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心に残った旅・芸術とアートとの出会い   

ムンク絵画の全貌とその本質と魅力を探る

エドヴァルド・ムンク

Edvard Munch


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 東京都美術館「ムンク展―共鳴する魂の叫び」が開催されています。エドヴァルド・ムンクは、ノルウェー生まれの表現主義者で 20世紀後半には、ドイツの表現主義と後に続く芸術形式において大きな役割を果たしました。彼が作成した作品の多くに表示されていた強い精神的苦痛の表現は、決して見ていて心地よいものではありません。それにもかかわらず、ムンクの絵がなぜこんなに人気があるのか、人はムンクの絵に魅せられるのか? ここでは1993年出光美術館で開催された「ムンク展―愛と死」など、過去に来日した絵画も含めて今まで見たムンクの絵画を振り返りつつ、ムンクの魅力を考察してみました。





dvard Munch was a Norwegian painter, whose best knownwork,The Scream, has become one of the most iconic images of world art.Studyingatthe Royal School of Art and Design in Kristiania (today’s Oslo), Munch begantolive the bohemian life, under the largely negative influence of thenihilistHans Jæger, who did, however, urge him to paint his own emotionalandpsychological state. From this would presently emerge his distinctivestyle.InParis, he learned much from Paul Gauguin, Vincent van Gogh and HenrideToulouse-Lautrec, especially their use of colour. The Frieze of Life,depictinga series of deeply-felt themes such as love, anxiety, jealousy andbetrayal,steeped in atmosphere.




 19世紀前半までの北欧絵画は、その牙城となっていたのはコペンハーゲン美術アカデミーで、フランス、イタリアの新古典主義が主流で革新的精神に乏しい無風状態でした。19世紀前半のノルウェー絵画は、デュセルドルフ、ミューヘンに学ぶところが多く、19世紀後半に印象主義、 象徴主義も入ってきましたがその基調はリアリズムでした。年若きムンクは、北欧に移植した北欧的リアリズムの画家に学びましたが、当時のムンクの課題は、ローカルなリアリズムからいかに脱皮するかでした。こうした北欧絵画の状態に風穴をあけ、北欧絵画の近代化を促したのが、エドヴァルド・ムンク自身となる運命にあったのかも知れません。




伝統的な表層絵画から内面的表現へ

 ムンクは自然主義、印象主義などさまざまな画風を試みました。マネの影響が色濃く作品に見られるものも多くえがきました。


『画家カール・ジェンセン・ヘルの肖像』 1895年 油彩


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 この時代のムンクのヌード画はスケッチのみが残っています。父親はムンクのいとこの画家で伝統的な絵画スタイルだったエドヴァルド・ディリクスの批判的な意見に振り回されていたこともあり、ムンクの作品に対して否定的でした。ムンクはアナーキスト作家ハンス・イエーガーと知り合い、彼は自由への究極の方法として自殺をすすめていました。イエ―ガ―は、自由な愛を説き、一夫一婦制や女性の支配、家族というものに反対し、社会主義や無政府主義への傾斜をはらんでいました。この頃からムンクはボヘミアン・カルチャーやハンス・イエーガーの思想の影響を受けるようになりました。ムンクはハンス・イエーガーの前衛集団「クリスチャニア・ボヘミアン」に参加します。グループの中心人物は、画家クリスチャン・クローグや、作家ハンス・イエーガーだった。このアナーキスト作家との関係も父親の怒りを買った。ムンクに魂で絵を描き芸術的慣習に反抗するよう促したのはイエーガーでした。ムンクは「自分の思想の発展は、ハンス・イエーガーとボヘミアン・カルチャーが根っこにあります。「多くの人は私の思想は、小説家のヨハン・アウグスト・ストリンドベリやドイツの影響にあると指摘するが、それは間違っている」と話している。当時、ほかの多くのボヘミアンと対照的に、ムンクはボヘミアンではあるがボヘミアン仲間とは孤立し、サークルでは酒を飲んで喧嘩をしていました。ボヘミアンの連中について「絵についてのきりのない長話で人を苛つかせること以外に丸一日何もない」、「反吐の出そうな馬鹿者」だと罵っています。


 このころ、ムンクは1884年に遠縁のいとこの画家フリッツ・タウロヴの野外美術学校に参加しました。フリッツ・タウロヴの弟カール・タウロヴの妻がミリー・タウロヴでした。ムンクは1885年から数年間、人妻ミリー・タウロヴとの禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをしていました。




『ハンス・イェーゲルの肖像』 1889年 油彩



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 さまざまな制作実験をした後、ムンクは印象派では十分に自分が描きたいものがかけないと理解しました。印象派は非常に表層的で科学的実験のようなものだとムンクは感じました。ムンクは内面的なものや表現によるエネルギーのようなものを深く探求していきたかったのです。




ムンクが芸術の開いた新境地

 エドヴァルド・ムンクは恩師タウログの支援でパリに滞在して先端を行くパリの美術を知り、1885年ノルウェー政府の奨学金でパリに留学して、クロード・モネ、エドゥアール・マネなどの進歩的芸術に触れました。当初は印象派の影響を強く受け、 印象派の後のヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 、 ポール・セザンヌ 、 ポール・ゴーギャンに触れました。ポール・ゴーギャンや後期印象派からの影響が強く、美術史の中では後期印象派時代の象徴主義や表現主義の作家として位置づけられます。1886には、後のムンクの芸術を決定づける傑作『病める子』『その翌日』『思春期』を描きました。そのうち2点は火災で消失し、残っているのはコピーか異作で、オリジナルで残っているのは『病める子』のみです。『病める子』は、当時死に至る病である結核の少女を描いています。


 1886年に制作したムンクの姉の死を基盤にした絵画『病める子』は、ムンクの最初の「魂の絵画」であり、印象主義からの本質的な課題を打ち破る革新的な作品となりました。しかし、この作品は批評家から「未完成作品だ」など酷評を受け、ムンクの家族からも非難され、家族やコミュニティから疎遠になる原因ともなりました。

この3つの作品が、ムンクが芸術の新境地を開いた自身の突破口であり、その後の大半の作品がこの存在をこれらの絵に追っているといっても過言でありません。死は古今東西を問わず芸術のテーマですが、病、その帰結としての事実的、身体的な死は、この時代定型的概念でした。ムンクの生きた世紀末は、末期特有の様相をはらみ、病める時代でした。精神的にも、心理的にも頽廃の時代でした。フロイトが心の病を追いながら精神分析学を展開したのもこの時代でした。ブタペスト出身のマックス・ノルダウは、この病める時代を語気鋭く糾弾した『退廃論』は各国で多大な反響を呼びました。ムンクの時代は、文字通り「病床の時代」でした。病床や死の床、詩の部屋がこの時代ほど描かれた時代ないとさえ言われています。17世紀のオランダでも、病人や病床を描いた絵は少なくないですが、それらは健康な人間の目で描いたもので、病は健康な社会で例外的なものでした。ムンクの時代は、芸術家はボードレールやニーチェ以来、青白い顔に病んだような眼差しが芸術的感性と繊細さの証であり、ダンディズムでした。



『病める子』 18851886年  オスロ国立美術館蔵



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 ムンクは僅か5歳の時母を失い、1877年、最愛の姉14歳になる姉ヨハンネ・ソフィエを、母と同じ肺結核で失いました。この作品は若きしてこの世を姉ヨハンネ・ソフィエの死の場面を描いたものです。付き添う女性は、叔母カレンと考えられます。ソフィエは不安そうな眼差しでカレンを見つめ、カレンの手をしっかりと握っています。少女に付き添う女性は、少女の手をとり、悲しみに打ちひしがれています。薄暗いカーテンは不吉な悪い前兆、少女の死が差し迫っていることを表しています。少女以外は色彩が抑えられて描かれていることにより、少女の描写が際立っています。ムンクは細い縦縞模様に絵の具を滴らせ、絵の具を厚く塗ることにより、作品に濃い色彩の層を作り出しています。


 姉の衝撃的な死のもと、『病める子』という作品を生涯にわたり幾度も描きました。死を予感した少女に強烈な孤独感が漂います。また『病気の子ども』以外の作品でも、このうつむいて悲しむ黒髪の人物と死を迎えた赤髪の女性という構図はさまざまな作品に現れます。死への恐れや喪失感はムンクに常に付きまとい、作品に繰り返し現れる絶望や不安、孤独という主題は原体験が影を落としています。




