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心に残った自然とアート   

パリが愛した日本人画家は日本で評価されず、フランスで美術の才能を認められ開花

藤田嗣治

TsuguharuFoujita


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 画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968)は明治半ばの日本で生まれ、20世紀初めはエコール・ド・パリを代表される人気画家となり、晩年にはフランス国籍を取得して80年を超える人生の約半分をフランスで暮らしました。藤田嗣治没後50年目にあたり、日本、フランスなどの美術館の協力を経て、画家・レオナール・フジタの全貌を展示する大回顧展が東京都美術館で開催されました。 藤田嗣治の生涯の作品を網羅した今回の展示の機会に、藤田嗣治の作品を真っすぐ見つめれば、作品が放つ七色の多彩な光のいずれかが心に届いていると感じました。



Léonard Tsuguharu Foujita was aJapanese painter best known for his participation in the bohemian cultureduring of the 1910s in Montparnasse, Paris. Foujita’s strange yetrepresentational paintings often depict himself, cats, and women. He foundnearly immediate success in Paris and, despite having no connectionsbeforehand, Foujita was able to sell and live off his art. Born on November 27,1886 in Tokyo, Japan, he went on to study at the Tokyo National University ofFine Arts and Music in 1910. After his move to Paris, Foujita met and becamefriends with prominent avant-garde artists of the day like Pablo Picasso, HenriMatisse, Amedeo Modigliani, and Chaïm Soutine.



 藤田嗣治は家老の家柄に次男として生まれ、14歳で画家になることを決意して東京美術学校へ入学しました。当時の日本画壇では、アカデミーの古典的な骨格と印象派や象徴主義の影響を受けて折衷的で優美な外光派の画風のラファエル・コランの画風が評価されていました。ラファエル・コランから学んだ黒田清輝は、「近代洋画の父」といわれ移植文化としての西洋画の啓蒙とアカデミズム的美術教育の間で揺れ動き、振幅をみせていました。こんな時代的背景もあり、藤田嗣治の暗く古典的な趣の画風は評価されませんでした。


 藤田嗣治は芸術の都・パリへと向か、パリで、日本では考えられないほど自由な表現と画家の地位が認められていることを知った嗣治は、日本人の自分がパリを魅了する絵描きになってやると強く心に誓いました。愛する妻・登美子とパリで暮らすことを夢見ていましたが、貧しいながら画家として成功する感触を感じ始めていた嗣治は、成功するまで日本に戻らぬ決意は、最愛の登美子とも避けられぬ別れでした。



 藤田嗣治の作品展を何度も観てきましたが、毎回新しい発見があります。 今回改めて実感したのは、画風の多彩さでした。時代や生活した場所に応じてテーマから画風が目覚ましく変化していることでした。1910年代、藤田嗣治は20代後半でパリに渡って、ピカソやモディリアーニらと交流しながら、独自の画風を探求し続けました。



 異国の地でパリのモンパルナスに居を構え、まだ芽を出なかった傷心の嗣治を支えた2番目の妻・フェルナンド、モディリアーニ、シャイム・スーティン、パスキン、ザッキン、キスリングをはじめとする貧しくても高い志を持つ画家仲間との出会い、絵画制作に打ち込みました。初めての個展でパブロ・ピカソに注目され、日本では得られなかった多くの出逢いが、彼をFoujita”へと変化させていきました。



■乳白色の肌

「五人の裸婦」1923年、東京国立近代美術館)


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 裸婦の肌は照りを抑えた真珠のように滑らかです。乳白色の肌を作り上げるため、自ら布を探し、塗料や塗り方まで研究し尽くし、その肌を縁取る輪郭線は流れるように繊細です。日本画で使われる極細の「面相筆」を使って墨で描かれています。


 921年、サロン・ドートンヌで独特の「乳白色の肌」と精緻な表現がパリで決定的評価を勝ち取りました。 パリへ来て8年もの極貧生活の中、血の滲む努力で ”素晴らしき乳白色の肌”と絶賛される独自の方法を生み出したもので、どの芸術家にもないなまめかしく気品を纏う平滑な白いキャンバス地に墨で描かれるほのかな陰影の表現でした。日本の面相筆で細いい輪郭線を描き、透明感のある下地をつくり、浮世絵のように下地をあえて残して肌として見せるという和と洋の融合に行きつきました。裸婦やモチーフをくっきりと縁取る線描と細く流れるような輪郭線、画中の版画や布地の文様などの細部を手で描きだしています。 Foujita”は色を塗るのではなく、浮世絵のようにキャンバスの地をそのまま肌にいかすことで肌のような柔らかな質感を生み出しました。 サロン・ドートンヌに出品した「私の部屋 目覚まし時計のある静物」、「自画像」、「寝室の裸婦キキ」の三つの作品で、その中で最も高い評価を得たのは、キキをモデルに描いた裸婦像でした。1922年の作でパリ近代美術館に収蔵された「寝室の裸婦キキ」が出品作の印章を最もよく伝えていると考えられます。




「裸婦 長い髪のキキ」


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 藤田嗣治の肌は、「乳白色の肌」と呼ばれ、「グラン・フォン・ブラン(素晴らしい白い地)」という形容で絶賛され、その後数年間に亘り、藤田嗣治の人気を支えました。戦時下のパリで苦闘を続けた藤田は遂に自らの独自の技法を打ち立て、ヨーロッパ美術史に新たな1ページを付け加えることになりました。「乳白色の肌」の技法については、藤田嗣治は生涯秘密にし、決して明かそうとしませんでした。 パリの評論家たちを驚かせたのは華麗な黒の輪郭線でした。その輪郭線を藤田嗣治は日本画の面相筆を使って描きました。油絵に日本画の技法を持ち込んだ藤田嗣治の独創でした。


In 1919 and 1920, six works of Foujita wereselected in the Salon d'Automne. He was highly praised for his delicate linesof the female body, and the milky white color that was an original feature interms of style. Blending the traditional Ukio-e style and the ParisianModernism into his own way of expression, Foujita was able to assure hisposition as an international artist.



