最高のキャストで演じたプッチーニ・究極のラブストーリー
プッチーニ『西部の娘』
GiacomoPuccini "The Girl of the Golden West"
『西部の娘』はプッチーニの感動的な音楽が彩るオペラ版「西部劇」で、1910年ニューヨークメトロポリタン歌劇場で世界的に豪華な世界初演を果たしました。ドラマはカリフォルニアゴールドラッシュに設定され、タイトルロールはプッチーニの最も魅力的なヒロインのひとりです。このMETで世界初演された演目を、「キング・オブ・テノール」J・カウフマンと現代を代表するドラマティック・ソプラノ E=M・ヴェストブルックが究極のラブストーリーを熱唱した舞台ということで、東劇に行ってMETライブビューイングを見てきました。
時代設定とあらすじ
ゴールドラッシュに沸く19世紀カリフォルニアの酒場に咲いた看板娘とギャングの運命の恋!がプッチーニの甘美にしてスリリングな音楽で綴られます。E=M・ヴェストブルックとJ・カウフマンの最高の熱唱に、抜群の歌う俳優Z・ルチッチ、熟練の劇場人 M・アルミリアートの指揮という理想的共演で上演されました。(全3幕)
時 1849年から1850年にかけての冬
場所 ゴールドラッシュで沸くカリフォルニア
第1幕:ミニーの酒場「ポルカ」
アメリカ西海岸の広大さと西部の人々の勇壮さを示す様な壮大な短く爆発的な前奏曲の後、開拓者の街に鉱夫たちの合唱で幕が開きます。
ミニーの西部劇っぽい色合いの山すその酒場「ポルカ」は鉱夫たちの憩いの場で、ミニーは鉱夫たちのマドンナ的な存在でした。男たちは、流しのジェイク・ウォーレスが唄う故郷の歌に涙し、盗賊ラメレスがまたこの近くにやって来たと噂話に花を咲かせています。男性の声で圧倒され、ほぼすべての男性の世界でミニーの孤立を反映しています。保安官ジャック・ランスが「ミニーはもうすぐ俺のもの」と豪語し、危うく喧嘩になるところを、ミニーが現れていつも通り聖書を読み聞かせてやって男たちを静めます。ランスが自分の想いをミニーに打ち明けますが、無邪気な彼女は取り合いません。ランスは博打でもあり「金だけは裏握らない、愛とはそんなものではないか」と歌います。「ママとパパは愛し合っていた。パパのよう人と恋をしたい」とミミーは昔を思い出して歌います。
そこに初めて酒場に現れた「ディック・ジョンソン」と名乗るよそ者が現れます。昔教会で見かけた男だと気付いたミニーに、昔ミミーがジャスミンの枝をくれた、一時も忘れたことはないと歌うとジョンソンにミミーは惹かれ、ランスは嫉妬を覚えます。ミミーが紹介するとみんなジョンソンに好感を持ち、ミミーはジョンソンと踊ります。ミミーはディック・ジョンソンと惹かれ合います。しかし実はジョンソンは盗賊団のボス、ラメレスでした。
ギャングの一味、ホセ・カストロが捕われ引かれてくるが、彼は親分のラメレスが姿を変えてそこにいることに気付き、男たちの注意を酒場の外にそらします。ミニーとジョンソンは二人きりとなり、ミニーはジョンソンに、今晩自分の小屋に来ないかと誘います。ジョンソンはギャング仲間の口笛の合図を無視して、ミニーのところへ行こうと約束すします。別れ際にジョンソンはミニーに「君は天使の顔をしている」と言い残し、純真なミニーは心が揺れます。
第2幕:ミニーの小屋
山の中の小屋のセットもとても凝っていました。ウォークルとビリーというインディアンの夫婦が出てきて、音楽的には「トゥーランドット」の2幕冒頭の三大臣のインテルメッツォのような歌を歌っています。はじめて男性を家に招くミニーが仕度しているところへジョンソンが現れ、一時を過ごします。「君と再会できるなんて不思議だ!」「私は歌の教養もないのに満たされている」と歌うミミーに、ジョンソンは「ミミーの心は純粋で天使のようだ!」と歌います。天使のような歌だと言われ歓喜するミミー。「初めてのキスは誰にもあげないの!」「あなたは信頼できる気がする!」「今の人生を愛している!人生は美しい!」「あなたと踊った時。ときめきと心の安らぎを感じた!」「あなただったら大切なものを預けられる!」やがてジョンソンは帰ろうとするが吹雪が激しくなったのを口実にミニーは彼を引きとめ、二人は愛情を確かめ合います。
