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心に残った旅・芸術とアートとの出会い   

クリムトの生涯と芸術の変遷・クリムトのすべてに迫る

グスタフ・クリムト

Gustav Klimt Exhibition

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クリムト『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I1907年 ノイエ・ガレリエ、ニューヨーク



 グスタフ・クリムトは、絵画におけるデザイン的要素を切り開き、写実的な人体と、まるでデザインされた模様のような平面的な要素が混在し、奥行きや遠近感を持たず、観る者に不思議な感覚を呼び起こす絵画を世紀末ウィーンに残しました。男女の愛や性を連想させる官能的な表現と「死」を感じる描写の両面をもち、官能的で装飾的、絵画でありながら工芸的、クラシック調なのに前衛で、華やかなのにどこかもの哀しく、見る者に鮮烈な記憶を残す、19世紀世紀末ウィーンを象徴するグスタフ・クリムトの芸術の全貌に迫りたいと思います。





19世紀末のオーストリア帝国首都ウィーンは、パリに次ぐ文化都市で、ウィーンで興るモダニズムは、パリのモダニズムをライバル関係にあり、互いに意識していました。フランスのモダニズムは、目に見えるものをモダンな知性と創造力で描く印象派なのに対して、ウィーンモダニズムは人間の存在の描写に力を注ぎ、フロイトを筆頭とした医学の進歩からくる人体へのアプローチで、タブー視されていた性的表現の改革・発展も伴うものでした。



グスタフ・クリムト(1862~1918)は、ウィーン・モダニズムの中心人物として、人生のその時々に取り巻く環境、出来事と密接に関係する作品を製作し、妥協のない主観的な芸術をつくりあげ、ました。19世紀末のウィーンで、ウィーンモダニズムの旗手として活躍したグスタフ・クリムトは、写実的でアカデミックな画風から出発し、金箔を多用する「黄金様式」を経て、装飾的で抽象的な色面と人物とを組み合わせた独自の画風を確立しました。





クリムトの生涯

グスタフ・クリムトは、ウィーン郊外のバウムガルテンで、彫金師である父エルンスト・クリムトと母アンネ・フィンスターの間に7人兄弟の2番目として産まれました。 1876年、14歳のとき、ウィーン美術工芸学校に入学、のちに、2名の弟エルンストとゲオルグも同校に入学し、彫刻師、彫金師になります。



装飾芸術での成功

学校を卒業すると3人でウィーン芸術家協会(芸術家商会)を設立、フランツ・ヨーゼフ皇帝のもと繁栄を謳歌するウィーンで、多くの装飾を手がけています。中でも、1886年のブルク劇場の装は、皇帝の目に留まり、28歳のときにフランツ・ヨーゼフから金功労十字賞を授与され、ウィーン美術家組合に加入。若くして順調な滑り出しでした。記念碑的な作品がウィーンのブルク劇場と美術史美術館のために作られた1886年から1891年の間に、人は古代世界とローレンスアルマ - タデマのスタイルを通してインスピレーションを見ることができます。クリムトのタオルミーナの劇場アルマ・タデマとアナロジーは非常に明確です。アンティーク彫像、ベアトリスの右ガセット画像内の古いイタリアの芸術塑性塗装された身体部分と平らで装飾的な要素の分離の初期の例です。この芸術的なデザインの原則は、クリムトの後期ユーゲントシュティール(アールヌーボー)作品の特徴です。





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クリムト古イタリア美術(1891)ウィーン美術史美術館






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クリムト:タオルミーナ劇場「アルマ・タデマとアナロジー」(1886-1888





「初期のクリムトは、歴史主義に基づいた古典的な作品を描いていました。この頃クリムトは日本の美術から影響を受けており熱心に日本の美術も研究していました。『17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像』(1891年)では草花が描かれた額縁を用い、『女ともだち』(1907年 クリムト財団蔵)のような浮世絵の美人画を思わせる縦長の作品など、日本美術からの影響も伺わせます。劇場装飾やウィーン美術史美術館の壁面装飾を手がけながら、クリムトは次第にウィーンを代表する画家となっていきました。




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クリムト『ヘレーネ・クリムトの肖像』1898年 油彩、個人蔵(ベルン美術館寄託)





