フィレンツェ最古の公共建築物でイタリア最初の国立博物館
バルジェロ美術館
MuseoNazionale del Bargello

バルジェロ美術館は、かつてはバルジェロ宮殿またはポポロ宮殿と呼ばれ、兵舎と監獄として使われたねバルジェロと呼ばれるフィレンツェにある美術館です。この美術館には、ロレンツォ・ギベルティの『イサクの犠牲』ドナテッロの『ダヴィデ像』、ミケランジェロの名作とされているバッカス像、聖母子像、ブルトゥス像、ダヴィデ=アポロン像などが収蔵されています。
BargelloMuseum The Bargello Palace, also known as the Bargello Palace or the Palazzodel Popolo, is an art museum in Florence called Bargello, used as a barracksand prison.

バルジェロ宮殿は、現在の市長に相当する Capitano del Popolo の役所として1261年にはフィレンツェの市議会が任命した市長の役所となりました。1256年、Volognana Tower のそばに2階建ての建物が建てられ、1323年3階が増築されました。中庭を囲むように建てられていて、外側には2階に通じる階段があり、中庭の中心には井戸が見つかっています。この建物はそのころポデスタ宮殿と呼ばれ、フィレンツェ最古の公共建築物でした。この簡素な銃眼のついた建物をモデルとして、後にヴェッキオ宮殿が建設されました。

1574年、メディチ家がポデスタの役職を廃止し、ここをフィレンツェの警察署長とも言うべきバルジェロの役所となり、バルジェロ宮殿と呼ばれるようになりました。この建物は監獄も兼ねており、中庭で罪人の処刑も行われていました。フィレンツェ警察本部としては1859年まで使われ続けましたが、レオポルト2世が追放されると、トスカーナ臨時政府はバルジェロを監獄として使うことをやめ、国立美術館として生まれ変わりました。バルジェッロ国立博物館は、1865年6月22日付けの王政令により、中世およびルネサンスの芸術に捧げられた最初のイタリア国立博物館となったフィレンツェの古代ポデスタ宮殿にあります。

この美術館には、14世紀から17世紀のゴシック様式やルネサンス期の彫像などが収められています。中でも特筆すべきは、ロレンツォ・ギベルティの『イサクの犠牲』ドナテッロの『ダヴィデ像』、ミケランジェロの名作とされているバッカス像、聖母子像、ブルトゥス像、ダヴィデ=アポロン像などが収蔵されています。また、ドナテッロの、ヴィンチェンツォ・ゲミートの「ペスカトーレ(釣りをする少年)」、ジャンボローニャや、アンドレア・デッラ・ロッビアを初めデッラ・ロッビア家の作品群、ベンヴェヌート・チェッリーニの代表作であるコジモ・デ・メディチ胸像もあります。他に陶器(マヨリカ焼き)、織物、タペストリー、象牙細工、銀細工、鎧、古銭なども展示されていまいす。
ギベルティとブルネレスキ『イサクの犠牲』
フィレンツェの大聖堂は、本堂、鐘楼、礼洗堂からなります。そのうちこの聖堂に付随する八角形のサン・ジョバンニ礼洗堂は、扉がついていたのは彫刻家アンドレア・ピサーノによって1336年完成された南側の門だけでした。残り二つのうち一つだけ作ろうということで、1401年洗礼堂の扉の受注者という名誉ある大役を決めるためコンクールが開かれました。参加したのはフィレンツェを中心に活動していた彫刻家や金細工師たち7人でした。テーマは旧約聖書のエピソードで、アブラハムが神の命に従い、愛息イサクを犠牲に捧げようとするが、間一髪で天使が止めに入るという物語『イサクの犠牲』でした。最終候補に残ったのは二人の芸術家、ギベルティとブルネレスキでした。
ロレンツォ・ギベルティ『イサクの犠牲』1401年

ロレンツォ・ギベルティの作品はフィレンツェ・ルネサンスの典型といえる繊細で優美の世界でした。ナイフをつきつける父アブラハムを強張った目で見つめ返す少年イサク。しかし、そんな少年を救うべく、上空からは今しがた天使が現れ、片手をあげて声をかけています。物語の本質を伝えていますが、静かで、淡々とした雰囲気があります。卓越した金細工師の力量を存分に発揮して、人物たちの衣の襞、イサクの乗せられた祭壇や、アブラハムの服の裾の装飾など繊細に表現しました。
フィリッポ・ブルネレスキ『イサクの犠牲』1401年

