北斎の魅力・比類なき凄い才能 北斎と広重の違い 北歳の娘・応為
葛飾北斎
Hokusai& his daughter, Oei
北斎は生涯の中で多様に画風を変化させ、改号をおこないました。1778年(安永7年)写実的役者絵で人気の高かった浮世絵師・勝川春章の弟子入りし、勝川春朗を拝命しています。1794年(寛政6年)琳派の創始者である俵屋宗達一派の流れを汲む北斎宗理を襲名し画風が一変します。宗理号を二代目へと門人であった宗ニへと譲り、以後万物(自然)を唯一の師と崇めるようになりきいた。1805年(文化2年)から葛飾北斎号を用い始め、読本挿絵や肉筆画、『北斎漫画』に代表される絵手本などを手がけ絵師としての地位を磐石にくました。 (1835年(天保6年)「画狂老人卍」を名乗るまで30回にも及ぶ改号を行いました。
春朗期
安永8年 ~ 寛政6年(1779~1794) 20~35歳頃
20歳で勝川春朗と名乗り、役者絵や挿絵本を手がけました。
葛飾北斎期
文化2年~文化6年(1805~1809) 46~50歳頃
当時江戸で流行し始めた読本の挿絵に全力を傾注し「劇画的世界」を創りだしましました。肉筆画では、若々しい少女のような様子から大人の色香漂う艶冶な美人像を描きました。
戴斗期
文化7年~文政2年(1810~1819) 51~60歳頃
北斎の関心は絵手本に移ります。人気が高まるにつれ、有名な『北斎漫画』を含む多彩な絵手本を刊行し、大量の印刷本による手本は画期的でした。
為一期
文政3年~天保5年(1820~1834) 61~74歳頃
61歳となった北斎は、「冨嶽三十六景」をはじめとした北斎を代表する錦絵の揃物を次々と生み出していきました。風景画、名所絵はもとより、花鳥画や古典人物図、武者絵、幽霊などあらゆる対象に関心が向けられました。色鮮やかな錦絵の出版はわずか4年間ほどに集中しています。
画狂老人 卍期
天保6年~嘉永2年(1835~1849) 75~90歳頃
最晩年の北斎は肉筆画制作に傾注し、古典に取材した作品や花鳥、静物、宗教的な題材など浮世絵師の世界から離れ、独自の画境を追い求めていきます。描く対象の「一点一格」が生き生きとしたものになると信じ、筆を休めることはありませんでした。
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卓越した画面構成
『富嶽三十六景』など北斎の風景画をよく見ると、多くの作品が、気球で近景から遠景まで徐々に上昇しながら風景を見ているような、空中に浮遊したような体感を感ずることがあります。北斎の風景画は、静止しているはずなのですが、空中に浮遊すしながら空間をえぐるような、視線と身体が移動しているようにして、風景を空中から眺めるような感覚は北斎の風景画特有のものだと思います。
冨嶽三十六景『尾州不二見原』
冨嶽三十六景『江都駿河町三井見世略図』
三角の屋根と富士の対比と凧の構図は「東都浅艸本願寺」では通常見ることのできない高い位置からの視点で描かれているのに対して、この作品は、越後屋に訪れた客の視点、低い位置から見上げるように描かれています。この初摺りの版では職人の服装や遠方の木々に緑色が配されています。
冨嶽三十六景『甲州石班沢』
構図が極めて斬新で、岩と猟師の持っている網で富士山と同じ三角形を描いています。凄まじい画面構成力構成力は、この作品以外に冨嶽三十六景の中でも有名な『尾州不二見原』『神奈川沖浪裏』や総州銚子『千絵の海』など、多くの作品で作品を輝かしいものにしています。
『富士と笛吹童図』1839年ごろ)
葛飾北斎 78歳ごろの作品で、富士山を描いた作品ではあえて難しい構図で描いていますが、凄まじい構成力の中にも寂しさが漂い、極めて日本的情緒を感じさせます。
『九段・牛ケ淵(牛ケ渕)』( (1804〜07年) 葛飾北斎 43〜46歳頃
西洋画の技法の研究も行っていた北斎は、西洋画風の作品で、実験的にこのような凄いデフォルメの作品により、難しい画面構成に挑戦しています。
斬新な発想
冨嶽三十六景『尾州不二見原』『神奈川沖浪裏』の斬新な発想が魅力で、冨嶽三十六景でも人気の作品です。
諸国滝廻り『木曽路ノ奥阿弥陀ケ滝』
こちらは全国で有名な滝を描いた「諸国滝廻り」のシリーズの1枚です。流れ落ちる水の表情をどう描くかに主眼が置かれているそうですが、滝が落ちる前の川の流れをとらえるため、正面から捉えた滝と、空から見下ろした2つの異なる視点が合体しすごい描き方です。流れ落ちる直前の水と落ちていく水がまったく別物のようで、極めて斬新な滝の描き方となっています。葛飾北斎 72歳ごろの作品です。