「裸婦」 1923

 細部がつぶれてしまって惜しいですが、体の輪郭線は1mを越える黒い描線により優美かつ流麗に、しかし正確にとらえられています。 柄の描き方も独特で、当時のパリ画壇において、衝撃的な表現技術だったであろうことは想像に難くない。 日本画から多くの啓示を得たと思われる藤田嗣治独特の突き抜けた表現は、パリ芸術界における第2のジャポニズムを生みました。



「生誕 於巴里」1918


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 親交を深めていたモディリアーニにも似た初期の藤田嗣治が描く人物はどこか陰鬱さを纏います。 黒田清輝ら紫派の画家には馴染めなかった、沈み込むような陰鬱さは、パリの頽廃的な雰囲気と融合することで独自の魅力が開花していきました。



「寝室の裸婦キキ」 1922


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 ”モンパルナスの女王”と呼ばれたキキがモデルで、マネ「オランピア」を模したような構図は、西洋絵画の傑作に挑戦する意気込みが窺われます。全体の色調を抑えることで、漆黒の背景に浮かび上がる素晴らしき乳白色の肌の色により肢体の優美さが強調され、藤田嗣治の体に流れる日本人の血が流れているがゆえに西洋人には斬新な表現に映ったのでしょう。 藤田嗣治は、北斎が好きだったそうですが、画面に流れる静けさと極限までデフォルメした輪郭に繊細な細部描写は北斎の影響が感じられます。


 「乳白色の肌」をどのようにして描いたのかは最近まで解明されていませんでした。 ”Foujita”キャンバス布として選んだのは、シーツとして使われていた繊維の細かく目が細かい、表面の滑らかな布でした。自らこの布をキャンバスに貼り、下地として白色顔料を塗りました。Foujita”はさらに独自のプロセスを加え、炭酸カルシウムは、オイルで溶くと色が白から黄土色に変化し、これを1:3の割合で白い絵の具に混ぜたものを先ほどの下地に重ねると、キャンバスに象牙色の柔らかい質感がでることを発見し、最後にキャンバスのテカりを抑えるためタルクを塗りこんで理想のキャンバスが完成しました。 ”Foujitaは、こうして一躍パリの売れっ子へと躍り出たのでした。



「横たわる裸婦」  1922年   ニーム美術館


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 1920年頃に「乳白色の下地」を考案した藤田は、女性の透明感のある肌合いを作品自体の表面の平滑さや絵肌を素材の選択、技法によって創り出しました。藤田嗣治は、絵肌そのものの美しさが魅力となりえる作品を創造することを目指していまとした。この作品は藤田嗣治が描いた最初期の裸婦像の一つで、漆黒の背景のコントラストの中に、線描による裸婦を表し、その柔肌と素肌の美しさを際立たせています。



「裸婦像 長い髪のユキ」 1923年 ユニマットグループ


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 藤田嗣治のモデルであり、後に二番目の夫人となるキキの裸婦像を描いたもので、藤田嗣治に最初の大金をもたらすことになったのは、キキをモデルにした裸婦像であったと言われています。パリの大コレクター、ゲインラン夫人に8000フランで買い上げられたそうです。藤田嗣治は一躍「サロンの寵児」と呼ばれるようになり、サロン・ドートンヌの審査員にも推挙されました。




「仮面舞踏会の前」   1925年  大原美術館


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 仮面舞踏会で出番を待つ女性たちが描かれています。画面中央の裸婦が当時一緒に暮らしていて、肌が白いので藤田嗣治がユキと名付けた女性、その左の着衣の小柄な女性がロシア人画家マリー・ヴァシリエフです。布の模様の描写は抑えられ、色も淡彩で、画面全体が「乳白色の下地」の絵肌で統一されています。ユキの肌を表した温かみのある白い質感の印象が強く、彼女の足元の黒い仮面が際立っています。1925年のサロン・デュイルリー出品作です。




「五人の裸婦」 1925年   東京国立近代美術館


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 1923年末にサロン・ドートンヌで発表したこの作品は、初めて群像に挑んだ意欲作です。西洋絵画の王道ともいうべき裸婦で評価を得た藤田嗣治は、群像表現でより高い水準に到達を目指しステップアップを図りました。花柄のある天蓋のかかるベッドの前で、それぞれポーズを取る裸婦たちは、しなやかに体の曲線を強調しながらも堂々とした姿で、伝統的な絵画の女神のようです。 格調高い構図を意識して5人がW字を描くように対称に配置し、画面に安定感を生み出しています。西洋絵画の歴史の中で格別の位置を占めるテーマとされていた群像表現の挑戦は、西洋絵画の伝統に藤田嗣治がもう一歩踏み込んで、5人の裸婦がそれぞれ五感を表しているという見方も出来ます。左端の布を持つ裸婦が蝕角、耳を押さえるポーズの女性が聴覚、口を指すポーズは味覚、犬を伴った裸婦が嗅覚、中央の裸婦が視覚を表現し、彼女を中央に置くことで視覚の優位性を示して、視覚の芸術である絵画の優位性を示す伝統的な手法の一つです。裸婦の「肌」を表現するという上でも重要な役割を果たしているのが、ベッドの天蓋と裸婦の足元の「ジュイ布」と呼ばれるアンチークのフランス更紗で藤田嗣治のお気に入りのモティーフです。サロンで展示した際に顧客がこの布の細部をよく見ようと画面に接近することを想定して描いています。超絶技巧な布で観る人を誘い込み、一番見せたい「乳白色の裸婦の肌」を直ぐ近くで見せる仕掛けで、藤田嗣治が西洋絵画の神髄に真っ向から挑んだ作品といえます。藤田嗣治のこれまでのサロン出品作の最高額となる25,000フランの値がつけられました。



「砂の上で」 1925年  姫路市立美術館

 1925年サロン・ドートンヌ出品作。 砂浜でまどろむ二人の裸婦と幼児、その周りにはバケツやスコップ、さまざまな種類の貝殻が散らばっています。奇譚に横長の画面に配された人物の構図は藤田嗣治の関心が群像構成に向かっていたことを示しています。また非現実的な雰囲気は、同時代のシュルレアリスムの美術や映画の幻想的な海のイメージを連想させます。


