ワーグナーが追及したのはベートーヴェンを超える絶対音楽か?総合芸術か?
絶対音楽と総合芸術
Absolute music and comprehensiveart

オペラを鑑賞するとき、総合芸術として鑑賞するか?絶対音楽として音楽を主保体に鑑賞するか?を議論する人がいるようです。オペラを音楽として神格化している人は、ワーグナーの楽劇こそ究極のオペラの姿だと思っているようです。
しかし、日本最大のワグネリアンと自他ともに認める飯守泰次郎さんが新国立劇場で上演した『ニーベルングの指環』は壮大な音楽と一体になった雄大な演出がすばらしく、総合芸術としての完成度の高いものでした。
ベートーヴェンという音楽家は古典派音楽の創造の頂点であると同時に、古典派音楽を破壊した旗手でもありました。ひとりの人間が56年という決して長くはない時間の中で、ひとつの時代を完成させ、そして壊してしまったのです。
ブラームスは交響曲第5番に代表されるようなモチーフを用いた古典的な手法に感化され、ワーグナーは交響曲に合唱を取り入れた交響曲第9番のような新しい手法に感化されます。
ベートーヴェンの相反する創造と破壊というふたつの要素が、ベートーヴェン彼の死後、創造と手を繋いだブラームス派と破壊と手を繋いだワーグナー派へと繋がっていくのです。
ブラームス、ワーグナーの活躍したロマン派の時代にひとりの音楽評論家にエドゥアルト・ハンスリックがいました。代表的な著書『音楽的に美なるもの』に書かれているように、ハンスリックは絶対音楽の信奉者でした。何かの文脈があって音楽というものが芸術性を帯びるのではなく、音楽はただ音楽として美しいものだという思想を持っていました。
ワーグナーにとって最高の創作業績はギリシャ神話でした。絶対音楽を信奉するハンスリックにとって、自作に文脈や思想をどのように音楽で表現したかを大切にし、思想を伝えるためには演劇を取り入れることも厭わなかったワーグナーの表現方法は受け入れられるものではありませんでした。
音楽で全てを表現できると豪語するワーグナーと音楽は音楽で全てであるというハンスリック、このふたりには音楽に対する思想の他にもうひとつの大きな違いがありました。ワーグナーは作曲家という音楽の創作者であるのに対して、ハンスリックは音楽の評論家でした。
ハンスリックは自身の思想を体現できる作曲家を探し求めていました。そこで白羽の矢が立ったのがブラームスだったのです。モチーフを用いて作品を組み立てていき、音楽としての完成を求めたブラームスの作品はハンスリックの思想ととても相性がよく、ハンスリックはワーグナーやリストなどの標題音楽を痛烈に批判すると共に、ブラームスの音楽を絶賛するようになりました。ブラームスもハンスリックとは良好な関係を築いていき、本人が望んだかとは別にしてもドヴォルザークと共にブラームス派を語りました。
ハンスリックとは水と油の関係であったワーグナーですが、ブラームスのことを評価していたようです。ロマン派を地で行くかのような思想のワーグナーですが、決して古典的手法を下に見てのではありません。ワーグナーは小さい頃からバッハの音楽に親しみ、対位法を用いた形式的な美を愛していました。ブラームスもバッハを研究し自身の交響曲に用いるほどで、全く逆の色の旗を振っているようですが同郷の大作曲家を尊敬していました。バッハに学び、ベートーヴェンによって音楽の天分に水を与えられたブラームスとワーグナーは、創造と破壊という違う芽を出していたようですが、根はしっかりと繋がっていたのです。ワーグナーの作品を積極的に鑑賞、研究していたブラームスと、ブラームスを攻撃しても決してその作品を否定しなかったワーグナー。派閥の争いか個人の争いかは、分かりませんが、完全に開花したブラームスとワーグナーの天分が残した珠玉の作品群を鑑賞し、その当時に想いを馳せるのです。
ブラームスこそベートーヴェンの後継者であるという認識は当時から一般的だったようす。ブラームスの音楽は主題を緊密に構築していくその作りがベートーヴェンの影響を強く受けているし、交響曲をはじめとする作品に見られるその重厚感はベートーヴェンに似ています。
ベートーヴェンの第9交響曲の演奏の魂を揺り動かされるような感動と感銘はベートーヴェンの独特のもののようです。その感覚は「博愛もしくは慈愛」でしょうか。ベートーヴェンの音楽の魅力を、決して個人的な『歓喜』ではなく、いわば全世界に広がり、全ての人が分かち合う『歓喜』の意として使用したのだと思います。
ワーグナーはベートーヴェンの第9交響曲や第7交響曲を聴いて音楽家になろうと決心して以来、生涯を通じてベートーヴェンを尊敬していたことは、ワーグナーの多くの論文から確認することができます。ワーグナーの音楽からはなぜかブラームスには感じられなかった全ての人が分かち合う『歓喜』が感じられるのです。
ブラームスの音楽は外見の客観性とは裏腹にその内面はより個人的な情熱がたっぷりといった風であり、その情熱は決して外に向かって放射せず内向するという魅力があり、ブラームスは全ての人が分かち合う『歓喜』と逆の志向性があると感じらます。
このような志向性は優れてロマン的でありシューマン的ですが、ベートーヴェンの重要な特徴である全ての人が分かち合う『歓喜』という要素を受け継いでいないブラームスを、決してベートーヴェンの後継者と考えることはできず、ブラームスと対立関係にあったワーグナーがベートーヴェンの後継者と考えることもできます。