『鍾馗騎獅図』(1844年) 葛飾北斎 83歳頃
北斎自らの長命・厄払いの願いを込めた作品と言われています。
魔を追い払う神「鍾馗)」が、魔除けの動物獅子に乗っています。魔除けを超えて、積極的に打ち払いに行こうとするこの迫力です。北斎が80歳を超えて描いたというところも驚くべき作品です。
北斎が描いたお化けは、北斎の斬新な発想が生きる恰好なテーマと言えます。当初は100枚のシリーズものだったらしいが現在確認されているのは5点のみです。
『お岩さん』(1831~32年/『百物語』より) 葛飾北斎 70〜71歳ごろ
北斎が百物語を画題として妖怪を描いた化物絵。四谷怪談のお岩さんを描いた作品。提灯に浮かび上がる恨めしげなお岩の形相の発想がすごいと思いました。
『小はだ小平二』(1831~32年/『百物語』より) 葛飾北斎 70〜71歳頃
当時出回っていたオランダの解剖書など科学書の知識が転用されたことがうかがえて、腐乱して白骨化した頭蓋の様子がリアルな表現は現代でも通用するものです。怖い絵でありながら、ポスターにしても良いようなデザイン性の高い構図が見事です。
動きと躍動感
北斎の作品に、北斎漫画に描かれた人々を見ればわかるように、本質的に動きと躍動感を大切にしていたと考えられます。
冨嶽三十六景 『神奈川沖浪裏』 (1831〜35年) 葛飾北斎 70〜74歳
波のせり上がり方や水しぶき、波頭の形状や陰影のつけ方など様々に部分が変化し、躍動的な迫力とリアリティが、見る人には大波が勢いよく迫ってくる感覚を与え、増幅させていまきす。北斎がよりリアルで、人を惹きつける波の表現と演出を追求した結果できあがったのが、傑作「神奈川沖浪裏」といえます。「神奈川沖浪裏」は真横からの視点で描いて、今にも飲み込まれそうな小舟と静かに聳える富士山の存在感とが見事に調和しています。歴史上もっとも有名な日本画のひとつであり、海外では「グレートウェーブ」と呼ばれ、世界の人々をも魅了する、北斎が遺した数多くの傑作のひとつです。
葛飾北斎 『手踊図』(1818~29年) 葛飾北斎 57〜68歳ごろ
北斎は、柔らかな身体を愛し、人間とその肉体に限りない愛情を注ぎました。動きのある美人の一瞬を切り取る名人芸は、北斎の真骨頂といえます。
このような動きのある美人画は、歌川国貞や歌川国芳が得意としており、リズムカルな動きの3人の美人画の連作に優れた作品が多くあります。国貞や国芳のリズムカルな動きは、北斎の影響と言われています。
北斎は、多彩な画家で、様々な分野で傑出した傑作を残しています。
北斎は、花鳥図も得意としており、多くの作品を描きました。その中でも、北斎 73歳ごろの作粗品、中版花鳥図『鶺鴒と藤』や『鶺鴒と藤』では、鋭い観察眼と柔らかく繊細な表現は、その道のスペシャリストの傑作に勝るとも劣らないと感じました。そのお洒落な感性は現代でも通用すると思います。
北斎 78歳ごろの作品『西瓜図』では、ただのスイカを描いているのですが、スイカの赤々とした断面とらせん状の剥かれた皮の表現は、不思議な妖しい世界に引き込まれていくようです。
北斎 72〜78歳ごろ、『肉筆画帖』シリーズも庶民に大流行しました。その中の一品『蛇と小鳥』は、一瞬を描いた作品ですが、構図の凄さは北斎ならではのものです。
北斎ですが武者絵でも素晴らしい作品を残しています。武者がとっくみあう2人の男のポーズは迫力と躍動感があります。
『渡辺の源吾綱 猪の熊入道雷雲』 『山本屋版武者絵』シリーズより
(1833〜35年) 葛飾北斎 72〜74歳ころ
『弘法大師修法図』 (1844〜47年ごろ)北斎 83〜86歳ごろ
西新井大師の寺宝手される作品です。弘法大師と真言宗の開祖・空海が疫神を調伏している場面を描いていますが、空海と疫神との静と動の渾身を込めた闘いを、驚嘆するような緊迫感と迫力で表現しています。
葛飾北斎 56歳の頃、名古屋の本願寺別院で120畳敷きの巨大な紙に即興で達磨を描き、人々を驚かせました。この作品は繊細で失われてしまいましたが、『大達磨揮毫の予告黒摺引き札』として、名古屋の人々に語り継がれています。
『鳳凰図屏風』 (1835年) 葛飾北斎 74歳ごろ
西新井大師の寺宝手される作品です。弘法大師と真言宗の開祖・空海が疫神を調伏している場面を描いていますが、空海と疫神との静と動の渾身を込めた闘いを、驚嘆するような緊迫感と迫力で表現しています。