「裸婦」  1927年   ベルギー王立美術館


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 この作品は、1920年代から30年代のパリの日本人芸術家たちの経済的支援者として名を馳せた資産家・社交人、薩摩次郎八により、1928年にベルギー王立美術館に寄贈されました。1920年代初期の裸婦像と異なり、ここでは女性の腰をひねり、肘も曲げていることなどから身体全体に動きが見られ、陰影も強調され、彫刻的な立体感が際立っています。




「友情」  1924年  ポンピドー・センター


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 1924年のサロン・ドートンヌに出品した2作品の内の1点で、深い友情や愛情で結ばれた女性の二人の像を描いています。この頃藤田嗣治は、バラの脇に建つ裸婦に寄り添うもう一人の裸婦、腰の下のジェイ布の図柄は、半身半獣の精霊サテュロスを従えた酒神バッカスです。「豊穣」の象徴であるバッカスが、女性たちの豊満な裸体を賛美しているかのようである。この頃藤田嗣治の作品に女性二人を描く絵画が多いのは、同性愛の象徴とする意見もあります。




「横たわる裸婦」  1926年  個人蔵(日本)

 藤田嗣治は、1921年から本格的に乳白色の下地を生かした裸婦を描き発表し始め、「横たわる裸婦」と「立つ裸婦」に分類されます。1926年パリ作のこの裸婦は1929年に一時帰国した際に刊行した画集に図版が掲載されており、本人が日本に持ち帰って買い手を探したのかもしれません。



「自画像」 1929年   東京国立近代美術館蔵


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 1920年代半ば、パリでの絶頂期を迎えた藤田は、アトリエでの自画像を頻繁に描いています。おかっぱ頭に丸眼鏡、チョビ髭、ピアスといった個性的な風貌とともに、日本の伝統を生かし、独自の乳白色地によるスタイルを生み出した画家像を演出するイメージ戦略を窺わせます。大戦と大戦の狭間、独特の頽廃と狂乱で満ちたパリでFoujita”は大歓迎を受け、エコール・ド・パリを代表する画家となりました。独特の風貌、東洋のエキゾシズムを湛えた繊細な作品はい評価を得ました。トレードマークのおかっぱ頭は、散髪のための金もなく自分で切り揃えていた時代の努力を忘れぬようにと、成功してからのちもずっと変えることはありませんでした。


 芸術家たるものかく在るべしと考えていたFoujita”は、数々の奇行を重ねお調子者と揶揄されましたが、実は酒がまったく飲めず、必ず絵を描いてから出かけていました。絵のためならどんな努力も惜しまぬという強く純粋な意志と、”筆の早さ”を備えていました。その鮮やかな切り替えの早さが、”Foujita”の能力を嫉妬半ばに快く思わない日本美術界での、”単なる職人画家”というレッテルを後押ししてしまったのかもしれません。この1920年代の数年間、”エコール・ド・パリ”時代のモンパルナスには、各国からの芸術家たちがひしめき合っていました。モディリアーニ、パスキン、マン・レイ、ピカソやマティスなど、錚々たる顔ぶれが街を彩っていた。そんな中で”Foujita”は”サロンの寵児”ともてはやされていいました。


 1920年代の藤田嗣治は、パリ画壇の寵児と言う言葉に相応しい活躍ぶりでした。藤田嗣治は、1925年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章と、ベルギーからレオポルド一世勲章を受章し、画家として最も華やかな時代でした。 「五人の裸婦」は、1923年のサロン・ドートンヌに出品されて出品目録には「2万5千フラン」という売却価格が設定されていました。この金額を他の画家と比べると、ピカソは1920年代の前半、1点あたり数千フランから1万数千フラン程度、マティスは500フランから5000フラン、キスリングは1000フラン前後、最晩年のモネが数万フランから10万フラン前後と言われ、藤田嗣治の2万5千フランはマティスに及ばないものの、ピカソにし、当時の若手作家としてはほぼ最高に近い位置を占めていました。但しこの時期が藤田嗣治の絶頂期でした。1929年、アメリカ・ニューヨークのウオール街で株価が大暴落を示し、世界恐慌が始まった。深刻な不況はエコールド・パリの華やかな「狂乱の時代」に幕を引き、世界は再び戦争の耳朶へと導くことになります。その激動の渦に藤田自身も巻き込まれていくことになりました。




「二人の少女」 1918年 プティ・パレ美術館(スイス・ジュネーヴ)


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 少女が2人横に並び正面を向いた絵を、藤田嗣治は 1910年代末にいくつか描いていいます。黒い瞳や小さな鼻と口、広い額などを特徴とするが、年頃や髪形などの違いから、特定のモデルの存在が考えられます。背景はモティーフを描き込まず、色彩とマチエールを強調した筆触で埋められており、1920年代前半の「乳白色の下地」へと向かうプロセスを示していると考えられます。




「私の部屋、目覚まし時計のある静物」 1921年  

ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)


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 独特の白い下地に細い墨の線で描くという技法によって完成した初めての静物画です。1921年のサロン・ドートンヌに出品され、翌年には日本の帝展にも送られて母国日本での本格的なデビュー作となりました。モンパルナス、ドランブル通りのアトリエ内に私物を配置して描いた。アトリエの主人を描かずに、愛用品のみで画家自身を象徴する意図を感じさせます。




「エレーヌ・フランクの肖像」 1924


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 ある日貯めたお小遣いを手に訪れた少女のたのみを、藤田嗣治は快く受けて肖像を描きました。 その父親に贈られたこの絵は、じつに瀟洒で、華と品性を備えた作品となっており、父親思いの少女の内面までも見えてくるようです。 よく吟味された色味や、レースなど細部の描写、白地の美しさが光ります。父のフランクは藤田嗣治その後のよきパトロンになりました。





乳白色の肌の秘密

 藤田嗣治は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田嗣治は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていました。炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表されました。タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上し、膠での箔置きも可能になります。この事実は、藤田嗣治が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942年の写真から判明しました。以上の2つが藤田の絵の秘密であったと考えられています。 反面、藤田嗣治の技法は脆弱で経年劣化し、水に反応し絵肌は割れやすく、広い範囲に及ぶ網目状の亀裂の発生が度々観察されています。また、多くの藤田嗣治の作品には地塗り表面に特徴的な気泡の穴が多数散見され、これは油絵の具に混ぜた炭酸カルシウムと油が反応して発生したガスの穴だと考えられる。