父アブラハムは、体全体に力を込めて怯える息子を押さえつけて、今にもナイフが息子の頸動脈を掻き切りそうです。そこに、画面の外から全速力で飛んできたと言わんばかりの天使が、アブラハムの手首をつかみ、声をあげて必死で止めています。画面からはみ出さんばかりの量感のある人物たちの表現もあり、ダイナミックで緊迫感あふれる作品になっています。
繊細優美なギベルティと躍動感と緊迫感あふれるブルネレスキ。審査員たちは悩んで考えに考えた末、ギベルティを選びました。理由はギベルティの方が伝統的な表現により近かったのとフィレンツェ人の好みに合っていたからと考えられます。ギベルティの方がブロンズの使用量が少なく経済的と判断されたという説もありまが、それが主要な理由ではないと思います。
ギベルディの作品は、装飾的細部と逸話的発想においてゴシック的なものを濃厚に残していました。ギベルディの作品と比べればはるかに近代的表現力を持ったブルネルスキーよりも、中世的工芸趣味の強いギベルディの方が好まれたという事実は、ルネサンスの先駆という輝かしい栄誉を担う自由都市フィレンツェでさえも、ゴシックの精神的風土が強く残っていたことを物語っています。このゴシックの潮流が消滅することなく流れ続け、フィレンツェの大きな特質として残りました。
二人に共同制作をさせるという案も出たらしいですが、単独制作を貫きたいブルネレスキが首を縦に振らず、自ら辞退したと言われていいます。その後、洗礼堂の扉制作の仕事はギベルティに任され、約20年かけて『天国の門』を作り上げました。
ミケランジェロ『バッカス』1496~97年 高さ203㎝

バルジェッロ国立博物館には、中庭に面した地上階の展示室に1500年代の彫刻が展示されています。ミケランジェロの彫像の中には未完の作品が多い中、珍しく完成した彫像の1つです。バッカスはローマ神話に出てくるお酒の神様で、ブドウやワインを持っている絵画や彫刻によく登場する人気の神様です。
1496年にフランス軍のフィレンツェ侵攻を恐れ、ローマに逃げ帰ったミケランジェロは、ローマの有名な美術コレクターでミケランジェロの高い技術に惚れていた枢機卿ラファエーレ・リア―リオにローマに招聘しました。枢機卿の古代彫刻のコレクションを見せてもらった後、リアーリオ枢機卿から、これらのコレクションと一緒に中庭に飾るためのバッカスの像が依頼され、ミケランジェロは制作にかかりました。
リアーリオ枢機卿は、人間の理想像のような「ダヴィデ」のように健康的にお酒を飲むバッカスの像が期待していたのでしょう。ところが、ミケランジェロが制作したのは、と異なり、酔って立っているのがやっとというこのバッカスで、酒太りしてしまっている若者という感じでした。ミケランジェロの作品の中では珍しく艶やかに磨き上げられ、バッカスの肉体表現が見方によっては中性的で、艶めかしい印象を受けます。このためか、退廃的で不道徳であると避難を受け、リアーリオは完成作を見て、依頼主から引き取りを拒否されました。こうして、枢機卿が買い取らなかったバッカス像は、その後、当時ミケランジェロの作品を売買していた銀行家で美術商のヤコポ・ガッリが購入してその庭に飾られました。
ルカ・デッラ・ロッビア『聖母子』(1440 - 1445頃)