ワーグナーの音楽の官能的な魅力が観客を虜にし、歴史的にもたくさんのワグネリアンを生みました。このワーグナーの音楽の官能的な魅力も、ベートーヴェンの第9交響曲や第7交響曲の聴衆の全ての人が分かち合う『歓喜』に近く、ベートーヴェン的魅力から受ける感動と通ずるものともいえます。ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の第3幕の主役たちによって歌われる五重唱の表現に象徴さるように、全曲を通して絶えず「全ての人が分かち合う『歓喜』的な感動は、まさに、ベートーヴェンの第3交響曲や第3交響曲のフィナーレ-を連想させるもので、『フィデリオ』の四重唱からの影響が感じられます。
それだから、ワーグナーの楽劇が絶対音楽として鑑賞すべきだというのは余りにも短絡的です。飯守泰次郎さんが新国立劇場で上演した『ニーベルングの指環』からわかるように、ワーグナーの楽劇は、壮大な音楽とともに雄大な演出があって完成されるものであり、我々は音楽と合唱、脚本、演出のすべてを総合的に鑑賞して初めてワーグナーの楽劇を楽しめるものだと思います。
参考文献
カール・ダールハウス (著)「音楽の理念 十九世紀音楽のよりよい理解のために」1986年
Richard Wagner (原著)「ベートーヴェン」2018年
ワーグナーシュンポシオン「ベートーヴェンとワーグナー」日本ワーグナー協会 2012年
クラシック音楽は、大学時代友達から教わりました。オーディオは、会社の先輩から教わりました。私の趣味の始まりには、親しかった人の影響があります。友達とは有り難いものだと思っています。
今年はリストの「波の上を歩くパオラの聖フランチェスコ」を弾いていますが、
時々「タンホイザー」の合唱や「トリスタンとイゾルデ」のクライマックスを思わせる響きが立ち昇ってくるのです。
ワーグナーの影響力の大きさをひしひし感じます。
「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」などワーグナーのオペラや楽劇は、気持ちが高揚するような響きが魅力ですね。
ワーグナーは、ブルックナー、シリェルト・シュトラウス、リストなどの音楽家に多大な影響を与え、ルードビッヒ2世やヒットラーなどたくさんのワグネリアンを生み、歴史に大きな影響を与えましたね.
続々と執筆しておられますね。
いまFMラジオでバッハの「主よ人の望みの喜びよ」が流れています。
ヘンデルとバッハの違いは絵画にたとえれば
色彩派と線描派のそれにも通じるのかもしれないと思いました。
この記事に挿入された、desireさんが見てこられた名画と
本文とを拝読し、バッハを聴きながら感じたことです。
今年のクリスマスは貴記事を再読しながら
メサイア全曲を聴き直してみたいです。
バッハはキリスト教に深い信仰を持ち、イエス・キリストの思想を音楽に込め、キリストの受難で、キリストは後世の人たちに何を残そうとしていたのかを音楽の力で伝えました。
キリストが理想とする世界の実現に少しでも力になろうとした方です。
キリストに対する思いの強さが、ヘンデルと決定的に違うところだと思います。
とはいえ、ヘンデルの「メサイア」は比類ないほどの名曲で、私も年末何回も「メサイア」を聴きに行きました。
御無沙汰しております。昨年は大手術後のリハビリと大変な年のようでしたが、だいぶ回復なさったようでなによりです。
ブログ記事は簡にして要を得た文章で興味深く読ませて頂きました。ダールハウスの著作や3度もの『カラマーゾフの兄弟』とは相当な読書家でありますね。
私は今3度めの『カラマーゾフの兄弟』で、ほぼ30年ぶりで以前とは印象が違いすぎ時折笑わせてもらっています。若い頃はそんな余裕もなかったはずですが。ドストエフスキーなりの諧謔性がわかるせいもあるのでしょう?
ドストエフスキーは「罪と罰」「悪霊」を読んで、最高傑作と言われる『カラマーゾフの兄弟』を読んで見ました。『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフは、てんかん患者として描かれてい ... 作品が伝えたいこと ... そんな彼に対し、アリョーシャは「イエス・キリストがすべての罪のために自ら血を流し、そのことによってすべての人を許し、世界の調和を保っている」と言います。キリスト教はキリストの精神から離反している,そうドストエフスキーは考えていました。新しいキリスト教というのは,“キリストの精神に忠実な本来的キリスト教”という意味なのです。新しいキリスト教の本質ば「自由」だと考えていたようです。神を信ずるアリョーシャに,兄イワンは最も深刻な無神論を突きつけます。幸福を実現するためには,ある一部の優秀な人間が力を握り,平和と秩序立った世界を建設すればいいのだ。これがイワンの立場であり,無知な信徒を飼い慣らそうとする古いキリスト教の立場であり,社会主義を予言したもののようです。
キリスト教本来の精神は徹頭徹尾「自由」でした。新しいキリスト教の道は『自由』であり,古いキリスト教の道は『幸福』です。前者は霊プネウマの充溢であり,後者は肉サルクスの満足です。前者はキリストの精神であり,後者は悪魔の精神です。幸福への道は,最後には人類の家畜的統一につながります。精神の自由がない天国ユートピアは地獄です。現に,イワンは人類愛に熱狂しながらも,誰一人目の前の人間を愛せませんでした。愛することができないということが,地獄の本質なのです。これがドストエフスキーのテーマであり、ドストエフスキーの面白さだと感じました。
ドストエフスキーは、私に人間の在り方を考えさせてくれた最初の本でした。