思春期』 18945年 油彩151.5cm×110cm オスロ美術館



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 はじめムンクの作品展を見た時心に焼き付いて離れなかった作品です。ベッドの端に裸の少女が座って足は閉じ、手は身体の前で交差しています。右手は膝の間に挿し込むように置かれ、左手は太ももの上に置かれて、顔は真っ直ぐで目は大きく見開いています。口は閉じて、長い髪が肩の上に下がっています。画面左から光が差し込み、画面右後ろには不吉な影が描かれています。少女の不安と恐怖の象徴、少女の性的目覚め、若者が成熟に向かって身体的にも精神的に変化するときの経験を描いていています。


 成熟過程にある少女が身体の異変を感じるのは何も「その瞬間」だけではありません。それよりかなり前から、何かが身内にうごめいているようで落ち着かず不快だし、いざ子ども時代が終わった証拠を突きつけられた後もかなり長く、自分が自分でない何かに化けてしまいそうな不安を感じ続けます。この絵はそういう長い変容期=思春期の闇を視覚化したのだと考えられます。人は変化を恐れ、小さな変化にも身構え、子どもから大人になる未知との遭遇は自己崩壊の危機に通じる場合さえあります。芋虫が脱皮して蝶になると考えても、脱皮し終えるまでの時間の無防備さに戦慄を覚えることもあります。少女は、貧弱な身体をじっと強張らせます。そんな少女の怖れや不安が、黒い不気味な影となって、まるで少女の全身から立ち上る黒煙のように、そして手で触れることのできる生き物のように横に描かれています。秘主義に傾倒していたムンクは、当時盛んだった心霊写真から『思春期』の黒い不気味な影の形態を思いついたと言われていますが、この絵にこの黒い丸い影がなかったら、かなり平凡な作品になり、すばやい荒いタッチで描かれたこの影こそが、絵の命と言えるほどこの表現が大きな効果を与えています。


 描かれている女性はムンク自身で、当時、ムンクはいとこの人妻ミリーと恋愛状態にあり、彼女との性的な接触を恐れていたと言われています。ムンクの性的恐怖や家庭恐怖は生涯続き、ワイン商の娘トゥラ・ラルセンからしつこく婚約を迫られても逃げまわり、結局生涯独身として過ごしました。1880年代後半から1890年代中半ころから、ムンクは『思春期』シリーズを描きはじめますが、当時ムンクはベルリンで売れっ子の画家になりつつある時期で、ベルリンに自身の住居を見つけ、ベルリンの新しい友人たちとサークルを形成していた。この新しい友人たちとの交流は、ムンクの性的な憂鬱を増加させる要因となりました。『思春期』にはムンクの性的な憂鬱が反映させています。『思春期』はリトグラフ版やエッチング版も存在し、どちらもムンク自身によって制作されています。



 『思春期』は『叫び』の翌年、31歳で描かれた。しかしこの作品を最初に制作したのは10年近くも前で、それが火事で焼失してしまったためもう一度描き直しました。今見られる『思春期』は本人によるレプリカです。最初の題名は『夜』でしたので、最初に制作した時はシーツや腿に血が見えるとの主張はなされてなかったかもしれません。一方で現在みられる『思春期』はねその時代の他の傑作と比べると。タッチが荒く繊細さに欠けるように感じます。これはたぶん本人によるレプリカのためで、最初の作品はもっと繊細な美しい作品だったのではないかと推測されます。



 1890年を境に、次の10年間は『思春期』と同じく内面的な感情を象徴主義風に描く方向へ向かいました。ムンク芸術は心理的な要素の強い、象徴主義的な、表現主義的な色あいを強めていくことは『叫び』をはじめとする一連の作品から見ていくことができます。「呼吸し、感じ、悩み、愛する人間を描かなければならない。」ムンクが標榜した「反自然主義」「反印象主義」は、ビクトリア朝的楽天主義や唯美主義と対極をなし、ペシミスティックな世界観、人生観が作品に色濃く投影されています。「愛と死」という人生の根本問題に深く思いを潜め、その思いを色と形に託しました。





「翌日」1909



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 ムンクは魅力的でないグロテスクな売春婦を描く傾向がありましたが、この女性はマドンナに似ています。おそらくその仕事に描かれているプロテスタント女性の本質の一面を描こうとしているようです。両方の絵は、フリーボヘミアンの生活の記述が小説になっています。 現在の絵は、1885年から86年に描かれた同じ主題の1890年代の彼のスタイルによって修正されたレプリカでより直接的なものです「シャンパンガール」の小さな、絶妙な絵画は、展示の際に強く攻撃されました。このような女性の描写は重要なノルウェーの先例が知られていたはずである。ムンクの作品が「翌日」を表していれば、ヘイエルダールは「前の晩」と呼ばれるかもしれません




 ムンクは、「深い感動を、魂を、悲しみと喜びとともに、人間が見たものに込めて描く。」ムンクの芸術的アプローチは、『ゴーギャンの椅子』を描いたヴィンセント・ヴァン・ゴッホと共通するところがあります。同世代のセザンヌに対し「人の意見など聞かずつくり続けろ。美は作業の中に宿るものだ」と忠告したロダンの、周囲の無理解に繊細に傷つきながらも制作の手を止めず、大理石や粘土の塊に生命を宿そうと正解のない問いに身を投じで愛と苦悩の半生を作品に表現したロダンの影響も感じることができます。




 エドヴァルド・ムンクは1863年にノルウェーで生まれ、現在はオスロと呼ばれるクリスチャニアで育ちました彼が、生まれてからわずか数年後、エヴァー・マンチの母親は1868年に結核で亡くなりました。ムンの父親は精神病に苦しんでおり、クエドヴァルドと彼の兄弟姉妹が育てられた環境でお互いに役割を果たしていました。彼らの父親は、エドヴァルド・ムンクの作品が深みを増した理由の一部であり、育った頃には抑圧された感情が非常に大きいことが想像されます。


 幼くして母を失ったムンクの母の死の体験は、その後のムンクの作品を「死の家の記録」にするに十分でした。ムンクの芸術の原点は、日常的、現実的な死の体験でした。ムンクは死を通して生を見る画家で、自ら病弱であったこともあり、病を呪い、死を呪い、恐れると同時に、生の原動力であり創造力の源でもありました。「病と狂気と死が私の揺籠の上に漂い、以来生涯付きまとった黒い天使となった。」「不安と病なしでは私は櫂のない船のようなものだろう。」「体の弱さは僕と切り離せない部分で、僕は病気とは縁を切りたくない。」


 ムンクは、自身の慢性的な精神疾患、遺伝的欠陥、性的自由、宗教的理想など人間性や死に対してして多大な関心を持っていた芸術家でした。強度の被害妄想、強迫観念、鬱病あるいは自閉症、慢性的不眠症、広場のある雑踏に出ることに対する病的な不安、恐怖から逃れるための過度の飲酒がムンクの「狂気」の実態でした。父母からの遺伝である病的な体質から、結婚は犯罪的と考え、制作活動は自己の精神的危機に対する対症療法であり、防衛措置であったと理解することができます。『叫び』、『不安』、『嫉妬』、『絶望』、『メランコリー』は。ムンクの精神的危機を可視化し、「フリーズ・オブ・ライフ」の中核をなす作品は、1908年、ムンク45歳前後の最大の危機の前後に制作されています。