■試行錯誤の場でもあった戦争画

 フランスから日本へ帰国する間にメキシコなど中南米に旅し、藤田嗣治はメキシコ美術などに大きな感化を受けました。メキシコ美術はその時代、ディエゴ・リベラらメキシコ革命時に壁画運動を支えた3巨匠の時代でした。藤田嗣治はそれら壁画運動の真髄を最大限に吸収し、大日本帝国がすすめた「大東亜戦争」の戦争絵画を並外れた技術をもって世間に知らしめようとしたという見方もあります。芸術家として残した作品に真正面から向き合う時期という意味では、戦争絵画は”Foujita”美術の真骨頂はといえるかも知れません。




「アッツ島玉砕」 1943年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館蔵


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 19435月の北太平洋アリューシャン列島アッツ島での日米の戦闘を、写真と想像力をたよりに自らの意思で描いた作品で、全景は三角形構図の組み合わせで表現された兵士で埋め尽くされ、ロマン主義以前の西洋の戦争画の研究と傾倒がうかがえます。アリューシャンの雪山の手前に最期の戦いに全霊をかける日本兵、右下に重なり合うアメリカ兵、中央下に小さく可憐な薄紫の花が揺れています。誰にも最期を知られることなく死していった日本兵に向ける、勲章や賛美などではなく、抑えた色調で、誇張もなく、まっすぐな筆の力は、人の心を動かし、絵の前で涙を流し、手を合わせ、祈りを捧げる人も少なくなかったとようです。多くの人が感動する姿を目の当たりにした藤田嗣治は、「尤も改心の作」と語っているように、戦後批判を受けたように戦争を鼓舞する意図はなく、事実そのものを丁寧に追って芸術にまで昇華させることに専念していますが、1920年代後半以降、藤田嗣治が追求してきた大画面の群像表現のひとつの到達点といえます。

 藤田嗣治にとって戦争を「戦争画」は単に戦争を記録した絵画に過ぎず、政治的な意識は全くと言っていいほど希薄だったようです。 「アッツ島玉砕」(1943年)と「サイパン島同胞臣節を全うす」1945年)が並べて展示されてありましたが、同じ茶褐色の暗い色調ですが、「サイパン島同胞臣節を全うす」は西洋の透視図法を用い、ラファエロの宗教壁画など西洋の古典画にならった構図なのに対して、「アッツ島玉砕」の構図は全く異質で、奥にいる兵士が手前の兵士の上に重なっていくような上下遠近法の構図で日本の浮世絵のようです。藤田嗣治は画風を絶えず変えていて、試行錯誤を重ねているようです。



 戦争を主題にした絵画の総称として「戦争画」という広義の言葉がありますが、この展示会では、狭義の「作戦記録画」という言葉を使っています。「作戦記録画」は、日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本の陸海軍の依頼により画家が戦争を題材に描いた公式の戦争画です。


 

 パリで一世を風靡した”Foujita”は、その後画風を大きく変えていきます。彼が強く心を動かされたのは20世紀という時代の激動でした。1929年世界恐慌。不況の波は美術史上も飲み込み絵の値段は暴落します。狂乱の時代は終わりを迎えました。藤田は乳白色の裸婦に変わる斬新な画風を模索し始めます。Foujitaはフランスを離れ中南米など世界を回りました。色彩の多さが印象的な絵画でブラジルの人々を描いています。そこでヨーロッパとは異なる芸術に出会い絵を変えていきます。旅は3年近く。そして最後に戻ってきたのは祖国日本でした。



 日本では作品が評価されずパリへ行って、乳白色の裸体画がパリ画壇で評価され、数々の勲章を受章し画家としての成功が揺ぎ無いものになりました。1929年、3番目の妻・ユキを伴い17年ぶりに父の待つ日本へと凱旋しました。しかし、結婚を繰り返すことで派手に思われた女性関係と、目立つ奇異なパフォーマンスは、嫉妬混じりに日本美術界での評判を芳しくなく、「国辱」とも言われた自身への評価を、作品を通して覆したいという思いが藤田嗣治にはあり、藤田嗣治は、当時の日本画壇の画家に倣って戦争画をすすんで描きました。日本画壇に受け入れられなかった藤田嗣治は、戦争画を一緒に書くことで日本人画家として仲間に入れてもらいたかったのかも知れません。展覧会での評判は上々でしたが、美術界の反応は冷淡なままで、藤田嗣治をあらためて落胆させました。表向き現れる強い自負とは裏腹に、周囲からの評価に敏感で人間としては繊細な一面を覗かせています。