葛飾北斎 56歳の頃、名古屋の本願寺別院で120畳敷きの巨大な紙に即興で達磨を描き、人々を驚かせました。この作品は繊細で失われてしまいましたが、『大達磨揮毫の予告黒摺引き札』として、名古屋の人々に語り継がれています。
『北斎漫画』(1814年〜) 葛飾北斎 53歳ごろ〜
『北斎漫画』は、葛飾北斎が絵手本として発行したスケッチ画集のようなものです。1812年から後援者で門人の牧墨僊宅に半年ほど逗留し300余りの下絵を描いたものが好評で、1878年までに全十五編が発行された。人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれています。
北斎は風景画から春画まで、この世に存在する万物やあらゆる現象からすべての植物に至るまで、無限の空間や時間の広がりも含めて、何でも描こうとしていたと言われています。『北斎漫画』はその集大成ともいえます。漫画と名付けたのは、「気の向くままに漫然と描いた画」という意味で、人々のさまざまな姿から、動植物、風景、道具、妖怪などなんでもあり。太った人ばかりを描いたものは思わず笑ってしまうほのぼの感にあふれています。北斎の死後、時代が明治に移ってもなお続編が刊行され続け、歴史的ロングセラーとなりました。『北斎漫画』は、海外では「ホクサイ・スケッチ」とも呼ばれ、西洋の画家に、新しいものの描き方を教えました。
卓越した色彩感
冨嶽三十六景 『凱風快晴』(1831〜35年) 北斎 70〜74歳
通称、赤富士人と呼ばれる『凱風快晴』は葛飾北斎の傑作中の傑作と言えます。鰯雲が配された青空の澄んだ青、点描とぼかし摺りの緑がかった裾野樹海に対して、富士の山肌の赤がひときわ鮮烈に見る人の心を捉えます。シンプルなわずか3色の構成から生まれた彩色の美しさは、海外でも驚きだったそうです。
冨嶽三十六景 甲州石班沢(1831〜35年) 北斎 70歳〜74歳ごろ
藍色の濃淡のみで仕上げた傑作です。プルシャンブルー、北斎ブルーとよばれたベロ藍色が鮮烈に心に響くほど美しく、この色使いは「青の革命)」と呼ばれているそうで。
『遊女図』(1810〜19年ごろ) 葛飾北斎 49〜58歳ごろ
中年期の作品で、幾重にもかさなる着物の柄と色使いがなんとも華やかです。この華やかな色彩感額は、幕末の浮世絵師、歌川国芳の芸術的な色彩の美しさを先取りしたものと言えます。
田植図(1843年) 葛飾北斎 82歳ごろ
田植えをする人々のかぶる笠の白い丸が印象的に使われています。西洋画的な雰囲気も感じられます、
年を重ねても進化する北斎
北斎は、狩野派・琳派など、さまざまな流派で学び、西洋絵画も取り入れ、年を重ねるごとに、さらに画風を洗練させていきました。
それでも北斎は、75歳で描いた『富岳百景』の後書で、「70歳より前は取るに足るようなものはなかった。)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。」と書いています。 「歳を重ねる程自分の絵は上手くなり、百何十歳になる頃には、一点一点が生きているようになるだろう」とも言っています。飽くなき向上心を生涯持ち続けた北斎は、80歳前後で浮世絵から離れ、もっぱら肉筆画を描くようになりました。
『八方睨み鳳凰図』下絵 (1848年) 葛飾北斎 87歳ごろ
長野県にある岩松院の天井に描かれた天井画でその大きさは畳21枚分。この大作を86歳から87歳までの1年かけて仕上げたというのは人間業とは思えません。
卓越した比類なき迫力、鮮烈な色彩、鳳凰の物凄い目力。力強さという表現をはるかに超越した、北斎の魂が込められている要です。実際の天井画は観たことがありませんが、今も当時の色彩と光沢を保ってそうです。老いてなお卓越した色彩感は、ただ凄いとしか言えません。
北斎はおよそ30回も雅号を変えました。この絵の雅号は「八十五老卍」。これは北斎が85歳の時にこの絵を描いたことを示しています。90歳で亡くなった北斎が、人生の終焉が迫る頃に描いた作品が次に紹介する作品です。
月みる虎図(1844年ごろ) 葛飾北斎 83歳ごろ
静かな満月の夜に、一頭の虎が笹の上に座り、その表情は本来の獰猛な虎とはかけ離れ、月夜を見てうっとりとしているように天を仰いています。虎は、深く何かを思っているような不思議な表情に描かれています。月を見てうっとりとしているようですが、何かを寂しく想っているようでもあります。