保安官ランスやアシュビーに率いられた一団がやってきます。ミニーはジョンソンを隠しますが、ミニーに気がある保安官ランスは「ジョンソンと名乗っていた男はやはり、残忍な強盗ラメレスだった。奴の足跡を追ってここまで来た」と告げます。男たちを一旦帰したあと、ミニーはラメレスに向かい「あんたの素性も、私を騙していたことももはやわかった。出て行け」と激しく罵ります。ラメレスは「父はギャングだったが、自分は父が死ぬまでそうと知らなかった。残された唯一の遺産、子分一味を用いて、母と弟たちを食べさせなくてはいけなかった。教会で初めて君を見たとき、真人間の生活を君と始めたい、屈辱的な過去は君には知られたくない、と神に祈った。しかし全ては無駄だった」と情熱的に歌い、小屋から去ります。待伏せしていた一団にラメレスは撃たれ瀕死の重傷を負います。ミニーは激しい葛藤の末、再びラメレスを小屋の屋根裏にかくまいます。ランスが追いかけて入ってきて、天井から滴る血でランスはラメレスの居場所を知ります。ミニーはポーカーで決着を付けよう、と提案する。ランスが勝てば、ラメレスは捕縛、ミニーもランスのもの、一方ミニーが勝てば、ラメレスは見逃す。ミニーは結局いかさまをして勝ちます。ランスはいかさまに気付いましたが、約束通り小屋をひとり立ち去り、ミニーは狂喜します。
第3幕:カリフォルニアの大森林、冬の夜明け前
数日後、大規模な山狩りの結果ラメレスは捕らえられ、盗賊団を恨む鉱夫たちに捕まり、ランスの前に引き出されます。「絞首台」もセットは場面に現実味を与えます。死を覚悟し、ミニーへの伝言を口にするジョンソン。そこへミニーが現れランスや鉱夫たちにリンチの末絞首にされようとしています。ラメレスは「ミニーには、自分は放免されてはるか遠い土地で悔悟の日々を送っていると伝えてほしい」と遺言します。
そこへ馬に乗ったミニーが到着、ランスは人々に「奴を吊るせ!」と叫びますが、ミニーは自分がこれまで鉱夫たちに尽くしてきてやったこと、聖書を教えてやったことを思い返させ、ラメレスを自分のものにさせてほしい、でなければ一緒に死ぬ、と哀願します。彼女の情に打たれた鉱夫たちはやがてミニーの言葉に感銘して、二人を許しラメレスを赦免することに同意します。ミニーは、保安官ランスにも握手を求め、ランスも思わず手を伸ばし和解してしまいます。二人が去るときランスは一瞬自分の銃を二人に向けますが発砲はできず手を下ろします。二人は「さらば、カリフォルニア」と歌い馬に乗ってカリフォルニアを後にします。夜明けの薄明りにその寂しい虚しさを抱えたジャック・ランスの後姿が映し出される余韻を残した秀逸な場面で幕となります。
『西部の娘』は、19世紀のアメリカ西部開拓時代の純愛物語として描かれた作品です。原作者デイヴィッド・ベラスコは、当時ブロードウェイで人気のあった劇作家、演出家でした。プッチーニがベラスコの脚本を使ったのは、それまでのオペラ史上に登場しなかったアメリカ西部の風土や、主人公ミニーの荒涼たる開拓地で荒くれ男たちを相手に酒場と賭博場を営む鉄火肌の女性像に対して魅力を感じたからでした。ミニーは純粋さを失わず、男たちに安らぎを与えるやさしさをもった女性で、生まれて初めての素性も知らぬ男に対して抱く純愛とその男からの裏切り、それでも深い愛から男の命を救い出すという感情の動きに、プッチーニは今までのオペラのヒロインにない魅力を感じました。プッチーニは、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』やドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』など同世代の名作オペラを強く意識し、それらに劣らぬ新しいオペラを開拓しようとしていました。結果的に『西部の娘』はこれら2作のような新しいオペラの改革には至りませんでしたが、オペラが初めて全音階を使用して、無調性的な音の世界を展開し、はげしい緊張感を出そうとしました。プッチーニの音楽は、ほとんどはトーンと色の変化に頼っていましたが,作曲法という点では素晴らしいものでした。