 ”Foujita”がこの頃の日本は中国大陸への進出を加速させていました。軍部は画家たちに戦意高揚を目的とした作戦記録画の制作を求めていました。戦争画は広く国民が鑑賞できるよう、日本各地を巡回して展示されました。藤田嗣治が戦争画の制作に参加したのは51歳の頃で、エコール・ド・パリ時代のトレードマークだったおかっぱ頭をすっぱりと切り落としていました。藤田嗣治が戦争画に積極的に関わっていった背景には戦争画を描くことで、非常に大きな距離を作ってしまった日本の画壇とのは距離を縮めておきたいという思いもありました。 藤田嗣治が戦争画を描いたのは大きく二つの時期に分けられます。初期の戦争画のひとつ「武漢進撃」。作戦の様子が写実的に淡々と戦争を記録しています。一方後期の戦争画は印象が一変します。「アッツ島玉砕」の舞台はアリューシャン列島のアッツ島、圧倒的兵力のアメリカ軍に追い詰められた日本軍は全員が突撃して壊滅、軍部はこれを玉砕として国民に発表しました。激しい波が打ち寄せる北の海を背景に死闘を繰り広げる兵士たち。”Foujita”は、「日本にドラクロワ、ベラスケスのような戦争画の巨匠がいたら」という思いで戦争画と向き合っていました。”Foujita”の戦争末期の絵はパリのルーブル美術館に並んでいる歴史画を目指していました。歴史画は写真とは違い、描くときに写実性に縛られず、いくつものシーンを重ねて現実の出来事をよりドラマチックに仕上げていくのです。アッツ島玉砕でも、戦う兵士や折り重なる遺体を現実にはありえない密度で重ねて全体を劇的な作品に仕上げています。ヨーロッパの伝統的な歴史画を描こうとしたFoujitaに取ってみると、自分の思っている絵が描けるという気持ちの転換がありました。軍の注文に忠実な作戦記録画は単なる写真と同じでしたが、「アッツ島玉砕」では”Foujita”という一人の絵描きになっていました。「アッツ島玉砕」を完成させた頃、友人に宛てた手紙で「私も今度この戦争画を描いて、この世に生まれた甲斐のある仕事をしました」争から逃れられない宿命にあったFoujita”が、並々ならぬ思いで描いてみせた戦争画には、戦意高揚の意図があったとは思えなません。”Foujita”の代表的な戦争画「アッツ島玉砕」に描かれる褐色に彩られた兵士たちの死闘、誰が味方で誰が敵なのかも分からない壮絶な群像表現には言葉を失うほどの迫力があり、そこに描かれる光景には清潔な美しさなど全く感じられません。描かれているのは実際に行われた戦争の一場面であり,悲惨な命の奪い合いで、戦争の本質に迫った衝撃的な作品を描き抜いきました。それは見方によっては反戦映画の一場面のように残酷です。東京大空襲を避けるため、妻の君代と遠くの村へ疎開し、村で暮らす人々の純朴な親しみやすさ、昔から続く村の伝統や習わし、豊かな自然を目撃し、触れ合い、今まで知る事のなかった日本の美を体験します。しかし同時に戦争によって村の人々が戦地に送られたり、村の資源が戦争協力の下に奪われたりする様を目撃し、日本の本来の美しさが戦争によって失われていく事実と向き合っていきます。そんな戦争の悲劇を圧倒的なスケールで描いた、彼の最後の戦争画となる「サイパン島同胞臣節を全うす」を制作していきます。

 占領政策を担った連合国軍総司令部 GHQ は軍人や政治家などの戦争責任の追及に取り掛かります。この動きに日本の美術館は敏感に反応しました。戦時中名のある画家のほとんどが軍の要望で戦争画を描いていました。戦後それゆえ戦争責任を追及されて、日本を捨ててパリに戻り、晩年フランス国籍を取りカトリックに入信し、カトリック教会の建築に晩年を捧げました。画家が戦争責任を問われることはありませんでしたが、藤田嗣治は日本を離れる決意を固めていました。終戦の四年後羽田空港を発つ藤田嗣治はこう言い残しました。「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください」この後藤田が祖国日本の土を踏むことが二度とありませんでした。やがて藤田嗣治はおよそ10年ぶりにパリに戻ってきます。パリで最初に描いた作品の一つ。かつて藤田嗣治の脚光を浴びたモンパルナスの風景です。戦後エコール・ド・パリの画家仲間たちは去り。街はすっかり様変わりしていました。パリの雑誌は帰ってきた藤田嗣治を一人の亡霊と冷ややかに表しました。1955年藤田嗣治は日本の人々を驚かせます。フランス国籍を取得し、日本国籍を抹消したのです。その四年後にはキリスト教の洗礼を受けました。洗礼名はレオナール。その後の藤田は作品にレオナール・フジタとサインするようになりました。


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 日本の新聞には日本を捨てたとの活字が踊りました。深まっていくばかりの藤田嗣治と祖国の溝。1970年代、藤田嗣治が世を去った後も日本の美術館にはこんな評価がありました。「戦争にでもなると罪のない人民を質に駆り立てる作品を描く。藤田嗣治はそんなことをしておいて敗戦したら日本人国籍を抜いて、平気でフランス人に化ける。こんなものを芸術家と言えるのであろうか」一方、正しく理解されないなら忘れてほしい、と作品の公開に慎重になります。日本では藤田嗣治の没後30年以上にわたってその絵画作品を見渡すことができる展覧会は開催されませんでした。藤田嗣治という人と作品は厚い神秘のベールに覆われていきました。


 敗戦と同時に、最も多く戦争画を描いた、”Foujita”を待っていたのは、他の画家の保身のため、”Foujita”ひとりに責任があるかのように振舞います、日本美術界の裏切りのようにも感じます。日本人であることを何よりも誇りに思い、ようやく自らの芸術が戦争画を通じ祖国に評価されたことを、”Foujita”自身が誰よりも喜んで良いはずですが、敗戦の日本において、その嬉々とした様子は誤解を招き、さらには美術価値のある戦争画収集を行おうとするGHQに賛同し協力したことも手伝い、「国賊」「美術界の面汚し」とまで批判されることになりました。


 そして多くを反論することなく、美術界のすべての戦争責任をひとりで背負うようにして、日本を発ちました。 「藤田嗣治は逃げた」のではなく、日本から追われたようなものでした。あくまで画家は画業で尽くすことが使命、という芸術家としての立ち位置を貫こうとする藤田嗣治の純粋な考え方は、まだ近代といえるところまでも開かれていない日本社会においては、”Foujita”の居場所はなかったのでしょうか。敬愛する父も他界した今、すでに日本に拘る意味はありませんでした。日本美術界にとって触れたくない存在となったFoujitaは、展覧会が開催されることもなく、長いこと封じられたままでとした。 



 小栗康平監督の映画FOUJITAは、日本では戦争画を描いた人物としての側面が強いが、一方で彼の個人としての本質は、パリ時代に孤独を背負いながらも自らの自己を確立し、独自の表現手法を生み出そうと努力する生粋の芸術家である。しかしどちらの国の歴史を辿ったとしても、彼の個人としての実際の人間性や感情は理解されるものではありません。 小栗康平監督は、個人としての藤田嗣治に焦点を当てる事で、歴史的事実に縛られず映画でしか描けない“FOUJITA”を描こうとしではなでしょうか。