「生命のフリーズ-愛と死」

 1889年にパリ万国博覧会に参加するため、ムンクはパリへ移り、2人の知り合いのノルウェー人芸術家と部屋を共有しました。ノルウェー・パビリオンに1884年のムンクの絵画『朝』が出品されることになりました。パリ滞在中、ムンクは展示会場やギャラリー、美術館などをまわって過ごしました。「美術館をまわっているときの巨匠の解説は面白かった」と話している。ムンクは、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・デ・トゥールーズ・ロートレックなどのヨーロッパの近代美術に影響力のある3人の巨匠の作品の展示に魅了されました。特に巨匠が自らの感情を伝えるためにどのように色彩を用いていたか気になり、なかでもゴーギャンの「現実主義に対する反発」という思想に影響されます。ムンクはゴーギャンやゴッホの後期印象派の影響を受け、外部の現実ではなくむしろ内面の状態を描いていて象徴主義的な方向へ向かっていきました。ゴーギャンの影響もあって、ムンクは自身の作品の版画制作を始めるようになりました。1896年にムンクは最初の木版画を制作し、ニコライ・アストルプとともにムンクはノルウェーの木版画の革新者とみなされています。188912月、ムンクの父は亡くなり、ムンクの家族は経済的に苦しくなりはじめます。そのため、ムンクは実家に戻って家計を支えることになりました。親戚はムンク一家の家計を助けてくれなかったので、裕福なノルウェーのコレクターから大規模な借入金を手配しました。また、父クリスチャンの死は彼に大きな影響を与え、精神的不調が生じてムンクは自殺を考えるようになりました。「私は生まれてからずっと死と隣合わせに生きてきた。母の死、姉の死、祖父の死、父の死。自殺して終わる。なぜ生きているのか」と日記に書いています。また『サン・クルー宣言』と呼ばれているメモに「もうこれからは、室内画や、本を読んでいる人物、また編み物をしている女などを描いてはならない。息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」と書いています。


 両親を亡くしてムンクは内なる感情を無数に描き残すようになります。「呼吸し、感じ、苦悩し愛する、生き生きとした人間を描くのだ。」「私の芸術は自己告白であるムンクの絵は、人間の内面を凝視し象徴的に表現する芸術に変わっていきます。



 ムンクは白樺派の時代から日本に紹介され、セザンヌやゴッホと同様、知名度が高い画家でした。その作品には、当時の急速に都市化する社会の中での人間の苦しみや孤独が表現され、一方、誰もが体験する愛や死といった普遍的なテーマも描かれ、時代や国を越えて100年後を生きる私たちにも共感できる魅力があります。誰にでもわかり共鳴を呼ぶムンク作品に漂う不安感や陰鬱さも、日本人の心根や情緒に訴える魅力があるようです。人間の欲望、不安、恐怖、嫉妬、孤独、死など内面的主題を描き、一時的に神経病になっても、ムンクは苦労して良き人生を得て大成した芸術家でした。パリに学びベルリンで活動し、人生の後半は故郷ノルウェーで過ごしました。自らの経験を芸術に反映させ、荒々しいタッチと色、内面的な主題で『叫び』に代表される独自の画風を打ち立てて象徴派、ドイツ表現主義の先駆者となり、80歳まで生き、巨匠として人生を閉じました。「フリーズ・オブ・ライフ」(生命のフリーズ)の連作には、『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などムンク芸術の中核をなす作品が並びます。様式的には1890年代の象徴主義に対応していますが、主題的には『病める子』、『思春期』などそれ以前の作品の継承と見られるものも少なくありません。




『叫び』  1893年 オスロ美術館所



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 大きいエドヴァルド・ムンクの作品のほとんどは、病気、死、そして悲惨さを扱っていますが、強く示唆に富む感情的および心理的テーマを持つアートで最もよく知られ、ムンクがドイツ表現主義の発展において有力な人物となったのはこの作品の存在のおかげです。ムンクはこのThe Screamという芸術作品のおかげで名声と世界的な評価を得ました。


当時すべての芸術作品はムンクの個人的な経験に触発された「人生のフリーズ」という題名のコレクションに含まれていました。The Screamには、橋の上に立つ身体をくねらせた不気味な人物がおり、彼の手は耳の上にあり自然の叫びに耳をふさぎ口が開いているかのようで骸骨のようでもあります。背景には、明るい赤とオレンジの鮮烈な色彩の曲線で示され、夕日があります。激しいオレンジ色の空を背景に極端な遠近法で表現主義風にデフォルメされた苦しい表情の人物が描かれ、まさに実存的な不安に脅かされ、孤独や不安にさいなまれる人間の苦悩の究極の象徴そのもののイメージです。世紀末北欧の心象風景は見事に現代まで通じています。ジャーナリストのアーサー・ルボーは「近代美術のイコン。私たちの時代の「モナリザ」だ」と評しました。


この絵はムンクがふたりの友人と一緒に橋を渡って散歩していた時に触発されたと言われています。ムンクはその特定の時を自分の日記に書いています。オスロ市街を散歩していた時のこと。「突然、空が血のように赤くなり、少し重苦しい気分になった」「まるで、いつまでも終わることのない鋭い叫びがあらゆるものを貫いていくかのように聞こえ、不安のために震えながら私は一人で立っていた」「私は憂鬱な息をした。突然空が真っ赤になりました私の友人たちはそこを歩いていました、そして私はまだ恐怖に震えながら立っていました - そして私は自然を貫く素晴らしい、無限の悲鳴を感じました。」解らなくはありませんが、その気持ちを知ることはかなり厄介ですね。


90年代から幾度も取り組んだ『The Screamの描写は『絶望』など他の作品にも盛んに用いられました。The Screamはレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』と並んで、世界で最も有名な絵画になりました。ムンクは何年もかけてほぼ同一のバージョンを4点描いたが、その内の2点は油絵で、もう2点はパステル画だった。その中の3点はノルウェーの博物館で展示されている。1点だけが個人の所有だった。『TheScream』は、1893年ムンクによって制作された油彩作品のほかに4つのバージョンが存在します。ムンクは幸福な人間ではありませんでした。こうした状況が水曜日に変わるかもしれない。特定の絵画の人気の最もよい指標は大量生産でした。そのイメージはさまざまなメディアや商品で使用されるので、本当に人気のある絵は遍在するようになります。画像はポスターに再現され、カップから冷蔵庫のマグネットまであらゆるものに印刷されているように見えます。有名な絵はしばしばパロディーになります。1895年のパステル画がニューヨークのサザビーズで競売にかけられ、ピカソの保持していた史上最高額の絵画としてのオークション世界記録を破ることになりました。




 死や喪失の対戦とともにムンクに霊感を与えたのは女性たちでした・ムンクは人妻や富豪の娘たちと奔放な関係を結びましたが、生涯を芸術に捧げるためか独身を貫きました。このため結婚を迫る女性たちと諍いを起こし、銃の暴発で手の指を1本失う事件を起こしました。愛憎入り乱れる女性との交際を糧に、ムンクは数々の傑作を生みだしました。愛と死、孤独をテーマとする作品群は場面や技法を変えて何度も描かれ、版画も制作されました。




『マドンナ』  18921895  オスロ・ムンク美術館



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 官能的な聖母『マドンナ』の顔の優美な美しさから愛情のある女性と呼ばれていました。ムンクはこの作品に女性のライフサイクルの本質的な行動を考えていた性交、受精、生殖と死を象徴するものを描いています。「交尾」は裸体における激しい、精神的な変化、恋人の下に横たわっているかのように描かれています。生殖は後に捨てられた元のフレームの装飾によって暗示され、その上に精液の滴と胚が描かれています。ムンクが死のイメージを関連付けたのは自然の中で永遠の周期的な発生過程と崩壊を表すものとして見ている絵の上の彼自身のコメントから解ります。ムンクは絶えず愛と死を結びつけました。


 マドンナは不適切ではない宗教的光の中での生活の継続的な世代と変容を考え、彼女の唇、乳首、おへその上の赤のタッチの精神的な対応物と考えることができます。彼女はアール・ヌーヴォーを暗示する色のついた光の硬化帯の中に浮かんでいるようで、超自然的な発散のように見えます。女性の頭の周りの血赤の円光は、彼女を取り巻くが媒体のオーラの精神主義的概念から派生しています。



 オスロ・ムンク美術館が所有していたバージョンの他、ノルウェー国立美術館とドイツのハンブルク美術館が別のバージョンを1点ずつ所蔵しており、他に実業家のネルソン・ブリッツ、1999年にスティーブン・A・コーヘンが購入したバージョンが存在します。版画版では女性の周辺を精子で装飾されたようなフレームが作られており、左下には胎児のようなものが描かれているのが特長です。木版画の色の除去は抽象的な概念を強調し、絵の内容の感情的な力強さを高めます。芸術家が絵画から版画への変換、および木版画が重要な修正と文字の置き換えは、ムンクの創造的な反応に貴重な洞察を提供しました。