プッチーニは女性の心理に敏感な理解者であるとともに、男性の心理も深く認識していました。『西部の娘』の魅力は、当時西部に住んでいた人たちの望郷の念を本格的に描写していることです。プッチーニの故郷イタリアのルッカから、イギリスやアメリカ合衆国へ、南米やオーストラリアへ、多くの人々が移住したことが知られている。彼の弟ミケーレは、不運な星の下、移民先のアルゼンチンで早すぎる死を体験し、この家族の絆により、プッチーニは郷愁を感動的に表現することができました。孤独、酒や女性、カード賭博に慰めを見つる男たちの故郷を失った感覚は、『西部の娘』で見事に描かれています。プッチーニの「西部の荒野」はアメリカの辺境の住民の現実の世界であり、男たちは微かな夢のため何とか生き続けるために血の汗を流しています。ノスタルジアと孤立感は、『西部の娘』というオペラを味わい深いものにしています。
『西部の娘』は2008年の新国立劇場で一度上演されています。この時は、ドイツの若手演出家・アンドレアス・ホモキ氏が、舞台に大きさの段ボール箱が1500個も積み上げ “膨大な数の段ボールのある倉庫”で、段ボール箱の山の中で搾取されている出稼ぎ労働者達と現代風にアレンジしていました。『西部の娘』が「倉庫の娘」となり、段ボール箱の上を俳優が飛び跳ねたり、瞬時に形を変えたりと大胆なものでした。しかし、これでは、この作品の大切な魅力的な要素である「ノスタルジア」も「孤立感」もミニーの魅力もすべてが台無しになってしまいました。眼を瞑って音楽だけを聴いていた方がマシだと思うほど、惨憺たる舞台でした。以後全く再演されていません。作品に現代人の問題を重ね合わせようとする現代演出が流行っているようですが、本末転倒して、作曲家の作品で表現したかった大切な要素を蔑ろにしてしまった悪い例で、私も『西部の娘』という作品を全く誤解してしまいました。
『西部の娘』はまさに典型的なラブストーリーです。親しみやすいアリアがありませんが、大胆な不協和音や全音音階を多用して無調音楽に一歩踏み出しているという点でプッチーニの先進性を示しています。奥の深い心理劇ではありませんが、写実的で演劇のリズムで動くオペラで、話しているように歌い、ストーリーの流れに沿った自然な演技が求められます。
アメリカ西部で歌われた民謡、ノスタルジックな望郷の歌や野趣味あふれる旋律のアメリカ・インディアンの歌が巧みに引用され、異国的情緒の雰囲気を与えています。黒人音楽やジャズの導入もプッチーニのオペラでは初めてのことでした。
今回の舞台の感想
「プッチーニの甘美にしてスリリングな音楽が物語る究極のラブストーリー」という触れ込みですが、あまり上演される機会がないのは、作品の難しさにもあるようです。奥の深い心理劇ではありませんが、写実的で演劇のリズムで動くプッチーニの先進性を示しているオペラで、話しているように歌い、ストーリーの流れに沿った自然な演技が求められます。ヒロインのミニーは、プッチーニの作品では屈指の魅力的な女性ですが、あり得ないほど嘘くさいハッピーエンドなこともあり、強力な配役でないと薄っぺらな舞台になってしまう危険性をはらんだ作品だと思います。他のオペラ以上に型にはまった演技や動きでは面白くなでしょう。
面目にかけて失敗できないMETで世界初演されたゆかりの演目に、「キング・オブ・テノール」ヨナス・カウフマンと現代を代表するドラマティック・ソプラノエヴァ・マリア・ウェストブロック、抜群の歌役者ジェリコ・ルチッチ、熟練の劇場人 マルコ・アルミリアートの指揮という理想的なキャストで挑んだ意欲的な舞台でした。