■花開く色彩感覚と写実性

 30年代に入り、藤田嗣治の画風は大きく変化します。それまでの乳白色を際立たせたシンプルな色使いから、より多くの色彩を用いるようになっていき、画題も裸婦から、旅で巡った中南米や秋田、沖縄など各地の風俗に沿ったものを写実的に描くようになってきました。



 フランス人となった”Foujita”は、洗礼を受けたフランス北東部の街ランスに住み、2014年、遺族から市におよそ2000点の作品や遺品が寄贈されました。現在その調査が進んでいます。その中に漢字辞典がありました。藤田が覚えている漢字を記しています。長い異国での暮らし。漢字を忘れそうになっている自分に気付いたのでしょうか。最後に近いページにはフランス語がありました。「こんな人生うんざり!」晩年の藤田はこんな言葉も残しています。「日本に生まれて祖国に愛されず、またフランスに帰化してもフランス人としても待遇も受けず、迷路の中に一生を得る薄明画家だった」 戦後現実から目をそらし、孤独に沈むことの多かった藤田嗣治ですが絵を描く意欲は衰えませんでした。多く描いたのが子供の絵でした。戦後”Foujita”はモデルを使わなくなり、描かれているのは”Foujita”の心の中にいる子供たちでした。1947年の裸婦像は「私の夢」と題され、「カフェ」と題された冒頭の絵は、ニューヨークでパリを描いています。写実的な絵に加えて、虚構を描いた絵もあり、主題の幅広さに加え、現実とは離れた空想の世界を描くようになりました。Foujita”がもう一つ数多くの絵画を描いたのが宗教画でした。聖母マリアの隣に跪いているのは修道士姿の藤田嗣治自身です。「この絵はとりわけ色彩がクリアだと思うのです。初期のフランドル絵画の研究成果が表れているところではないかなという風に思います」フランドル絵画はヨーロッパで油絵の技法が完成した15世紀の絵画で、明るく発色の良い色彩描写、緻密で写実的な描写を特徴としています。”Foujita”は初期のフランドル絵画から鮮やかな色彩と緻密な描写を見て取り、自らの作品の表現に取り入れています。戦後も新しい技法に挑戦していた”Foujita”は 「油絵の技術を極めたいっていうことで油絵描きとして僕はここまで出来たっていうことを見せたかった作品ではないかなと思います」 藤田嗣治は74歳の時パリからパリ近郊の農村ヴィリエ・ル・バクルに移り住みます。古い農家を改修した小さな家で妻と二人亡くなるまで暮らしました。この家には藤田嗣治がパリからが使ったテープレコーダーで自分の声を自分で録音して編集し、合わせて12時間に及ぶ録音を残していました。


「客人(糸満)」 1938年、公益財団法人平野政吉美術財団

 地元の風俗を豊かに描いた作品です。日に焼けた肌の2人の女性は、沖縄伝統のまげを結い、それぞれ黄色と藍色のハリのある芭蕉布の着物をまとい、そばには冴えた朱色が特長の琉球漆器とみられる盆、背景には沖縄の家屋によく見られる赤瓦が並び、濃い絵の具の筆致で描かれた雲はどんよりと漂い、沖縄の重苦しい暑さが伝わってくるようです。



「裸婦」1927年ベルギー王立美術館



「狐売りの男」1933


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 日本人の目を通して、南米の風俗を描いています。関雪の描く猿の柔らかく揃ったビロードのような毛並み。遠くを見つめるように、やや焦点を外した男の鋭い瞳。ぼかし・線描といった彼の優れた描画の技が冴えわたり、繊細だが鋭い生命力を備えた人物・動物像の表現は見応えがあります。ことばを失ってしばし見入ってしまうような静かな力に漲っています。



「アージュ・メカニック(機械の時代)」部分1958-59

 子供たちがさまざまな機械仕掛けのおもちゃを手に無表情に無邪気に遊びます。どこか不気味さが漂うところに、”Foujita”の面白い視点が感じられます。丁寧な描写力は晩年特に冴えを見せますが、日本を最後に発った後、絵の趣が西洋に偏ってゆくのが、Foujita”の心境の変化を反映するようで痛々しくもあります。



 「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と作品の日本公開を強く拒み続けていた君代夫人の協力がようやく得られ、近年作品や背景が日本に紹介され、2006年、戦争画を保管していた東京国立近代美術館を皮切りに、藤田嗣治展が各地で開催されるに至りました。生涯を『戦争』と『中傷』に翻弄され続けた画家・藤田嗣治の、人生の縮図を見るかのような多彩な作品群の変遷の過程は驚嘆に値します。 藤田嗣治は。結局日本に居場所を見つけることは出来ず、フランスしか戻るところはないと考えるようになっていたのでしょう。晩年フランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けて ”レオナルド・ダ・ヴィンチ”の名をとった”レオナール・フジタとなりました。あえてニ国籍を残さずフランスのみとし、「嗣治」の日本名を捨て去ったことには、自らの人生を省み、日本との訣別の意味があったと思います。晩年は、世間とも交流を持ち、子供と宗教画に没登とました。



 “ Foujita”は多くの子供を描いています。パリを離れて隠やかな生活を送っていた”Foujita”は、学校帰りの子供たちと語らうのを何より楽しみにしていたそうです。壁や皿といった身の回りの品は、子供たちの絵でいっぱいに彩られています。やがて死を意識し始めた”Foujita”は、自ら設計したランスの教会ノートル=ダム・ド・ラ・ペのフレスコ画に鬼気迫る情熱を注ぎます。完成を待ったように、膀胱癌による入院生活を余儀なくされ、スイスの病院で81歳で生涯を閉じました。 その2ヵ月後、日本政府は勲一等瑞宝章を贈りました。



「フランスの宝」 1960-61

 おでこが広くつり目で笑わない子供たちは、どこか遠くから自分とそれをとりまく環境を眺める”Foujita”自身の分身であるようです。48枚からなるユーモラスでどこかシニカルな作品は、ひとつひとつ愛情をこめて丁寧に描かれています。皿や小さな容器など日常品にもよく子供たちを描いていた、”Foujita”らしい作品で、左上から時計回りに、「タピスリー」「メディスン」「グルメ」「シャトー」です。




