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芸術と自然の美を巡る旅  

マネは近代絵画の父である理由 マネがなぜサロン入選にこだわったのか?

エドゥアルド・マネの芸術

Eduardo Manet

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マネ『オランピア』1863年 オルセー美術館



エドゥアール・マネは、19世紀後半のフランスの主要な画家、芸術のアカデミズムからの解放を進めた近代絵画の父と呼ばれています。 なぜマネが近代絵画の父か? なぜマネがサロン入選にこだわったのか マネのアカデミーと美術界の革新の挑戦と美術史で何を変えたのかを探求してみました。





マネの生い立ちと画家マネの歴史

エドゥアール・マネは、1832年パリの上流階級の家庭で生まれました。彼の父親は上級公務員、母親は外交官の娘で、彼の父親は彼に法律の勉強をさせようとしたが彼は拒否しましたがた。マネは芸術的な道を歩み、1850年にフランスの学者の画家で当時の偉大な教師であったトーマス・クチュール(1818-1879)のスタジオに入学しまして6年間在籍して絵画の技術を習得しました。クチュールは有名な芸術家でした。彼は歴史絵画の巨匠の間に位置し、偉大な芸術と呼ばれるものの本質を形成すると考えられていました。彼の美学は、特定の伝統、13のカルトを尊重して作られました。 固定ルールと送信プロセスの遵守。彼は、ホラーリアリズムと呼ばれるものとは対照的に、彼の時代の大多数のアーティストと、固定された理想の卓越性を信じていました。マネは先生のトーマス・クチュールとぶつかり合いながら初期は彼のレッスンを楽しみました。


後に有力な政治家となり、ルーヴル美術館の創設者となったアントニン・プルースト(1832-1905)とは、このスタジオの修業時代に出会い、プルーストとマネの友情は、画家の死ぬまで続きました。


マネはルーヴル美術館に展示された傑作を模写することで自らの画風を確立させていきました。また若きドラクロワの作品『地獄のダンテとウェルギリウス』の模写の許可を得るためウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)に会いに行きました。修業時代、マネはヨーロッパの国々、特にイタリアとオランダに旅行し、主要な美術館を訪れました。


私生活では、1850年に父が雇ったオランダ人ピアノ教師、スザンヌ・リーンホフとの間に男児をもうけました。スザンヌは最終的に画家と一緒に暮らし、父親の死後1863年に彼女と結婚しました。スザンヌはまた、読書(1865年)など、いくつかの絵画の実現のためのマネのモデルになります。


1859年、マネはアカデミーの公式サロンで最初の絵画『アブサン飲酒者』を出品しましたが拒否されました。この絵はクチュールのアトリエ在籍中の若きマネがサロンに送った作品で、ドラクロワやボードレールの称賛を得ましたたが、トーマス・クチュールの若い画家の形成に浸透したアカデミズムの反逆の声明である散文的な主題の選択と現実主義的な解釈、治療論的を連想させ、サロンの審査員によって評価された絵画の美しさの表現に反するもので、必然的にサロン審査員の拒否につながりサロンには落選しました。構成はベラスケス風のシンプルなもので、構図や光、色彩、市井の風俗を取り込んだ題材など後年のマネの作風を感じさせます。しかし1861年に、『スペイン語の歌手』など2枚の絵が受け入れられました。1860年代、エドゥアール・マネはスペインのディエゴ・ベラスケスの絵画に魅了され触発されて多くのスペインの絵画を制作しました。




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エドゥアール・マネ『テュイルリー公園の音楽会』(1862