 ヘレーネ・クリムトは弟エルンストの娘でクリムトの姪にあたります。弟のエルンストは1891年にヘレーネ・フレーゲと結婚しその年にヘレーネが生まれました。翌年1892年にエルンストが急死すると、クリムトは残された母子を預かる身となり、ヘレーネの保護者となりました。この作品はヘレーネが6歳のときに描かれたもので、1903年の分離派展で作品が展示された。絵の構図や画面構成は耽美主義のホイッスラーの影響を受けていように感じます。



1894年、クリムトは、ウィーン大学大講堂天井画の作製を要請されます。天井画は、「哲学」「医学」「法学」の3部構成でしたが、性的描写など大学にそぐわない内容であったため、大論争へと発展してしまいます。結局、クリムトは契約を破棄、報酬を全額返還する騒ぎとなりました。





「ウィーン分離派」の結成

クリムトは、1897年に保守的な当時のウィーン画壇から離脱し、「ウィーン分離派」を結成し、市が土地を提供し「分離派会館」という立派な建物を建てることができました。分離派会館の壁面には、その時代にふさわしい芸術を、芸術には自由を”という言葉が刻まれています。この言葉はオーストリアに限らず普遍的なものですが、特に当時の保守的なオーストリアにとって、この精神が重要でした。この自由な芸術の中心にいたのがクリムトで、彼らを中心に多くの展覧会を開催しながら新しい表現を追求していきました。





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クリムト『音楽 11895年 イノエピテコーク





『音楽1』は、オーストリアの実業家、ニコラスドゥンバの要望で1895年、ヴィエナにある豪邸の2部屋の音楽室のドアに飾る為に描かれました。この作品も、クリムトが音楽を寓話的に表現した数多くの作品の最初に描かれた作品です。当時の印象派の流れの作風の中に、クリムト独特の「隠喩的表現」が混じり合って、装飾的要素や鮮烈な色使いが潜んでいます。竪琴(リラ)が目を引く色彩で描かれ、黒いドレスの女が首を垂れてそのリラを一心に弾いている。右側にスフィンクスの彫像が印象的に描かれています。スフィンクスは「時代には芸術を。芸術には自由を。」と唱えたウィーン分離派・クリムトの、芸術の自由の象徴といわれています。



分離派とは、旧態然とした国家や画壇にうんざりとして、アカデミズム主導の芸術家組織から分離した新たな芸術家集団を指します。最初に官主導のサロンから脱退したのはパリの画家たちでした。その活動は各国に飛び火し、92年のミュンヘン分離派が起こりました。クリムトは、1897年、35歳の時ウィーン分離派を設立し初代会長に就任しました。さらに1899年にはマックス・リーバーマンを中心としたベルリン分離派が起こります。



クリムト分離派を結成した当時の流れのなかで描いたのが『ヌーダ・ヴェリタス』(裸の真実)(1899年)です。裸の赤毛の女性が真実の手鏡を手に持ち、右手にもった鏡を鑑賞者方へ向けています。彼女の上部にはドイツの詩人フリードリヒ・シラーからの引用文、「もし、あなたの行いと芸術で数多くの人びとを満足させることができないならば、少数者を満足させるために行為と芸術を行え。多数の人が喜ぶことは悪いことなのだ。」と書かれています。メッセージ性の高い攻撃的なデザインは、そのまま女性が手に持つ鏡に映る鑑賞者に向けられています。これはウィーン分離派運動に関係し、鑑賞者に対して啓蒙的な意味合いを持ち、エリート意識を明白にしたウィーン分離派運動のプロパガンダと、女性の内面の性的欲求と性的抑圧の解放を啓蒙したものと考えられます。これはウィーン分離派に対する理解を示さない家父長的な伝統主義者への攻撃も示し、クリムトたちが掲げた新しい芸術運動の理想を示したものとも考えられます。