「キリスト降誕」 1960


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 初期の「生誕」には色濃い陰鬱さが含まれていたが、同主題を描いた晩年のこの作品では、運命に翻弄された、”Foujita”の、何よりも得がたかった平和を願う、世界人としての視点が感じられる。静かな生活の中で数多く描かれた宗教画は、終点を求める”Foujita”の心の拠り所だったかもしれません。




「エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像」

1922年 油彩、銀箔・カンヴァス シカゴ美術館(アメリカ)


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 ”Foujita”1920年代の人物表現の中でも代表作のひとつ。衣装やソファーの模様や触感が緻密に描写され、背景は銀箔で覆われていまいす。”Foujita”20年代に金箔をしばしば用いたが、銀箔が確認できるのは本作のみです。モデルとなった注文主は、当時パリに暮らしていたシカゴ出身の富裕なアメリカ人女性。晩年に自らの収集作品を地元の美術館に寄贈した。




「タピスリーの裸婦」 1923年 京都国立近代美術館蔵


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 1920年代初期の裸婦像には、装飾的な綿布との対比により白い人肌の美を引き立たせた作品もあります。持ち前の描写力は裸婦とともに、背景の綿布にも向けられてます。フランス更紗に典型的な、エキゾチックな草花模様を刷った「ジュイ布」を克明に描いています。




「メキシコに於けるマドレーヌ」 

1934年 京都国立近代美術館蔵


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 速筆で描かれ塗り残しも見えることから、現地で制作したような印象を与えるが、メキシコでの素描や写真をもとに帰国後に東京で制作された作品。モデルはパリからアメリカ大陸縦断の旅をともにしたマドレーヌ ”Foujita”は「ヨーロッパと中央アメリカとの対照」をねらったものだと述べています。




「争闘()  1940年 東京国立近代美術館蔵


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 猫を扱った、Foujitaの作品の中で最もよく知られた作品。第二次世界大戦勃発後、ドイツ軍が迫るパリで描かれたもの。飛び上がる猫、うなり声を上げる猫、転げまわる猫など、14匹が様々な姿態を見せて格闘している。渦を巻いているような大胆な構図は、繊細な線描によって見事にまとめられている。帰国後、1940年初秋の第27回二科展に《争闘》のタイトルで出品された。





「フルール河岸ノートル=ダム大聖堂」 1950

ポンピドゥー・センター(フランス・パリ)


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 フルール河岸はセーヌ川に浮かぶシテ島の東側にある通りで、古くから花の市場で賑わった場所。画面左、路地の奥にノートル=ダム大聖堂の尖塔が見えます。この眺めは藤田嗣治のお気に入りで、同じ構図の作品を何点か残している。本作は制作の翌年に《私の部屋、目覚まし時計のある静物》、《カフェ》らとともにフランス国立近代美術館に寄贈されました。





「私の夢」 1947年 新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵


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 戦後、初めて発表された裸婦の図像は「眠れる女」(1931)のマドレーヌ像から転用されています。擬人化された動物は1950年代、画家の重要なモティーフへと発展します。戦争責任問題で揺れる周囲をよそに、新天地での生活を夢見る藤田嗣治自身が裸婦の姿に投影されているかのようです。




「礼拝」 1962-63年 パリ市立近代美術館(フランス)


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 晩年の代表作で、”Foujita”芸術の集大成といえる。緻密な模様の衣をまとった聖母に対し、藤田嗣治は修道士の服装で妻の君代とともに祈りを捧げていいます。周囲には少女と動物たちが、画家の背後には前年に移住したパリ近郊の村ヴィリエ==バクルの家が描かれています。「乳白色の下地」を用いながらも、絵具層の色の鮮やかさとコントラストが印象的です。



 959年にはランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、シャンパン「マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなりました。藤田の夢は、伝統的な西洋の芸術的表現をすべて網羅した自律的な宗教アンサンブルを構築することでした。ルネ、マムの会長兼画家の洗礼スポンサーは、プロジェクトを支持しました。藤田嗣治と協力して建築家に選ばれたランス・クロウィエール。2人のアーティストは、書簡の交換を通じて伝えます。画家は、最も純粋でシンプルな建築様式であるため、チャペルをロマネスク様式にしたいと考えていました。タイトル「平和の聖母は」教皇によって書かれたジョンXXIII、冷戦時の1963年に公開されました。この有名な回勅は、すべて宛だけでなく、カトリック教徒には、平和のメッセージとして書かれています。多くの芸術家はの先頭に神聖な芸術に興味を持っていました。



藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968)の宗教画

文字をクリックすると見ることができます。



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 1930年代後半には、父クチュリエ(1897年から1954年)、ドミニカ共和国の父親の元学生モーリス・ドニは、神聖なアートワークショップに参加しました。彼はいくつかの有名な芸術家と友達を作り、フランスの宗教芸術の復活に貢献しました。彼のリーダーシップの下、有名な芸術家(ピエール・ボナール、フェルナン・レジェ、アンリ・マティス、ルオー、シャガールとジャーメイン・リシエは)感謝のすべての聖母教会の建設に参加したアッシーをオートサボアし、第二次世界大戦後のアンリ・マティスは、ヴァンスのドミニカ会堂を装飾しました。ル・コルビュジエはでロンシャンの礼拝堂を作ったロンシャン 1951から1954年にオート・ソーヌにジャン・コクトー聖ペテロの礼拝堂の装飾実現したヴィルフランシュ・シュル・メール。





 建物の内装は、藤田レオナルドが描いたフレスコ画で覆われており、そのほとんどは聖なる歴史の異なる通路を表しており、その大部分はキリストの生涯の場面をとっています。フレスコ画は、回復がないか、少しでも躊躇していることを意味します。それぞれの組成物は、その日に終わらなければならず、彼自身が色素を開発しています。藤田嗣治は作品によって示されたディエゴ・リベラ彼は彼らの共通の友人を通じてフランスの首都で会っていた1909年と1921年の間、パリに住んでいた、メキシコmuralistsの創設者、モディリアーニ。ディエゴ・リベラは、川島リュチロと藤田の肖像画を実現 日本の画家はメキシコ滞在中に再び彼に会いにきました。窓はまた、藤田が描いたもので、ガラス製作者のチャールズ・マルクが作ったものです。モチーフはシャンパーニュの田園風景を眺めています。