キャンバス 油彩 ナショナルギャラリー、ロンドン。




ブルジョア階級の野外レクリエーションを題材とした作品の1つで、マネ自身とボードレールを含む友人たちが多く描かれています。絵画表現的には、2木の垂直な線が強調され、後ろの人物たちの頭による水平線とともに、キャンバスの枠自体の垂直線・水平線を繰り返して、奥行きが浅く、前景の人物が絵画や彫刻、カリグラフィー等で装飾された建築の平坦な中東部分のようなものを形成して、2次元性を強調した以降のマネの絵画の特色が現れています。画面右側にオペレッタの帝王と呼ばれたオッフェンバックが座っているのに対し、画面左側にはリヒャルト・ワーグナーの支持者であるボードレール、ファンタン=ラトゥール、シャンフルーリ、ザカリー・アストリュクが集まっています。体制側を象徴する音楽家オッフェンバックと、反体制側の詩人ボードレールとの対立がひそんでおり、空虚であいまいな画面中心部分にはナポレオン3世への批判を込めているという分析もあります。


『テュイルリー公園の音楽会』は下絵のような荒々しいタッチが批評家の不評を招き公式サロンの審査員によって拒否されました。しかしフレデリック・バジール、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワールといった若い画家たちは、人々のありのままの姿を描いた本作品に新しさを見出し、後の印象派の一つの起源となったと評されるように印象派の精神として影響を与えました。野外集会のテーマはその後に印象派の間で非常に一般的になります。


1863年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく落選者の不満が高まりました。不満を懐柔するためナポレオン3世はサロン落選作で構成する落選展を開催することを命じました。サロンと並行して。オフィシャルサロンの12の隣接する部屋が彼に割り当てられ、1863年には約1200の作品が展示されました。


マネは1863年にもサロンに応募し落選したので、『草上の昼食』『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示しました。




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エドゥアール・マネ『草上の昼食』(1863)  オルセー美術館




ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなりました。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではではなく、マネが発想源としたティツィアーノの『田園の奏楽』では裸のニンフと着衣の男性が描かれています。しかし、『草上の昼食』の裸婦はニンフなどではなく現実の女性で、コートを着た学生たちにかこまれて木々の下に座らせていて反社会的な売春の世界と受け取られました。また、遠近法を否定したマネの描き方は稚拙と評価されました。


『オリンピア』(1863年)が公開されたときのスキャンダルはさらに大きくなりました。この2つの有名な絵画に登場する女性に使用されるモデルは、マネがトーマス・クチュールで出会った画家ビクトリン・ムーランで、1862年から1873年までマネのモデルとなりました。


 アカデミーの審査員に拒否され芸術愛好家の支持を失ったマネですが、バティニョール通りのカフェ・ゲルボワで若い革新的な画家たちに出会いました。クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガ、ポール・セザンヌ、アルフレッド・シスリー、カミーユ・ピサロなど、彼らの多くが最高の印象派の画家になりました。ピサロを除いて最も年上のマネは彼らから尊敬され、彼らのインスピレーションの一つになりました。



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エドゥアール・マネ。 ベルビューの庭の少女(1880

キャンバスに油彩 コレクションファンデーション。





1874年最初の印象派の展覧会がパリで開催されましたが、マネは参加しませんでした。エドワール・マネは、印象派の展覧会から離れることで、軽い印象派の作品の色の遊びに影響されながら、スタイルの独立性を維持したいと考えていました。





アカデミーの挑戦と美術界の革新

マネは偉大なスペインの画家、ベラスケス、ゴヤなどに没頭することにより、彼は表現の古典的な美学に敬意を表しています。ドゥアール・マネの作品はむしろ現実主義的な流れにありますが、旧体然としたサロンに対して挑発的な画家になりました。天才の証は、挑発は『草上の昼食』、(1862)のように、若者の特定の主題の選択にあります。古代の神々を19 世紀の男性に置き換え、それまで非常に適した裸の女神を19世紀の裸の女性を草の上に座らせました。画面は奇跡的に挑発的なになりましたが、マネは学術的なアーキズムを強調できるアーティストではありませんでした。