葛飾北斎が晩年に描いた肉筆画です。北斎には、実際に本物の虎を見る機会はなかったはずですので、その毛皮や他の画家の作品を見ながらデッサンを重ねたのかと思われます。地を掴むような鋭い爪は獰猛な野生の王者を感じさせますが、柔らかな毛並みは細い筆と太い筆を使い分け図画の中で、位置に対し色が連続的に変化させて、その暖かさと内に秘めた筋肉のしなやかさを並々ならぬ筆力で絶妙に表現しています。笹の葉は、墨一色で水墨画のように描いており、リアルに虎や背景を表現しています。
富士越龍図(1849年) 葛飾北斎 88歳ごろ
北斎が死の3ヶ月ほど前に描いたといわれこの作品が絶筆ともいわれています。天に昇る龍は死が近づくのを悟った北斎自身の姿かも知れません。
北斎斎は数え年90歳になって、この世を去りました。北斎の辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」でした。
生涯現役として描いた絵は3万点。「世界第一の画工になる」と本気で宣言し、80歳を越えても、「猫一匹も描けない。意のままにならない」と、悔し泣きをしたしました。奥義に極めた年齢のはずですが、北斎の最後の言葉は次のようなものでした。「天我をして五年の命を保たしめば真正の画工となること得べし 」まさにこれが、葛飾北斎だったのでした。
北斎の娘・応為の存在
応為の性格は、父の北斎に似た面が多く、男のような気質で任侠風を好み、衣食の貧しさなどには全く無頓着で、占いに凝ったり、女仙人になることに憧れたり、自由奔放な性格でした。そんな応為ですが、日本絵画史上屈指の天才。葛飾北斎という絵に魅入られた父を尊敬し、影で支える絵師として働き続ける道を選びました。
そして北斎の代表作である「富嶽三十六景」が完成した時にも、そばにはお栄がいました。父が高齢となり、思うままに筆を動かせなくなってからも、お栄は父の「影」として北斎の絵を描き続けました。北斎は眩しい光、自分はその影でいい。そうしてお栄は絵を描き続けました。
親子合作
『唐獅子図』(浮世絵師・葛飾北斎・応為の画)(1844年)
北斎 83歳ごろ
この鮮やかで力強い浮世絵。真ん中の獅子が葛飾北斎の作、周りの花を描いたのはその娘の葛飾応為。天才絵師2人による親子合作による傑作です。北斎の晩年の鮮やかな色彩感は、応為の影響によるという説もあります。
晩年の北斎の作品でも、作品には北斎の名だけが刻まれ、応為は北斎の作品に自分の名を刻むことはしませんでした。そのため、現存する応為の名が刻まれた作品は10点前後と非常に少ないのです。しかし、「北斎作」とされる作品の中にも、実際は応為の作もしくは北斎との共作が相当数あると考えられています。応為は、美人画においては北斎を超える力量であったと評価されることもあり、北斎晩年の作品制作を補佐していたと伝えられています。北斎八十歳以降の落款をもつ肉筆画は、八十を過ぎた老人にしては彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品が多く在り、このような作品を応為の代筆とみる意見もあります。
60歳を過ぎたお栄は、今まで日本の画家が全く気付かなかった「影が万事を形づけ、光がそれを浮かび上がらせる。この世は光と影でできている」という新しい真実に到達しました。これは、応為が北斎にはない独自の優れた光に対する感性を明らかにしたことを意味していると思います。
葛飾応為『吉原格子先之図』
応為の代表作「吉原格子先之図」は、交錯する光と影で吉原の夜の情景を表現したものです。小さい作品ですが、光と影を非常にうまく使っており、暗闇のなかに浮かびあがる遊女と遊客たちの姿は、どこか幻想的です。様々な絵師が光と影をたくみに表現した浮世絵作品の傑作です。格子に隠れてよく見えない遊女たちの顔で、はっきりと描かれるのは奥に座る1人のみですが、よく見ると鼻筋には白の配色が生きています。このような絶妙の細部の表現と緻密な細部描写には驚かされます。隠し落款があると言う 書画の中に、一見してわからないように応為の名や号を記してあります。
葛飾応為 『夜桜美人図』 メナード美術館蔵
広重と北斎の違い
広重は浮世絵師を志して歌川豊広に弟子入りし、円山応挙の影響を受けて写生を重視し、独自に腕を磨いていきました。広重35歳のとき、北斎の「冨嶽三十六景」を見ることになりました。72歳の老人が描いた富士山は、当時35歳の広重から見ても斬新かつ革新的で、大きな衝撃を受け、広重は衝撃を受けるとともに、意欲をかきたてられ、2年後、「東海道五拾三次」を送り出しました。北斎に対するライバル意識が。広重を浮世絵界でも屈指の画架に育つ原動力になったのかもしれません。