金を多用した華やかな画面

グスタフ・クリムトは生涯に残した作品が少ない作家ですが、その黄金期に描かれた『ユディトⅠ』(1901年)は官能美の頂点といえ、世紀末ウィーンが生んだ世界最高のエロスと言われています。「黄金様式」の代表作である『ユディト』は、それまで金色を絵の具で表現していたクリムトが、初めて本物の金箔を油彩画に使った作品です。クリムトの傑作『ユディト(ユーディットとホロフェルネス)』に描かれるのは、旧約外典(旧約続編、第二正典)のユディト記に記された美しい女「ユディト」の姿です。 「ユディト記」では、美しく裕福な未亡人ユディトの住むベツリアへ、アッシリア王ネブカドネツァルの命により、将軍ホロフェルネスが軍を率いて侵攻します。暗殺を目論むユディトが将軍ホロフェルネスの気を惹くために近づき、酒宴に招かれたその夜に、酔いつぶれた将軍の首を切り落とし、ベツリアの街を救ったとされる逸話で、ルーカス・クラナッハ、カラヴァジョを始めルネサンスからバロック、ロココ時代の巨匠もこのテーマの作品を描いています。クリムトが『ユディトⅠ』を描いたのは、女性の性的誘惑に負けてしまうことに対する自身への戒めであるとクリムトが語っていました。



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クリムト『ユディトⅠ』1901年 ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館





クリムトは英雄的な姿でユディトを描くのではなく、匂い立つような妖艶性と官能性を全面に押し出し表現されているのが最も大きな特徴です。薄く唇をあけ、白い歯を見せるユディトは恍惚とも怠惰とも解釈できる不可思議な表情を浮かべ、その視線はあたかも観る者を淫靡に挑発しているかのようです。金色で装飾されたユディトの身に着ける薄透の衣服や、そこから微かに見える右乳房などは、観る者に対して直接的に肌を露出し表現するよりも、よりエロティックな妄想や官能性を掻き立てる効果を生み出しています。さらに古代アッシリアのレリーフの断片に着想が得られている背景の、黄金と黒色による豪奢で平面的な画面構成や色彩表現は、ユディトの美しい肌と見事に対比し調和しています。この作品に描かれるユディトのモデルは、裕福な銀行家兼企業家フェルディナント・バウアーの妻アデーレ・ブロッホ=バウアーと考えられており、一部の研究者たちからは一時的にクリムトと愛人関係にあったとしいう説もあります。事実、クリムトは後にアデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像画を二点残しています。クリムトは数年後(1909年)に、同主題の作品『ユディト』を制作しています。『ユディト』のように人物に装飾的な表現と金属箔を組み合わせる様式は「黄金の様式」の時代の特徴で、次の『女性の三時代』とともに、華やかと言われる時代を代表する作品のひとつです。はじめて本物の金箔を使用し、生身の身体を彩る装飾的な画面はクリムトが当時置かれていた個人的な人生の状況が現れと考えられています。



彼の画家人生の中で金箔を多く用いて作品を制作していた時代を「黄金の時代」といっています。代表作の「接吻」などは、現代でも大変人気があり、また若い女性にも非常に受けが良いため、様々なグッズ(スマホケースやファイルの表紙等)にも彼の作品が印刷され、未だに多くの人に愛されています。彼の作品の魅了はきらびやかな画面作りだけではなく、艶かしいほどの人物デッサンにもあります。背景や洋服の柄等を平面的で装飾的に描く事が多いのですが、一方で人物の輪郭線や肌の質感等は実にリアルで、そのギャップがよりいっそう作品の魅力を引き出しています。若い女性から子供、また年老いた老婆まで様々な人物を作品の中に登場させ、生と死をとことん追求しリアルに描き上げる事こそが、彼の作品の真骨頂です。金箔を使って表現された衣装で溶け合うようにくっついており、エロスと共に装飾的な美しさが感じられます。



クリムトの作品はこのような官能的な女性の表情が一つの魅力であると同時に、金箔を多用した華やかな画面が特徴です。日本の琳派に影響を受けたといわれていますが、日本のそれとは違い、クリムトの金箔は官能の輝きを表すとともに、画面全体に抑制を与えています。人物の肉体や表情は生々しく、エロスを感じさせますが、それを金箔の背景で囲むことで、全体が現実味を失い、物語の中の出来事であるかのようなイメージを作ります。見る人はエロスを安心して受け取るきらびやかな金細工、金箔の質感は作品全体に荘厳さと温かさを醸し出していきます。