ドゥアール・マネの作品には、400種類以上のオイル、水彩画、パステル、彫刻、図面が含まれています。マネは、あらゆる分野を理解することができる非常に才能のある画家で、歴史的シーン、ポートレート、風景、カフェ、野外レクリエーション、静物など、その主題分野は非常に広く、あらゆるジャンルを探求していました。




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エドゥアール・マネ『笛を吹く少年』1866年  オルセー美術館





『草の上の昼食』はジョルジョーネに起因するティツィアーノの神話的なテーマを継承していました。草の上の昼食で服を着た男性の中に裸の女性が存在する現代性は、同時代の人たちの目には非現実的なシーンを猥褻に感じさせました。マネはそれを楽しんいたようでした。


『オリンピア』(1863)は、ティツィアーノの『ウルビーノのビーナス』、マゴヤの『裸のマハ』から非常に現代的な主題の冷たさと平凡さを翻訳しています。ビーナスは観客の視線に逆らう売春婦になりました。学問的伝統の基礎である理想化された裸体に対するこの問題提起に対して批評家は中傷しましたが、その現代性はゾラを始めとした同時代の知識層によって擁護されました。



マネは体系的な挑発に対する反発から身を守るために、ローマの凶悪犯を神話の登場人物に変えたときのカラヴァッジョのよう、潔癖なほど誠実さ維持していました。マネが権力者や支配者と衝突するのは、マネの使命が美術界の革新であるためです。野外シーンを描くことは、光と色を重要視することでありより構図と画面を平面的な方向に導きます。これは、19世紀後半における芸術の伸展に最も独創的に貢献したクールベのリアリズムから印象派までの革新を吹き込みました。




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エドゥアール・マネ『バルコニー』(18681869) オルセー美術館





マネと印象派との関係は複雑です。印象派の展覧会には参加していませんが、印象派グループのリーダーであるクロード・モネとの友好関係を保ち、経済的な困難に直面したときは、モネの絵を買い支援しています。クロード・モネと友好的な関係を維持している限り、印象派の大きな影響を受けています。モネの絵画は厳密に言えば印象派ではありませんが、学問の慣習を揺るがす勇敢な長老として、印象派の画家たちに影響を与えました。しかし、印象派の色の新しいテクニックと光の特有な処方は大部分の作品で用いなかったので、印象派の父というのは誤りです。



マネがサロンでの入選にこだわったのは以下のような理由があったと考えられます。サロンは若手美術家の登竜門でしたが、アカデミーの審査員は新古典主義的な美学を持っており、また旧来の貴族や新興のブルジョワたちの趣味に迎合して保守化の傾向にありました。マネは古典主義絵画の基本である遠近法を否定した平面的色彩画面、神話でしか描けなかった世界を現代人で描いた裸体画など、サロンに挑戦的な作品を応募し続け、アカデミーの審査基準を新しい方向に導こうとしました。マネの努力によりフランス美術界に革新的美術作品を受け入れる土壌が築かれたと考えられます。





革新的芸術の才能と世渡りのうまさを併せ持つマネがいなかったら、ルノワールの裸体画が抵抗なく世間に受け入れられることも、当時前衛的ともいえるセザンヌの絵画が生きている間に認められることはなかったように思います。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンが比較的早い時期に光を浴びたことで、パリにフォービスム、キュビズムなど次々と革新的な絵画が根付きました。



マネは多くの若い画家に影響を与えました。マネの愛弟子と言えるのがベルト・モリゾでしょう。1868年アンリ・ファンタン=ラトゥールがベルト・モリゾをマネに紹介しました。マネを非常に賞賛したベルト・モリゾは、マネの生徒であり、モデルであり、義理の妹になりました。モリゾは印象派の重要な画家の一人になりました。モデルとしてのモリゾはマネの重要な作品に描かれています。ベルト・モリゾの他に、メアリー・カサット、エヴァ・ゴンザレス、広い意味ではエドガー・ドガも弟子と言えるほどマネの影響を受けています。