 シリーズはコピーではありません。ムンクは、必要に応じてできるだけ多くのバージョンでこのテーマを繰り返し描きました。ムンクの内面がそれを活気づけ強制的な必要性を感ずるのでした。彼女は以前の批判を全く超え作品で生きています。




『吸血鬼』 1895年 油彩 オスロ・ムンク美術館



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 『愛と痛み』と呼ばれています。この作品に関してムンク自身は「首にキスをしている女性」以外の事は何も意図はなく、また吸血鬼の絵画を描いているわけではないと主張しています。しかし、その後にムンクは、1895年に『愛と痛み』を左右反転させた構図で『吸血鬼』というタイトルの作品を制作しています。また1916年から18年にも、『愛と痛み』と似たような構図で『森の中の吸血鬼』という作品を制作しています。ムンクを囲む芸術家の間には、女は本来吸血鬼のようなもので、男の勢力をしぼりとって生きている、という考え方が流行していたようです。この絵の中には、そうした女に対する男の警戒心が反映されたようです。この作品を『吸血鬼』としたのはそのようなことからも来ていると考えられます。


 『愛と痛み』の赤髪の女性とうつむく黒髪の男性の構図は、『病気の子ども』を基盤としていると思われます。ムンクは1893年から95年にかけて『愛と痛み』を主題として6つの異なる作品を制作しています。女が男を抱擁しているように見えますが、女が男の首筋に歯を立てて、男の血を吸っているのです。女が、自分の胸元に抱きついた男を、両腕で抱え込み、男の首筋に歯を立てています。髪は男性の頭部に垂れかかり、それは血が流れているように見えます。その表情には残虐な意図は感じられないし、男の姿にも恐怖や苦痛の色は見えない。女に血を吸い取られることが自分の運命だと達観しているようです色彩は、暗い暖色が基調になっていて、あたかもこれから流される血を暗示しているようですが、画面そのものには血の気配はありません。初めてこの作品を見た時は、『吸血鬼』がテーマというよりも、『愛と痛み』の方が適切に思えるのですが、『吸血鬼』がテーマというよりも『愛と痛み』の方が適切に感じました。


 男の血を吸ったり、男の首を刎ねたりする女のイメージは19世紀末のヨーロッパに流行していました。聖書のユーディット伝説を踏まえた、男を去勢する女のイメージは、中世以来のヨーロッパの文化的伝統の一つでしたが、19世紀末になると、サロメの首切り伝説に新しい物語が加わって、女による男の去勢あるいは殺害が、人々の興味をかきたました。同じテーマを木版画で表現したものは、前景(人物)、中景、背景の三つに画面分割され、それぞれの境界を薄い曲線でくぎっています。画面の三分割は、上の油彩画にも認めることができます。(東京都美術館のムンク展に展示されているのは、191618年に制作した本人によるレプリカです。)




 ムンクが生涯の最初の二十数年を過ごしたノルウェーの街、クリスティアニア(現在のオスロ)はシベリアのような静かな町でしたが、その平穏を乱すかのように登場したのがカフェを中心に形成された「クリスティアニア・ボヘーム」と自称する前衛的なボヘミアンたちのグループでした。古来の道徳的規範を破壊的で、神の秩序を破壊し、娼婦を主人公とする問題小説を書きアナーキズム的な思想の者もおりました。ムンクは21歳のときに、このグループに加わりました。大原美術館収蔵のムンクの版画作品の中ある「クリスティアニア・ボヘームⅠ」では、暗く沈み込むような横顔をわずかにのぞかせているムンク自身が描かれています。ムンクは、この前年に版画制作を始めたばかりであったにもかかわらず、すでに特殊な銅版画の技法を駆使して、黒一色による表現の可能性を探り、独自の光と影の世界を現出させていますが、その真の狙いは、不安をかき立てるような線のかたまりを通してそこに描かれた人たちを表現することでした。



 「クリスティアニア・ボヘーム」は性の問題に関しては進歩的、開放的で、市民道徳や結婚制度にとらわれないフリー・ラブを謳いました。ムンクもこの思想に影響を受けていきました。北欧の白夜に展開する神秘的な性の儀式、聖の饗宴を描いた『生命のダンス』は狂乱のダンスにのめり込んでいったという彼の言葉をと視覚化したものと考えられますかが、荒々しい狂乱の生の感情とは裏腹の倦怠感と非哀感が漂い、生きる喜びより生きる悲しみを感じさせる作品で、「死のダンス」を描いているようにさえ感じます。


 「フリーズ・オブ・ライフ」は、根底にムンクの個人的な女性体験があり、性と死の二つの言葉に要約されますが、「長い夏の夜の散歩の中で得たボヘミアン時代の会話や試走の結果構成された」というムンクの言葉からも「クリスティアニア・ボヘーム」の影響下に展開されたことも事実です。「フリーズ・オブ・ライフ」は、ムンクの個人的体験、内面生活の記録であり、告白であると同時に、北欧のクリスティアニア(オスロ)精神風土の所産であると言えます。


 ムンク作品は、彼が病気、死、女性たちの前で神経症に悩まされていたことを知っていたときに初めて素晴らしいものです。1900年頃、19世紀から20世紀の間のこの極めて重要な時期に固定されたままで、ムンクを近代の領域に併合する必要がありました。(経済的な要請に直面して、審美的な判断と知的な厳しさはほとんどありません。そのオーラをムンクの精神的存在の奥深さにおける芸術家の経験から切り離すことのできないものにしているのです。




ベルリン時代

 1892年、ムンクは『メランコリー』で見られるような色はシンボルを含む要素を持つという彼独自の総合主義の美学を考え出しました。『メランコリー』はノルウェー芸術家による最初の象徴主義の絵画だという。


 1892年にベルリン芸術家連盟のアデルスティーン・ノーマンはムンクを11月の展示に招待し、それは公的な意味での最初のムンクの個展となりました。ムンクは、この個展では《朝》《接吻》《不安》《メランコリー》《春》《病気のこども》《その翌朝》《カール・ヨハンの春の日》《雨のカール・ヨハン街》といった重要な作品を含む55点を展示した。《生命のフリーズ》の最初の展示といえるものであった。ムンクの絵は「ムンク事件」と名付けられる激しい論争を引き起こし、1週間後に展示は終了となりました。ムンクは事件で大騒ぎになったことに満足し、のちに「あのときのような時間を過ごしたことはない。絵画ほど無害なものが、こんな騒ぎを起こすことになるなんて信じられなかった」と話しています。


 ベルリンでムンクは、スウェーデンの劇作家や知識人のアウグスト・ストリンバーグなどが参加する国際的な作家、芸術家、評論家のサークルに参加。ベルリンでの4年間、ムンクはのちに彼の主要作品『生命のフリーズ』の基盤となる膨大なアイデアをスケッチしています。これは、フリーズの装飾のように、自分の作品をいくつかのテーマによって結び合わせていこうというものでした。


 このころからムンクは、奥行きはあまり出さず、前景の人物像を強調するため背景は最小限に描き始めました。1894年作の『灰』や1895年の『病室での死』のように心理状態を表現するために最も説得力のあるポーズを探求しはじめました。その人物の描写はどこか演劇のステージ上に立つ役者たちのように見え、固定した姿勢での黙劇はさまざまな感情を表現しています。度重なる身内の不幸とそこから生み出された傑作です。




『灰』  1894 油彩 オスロ・ムンク美術館



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 ムンクは1885年から数年間、人妻ミリー・タウロヴとの禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをしていた時期がありました。この絵画に描かれている女性はミリー・タウロヴに非常によく似ているので、おそらくそのときの苦しみを描いたものと推測できます。彼女の背景には鬱蒼とした木々が描かれていますが、ムンクと彼女2人はそこで会っていたといわれています。赤髪の女性は白いドレスのボタンを外し、下の赤いスリップを見せた状態で真っ直ぐ直立しています。彼女は頭に両手をおいて、誘惑をしているように見えます。手前の男性は頭を抱えている憂鬱そうだが顔は見えない。おそらくムンク自身と思われます。彼らの背景には暗い森があり、周囲の地面には色々な道具が散乱しています。2人が困難な時間を過ごしている恋人であることが分かります・




