生を捧げたのですから。
ある意味、実に充実した人生だったと思います。
もう一つ、「絵画の価格」は「金の価格」と同じで世界的に認定されたな金銭的な価値だと思います。
その価値は、絵画的表現的な価値とは違う気がします。
投機的価値だと思います。
ですから大和絵、浮世絵などの日本画や版画などは美しく思うので観に行きます。
現在は版画家の小暮真望の風景版画観るの楽しみにしてます。