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エドゥアール・マネ『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』1872年 オルセー美術館






マネの画家としての類まれな能力と作品の多様性は、エミール・ゾラのような偉大な作家や変わらぬ友人、アントナン・プルーストに支持されました。1868年からサロン審査員団はマネの絵画を受け入れ、1881年にはル・ポートレート・ダンリ・ロシュフォールがメダルを獲得し、同じ年美術大臣になったアントナン・プルーストによってマネはレジオンドヌール勲を受けました。1880年からマネの健康状態は悪化し1883年亡くなりました。




サンタ・マネとモダン・パリ

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参考文献

Michel Foucault (原著), 阿部 崇 ()『マネの絵画』2006

フランソワーズ カシャン (), 藤田 治彦 () 『マネ:近代絵画の誕生』2008





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by desire_san | 2019-11-25 03:55 | 美術展 & アート | Trackback | Comments(7)
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Commented at 2019-11-07 07:24
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by rollingwest at 2019-11-16 14:32
「次々と無残な炎で灰燼に 世界の至宝 暮れる悲しみ」 10月には沖縄の世界遺産首里城が無残な炎に包まれ焼失はショックでした。4月はフランスのノートルダム寺院(800年の歴史)が、よりによって「改修工事」の火の不始末で焼け落ちるとは・・・。7月の京都アニメーターの命、世界に誇る作品、至宝が次々と焼失した年でした。
Commented by desire_san at 2019-11-19 20:58
rollingwestさん  コメントありがとうございます。

首里城の焼失はショックでしたね。

基地問題でも沖縄の人の気持ちは反映されず、いたたまれない気持ちになりました。


Commented by snowdrop-uta at 2019-11-26 18:00
こんばんは。
先日、関東の恩師がこの展覧会に行ったばかりだったのか、
ポスターになっているバーの絵と、ブリューゲルの絵とを
比べて話していたのが思い出されます。
マネの「笛を吹く少年」、奈良の美術館に来た時に見ました。小粋なポスターのようで素敵でした。
パリで旅が中断したので、マネの大作をほとんど見ていないんです。
desireさんの記憶のアーカイブがうらやましいです。
Commented by desire_san at 2019-11-26 20:53
snowdrop-utaさん、コメントありがとうございます。

マネの芸術のレブューを試みてみましたが、マネの芸術の魅力やマネの偉大さを言葉で表現するのはかなり苦労しました。私なりにまとめた次第ですが伝わりましたでしょうか。

豆の来日した作品は他にもたくさんあり、アーカイブしたかったのですが、フォローしきれませんでした。府中市美術館の開館記念でのマネ展が一番マネの傑作が来日し、その時「笛を吹く少年」を見ることができました。



Commented by snowdrop-momo at 2019-12-01 07:38
ふたたびお邪魔いたします。
マネは当時の前衛画家だったと言えるでしょうか。
伝統や因襲にとわられない真の前衛芸術家たるには、想像を絶するエネルギーが要ることでしょう。
それには優れた画力に裏付けられた自信が不可欠なのでしょうね。
マネにはその実力と気迫が漲っていたように思われます。

かつてシャルダンを三菱一号館美術館で見たとき、
建築と絵画をともに楽しむことができましたが
マネで開館記念展を行ったと知り、なるほど!と思いました。
Commented by desire_san at 2019-12-01 19:37
snowdrop-momoさん  再三コメントありがとうございます。

ご紹介します敵の通り、マネは当時の前衛画家と呼ばれることは好んでいなかったと思います。
考え方は進歩的ですが、リアリズムから逸脱することなく、サロンに作品を出品し続けました。
時には挑発手的な作品をサロンに出品したのは、保守的なサロンを啓発したかったのだと思いまいます。

マネの行いたかっつたのは、印象派を始め、次世代の画家の絵画わ受け入れやすくする土壌をつくることだった思います。