『病室での死』 油彩、1893年 オスロ国立美術館



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 姉ソフィーエの死を思い出し描いた作品。ベッド側に向いて立つ男性がムンク自身です。ムンクの家族は、両親とムンクほか四人の子ども、計七人からなっていました。母親が、ムンクが五歳のときに、姉のソフィエが、ムンクが十三歳のときに亡くなりました。こうした家族の死は、ムンクや残された家族に大きな影響を及ぼし、特に父親の悲嘆ぶりは甚だしく、悲哀がムンクに、不安に親和的な雰囲気を付与したと考えられます。「病室の死」と題するこの絵も、生涯に何度も繰り返し描いた母や妹の死をテーマにした絵です。この絵には死につつある病人を囲んで、ムンクの家族の全員の7人家族が描かれています。ベッドの中にいるのは、死のシンボルで、家族はそのシンボルを前にして、恐れおののいていると解釈されます。オレンジ色に塗られた床が、画面全体に陰鬱なトーンをかもし出しています。オレンジ色本来は、生命を感じさせる色ですが、用い方によってこのような精神性を表現できるのです。ソフィーエの死から立ち直ることのない一家を表現しています。連作テーマ「フリーズ・オブ・ライフ」の作品です。


 こうした主題を強烈な色彩や半抽象的なフォルムで、女性のヌードやセルフ・ポートレイトを描きました。内面を表現するのにもっとも説得力のあるポーズを探求した結果、頭を両手で抱えたり、どこか演劇のステージ上に立つ役者たちのようなオーバーアクションで描かれる点がほかの作家と大きく異なります。『叫び』における頬を両手に当てたポーズは、その後のポップ・カルチャーへの大きな影響を残しました。ムンクの内面不安の表現は、のちにシュルレアリスムやフォーヴィスム、ドイツ表現主義など、その後の新しい世代の表現主義作家に大きな影響を与え、ノルウェー国内においては最初の象徴主義の作家とされています。


 189312月、ベルリンのウンター・デン・リンデンはムンク作品の展示場のとなり、《愛:シリーズのための習作》というタイトルの6つの絵画が展示されました。これはのちの『生命のフリーズー生命の詩、愛と死』と呼ばれるシリーズ、いわゆる「生命のフリーズ」の始まりといえる。この頃のムンクは、人生の中で特に精神不安定な時代でした。


 この時期は、結核で亡くなった姉、父の死、さらに今度は1894年に妹(次女)ラウラ・カトリーネが精神分裂病に陥るようになり、ムンクは家族全体の肖像を劇的に描くことに焦点を当て、孤独と断絶された悲しみを表現しています。




『メランコリー』  1892 油彩 オスロ・ムンク美術館

 


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 「メランコリー」と題するこの絵は、自然の中で絶望する男を表現したもので、男の頭部だけが絵の右手片隅に描かれています。このように、男の頭部だけを切り取って、しかも画面の端のほうに配置するというのは、ヨーロッパの絵画の伝統にはなかったことでした。ムンクがこういう構図を思いついたのは、男の頭の中にあるイメージを表現したかったからではないかと考えられます。この絵の中のイメージのうち、本物は男の顔だけであり、その他はその男の内的世界を現わしたものだと訴えているようです。この絵は、表現主義の走りといえます。絵画における表現主義運動は、二十世紀初頭のドイツで始まりますが、ノルウェー人のムンクは、それに先駆けて、表現主義の特徴である人間の内面性を表現するような傾向の作品を制作していました。背景の空に、白い筋のような雲が流れていますが、これはノルウェーの海岸に特徴的な実景で、その空の下で、海に突き出た桟橋に、白いドレスの女性がたたずんでいます。この女性と手前の男との関係がムンク自身の女性体験を反映しているとも考えられます。頭を抱えた男には、ほとんど表情がなく、陰影も奥行きもなく、人間の生きた顔とは思えなません。表情を生き生きさせると絵のほうが意図を離れて死んでしまうとムンクは考えたようです。


 精神病になった痛ましい姿の妹は、1899年制作の《メランコリー》と題された作品で描かれています。戸外から遮断された真っ赤な部屋の片隅に、青黒い服を着た女が、こわばったように坐っています。妹はそのような状態で、59歳まで生きたという。翌年1895年にはペーテル・アンドレアースが、結婚後わずか6ヵ月後に死亡しました。弟の婚約者の女性は精力がみなぎり、一方、弟の肉体は自分と同じく虚弱でした。ムンクは弟の結婚に反対でした。ムンク一族においてセックスは男の生命を吸いとり、死に至らしめると考えていたのですが、その予言は見事的中しました。


 次々と襲う家族の不幸。ムンクにとっては人生で最大に精神が不安定な時期だった。しかし、またこの時代に、ムンクの代表作となる『不安』『マドンナ』『女性の三段階』『吸血血鬼』『月光』『星月夜』などの傑作の大半が制作されている。『叫び』もこの時期に描かれました。




『接吻』  1887 油彩 オスロ・ムンク美術館



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 ムンクはファスートキスの相手だった人妻ミリーとの恋愛体験から直感的なひらめきでこの作品を描きました顔も体も塊のように一体化した男女の表現は、ムンクの暗黒面が炸裂した若い頃の心象が現れています。溶け合うように描かれた男女は、恋愛の深みにはまり、自らの個性も創造力も失われてしまう恐怖を暗示しています。






『春』  1889 油彩 オスロ・ムンク美術館



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 188959日から、カール・ヨハン通りの学生協会の小ホールでムンクは彼の全作品(110点)を展示する個展を開催しました。「病気の子ども」の批判に反発して自然主義を基調に描いた「春」が好評になった。伝統的な技術と流れる品性に裏打ちされた、この時期の傑作のひとつとされました。なお、当時のノルウェーでは、芸術家の個展というものが開催されること自体が初めての試みでした。 個展が好評だったことや、遠縁の画家、クリスチャニア・ボヘームの仲間でもあったフリッツ・タウロヴの好意的援助も得てフランスの画家レオン・ボナットのもとで学ぶため、国から2年の奨学金が授与されることになりました。




『憂鬱』  1891 油彩 オスロ・ムンク美術館



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 1891年から1893年にかけてさまざまなバージョンの「憂鬱」シリーズを描いていますが、どれも海岸線を背景にして頭に手を置いた憂鬱そうな男が描かれています。モデルはムンクの友人でクルチャニア・ボヘミアンのメンバーだったジャッペ・ニルセンで、1891年、ニルセンは、クリスチャン・クローグの妻でニルセンより10歳上のオーダ・クローグと不倫関係になったといわれています。ムンクは、この不倫関係を自身の過去における不倫関係を反映する形で描いています。憂鬱は波打つ海岸線と左へ伸びていく揺らいだ曇り空などで表現されています。  『憂鬱』は1891年にオスロの「オータム・エキシビジョン」で展示さ、美術家で記者のクリスチャン・クローングによればノルウェー人画家による最初の象徴主義作品だそうです。  




『不安』  1894 油彩 オスロ・ムンク美術館



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 この作品は『叫び』と密接に関連していると感じています。顔は絶望を示し、暗い色は落ち込んだ状態を示します。それが失恋と悲しみの感情を示すことを意味すると考えられます。『叫び』が単独の存在によって完全に孤立して経験された恐怖ならば、不安は集団的絶望を演じる。その絶望はここでは孤立した個人ではなくグループによって担われているので、この作品の怒りの感情は、『叫び』よりも、ピアスが少なければさらに持続的です


 生命のフリーズ』は、ムンクが自分の内面から滲み出てくる「生命の段階」「女性の死」「愛と絶望」「不安」「不倫」「嫉妬」「性的な恥」「生と死の分離」などの様々なモチーフやテーマを基盤にして長期間かけて制作したライフワークでした。ムンクは、恐怖、脅威、不安、性的な不安を強調するために人物の周囲に色の影や輪を描くことがあります。ムンクの絵画はムンク自身の性的不安の反映と解釈されてきましたが、人間存在に対する悲観主義や、ムンクの愛に関する波乱万丈な関係を表現すると見ることもできます20世紀の始まり前後にムンクの『生命のフリーズ』は完成しました。アール・ヌーヴォー様式に影響を受けた作品も制作しました。『生命のフリーズ』全体は、1902年にベルリンで開催された分離派展示会で初めて公開されました。