 19668月、藤田嗣治このプロジェクトを実現するとき80歳でで仕事を終えました。チャペルは、として、登録の対象である歴史的モニュメントですので、上で祝福された1回目 196610月と厳粛に以下の1018日にランスの町に引き渡さ31999年に彼女は5,199人の訪問者を受けたました2003103日以来、藤田の灰と、最後の妻、マリーアンジェの墓が2009年に亡くなった。その後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行った。1968129日にスイスのチューリヒにおいて、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された[5]。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。






参考文献

藤田嗣治展図録

岡鹿之助 「藤田嗣治―ドランブル時代」『みづゑ』593号、19551

岡鹿之助 『フランスの画家たち』 中央公論美術出版、2004

内呂博之 「「かたち」への挑戦―岡田三郎助と藤田嗣治」(東京文化財研究所編『「かたち」再考 開かれた語りのために』 平凡社、20141217日、pp.162-165

図録「没後50年 藤田嗣治展  2018年」

図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」

図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」

近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」

高橋秀爾「近代絵画史(下)」

ポンビドゥー・センター(フランス・パリ)





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by desire_san | 2018-10-12 16:15 | 美術展 & アート | Trackback | Comments(10)
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Commented by Ferotero_kert at 2018-10-10 15:58 x
こんにちは.
大変貴重な奥深い内容のレポートを拝読し、大変勉強になりました。
日本に戻ったFoujitaは、気乗りせぬまま戦争画にたずさわるようになりますが、依頼された戦争画を精魂こめて描き上げたことを契機にそこに新しい表現世界を見出しのめりこんでいった。日本画壇の中で、美術的価値のある戦争画を残しえたのは、唯一Foujitaだけだったかもしれない。これらは今まで冷たくあしらわれていた日本画壇で、初めて公に認められた作品でもあった。

画業で世界に通じる日本人になりたいと願っていたFoujitaは、ようやくここにきて、その成果を祖国にみとめられたと思いました。
 
Foujitaはおかっぱ頭にロイド眼鏡の風貌も人気になり大通りには藤田のFoujitaが置かれました。しかし、思わぬ反発を受けることになります。声を上げたのは祖国日本の画家たちでした。「芸術家としての真の喜びを忘れ、ひたすら人気取りひとつのために全力を注ぐ有様。男性としての近代的気節を守り得るものでない限り、よき芸術を生むことができるはずはない」さらに藤田は宣伝でで有名になったに過ぎず、その振る舞いは国辱とまで決めつけられ、戦後戦犯扱いされ、画壇から追放に近い状態になったそうです。。
Commented by desire_san at 2018-10-10 16:03
Ferotero_kertさん、コメントありがとうございます。

藤田嗣治と戦争画、藤田嗣治にたいするその当時の日本人の扱いについての詳しいお話、大変生々しく様子が伝わってた来て、大変勉強偽なりました。

いつも貴重なお話、ありがとうございます。


Commented by desire_san at 2018-10-11 22:54
Maria_deriartさん

藤田嗣治は、戦争がにドラクロアのような世界を求めたのではないでしょうか。

藤田嗣治の戦争画は戦争の残酷さをリアルに表現していて、とても日本具が希望した「戦意高揚」等を感ずるものではなく、むしろ反戦的な気持になりますね。

戦後、藤田嗣治が、画壇から戦争協力者として批判されたのは、藝大をそつきょうしていないのに、日本人としてただ一人本場フランスで評価された、嫉妬心からだと思います。


Commented by kiriy at 2018-10-12 00:55 x
こんばんは。先日は私のブログの方にコメントをありがとうございました。
お蔭でこのように詳しいフジタの作品の解説を読む事が出来て嬉しく思いました。
また、小栗康平監督の映画『FOUJITA』の事を教えてくださって、ありがとうございました。昨晩は、このブログを読んだ後、ずっと映画の解説を読んでしまいました。
マイブログにリンクさせていただきました。
またこれからもよろしくお願い致します。
Commented by rollingwest at 2018-10-12 07:09
芸術の秋ですね~!藤田嗣治さん大いに興味ありです。10月16日から公開のルーベンス展の前売りチケットを購入したので今から楽しみです。

Commented by manaduruharuki at 2018-10-12 07:52
こんにちは。
私のブログへのご訪問 そして 丁寧なコメントありがとうございます。
絵画には疎いので いろいろな知識を教えていただき より興味深く 鑑賞できそうです。
Commented by desire_san at 2018-10-12 14:20
kiriyさん ご丁寧にありがとうございます。

小栗康平監督の映画『FOUJITA』は、上映当初からかなり挑戦的な仕事だと思っていました。
何よりも難しいのは、フジタを演じられる俳優が極めて少ないこと、オダギリジョーは、俳優としてはベストに近い選択だと思いましたが、フジタを知っているのは絵画の知識のある人だけのため、日本よりフジタの知名度が高いフランスを主体とした上映としたため、フランス語のシーンが多く、英語は堪能でもフランス語の経験のないオダギリジョーに、即席の特訓をしても無理があると思いました。オダギリジョーが中谷美紀並みにフランス語できたら、大きな映画賞を狙えたのではないかと言われています。


Commented by desire_san at 2018-10-12 14:30
rollingwestさん、いつも私のブログを読んでいただきありがとうございます。

ルーベンス展は、私も行きますが、以前ルーベンス絵画についてのレブューをしてみましたので、よろしかったらご参考にしてください。

https://desireart.exblog.jp/16689520/
Commented at 2018-10-17 18:25
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by desire_san at 2018-10-18 16:56
snowdrop-momoさん コメントありがとうございます。

藤田嗣治展は、今秋から京都展が始まるようですね。
今まで何回か藤田嗣治展ありましたが、戦争画を描いて以降の藤田嗣治を詳しく知る企画は無初めてで、今まで知らなかった画家の側面を知ることが出来て理会が深まりました。

京都の写真も拝見しています。
一時、京都や奈良にほれ込んで、たびたび行きましたが、やはり京都の街はいいですね。



by desire_san