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クリムト『女性の三時代』1905年 ローマ国立近代美術館




『女性の三時代』1905年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品で、幼少期、若年期、老齢期にある3人の女性を通じて「女の人生」を表現しています。バラ色の肌で健やかに眠る幼少期の女の子の赤ちゃんを抱いて、若く美しい裸体の女性、若年期を示す若い女性の裸体には瑞々しい緑が足元から絡みつき、髪には小さな花が綻びます。赤ちゃんと若い女性は目を閉じ、装飾的で華やかな色使いの空間に包まれ、春を象徴する花が頭の周りに配置されています。赤ちゃんを抱いた女性の周囲の円形のドーナツ状の模様装飾は花模様でもあり、次々と分裂する細胞のようで新しい細胞の誕生、それは「生」を象徴しています。



ふたりの背後には、骨や血管が浮き出て、くすんだ肌をした老齢期を示す老婆はうなだれて、腹が突き出て、胸が垂れ下り、腕には血管が浮き出ており、顔を長い髪と手で隠しています。背後にある黒い空間は虚無的です。クリムトは微生物学に関心をもっており、ドーナツ状の模様はバクテリアコロニーとよく似ていると指摘されています。老婆は細長い原生虫の中心に立ちうなだれていることから、細菌による分解、つまり「死」を象徴しています。



この世に生まれて、知誕生から成熟、青春時代を過ごし、やがて死を迎える老齢までの各段階を描き分けつつ画面を構成しています。人物の周りに色とりどりの丸や幾何学模様が散りばめられ、灰色に見える背景は銀箔が使われたと考えられています。人間の運命を悲観的に捉えているようですが、装飾的で全体として華やかな印象もあります。「生」と「死」を通じて、新たな生成と分解を繰り返していく世界観を「女性の人生」を通して表現していると考えられます。



30歳で父と弟を亡くし、数年前3番目の息子を幼くして亡くし悲しみに暮れたクリムトは生命というテーマと向き合い、この作品は彼自身の人生を映し出しているようです、この年老いた老婆は年老いた母の姿でもあり、クリムトもこの展覧会に参加して強い感銘を受けた1901年にウィーンで開催された19世紀美術展覧会に出品されたオーギュスト・ロダンの彫刻『老いた娼婦』から着想を得ていているとも考えられています。この作品は何度も塗りなおされ、黒ずんだ背景に薄暗い調子を加え銀の点で飾り、首の上を赤くしたり、作品を一つの生命のように移ろいゆくものと捉えていたようです。この作品は1911年のローマ国際美術展で金賞を受賞しました。



40歳のとき、マックス・クリンガー作ベートーヴェン像を中心に、ベートーヴェンを賞賛するために企画された14回分離派展において壁画「ベートーヴェン・フリーズ」発表。ベートーヴェンは、クリムトの敬愛するマーラーの顔に似せて描かれました。



1902年の第14回ウィーン分離派展のために制作された全長34メートルにおよぶ壁画『ベートーヴェン・フリーズ』を1984年に精巧な原寸大の複製制作された展示も、ベートーヴェンの交響曲第9番に着想を得て、黄金の甲冑で武装した騎士が幸福を求めて敵に向かい、楽園にたどり着くまでの旅路が絵巻物のように展開して見応えがありました。




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クリムト「ベートーヴェン・フリーズ」1984年 分離派会館





この作痕はウィーンの分離派会館で一度実物を一度鑑賞したことがありますが、「ベートーヴェン」芸術家達は会館に建築の一部として作品を作りあげた「総合芸術」と言えます。この豪華な装飾模様のシンフォニーは、クリムトがベートーヴェンの「第九交響曲」とリヒャルト・ワーグナーの第九解釈を表現したものでした。作品は3つの部分に分かれています。「幸福への憧れ」(左の壁)に続き、「敵対する勢力」(中央の壁):弱い人間性の苦しみ、幸福のための闘争を引き受けるために内なる原動力としての外的、思いやり、そして野心としての強い武力、巨大な腸チフス、それに対して神でさえ無駄に戦った。彼の娘、三人のギリシア神話の醜い女の怪物。病気、狂気、死。欲望と純潔、禁欲。嘆き悲しみ、人々の憧れと欲望は飛び散ります。その中で、幸福への憧れは詩への道を見つけます。芸術は私たちだけが純粋な喜び、純粋な幸せ、純粋な愛を見つけることができる理想的な王国に私たちをもたらします。楽園の合唱、"喜び、神々の美しい火花""この全世界のキス!「歓喜の歌」(右の壁)が描かれており、それらがホールの3つの壁面の上半分にフリーズ状に連なるよう構成されています。クリムトは彼の寓意的なイメージでベートーヴェンの第9交響曲を描いています。クリムトは装飾的に構成された絵の平らな空間に、様式化した線形の記念碑的な人物を置きます。大きな白い領域を含み、憧れ、情熱、幸福と危険の寓意です。