 『生命のフリーズ』シリーズの作品の多くには複数のバージョンが存在しますが、その場合、大半は絵画ではなく木版画やリトグラフなど版画形式で制作されています。これは、ムンクにとって作品とは自身の身体と切り離せないものであり、オリジナルの作品を手放すことを嫌っていたためと考えられます。『生命のフリーズ』で描いた絵画の版画作品の制作に重点を置期初めました。多くのパリの批評家のは、ムンクの作品を「暴力的で残酷なもの」と見做していましたが、ムンクの展覧会はパリで注目を集めていました。







 1897年になるとムンクの収入は大幅に改善され、生計が楽になると、ムンクはノルウェーのオースゴールストランの小さな町のフィヨルドに面した場所にある18世紀後半に建てられた小さな漁師小屋を購入し、「ハッピーハウス」と名付け、そこで毎年夏を過ごすようになりまた。外国にいて落ち込んで疲れたとき、ムンクは逃避場所のように「ハッピーハウス」に帰りまた。ムンクは「オースゴールストランを歩くことは私の絵画の世界を歩くようなものです。私はここでインスピレーションを得ています」と話しています。


 1899年にムンクはトゥラ・ラーセンという女性と出会い、交際を始めた。彼女はリベラルの上流階級の女性だった。彼女はムンクの『生命のフリーズ』の終盤でよく描かれる女性です。1899年の『生命のダンス』では赤いドレスを着て描かれています。



『生命のダンス』  1900年 油彩 オスロ国立美術館 



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 オースゴールストランの海岸沿いの牧草地で、女性の3つのステージがダンスカップルの熱狂的なシーンをイメージしています。白に身を包んだ、微笑み、彼女のピンク色の頬を持つ処女の少女は、咲く花の方へ歩きます。 象徴的な対照的に、年上の女性が、手を握りしめ、苦い表情が少し後退した。 二人の女性は、ダンサーのカップル、暗い服を着た男性と赤いドレスを着た魅力的な女性がいる中心に向かっています。遠くの太陽、または月は、その広い反射の水を突き抜けます。生命のダンス」と題するこの絵は、「生命のフリーズ」の最後を飾る大作である。題名から生命を謳歌するように思え、また一見してそういう印象が伝わってこないでもないが、「生命のフリーズ」のほかの作品同様に、かなり屈折した思いがこの絵にも込められているようだ。


 ムンク自身、牧師と髪を無造作にたらした若い女が踊っている周辺で、人々が狂ったように踊っていると言っているように、この絵は人々の狂乱をテーマにしたものという説もあります。左手の女性は手を差し伸べて愛への希望を現わしているようにも見えますが、右手の女性は若い男女に対して嫉妬をしているとも見えます。女性は複雑な生き物だというのがムンクの気持であり、そうした気持をこの絵の中に盛り込むことで、人間の感情の暗い部分を取り上げた、女性の三面相を表現したのだとみることもできます。


 「女の三段階」を現わしたリトグラフも残しています。真ん中にはエロティックな女ざかりの姿、それを囲んで無関心とか嫉妬を表現し、女の複雑さを訴えているというふうに伝わってきます。ムンクはこのテーマで何枚か作品を作っています。


 ラーセンはムンクとの結婚を切望していましたが、ムンクはいろいろ言い訳をして断っていました。その理由としては、ムンクの幼少期からの家族の不幸、自身の虚弱体質、遺伝的な精神的欠陥などに恐怖心を抱いており、家庭を持つことに自信がなかったためであるといわれています。「ムンクは幼いころから結婚を嫌がっていた。彼の病気と神経症的な家系は結婚する権利はないと考えられていた」 19026月、2人は久しぶりにオースゴールストランで会うことになりましたが、トゥラ・ラーセンは「自殺する」と言ってピストルを持ち出し、ムンクともみ合ううちに、ピストルが暴発し、ムンクは左手中指の第2関節を撃ち砕くけがを負うという事件が起こりました。この事件で2人の関係は決定的に破局する。その後、彼女はムンクから去り、ムンクの同僚だった若い男と結婚しました。ムンクはこれを裏切りとして受取り、しばらくのあいだ彼女に執着する。ムンクは1909年になっても、友人ヤッペ・ニルセンに手の痛みを訴え、「彼女の卑劣な行為が僕の人生を滅茶苦茶にしたんだ。」と罵っています。彼女を描いた作品として1907年の『マラーの死』などがあります。





『マラーの死』  1907 油彩 オスロ・ムンク美術館




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 1900年代、ムンクは、リューベックの眼科医で美術愛好家のマックス・リンデと交友するようになり、1902年末ごろから、リンデの子供部屋に飾るための絵の依頼を受けて制作を始めました。1903年にエッチング集『リンデ博士の家庭から』を完成させ、同じ年に次いで油絵『リンデ博士の4人の息子』を制作した。これらの一連の作品は「リンデ・フリーズ」と呼ばれ、1904年末に全作品が完成しました。





橋の上の少女たち』  1901 油彩 オスロ・ムンク美術館



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 オースゴールストランのフィヨルドの風景と橋に、白、赤、緑とそれぞれ違う色の服を着た3人の少女が橋の上に並んで立ち、水面を見つめています。境界線が曖昧な橋がピンクで描かれ、中央に描かれている白い家屋は夏の大きく茂った三本のリンデンの木々で覆われて、そのリンデンの木々と家屋は白い木製のフェンスで囲まれ、緑が点在した砂地とフィヨルドの湾曲が描かれています。空は緑と青の中間色で描かれており、弱々しい満月の光にリンデンの木が水面に青黒く不穏な雰囲気で反射して、そんな水面を3人の少女たちが寄り添ってのぞき見しています。完全な精神的危機の中で、シリーズの「涙の中の女性」の測品です。



 1903年から1904年にかけて、ムンクはパリで展示を行いました。1905年にはパリでフォーヴィスムが流行し始め、1906年にフォービストたちはムンクを招待し、ムンク作品をフォーヴィスム作品と並べて展示しています。このころにルドンから彫刻を教りましたが、ムンクは彫刻は結局ほとんど制作することはありませんでした。この時代、ムンクは肖像画制作で収入をかなり稼ぎ、不安定な経済状態は改善していきました。1903年には、イギリスの女流ヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチと知り合い、彼女を愛するようになった。彼女をモデルに『ブローチをつけた婦人』といった優れたリトグラフ作品を残している。




『泣く女』 1907年 オスロ、ムンク美術館



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 「彼が何度も描いたのは、ベッド近くの裸の女性です。 いくつかの絵では体は美しいです。 彼女は悲しい、汚れた壁に光をあてています。 しかし、ほとんどの場合、彼女は、彼女の青春期にもかかわらず、醜く破壊されています。これらすべての絵で、姿勢は同じです。 彼女はベッドから降りて頭を下げます。 腕が垂れ下がる。 髪は顔を隠します。 ムンクに残っているのはこのような印象でした。"

 ムンクの取り上げたテーマは愛と死、不安と孤独、嫉妬や別離など人間の情念などで、ムンクはそれを凝集した単純化した携帯で直撃的に完結的に表現しました。『接吻』の男女は解けるように合体し、『メランコリー』のような打ち沈んだ男はくっきり横顔を見せ、『マドンナ』の背徳的な官能性は流麗な曲線で強調されています。ムンクは人間の感情を典型化する能力があり、説得力のある情念の典型的なものを創出します。そのイメージに触発された人はムンクの作品から各々の経験、記憶、感情を呼び覚まし、共鳴し、共感しまします。社会も政治も経済もグローバル化して個人の力が及ばないところから大きな変動が起こり、自らは濃密で堅固な組織の閉塞感の中で何もできないような閉塞感の強い社会、組織の中で生活していると、”叫びたいような気持ちの人は少なくないかも知れません。そのような人たちから見ると、ムンクの絵は雄弁に代弁してくれるように感ずるのかも知れません。