広重の感性は、自然を愛する日本人に寄り添う親しみ易さに通ずるものがあります。例えば、川沿いの並木の間に月が浮かぶ風情、奥に大名行列を配し、手前に魚売りを配した生活感、雨の坂道を行き交う人々息遣いが聞こえくるような光景など、どれも親しみやすい自然な風景を整然とした落ち着いた構図で描いています。
広重の作品にも、西洋の画家が真似をした彼らから見ると斬新な構図の作品も晩年の「名所江戸百景」の中にはには、『深川万年橋』『隅田川水神の森真崎』『京橋竹がし』『する賀てふ』など、歌川広重『名所江戸百景 亀戸梅屋舗』広重なりに奇抜な構図を狙った作品もある程度あります。
しかし、現在でしたら、少し工夫した良い写真の構図として使える可能性のあるもの、即ち、リアリズムの息の中にあり、北斎の現実にはあり得ない奇抜な躍動感のある動的な表現と比べると、静的でおとなしい作品という域を超えていないように感じます。やはり、広重の本領は繊細な写実と詩境からの脱皮ではなかったのではないかと考えさせられました。
歌川広重『名所江戸百景大はしあたけの夕立』
西洋の画家は北斎を理解し超えられたか
一昨年、東京西洋美術館で「北斎とジャポニスム」展が開催されてました。日本人に人気のある北斎と印象派、後期印象派などの人気画家の接点を結びつけようとする努力は認めますが、展示を見る限り、北斎の作品から西洋の画家たちは、自らの芸術は発展させるため、自らの芸術に都合の良いところだけを吸収したにすぎないのではないか率直に感じました。葛飾北斎」という日本美術史上屈指の画家を、西洋の画家たちは本当に理解して、自らの美術の中で昇華していけたのでしょうか。
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「北斎とジャポニスム」展に見られるように、後援者で門人の教本という発想が作成した『北斎漫画』は、西洋の画家の教本として役立つたことは理解できます。ゴッホ、セザンヌ、マネ、ドガ、モネ、ロートレック、ゴーギャンなど、感性の鋭い当時の前衛画や、エミール・ガレやドビュッシーも北斎の価値を理解していたような気がします。
しかし、それ以外は浮世絵本流の技法と、西洋人からは奇抜に見えた広重の『名所江戸百景』を参考にしたものです。浮世絵好きのゴッホが盛んに模写したのは、北斎でなく広重の『名所江戸百景』の作品でした。展示されている西洋絵画の中に、北斎絵画の本質であるぶっ飛ぶような激しい動きと躍動感、斬新な発想とそれを包括とした卓越した画面構成などの影響が感じられる作品は見当たりませんでした。北斎は日本の前衛画家であり、日本絵画の物珍しさに飛びついた一般的な西洋人に北斎の前衛性を理解するは無理だったと思います。 北斎に魅力を巣感じた優れた感性の画家や文化人がいたことは事実だと思いますが、北斎の絵を真似することも、自らの画風の中で昇華させることも難しかったのではないでしょうか。
北斎の浮き用に挑戦した画家が全くいなかったわけではありません。アンリ・リヴィエールという版画もできる画家が、北斎の『冨嶽三十六景』に触発されて、『エッフェル塔三十六景』を描きまました。 エッフェル塔を中心にしてパリの街並や風景、庶民の生活を浮世絵の手法で描きました、作品全体からは、浮世絵の題材、表現方法、構図、色彩がかんじられますが、この作品は北斎というより広重の作品に近く、北斎の動きと躍動感、斬新な発想、卓越した画面構成を感じさせるものではありませんでした。
北斎が海外で人気が出たきっかけは、1998年アメリのカラフ誌が、「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に日本人としてただ1人,葛飾北斎が選ばれ、それをきっかけに世界各地で北斎展が開催さ、北斎は世界ブランドとなったのではないでしょうか。
参考文献
浅野 秀剛 「北斎決定版」(別冊太陽 日本のこころ) 2010
キャサリン・ゴヴィエ著, モーゲンスタン陽子 訳 北斎と応為 彩流社
美術手帖【編】葛飾北斎―江戸から世界を魅了した画狂 彩流社
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それにしても深々とものすごい雪が降っており雪国育ちのRWも目がテン!関東でこんな雪景色は何ぶりでしょう!明日の通勤はどうなっちゃうのか心配ですね~!