 左の壁の浮遊する女性像は幸福と愛への憧れを象徴しています。懇願するように手を持ち跪いている男女は、苦しんでいる人間性を表します。騎士は、2人の女性像、勝者の花輪を伴う野心、彼の行動の内なる衝動としての思いやりによって支えられています。弱者の苦悩と強者である騎士の勇ましい姿が描かれていて、騎士が弱者の味方となって、人類に敵対する勢力と戦うというのが、この絵のメッセージで、女性は騎士の雄雄しい姿に魅惑されているように感じます。



 中壁の中央に猿のような、無敵の巨大な台風、その体は蛇から湧き出て、左に彼の娘、運命の女神は敵対的な勢力を象徴しています。背景暗闇の中で頭は病気、狂気、そして死として潜んでいます。すぐ隣には、欲望、純潔さ、大食いの3人の女性像があります。その隣に、悲しみが彼の悲惨な姿を見せています。



 右の壁、愛と幸福を切望し、詩を具現化する琴を持つ女性像を見つけます。5人の連続した女性は芸術を表し、理想と幸福の領域を指し、シラーのテキスト「美しい神々の火花よ!・・・百万の人々よ、私の抱擁を受けよ!そして、このキスを全世界の人々に!」を指します。全世界は喜びへ。至福のキスでは、男女は楽園のような環境に沈みます。






1905年には、意見の不一致と助成金の打ち切りなどの理由で分離派を脱退、翌年、オーストリア芸術家連盟を結成します。さらに、ウィーン総合芸術展を開催し、確固たる地位を築きました。その前の年にウィーン分離派でウィーン工房の創設者であった建築家のヨーゼフ・ホフマンは、ブリュッセルに都市宮殿を建設するよう依頼されました。ウィーン工房は、芸術的なデザインを全面的に委託され、宮殿の食堂でフリーズをホフマン、グスタフ・クリムトに依頼しました。クリムトは、邸宅の装飾として描かれた作品「ストックレット・フリーズ」を制作しました。シリーズの中心に存在するのは「生命の樹」でした。




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クリムト「ストックレット・フリーズ」(1909





この時期から金色をふんだんに使った「金の時代」の全盛期になり、1097年には代表作「接吻」を発表しています。



ウィーンにあるクリムトの作品「接吻」の額はエルンストの作品だったのですが、美術館の展示が変更になり額から外されてしまいました。「接吻」はエルンストの額があってこそ引き立つのであり、これでは魅力が半減でした。クリムトは先鋭的かつ裕福なユダヤ人を顧客に持っていましたが、1910年頃から、若手の台頭により徐々にクリムト人気にも陰りが見え始めます。このころからクリムトは金を使うのを控え、さまざまな色を使うことを試みるようになります。



ウィーン分離派の中心として若い芸術家のメンター、大家族を支える存在として家長の役割を担っていました。一方で、女性関係は酷く、複数の女性と付き合い子供は最低613人いたと言われています。金銭面では気前よく非嫡出子とその母、家族への援助は惜しみませんでした。言葉数が少なく無口で、社交的ではなく、家族と共に過ごす時を大切にしていました。しかし自分の子供とその母にはかなり冷たかったともいわれ、クリムトは二面性を持っていたようです。