ミニー役のエヴァ・マリア・ウェストブロックは、自身が一番やりたい相性の良い役と言うように。ミニー乗り移ったように素晴らしい歌唱と演技でした。本来ドラマティック・ソプラノだけあって、ソプラノにしてはやや太めで、落ち着いてメリハリの利いた声質での歌声に力強さを十分感じました。ミニーは、ランスの「求婚」にも目もくれず、ジョンソンの登場、ミニーの「乙女チックな」表情と、初めてのキスの場面は、ジョンソンと恋に落ちている場面では、ミニーの声質が少しかわり、少し柔らかく、恋する乙女らしい華やかな雰囲気で歌うのも魅力的でした。ウェストブルックとカウフマンの二重唱はまさに絶品で、ポーカーでいかさまをして、ジョンソンを奪い返す場面の最後でミニーが「彼は私の物!」という叫びは、突然の不協和音的な音作りで、狂喜も感じさせる表現が印象的でした。プッチーニの神秘的で厄介な現実的な要素の組み合わせで、架空の環境に魅了されました。
ヨナス・カウフマンが演じたジョンソンは,多様な面のある非常に複雑なキャラクターでした。プレイボーイで犯罪者ですが、人生を良く知っていて、必要であるならば嘘をつき、泥棒でしたたかです。粗暴さ、力によるルールの無視、一方で、自分に何が起こったのかと驚く彼の純真さ、しかし悔い改め、予想もしていなかった真の愛の発見、よりよい未来への希望が彼の人生を心の中で尊敬されるよう導かれます。ジョンソンの性格が、リアルな会話のなかでも表示され、オペラの骨格を形成していきます。ヒロイン・ミニーの相手役に留まらない最も重要な役をヨナス・カウフマンが演じたことで、舞台が厚みのある人間ドラマになりました。
第2幕のプッチーニらしく官能的で美しいジョンソンとミニーの二重唱は聴いているだけで酔いしれてきます。「ひとこと言わせてくれ~」と自分の生い立ちをミニーに語るジョンソンのアリアは、利発なミニーを信じさせる説得力充分です。絞首刑となるジョンソンが愛するミニーのため訴える歌このオペラ唯一のアリア「やがて来る自由の日」も最高に魅力的です。カウフマンのジョンソンは、バリトンのように太い声で力強い声から繊細なピアノで美しい高音まで混じり、持ち前の格好良さもあり、最初から最後まで魅力的でした。
ジョンソンの心理のキーフレーズ「私だってまだ、自分が何なのかよくわかっていない。」この問いは、ジャコモ・プッチーニの自身への問いかけのように感じます。プッチーニが、自分自身の不安定なタッチを男性のそれぞれのキャラクターにふきこみ、はるかに強い女性の腕の中にそれらを投げだすことで、自分の弱さを克服しようとしているのかもしれない、そう考えさせるほど、カウフマンは主役を奪ってしまうほど魅力がありましたが、それに負けない魅力を感じさせたウェストブロックの歌も演技も見事でした。
ミニーに懸想しジョンソンを追い詰めるか敵役ジャック・ランスを演じるのは、セルビアのバリトン、ジェリコ・ルチッチは、威力と張りを持つ劇的で堂々たる歌唱で、バリトンの声の質、歌唱的で、少し叩き上げ感がある力強い演技でした。
指揮:マルコ・アルミリアート
演出:ジャンカルロ・デル・モナコ
出演:エヴァ=マリア・ヴェストブルック、ヨナス・カウフマン、ジェリコ・ルチッチ、カルロ・ボージ、マシュー・ローズ、マイケル・トッド・シンプソン、オレン・グラドゥス
上映時間:3時間30分(休憩2回)
MET上演日: 2018年10月27日
言語:イタリア語
参考:
国本静三 プッチーニ_オペラ「西部の娘」 - 音楽サロン
評論:「西部の娘」MET 2018.10.17. & 10.28. HD公演
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
貴ブログのますますのご隆盛をお祈りしております。
新しき年を寿ぐ詞華集 花と言の葉いろとりどりに
snowdrop拝
『西部の娘』は、以前新国立劇場で鑑賞したのですが、アンドレアス・ホモキの段ボール箱を舞台いっぱいに積み上げた演出で、どんなオペラなのかさっぱり分からなかったので、以前からちゃんとした舞台で見直したかった作品でした。今回、オーソドックスな演出で、カウフマンとウェストブロックという最高のキャストで観て、このオペラの魅力を堪能できました。オペラも映画もドラマも、配役と演出がいかに大切かを思い知らされた次第です。カウフマンはドイツ人ですが、政府劇のどんなスターよりも魅力でした。METのライブビューイングは、アンコールがいずれあるので、もう一度見る機会があるのではないかと思います。