最近の展覧会は、予想もしないようなものがものすごく子下り、よくわかりませんね。
北斎ジャポニズム展は、人が多く集まるようなないのにすごく混みましたね。
それを、されを上回ったのが「怖い絵」展、大した傑作も来ていないのになんでみんな見に行くのか、よくわかりません。
こんばんは何年かぶりの大雪で、府明日の出勤が大変ですね。
ブログ読ませていただきました。
北斎の奇想は「見立て」というのが、私の結論です。
私のブログに書いていますが「滝シリーズ」はキノコ、「富嶽三十六景」は歌舞伎、「橋シリーズ」は盗賊です。
たとえば「富嶽三十六景」の「茶摘み」ですが、茶摘みをしているのが芸者だと、なぜか皆さん気づかない。
「茶摘み芸者」=辰巳芸者のダジャレです。北斎はこんなのばっかです。
ukiyo-wasureさん の北斎のブログを 改めて全部読ませて頂きました。
非常に興味深い観点で書かれておられ、大変勉強になりました。
北斎について批判的に枯れている文献観たことがなかったので、ukiyo-wasureさんの視点で、作品を見直してみようと思います。
ただ、北斎が隠れキリスタンというのは、島原の乱以降の徳川幕府の大弾圧のあと、キリスト教の諸物も見ることができで、宣教師が絶滅していること時代に、キリスト教の教えを維持するのは無理かと思いました。
北斎と広重、なるほどこういう風に違うのですね。
広重の絵はいつも見る人に寄り添い、感情移入を誘いますが
北斎の絵はいつも先へ先へと「ぶっ飛」んでいて、見る人に「どうだい!」!と挑んでいる…
いいえ、人が見るころには、画家の心は次の絵に飛んでいる!そんな気がします。
「モネの目」とよく言われますが「北斎の目」も凄いですね。
見る事に執着する余り、波の尖った飛沫や、走る馬の脚の形まで見えてしまったのですから…
モネが光を見ていたのに対し、北斎は物の輪郭を見ていたようです。
娘のお栄の眼差しは少し違うところに向いていますね。
花と女、豊かな色彩、そして、より近代的な光と影…
きっと北斎にとってよい刺激になったことでしょう。
北斎の長寿は、ひょっとしたら彼女のおかげもあったかもしれない、といま気づきました。
ブログ拝見いたしました。
「北斎は日本の前衛画家であり、西洋人に北斎の前衛性を理解するは無理だったと思います。」
という観点はとても面白いと思いました。
私は北斎の作品、特に人物の動きの表現にはユーモアを感じ、当時の落語など時代背景の影響も大きいのではないかと思います。ユーモアのセンスが絵の前衛性に一役買っているのではないかと感じました。
「北斎の絵を真似することも、発展させることも難しかったのではないでしょうか。」
というご意見に関しては、真似という部分では当時の西洋人は北斎漫画を資料集として使っていた作家がいたようにも見受けられます。ガレの昆虫などは画集そのままで、驚きでした。パクリともいえますよね。しかしあの昆虫を素敵なガラスの花瓶にデザインしてしまうところが後世に残るガレのセンスなのでしょうね。
発展させるということに関しては、やはりそれぞれの作家の国や時代背景などバックボーンが違うので、難しいように思います。影響を受け昇華されたものは、その作家の作風で表現され、もはや別の作品になっていますよね。
今回の企画で北斎の影響を受けていると思われる絵が並んでいて、それが必ずしも証明されている正しい見地なのかどうかは不明でしたが、企画者の目の付け所は今までにない斬新なアイデアで面白いと感じました。
他のアートに関する記事もとても面白いので拝見させてください。
広重はジャンルは風景画ですが、春信、清長、歌麿の浮世絵正統派の流れをくんでいますので、ご指摘のように、見る人に寄り添い、感情移入を誘うところがあり、日本では、おそらく広重の方が好きな人が多いのではないでしょうか。
北斎は「富嶽三十六景」というベストセラーがあるので、誰でも北斎の名前は知っていると思いますが、逆に「富嶽三十六景」と「北斎漫画」でしか北斎を知らない人が多く、他の傑作にはなじみが薄いように思います。「北斎とジャポニズム」という展覧会は、そういう人を対象に演出されているような気がして、アンチテーゼ的なブログを書いてみました。
娘のお栄は、父の偉大さを理解するがゆえに、北斎の影武者のような人生を選んでしまいましたが、独立した浮世絵師としては、日本浮世絵史上屈指のさいのうを持っていたような気がます。
コメントを読ませて頂いて気が付きましたが、北斎にはたしかに、ユーモアのセンスと遊び心も重要な要素ですね。
私の「北斎の絵を真似することも、発展させることも難しかったのではないでしょうか。」とい表現は、ご指摘を受けて、あまりてきせつなひょうげんでなかったことに気が付きました。西洋の一流の才能ある画家が、真新しいかと言って真似をしたり、パクったりするはずはありませんね。まったく異次元のせく際の絵を発展させるこことなどありえませんね。ご指摘を受けて、「自らの画風の中で昇華させる」と改めます。