「金の時代」から「色彩の時代」へ

グスタフ・クリムトには多くの愛人がいましたが、なかでも最も親密だったのがエミーリエ・フリーゲでした。エミーリエは、社交を嫌うクリムトを毎年避暑のためにエミーリエ・フレーゲの実家の別荘があるオーストリア中部ザルツブルク近郊のアッター湖畔のアッターゼー湖へと連れ出ました。クリムトが風景画を描くようになったのは、愛人との避暑のためアッター湖畔に訪れたことがきっかけでした。クリムトはアッターゼー湖をとても気に入り、多くの風景画を描きました。



エミーリエ・フレーゲは、クリムトのプラトニックな恋人と言われ、189597年の間クリムトが情熱的に書いたエミーリエへの手紙が残っています。「私は特別に面白い人間ではない……私は話したり文章を書いたりすることが得意ではありません。……私について知りたい人は芸術家としてしか見るべきものは無いのですから私の絵を注意深く観察するべきであり、そして私がだれで、私が何をしたいのかをその作品から理解しようと試みるべきなのです」とクリムトは語っていました。



クリムトがアッターゼー湖周辺で多くの風景画を描き始めたのは、ウィーン大学講堂天井画の問題で深く傷つき、豪奢で淫蕩で、煌びやかだが、軋轢や策謀に満ちた世紀末のウィーンや、肖像や装飾壁画の注文主との煩わしい関係から解き放たれて、ただ描くだけの、純粋な眼と手の喜びに孤独に没頭できる世界に惹かれていったものと想像されます。




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クリムト『アッター湖畔のカンマー城III1909/1910年ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館





「黄金時代」からの彼の肖像画に加えて、グスタフ・クリムトが決定的にウィーンのアールヌーボー様式に影響を与えた彼の大気の、ほとんど正方形で構成された風景の上にありました。特に、アッターゼーとガルダ湖の牧歌的な風景、村、建物はクリムトに最も美しい絵にインスピレーションを与えました。




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クリムト『丘の見える庭の風景』1916年 カム・コレクション財団、ツーク美術館蔵





クリムトの風景画には、印象派の筆触分割法や点描画の影響が見られます。印象派やポスト印象派、とくにホイッスラーや、モネ、ゴッホの作品を参考にしています。クリムトの風景画は、決して自然を捉える眼差しという形で描かれたものではなく、部屋を彩る装飾品としての風景画でした。クリムトは比較的早くから、装飾性を際立たせることのできる正方形のキャンバスを好んで用いていましたが、1899年頃から風景画に関しては常に正方形のキャンバスを使うようになりました。自然の光景を描くのに正方形が望ましいという理由もありますが、これはモネの「睡蓮」の連作に倣ったものと言え、画面の構成もモネに類似しています。高いポプラの並木を見上げ、睡蓮の池をのぞきこむモネのように、クリムトの風景は地平線が極端に低くとって空が画面の主体となったり、逆に高くから見下ろして画面全体が下草の繁みや樹幹や根本でいっぱいになったりしているのです。これらの樹々は、たとえ空を見上げた構図の場合でも梢まで描かれることはありません。そこには、視野を極度に狭くして、むしろ内面を見つめる人の心理が窺えます。クリムトは、四角い近接視的な視野に画面を限定することによって、心の静謐を得たかったのかも知れません。様々な作家の手法を試しながら、クリムトが目指したのは相反する原理である「生命の躍動」と「装飾性」の統一した独自の風景画でした。それはクリムトの芸術家としての在り方を示す重要な系譜をなしていと考えられるのです。





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クリムト『死と生』1911年 レオポルトコレクション




グスタフ・クリムト晩年の代表する作品『死と生』(1911-1 4ウイーンレオポルド美術館)を描いています。赤ちゃんを抱き恍惚とした表情を見せる女性、思いに沈んでいるような表情の男性、悦楽の表情の女性、悲しみにうつ伏している女性の姿で描かれ、「生」の中にも「死」の存在を暗示させています。死神タナトスは、多様な十字架の文様が装飾され、多様な十字架の文様が装飾された「死」衣を身に纏って棍棒を持った不適に笑みを浮かべています。金色を全く使わず、色彩の華やかさと重厚な重量感は凄まじいものがあります。