人生の再出発

 1908年の秋、過度の飲酒や喧嘩などが重なってムンクの憂鬱は急に深まっていきまた。幻覚と疎外感が襲うなか彼はダニエル・ジャコブソン医師の精神病院へ入院ことになりました。ムンクの精神状態は狂気の縁にあり、危なかったようでしたが、8ヶ月間の電気ショック治療を受けてムンクの精神状態は改善しました。精神の回復にともなって、ジャコブソン医師はムンクに飲酒をやめて、理解ある友人とのみコミュニケーションをとるようアドバイスしました。ムンクはアドバイスに従い、友人やパトロンたちの質の高い複数のポートレイト作品を制作するようになりました。収入が増えるにつれてムンクはさまざまな土地を購入し、そうした土地で休養することでムンクは芸術に新たな視点を得られるようになり、また家族に土地を提供することもできるようになりました。第一次世界大戦の勃発によるドイツとフランスの対立の時代、ムンクは「私の友人はすべてドイツ人だが、私が愛しているのはフランスだ」と話しています。


 1909年に退院してノルウェーに戻って創作活動を再開すると、作品の色合いは以前と異なりカラフルになり、悲観性はなくなっていました。また、オスロの一般市民がムンク作品を受け入れるようになり、オスロ美術館が彼の作品を購入するようになったのも、ムンクの精神を安定させる要因となりました。ムンクは芸術分野においてノルウェー政府から聖オーラヴ勲章を受賞。1912年にはアメリカが初個展を開催することになりました。またこのころムンクは職場や遊技場での人々の風景を楽しげに描くようになりました。白い余白が多くなり、黒は少なくなり、鮮やかで緩やかな筆使いになっていきました。




『雪の中の労働者』 1912年 油彩 オスロ・ムンク美術館



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男性美を追求したムンクがたどりついたのは、労働者の働く姿に現われた男の力強い美しさでした。シャベルを担いだり手で持ったりした三人の労働者が描かれ、背景には思い思いの姿勢で働いたり休んでいる労働者たちを描かいいます。「水浴する男たち」も威風堂々とした姿で描かれていたが、この絵の中の労働者たちも威風堂々として、自分自身に誇りをもっているように描かれています。そこには、社会のあり方についてのムンクの姿勢が反映しているのだろうと思います。


欧州の評価が高まったムンクは、1905年ノルウェーの国立美術館が作品を5点購入し、ようやく祖国で名声を確立しました。現在のオスロ大学の講堂には、ノルウェーに帰国したムンクが7年を費やした記念碑的大作壁画が燦然と壁面に鎮座とています。三方を囲む巨大な作品群の中心にあるのが『太陽』です。




『太陽』 11910-1911年 ノルウェー・オスロ大学



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 太陽は画家エドヴァルド・ムンクがオスロ大学のオーラマグナを飾った壁画の一つです。これらの仕事は、彼の画家としての経歴の大終生であり、ムンクが極度の疲労のために悲痛な悲観論と病院での長い闘病生活の人生にも前向き克服し、肉体的、精神的限界まで芸術家として存在を反映するために、どのように生きてきたかを示すものでもあります。このようなおおきな規模の作品に取り組んだことは一度もありませんでしたが、ムンクは、環境の厳格なる設計思想に沿って、非常にシンプルな効果を実現しました。一連の壁画の中で最も強力で独創的な作品は、エネルギーと生命の源として画家によって賞賛されたこの太陽のイメージです。強烈な光線が降り注ぎ、爆発的なエネルギーが画面から溢れ出ています。ここに見える 太陽はノルウェー南部のクラゲロというフィヨルドを照らしています。そのシーンは、絵画が抽象的な構成のように見えるように、大胆で理想的な方法で表現されています。その上端では、光線とエネルギーの光線が花火によく似た赤、青、ピンク、黄色、金の爆発に変換されています。中央では、白い球の光が活気に満ちた光線と融合します。このようにして星の抑えられないエネルギーのアイデアを伝えます。沿岸の中央にある柔らかい緑の延長とは対照的に、海は細かく刻まれた色と材料の表面の視覚的な色や明るさの均質さ、触覚的な比力の強弱を感じます。私にはこの輝くそしてカラフルな太陽への尊敬と敬意、それは私を喜びに連れて行かせたいという大きな欲求を私に目覚めさせます。それが発する力を感じ、私は本当に最高の気分です。


 故国を終の棲家としたムンクは、以前とは全く異なった明るい色彩で豊かな自然と人々の姿を描きました。晩年台頭したナチスに退廃的芸術として作品を没収される苦難に遭遇しましたが、創造への情熱を最後まで燃やし続けました.

 晩年、ムンクは最後の20年をオスロ郊外のエーケリーで土地を購入し、一人で過ごしました。晩年の絵画の多くは、彼のアトリエで飼っていた馬「ルソー」をモデルに農場の生活を中心とした主題で、牧歌的なものとなっています。また、特にムンクは何の努力もせず、女性モデルたちを着実に魅了して、彼女たちの膨大な数のヌード画を主題にした絵画を制作しました。モデルの中には、おそらく性的な関係も持っていた女性もいたでしょう。晩年になるとムンクは控えめなセルフポートレイトを描き続けましたが、ムンクの人生における感情的または身体的状態を主題とした作品も繰り返し描いています。



 結局、ムンクは実際には死に至る病にならず、81歳の長寿をまっとうしました。この危機を脱した後は、オスロ大学講堂の壁画や労働者を主題とする一連の連作に代表される、明るく健康的で楽天主義的な作品に移行していきました。子の移行は、内面的な緊張に満ちたそれまでのムンク芸術の退行という見方もありますが、長期にわたる心身の病の後に訪れた回復期の希望と安らぎに満ちた精神の反映という見方もできると思います。死の前年の自画像は、ムンク自身の作品が無数に描き込まれ、部屋には明るい光が差し込んでいます。ムンクの芸術遺産は、彼がこの絵を書いたときに期待していたように、表現主義、象徴主義などの画家たちに引き継がれて行きました。




ムンクの絵がなぜ人を惹きつけるのか?

 ムンクの絵がなぜ人を惹きつけるのか、見る人の心に食い入ってくるのかは、絵そのものの性格と見る人の置かれている状況の両方の要素があると思います。冷戦の時代は資本主義経済の音痴テーゼとしてマルクスの理想主義があり、資本主義国家も国民の福祉に向かっていました。しかしソ連の崩壊、経済のグローパリズム、新自由主義の台頭により、成果主義、効率主義は、社会全体に閉塞感、人間阻害が生まれ、ムンクの描いた不安、恐怖、嫉妬、孤独に現代人は共感を覚えるのではないでしょうか。しかし、ムンクの絵画はそこで自己完結してしまっていて、人々の悩みや問題に何も答えてくれるわけではありません。ムンクの絵に投影された自分の現実の姿を見出した時、その苦しみのサイクルから抜け出すためには、自身の変革と努力によるしかありません。ムンク自身も自己の変革と努力によって新しい人生を切り開きました。





■参考文献

千足 伸行, 冨田 章 () 『もっと知りたいムンク』東京美術 2018

ムンク展 200710/620081/6 国立西洋美術館 公式カタログ

亀山裕亮 「ムンクのセルフ・イメージ形成」

『第 68 回美学会全国大会 若手研究者フォーラム発表報告集』(2018 3 月)

エドヴァルト ムンク、鈴木 正明 ()「自作を語る画文集」生のフリーズ 2009

中野京子/著 『怖い絵』 朝日出版社 2007

Artpedia 近現代美術の百科事典  https://www.artpedia.jp/






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by desire_san | 2019-01-07 02:49 | 美術展 & アート | Trackback | Comments(14)
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Commented by Qickartpes at 2019-01-08 13:59 x
こんにちは  拝読させていただきました。
ムンクは、「太陽が沈みかかっている夕刻にフィヨルド沿いの路を歩いていると、自然を貫く大きな叫び声が果てしなく続くのを聞いた」と記しています。ムンク『叫び』を描いた10年後はっきりとした精神症状をきたすようになり、精神科医のもとで療養生活を送ります。精神症状は被害妄想が中心で、ムンクが統合失調症にかかっていたことはほとんど間違いないとされています。『叫び』が描かれた時期と精神症状が認められた時期にはずれがありますが、『叫び』に表現されたおどろおどろしさや破局的な描写は幻覚体験をよく表していることから、すでに統合失調症の症状が現れていたのではないかと推測されています。