ガレは、色々なところからモチーフを見出し、自らの美意識で独自の芸術を生み出すひとに以前から大変魅力を感じていました。
私の記事は、一般の見方から逸脱したところがあり、今の主流の見方ではないところもありますが、ご興味をもって読んでくださると、嬉しい限りです。
浮世絵には余り興味が無く、どちらかというと
西洋画家に魅かれてる私は、しっかりとその背後迄考えて深く絵を通してリーディング出来ていませんでしたので、
コメントを頂いてブログを拝見しまして、バイブルに
出会った感覚でした。
努力=作られた物、必ずしも北斎から影響は受けたとは限らず参考にして自分の世界を広げたのかもしれない。
と思えてきました。
単にマスコミに流されてる音痴な私とは違う
素晴らしいブログに圧巻。
導いて頂き、ありがとうございます。
私も元々は、西洋画家が大好きで、ルネサンスから現代絵画まで、たくさんの絵に魅せられていました。
日本絵画に興味を持ったのは、実は浮世絵ではなく、尾形光琳などの琳派でした。
浮世絵は、西洋美術の傑作を見るのと同じ見方をすると、どこが良いのかわかりませんね。
美意識が全く違うのだと思います。
dezireさんの北斎のブログを全部読ませて頂きました。
非常に興味深い観点で書かれておられ、大変勉強になりました。
たしかに、1月24日のブログ冒頭に書かれたとおりですね。
私は、これまで絵画等に縁がない仕事のなかで現役を過ごしてきました。
しかし、長野県の北信地方に生まれ育ったことから、近くに北斎の作品があったことや、あの江戸時代後期にあって、なんと既成の枠を超えた発想ができたのか、また最晩年まで創作意欲が衰えなかったか、などに限りない驚きと魅力を感じ、彼に関心を持ち、仕事の傍ら、時々北斎関連の資料を漁ったものです。
北斎芸術の本質としてあげられた5つの視点も共感するところ大でした。
門外漢でありますが、今現在日本の閉塞した表現界が自由にのびのびするためにも、北斎の意味・本質を知る人が多くなってほしいですね。
ご指摘のように、北斎は江戸時代後期の庶民に閉塞感と退廃感が漂っていたころに、既成の枠を超えた斬新な絵を描き続けたことはすばらしく、当時の庶民に元気と勇気を与えたのではないでしょうか。
ある意味で現代の日本は当時の日本と似ているという専門家もおりますが、こういう時代こそ、現代の北斎の出現が待たれる所でしょう。
現代日本にも、草間彌生、横尾忠則、辰野登恵子、森村泰昌、坂本夏子など多様なアーテイスト入ると思いますが、私のような凡人には、北斎のような、心を魅了されたという体験を味わえませんでした。
美術鑑賞は本当に素人で、構図に対する視点などは持ち合わせておらずお恥ずかしい限りです。
北斎のコミカルな絵の数々にただただ感動しておりました。そして生涯にわたって絵を描き続けたその原動力というか、探究心に関しては一つの物を生涯追い求めるという意味で音楽を学ぶ姿勢と通じているので北斎の凄さをとにかく感じました。
80になった時、90になった時、果たして自分が音楽をどこまで表現する事ができるのだろうかと思いさせられました。
西洋の画家たちが北斎を理解したかどうかは分かりませんが、文化の違い、生活感の違い、美的感覚の違い、色んな意味で刺激を受けたに違いないと思います。そして、絵に対する想いをさらに強くしたのではないでしょうか。
北斎の娘さんお栄さんの事はこのブログで初めて知りました!ありがとうございます!光の表現力には本当に驚きました。
北斎の娘さんお栄の作品を始めて見た時、こんな浮世絵を書いていた人がいたのだと驚きました。 お栄は父北斎といつもともに仕事をしていたので、北斎が生きている間は、作品はすべて北斎の名で売られたため、お栄の名前は知られていませんでした。しかし、浮世絵に光と影を描いた浮世絵師は、江戸時代には現れず、西洋絵画の影響を受けた、明治時代の浮世絵師・小林清親が初めてです。お栄は、幸か不幸か北斎の影に隠れて浮世絵を描いていましたが、才能的には、広重や写楽レベルの天才だったかもしれないと思つています、
葛飾北斎は好きな浮世絵師です。「冨嶽三十六景」「北斎漫画」は有名でもちろん大好きですが、絵草子や摺物にも良い作品がたくさんあります。
父の画才と奇人ぶりを受け継いだお栄さんがどんな晩年を過ごし何処で最期を迎えたのか、明らかになってほしいと思います。
「北斎とジャポニズム展」は、いい作品が来ていたとは思いますが、少々展示が多すぎると感じました。予めテレビ番組を見ていかなければ見過ごしてしまったものもありそうでしたし、少し疲れました。不可能でしょうが、第一弾、第二弾くらいに分けて開催したら良かったのではというのが見終えた時の感想です。
美術/ドビュッシーと日本 / 新畑泰秀」『音楽と美術 : 印象派と象徴派のあいだで / 石橋財団ブリヂストン美術館,日本経済新聞社文化事業部編』