この作品は「接吻」同様、背景に金箔が使われていたそうですか、現在の作品では背景は灰色に、更に人生の淵を思わせる藍緑色で塗り潰され、右側の群衆も4人追加され、絵画仮面は一層重いものにしています。クリムトはこの大幅に加筆修正に5年の歳月をかけて完成しました。マティスらフォービズムの画家たちやアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、そして確かなデッサン力に裏付けられた若きエゴン・シーレなどの台頭し、クリムトのウィーン総合芸術展での成功により得た名声に陰りが見え始め、クリムトもそれに限界を感じていました。クリムトは自身が確立した金色を使用した豪華で装飾性豊かな表現様式を捨て、多色的な色彩表現に新たな道を見出しました。多色的な色彩表現に新たな道を見出した、『死と生』は、新しいクリムトの世界が開花した傑作と言えるのではないでしょうか。




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クリムト『メーダ・プリマヴェージ』(1913/1914年)メトロポリタン美術館






クリムトが、金を多用し装飾性に力を入れていた「黄金時代」が終了し、フォーヴィスムの影響が強い時期に移行したことを強く示す作品です。クリムトはこの作品を描く前に、様々な異なるポーズや背景に関する膨大な数の数多くの鉛筆画による習作を行ってこの作品に辿り着きました。ほかの女性ポートレイトと比べて装飾模様が少なく、輪郭線を中心に質素に描かれているのが特徴です。正面を向いて真っ直ぐ立つメーダは、はつらつさな9歳の少女として描かれています。





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クリムト『オイゲニア・プリマフェージの肖像』(1913/1914年)豊田市美術館





クリムトの晩年の作品で、モデルは、元女優でモラヴィア地方のオルミュッツに住む富裕な銀行家の妻でのオイゲニア・プリマフェージで、クリムトのパトロンで資金援助も受けていた夫のオットー・プリマフェージの依頼で制作された肖像画です。クリムトの晩年の作品で、カラフルな色彩と自由で力強いタッチで描かれています。クリムトは金、銀、プラチナなどを使うのをやめ、鮮やかな色彩と大きく抽象的なタッチが特徴であり、右上の極彩色の鳥や、この時期にクリムトが試みた東洋的モチーフの導入も含め、後期の様式として象徴的な作品です。トヨタ自動車の寄付金により約17.7億円で購入され、現在は豊田市美術館で展示されています。






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クリムト『赤ちゃん(ゆりかご)』1917/1918年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー





 56歳で亡くなる直前の1917年に描いた『赤ちゃん』は、一人の生命を大切に守るように布が何枚も重ねられています。対象が立ち上がっていないクリムトの後の数少ない肖像画の一つです。生まれたばかりの赤ちゃんに絵を描くことで、クリムトは全く新しい構成を試し、幾何学的な形を別の形にすることができました。正方形の画面には、その頂点に赤ちゃんの頭を持つ大きな三角形があります。 それの両側の背景はさらに2つの三角形を形成します。赤ちゃんの覆いは、クリムトの独創的な天才が花、らせん、ジグザグ、そして対照的な色合いの虹のようなアーチを伴って大量の模様も華やかです。クリムトは青とオレンジ、緑と赤と紫と黄色と対照的な色を互いに隣り合わせに配置しました。



 おそらく赤ちゃんの性格がまだ形成されていないことを良いことに、クリムトが自由に実験していたことを意味しているようです。まるで取り込んだ洗濯物の中に埋もれる様な赤ん坊の姿が特徴的です。わずか2日で完成したと言われ、子供の肖像画でストックホルムでの展覧会のために制作されました。全体の色は抑え気味ですが、豊富な色彩で異国の情緒な装飾が施されています。生涯を通して生命を込めた作品と見ることも出来ます。クリムトの作品の魅力は、作品の中に「人生」が込められていることを見る人に感じさせるからかもしれないと、一連のクリムトの作品を観て感じました。



1818年、56歳のとき脳梗塞で半身不随に、その3週間後、スペイン風邪をこじらせ、肺炎でこの世を去りました。






参考文献:

アレッサンドラ・コミーニ、千足伸行, 『グスタフ・クリムト』1989

新人物往来社 (編集)『クリムトの世界』2011

木島 俊介『クリムトとウィーン』 / 六耀社 2,007

千足伸行『もっと知りたいクリムト生涯と作品』東京美術、2006

千足伸行『クリムト作品集』東京美術、2013

海野 弘 『グスタフ・クリムトの世界-女たちの黄金迷宮』紀伊國屋書店、2018

クリムト展公式図録「クリムト展ウィーンと日本1900

朝日新聞 クリムト展特集記事







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by desire_san | 2019-06-09 22:53 | 美術展 & アート | Trackback | Comments(5)
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Commented by rollingwest at 2019-05-23 06:17
クリムトの名前は初めて聞きました。昨年は西洋画展示を多く見に行きましたが、そろそろ令和初の鑑賞をしてみようかな。
Commented by snowdrop-uta at 2019-05-27 07:01
さすが関東の展覧会は充実していますね。
早春の京都(MoMAK)で見たウィーン世紀末展は雑誌やポスターが多くて…撮影自由なのは嬉しかったですが。
ウィーンで見たベートーヴェン・フリーズ、第九を聴くたびに思い出します。
Commented by desire_san at 2019-05-27 20:52
snowdrop-utaさん  コメントありがとうございます。

ウィーンとってクリムトの作品は宝物なので、本当の傑作はなかなか出してくれませんね。
今回の東京都美術館にも、過去最大といっても、傑作は『ヌーダ・ヴェリタス』『ユディトⅠ』『女性の三時代』だけで、『ベートーヴェン・フリーズ』はレプリカです。

当初ウィーン世紀末展に『エミリー・フレーゲ』と 『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』が来日するという話でしたが、オーストリア政府との交渉がうまくいかなかたようです。
アメリカに抱き着き状態の日本は西欧での評価が落ちているようです。下手すると孤立してしまうのが心配です。


Commented by snowdrop-nara at 2019-05-29 12:02
ふたたびお邪魔いたします。
フランスとウィーンのモダニズムの違いが簡潔にまとめられていて、クリムトの詳細な解説がすっと頭に入ってきました。
勉強になりました。ありがとうございます。
モローの記事もまた改めて拝見するのを楽しみに…

ところで
欧州議会選挙の報道を見ながら呆然としています。
まさかアメリカのみならず世界各国で「…、ファースト」と言い出すようになろうとは!
インターネットで世界中が未曾有のつながりを享受できるようになった今、
人類は英知を求め、手を差し伸べ合うどころか、てんでに子供帰りしようとでも言うのでしょうか。

震災後の日本でも、あらゆる境界を超えた人と人の絆が生まれてくると思ったら、かえって家族の絆ばかりが強調されるようになった気がします。家族を思う心が他の人やその家族にも向かっていき、平和な世の中になればいいのに、と
欧州在住のブロ友と話していたところです。
Commented by desire_san at 2019-05-29 18:03
snowdrop-naraさん、コメントありがとうございます。

米大統領選、英EU離脱は、貧困問題や格差社会に政策を示さない「政界のエリート」に反発して、ナショナリズムと一体となったポピュリズムにされた市民が「国民表決」を下したと見ることができます。
グローバリゼーションりより多数の新興国経済的飛躍しこれらの国にも富裕層が増えて、その結果かつは中間層だった人たちの一部が負け組に入って、国民の分断が広がっています。
青少年が政治に関心を持たなくなったり、民主主義をあきらめたりしている国は多いようです。
それに加えて政治支配層が、マスコミを制圧し情報独占することで、国民は正確な情報を知らされないため、思考力も低下して、民主主義が低次元化して、愛国主義を掲げるポピュリズム政党が勢力を増しています。
この憂慮すべき事態を打開するには、社会民主的でリベラルな世界観の宥和と 超国家的レベルのアイデンティティー形成が必要と思いますが、これを無視して自国のエゴを通す米大統領大統領に意見もいえず抱き着いている日本の首相は、グローバルな的視点で政治を考える力量に不足しているとしか思えません。
必要なのは、リベラルな世界観の宥和と 超国家的レベルのアイデンティティー形成であり、それに逆行したポピュリズムが支配的になれば、民主主義の失敗や敗北、崩壊が現実のものとなり、人類は自滅の道をたどることもありうるように危惧する次第です。