Commented by Herbestet at 2019-01-08 14:15 x
初めまして!ムンクのすばらしいレビューを拝読し、大変勉強になりました。
ムンクの作品の多くは、生と死のシーン、愛と恐怖を描写し、孤独の感覚は、視聴者が自分の仕事パターンに焦点を当てていることに気づくことがよくありました。 これらの感情は、コントラストのある線、濃い色、色のブロック、暗い色調、簡潔で誇張された形で描かれていました。 ムンクは、フランクのアーティストが「心の不思議な中心」と呼んだものをペイントする最初のアーティストの一人であったヴァンゴッホと頻繁に、そしてよく比較されます。 しかしおそらく、より過大な影響力を持つのは、非常に近代的なSigmund Freudでした。 フロイトは、それを幼少時の経験と関連づけて、多くの人間の行動を説明しました。 ムンクは、母親が結核で死亡したことを見て、5歳のときに姉のソフィーは同じ病気で死んだと見た。 ムンチは、シックルームの 死者のベッドと死を、彼が目撃したことを具体的に描いていない普遍的なキャストを与える。 The Sick Childのいくつかのバージョンは確かに彼の妹です。
Commented by Gamtart_77 at 2019-01-08 15:07 x
ムンクに関する詳しく解りやすいありがとうございました。
ムンクが死んだとき、彼の残りの作品はトーエン (1963年にオープン)でムンク博物館を建てたオスロの町に遺贈された。 博物館には約1,100点の絵画、4,500点の絵画、18,000点のプリントが収蔵されており、世界で最も幅広い作品を集めています。 ムンク博物館は、ムンク芸術を公式財産として機能し、著作権侵害への対応や著作権侵害の防止に積極的に取り組んでいます。 ムンク博物館とエドヴァルド・ムンクの不動産に関する米国の著作権代表者は、 アーティスト権利協会です
Commented by starwors_011 at 2019-01-08 15:10 x
こんにちは!ムンクのレポートありがとうございました。ムンクの芸術はに関しては、ムンクはほとんど教えていませんでしたので、大変勉強になりました。
。ムンクの象徴主義は、 ギュスターブ・モローやジェームス・エンサーのような他の象徴画家のものよりはるかに個人的でした。 ドイツの表現主義者たちは、「私は人間の心を開いてほしいという人間の衝動の結果ではない芸術を信じていません」と自らのの哲学に従っています。ムンクの絵画の多くは、彼らの非常に個人的な意味に加えて普遍的な魅力を持っている。

Commented by desire_san at 2019-01-08 16:06
Qickartpesさん   コメントありがとうございます。

ムンクの『叫び』には北欧の風土が感じられますね。
ムンクが脳内の病気が発症しても統合失調症の症状が現れていたということだとすると、統合失調症は脳内の神経伝達物質が過剰分泌されて発症するという説が有力で、休養して脳の働きを回復させる治療を受けると共に、ストレスを減らしてうまくつきあうことで改善したのかもしれません。しかし専門的見地から見ると、統合失調症は、薬を飲み続けることで見かけ上の健康を保たれますが、完治はしません。また統合失調症は昔は精神分裂病と呼ばれていた病気で、症状を安定化させるために、エネルギーを低く抑える治療をする治療をします。
 ムンクが回復後、亡くなるまで旺盛な制作活動していたことが事実なら、ムンクの病気が統合失調症であった可能性は極めて低いと思います。


Commented by desire_san at 2019-01-08 16:20
Herbestetさん  コメントありがとうございます。


ムンクの絵画を見ていると、確かにゴッホに通ずるものを感じますね。ムンクとゴッホ生涯に出会うことはありませんでした。しかし、同時期にパリに滞在して画家として似たような道のりを辿ったにも関わらず、それぞれが生み出した絵画は大きく異なりました。ゴッホはムンクより10年早く生まれましたが、二人とも母国で自然主義的な画家の影響を受けて伝統的な画題に取り組み、抑制された色遣いをしていた。二人ともモネの光と色彩表現を尊敬し、マネの肖像画やロートレックの人物画にインスピレーションを受け、ピサロの点描技法を経験し、カイユボットの画面構成を取り入れ、新しいアイディアをスポンジのように吸収し、自らの芸術を確立していった。さらに二人を深く結び付ける類似点は、人間の存在の本質と、その意味を追求する姿勢であった。繰り返され続ける生や死、愛と希望の喪失による恐怖と苦痛など、答えの出ない本質的で普遍的な問題に熱心に取り組んみました。奇しくも二人とも、恋愛のもつれにより、自らの身体を傷つけています。このように、同じ絵画技術を習得し、同様のテーマを扱っていたのにも関わらず、二人が描いた作品は大きく異なっています。ゴッホは現実世界を、練習に練習を重ねたうえで描き、ムンクは見ているものではなく、見たものを現実世界に縛られることなく自由に描いています。ここに二人の画家の個性の在り方が浮き彫りにされていると思います。


Commented by desire_san at 2019-01-08 16:25
Gamtart_77さん  コメントありがとうございます。

ムンクは晩年から祖国で認められ、ノルウェイが世界に誇る存在になったのですね。

ムンクの壮絶な苦難と努力が実を結んで、大変うれしく思いました。


Commented by desire_san at 2019-01-08 16:31
starwors_011さん  コメントありがとうございます。

確かにムンクの象徴主義は、 ギュスターブ・モローのような他の象徴主義とは全く異質ですね。

ムンクの表現主義は、ドイツの表現主義者たちとは決定的な違いがあるようにおもいます。

これらの違いは、興味深いですが簡単に説明するのは難しく、次のブログのテーマになりそうですね。


Commented by Frontie at 2019-01-08 18:31 x
精神科医をしているFrontieと申します子。よろしくお願いします。
dezireさんはムンクの病気は統合失調症ではないのではないか、というご意見に私も賛成します。神経症の療養後は長い放浪生活を終えて故郷に帰還食た後、ムンクは40代で祖国での評価を確かなものとして、手にした経済的な安定の末、自作を並べて制作に取り組みました。野外アトリエなどを整え、クリスチャニア大学講堂の壁画をはじめとする大規模なプロジェクトにも、意欲的に取り組みました。偉大なる自然と人間の知性を主題としたこの大作をはじめ、祖国の自然をダイナミックに表現したモニュメンタルな風景画を数多く描いています。ムンクのような天才は違うのかも知れませんが、現代医学の常識では、統合失調症を患った人がここまでエネルギーを高めると、統合失調症が再発し、危険な精神の暴走が起こる危険性は高いと考えます。



Commented by desire_san at 2019-01-08 21:20
Frontieさん、ご専門の立場から貴重なご見解いただきありがとうございます。
Commented by rollingwest at 2019-01-10 05:55
松の内も過ぎてしまい、遅ればせながらあけましておめでとうございます。故郷柏崎で正月を過ごして帰宅後もバタバタぎており新年あいさつが遅れて失礼いたしました。平成最後のお正月はゆっくりされましたか?今年もまたお付き合いの程よろしくお願いします。ムンク展行かれましたか!小生も昨年秋に行きましたが大いに堪能いたしました。
Commented by desire_san at 2019-01-10 16:48
rollingwestさん 遅ればせながら、新年おめでとうございます。

今年も rollingwestさんのご活躍をブログで拝見するのを楽しみにしております。

本年もよろしくお願いいたします。
Commented by noririn_papa at 2019-01-11 12:27
ムンク展、よかったですね!!
いつdezireさんが記事を書いてくれるかと心待ちにしていました!!
「病める子 Ⅰ」の少女漫画のような繊細な線、「灰」のやっちゃった感あふれる表情、「星月夜」の街灯り、素敵でした。

https://yhosdiary.exblog.jp/
Commented by desire_san at 2019-01-11 20:26
noririn_papaさん  コメントありがとうございます。

ムンクの描くテーマは重たいですが、ムンクの画面は、非常に薄塗りで描いていて、本物を見ると画集で見るよりずっと美しいのですね。ステキとお感じになるお気持ち、良く分かります。