やや鑑賞から時が経ちましたけれど、北斎画と印象派作品ペアの数々は、興味深いと同時に、確かにややこじつけ?という訝しさもありつつ、よくぞ並べたものだ!と感心しました。
この所の愛読書「ユーミンとフランスの秘密の関係」の中で、美大で日本画専攻だったユーミンは、「すでにあった印象派に浮世絵が影響を与えたのではなく、印象派が出来上がっていく過程に浮世絵が大きく影響を及ぼしたということではないかと。」と述べていますが、
印象派の画家達が、本当に北斎画を理解して昇華できたか?という疑問が湧く程に、改めて、北斎の個性が浮世絵画家達の中でも結構際立っていた、ということでしょうか。
また、ユーミンは好きな浮世絵の一つとして「神奈川沖浪裏」を挙げて、「あの絵の構図は実際にはありえないアングルですよね。・・・描きたいもののためには、事実との整合性をすっとばすことにためらいがない、そのためにデフォルメやクローズアップをうまく使っているのが浮世絵なのだと思います。
『海を見ていた午後』という曲で、『ソーダ水の中を貨物船がとおる』という詞を書きました。・・・『山手のドルフィンに行ってソーダ水を飲みました』と言って下さる方がたくさんいるのです。でも『ソーダ水の中に貨物船は見えませんでした』と言われることもとても多い。
そう、実際にはグラスの中に貨物船を見ることはかなり難しいです。・・・でも、嘘ではなく、浮世絵と同じ、デフォルメなのだとわたしは思っています。・・・事実との整合性はさておき、歌の世界観としてそういうふうに見える。」と語っており、
私は常々ユーミン曲は、音楽ジャンルの印象派、とは思っており、でも北斎画(浮世絵)が時を超えて「海を見ていた午後」(ユーミン曲)に影響を与えていた?!かは定かではないですけれど、絵画と音楽という違うジャンルにおいての”デフォルメ”作用、というのはなるほど、と腑に落ちる所がありました。
やや話が逸れてしまいましたが、「海を見ていた午後」は、ハイ・ファイ・セット(山本潤子)版もありますけれど、私のハンドルネームの由来でもある永遠のマイベストアルバム「MISSLIM」中の曲でもあり、本人が語る北斎画との関連が結構印象的だったので抜粋、ご紹介しました。
ユーミンが浮世絵やフランス絵画に精通していることは初めて知りました。
「神奈川沖浪裏」は、世界でも類のない、斬新で卓越した構図と画面構成が素晴らしいですね。
印象派の画家達が、本当に北斎画を理解して昇華できたか?というもんだ艇に対しては。私の個人的見解ですが、絵を見ればわかるように、印象派の絵画と浮世絵は全く美意識が違うと思います。 印象派の絵画は、自らの絵画をより素晴らしいものにするために、浮世絵から彼らの美意識に会うものは積極的に取り入れていったのであって、北斎画を昇華しようという意識はなかったのではないでしょうか。
美意識的に浮世絵に近いのは、ミシャなどのポスターではないかと思いますが、ミシャにも譲れない個性があって、浮世絵と異質な美学を感じます。
ドビュッシーの交響詩「海」は北斎の「冨嶽三十六景~神奈川沖浪裏」に発想を得て作曲されたと言われていますが、異文化の本質的な違いを感じさせますね。
ドビュッシーは、音楽が人間的な存在や感情を超えて、不断の推進力を確定していく様を想像して交響詩《海》を作曲し田と考えると、北斎の『神奈川沖浪裏」は、ドビュッシーが音楽を作る推進力を与えたと考えることができると思います。交響詩「海」フィナーレ大波が落ちる様を、北斎のこの絵のいめーしを阿智間に浮かべて表現したのではないかと考えることもできるのではないでしょうか。、もちろん出来上がった音楽の全体象のイメージが全く違うのは、北斎とドビュッシーの芸実家として資質、美学のようなものが違うからだと思いますが、どんなところに共感できるものがあった画家だったのでしょうか。
また英語の先生も北斎が好きで理由を聞いたところ、自然を感じる、他の浮世絵も日本ぽくて好きだが北斎がいい、とのことでした。
やはり海外の人をも引き込むインパクトがあるのだろうと思いつつ、観察中です。
好きなことをして漫然として生きる、それが力になったのでしょうか?
コメントしようがないほどの素晴らしい作品ばかりです。まだまだ見たいですね
最近、東京とその近郊にある美術館によく行きます。
でもここはまだ。
ああ北斎、見たい!
3月に上京する機会があったら必ず行きます。
先日、鎌倉の葉祥明美術館へ行き、メルヘンの世界にうっとりしてきました。
北斎展は、2017年あべのハルカス美術館で開催された「北斎展」が最近では最高でしした。
https://desireart.exblog.jp/237993346/
もうすぐ、大阪市立美術館でフェルメール展が始まりますね。
京都、奈良は国宝のあるお寺は名年もかけて殆ど回りました.
古都、京都、奈良は中学生のころから、あこがれであり、心の故郷でした。