ルネッサンス初期の最も著名な彫刻家の1人であるルカ・デッラ・ロッビアは、フィレンツェ大聖堂のオルガンロフト用の歌唱合唱団などの大理石や、北サクリスティの扉などの青銅で有名な作品を制作しました。ロッビアの名前は、錫ガラスのテラコッタの彫刻で名を馳せました。この媒体で、彼ロッビアは『聖母子』の画像に特に献身的に専門とし、ロッビアの家族と大きな工房は16世紀まで続きました。
『聖母子』は、ガラス張りのテラコッタで、典型的なルカ・デッラ・ロッビアの作品です。半分の長さで見ると、聖母マリアはターコイズブルーの緑がかった青色の地面に対して、フレームは花のデザインで装飾されており、その上部の角はバルトレッリとバルディの紋章で飾られておいて、フィレンツェの家族間の結婚を示していると考えられます。幼子イエスは聖母マリアの方に寄りかかって首を抱き、一方の手で足を、もう一方の手で腰を支えます。聖母子の青灰色の目は見る人を捉えます。良質な親密さと控えめな規模が絶妙のバランスを生み出し、空間の調和も備えて、聖母子像の非常に成功させた例です。
ミケランジェロのホールと16世紀の彫刻
19世紀半ばに改装されたこの部屋は、メディチの武器コレクションとトロフィーと旗でセットアップされました。 1966年の洪水の後、ホールは白塗りになり、今日では子供と祈りの遺体を備えたマドンナのジョットフレスコ画だけが残っています。ルチアーノ・ベルティは、それを16世紀の彫刻に割り当てました。1874年には、ウフィツィ美術館の作品もいくつかありました。
数多くの作品の中で、ミケランジェロ・ブオナローティの作品は際立っており、バッカス(1497)などの初期の作品、22で彫られた円形の彼の最初の彫刻、そして偉大な芸術家の珍しい膨大な冒険的な主題の1つは、宗教はサヴォナローラによって激しく説教されました。片足でほぼバランスの取れたぐらついた酔っぱらいの姿は、古典的な彫刻を思い起こさせる壮大でよくモデル化されたスタイルに刻まれています。「デイビッド・アポロ」は1530-32年にまで遡り明確な解釈はされていません1539年の「ブルータスの肖像画」はミケランジェロ・ブオナローティが制作した唯一の胸像であり、ヴァザーリによれば、殺すための「ロレンツァッチョ」と呼ばれるロレンツィーノ・ディ・メディチを彼のいとこアレッサンドロ・デ・メディチが表していると言われています。部屋には、ミケランジェロに触発されたバルトロメオ・アンマナーティ、トリボロ、バッチオ・バンディネッリによる彫刻といくつかの小さな作品があります。
トンド・ピッティが1504年に制作した「子供イエスとサン・ジョヴァンニノを持つ聖母マリア」を表す部分的に未完成のレリーフは、一部の歴史家がレオナルド・ダ・ヴィンチの同様の組成の影響の兆候が見られると言っています。
シニョーリア広場のペルセウスの元の青銅、ガニメデとナルシソの大理石、コジモ一世の胸像などベンヴェヌート・チェッリーニの作品もあります。ジャンボローニャはより高度で洗練されたスタイルで表現しました。1576年のアジャイルブロンズマーキュリーは彼の傑作の1つです。アンドレア・サンソヴィーノのバッカス(1550年)はミケランジェロの作品とは意図的に異なりますが、ブロンズレリーフはヴィンチェンツォドナティの興味深い作品です。
バルジェロ美術館には、この美術館の秘宝でありルネサンス彫刻の金字塔といえる傑作、ドナテッロの『ダヴィデ像』があります。詳しくは下記をご参照ください。
(文字をクリックするとリンクして、内容を見ることができます。)
参考文献
MuseoNazionaledel Bargello · News · Cappelle medicee · Orsanmichele
森田義之, 日高健一郎 (編)「美と人間の革新ブルネレスキ、ドナテッロ、マザッチオ」 (NHK フィレンツェ・ルネサンス) 1991年
「ミケランジェロと理想の身体」国立西洋美術館 500年経て再会した彫刻の傑作”. 産経新聞 (2018年).
ウィキペディア(Wikipedia)フリー百科事典
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今回のテーマも、さすがに素晴らしいご解説に理解を深めることができました。
天使が片手を差し出して声をかけているギベルティの作品、こちらは、なによりもまず、多くの人が旧約聖書のこの部分から脳裏にその光景を描いたであろうイメージにより近いものを感じます。そしてまた、衣服のドレープをはじめいかにも金細工師らしい緻密なデッサンと、背後を「汚し」で暗く落とし大切なアイテムをより強く浮き出させた、その結果既定の枠の中に生み出された全体のほど良いバランスが静かさと落ち着きを感じさせてくれて、とても好ましく思えます。ブルネレスキの作品は、息子を殺める覚悟を決めた父アブラハムのもはや止めようもない力感、そのアブラハムの手首をつかみ必死で止めようとする天使、まさにあわやのシーン。こちらの作品が訴えかけてくる現実感と緊迫感には圧倒されます。ただ、枠の中にレイアウトされたアイテムがそれぞれ躍動感を伝えてはくるものの、惜しむらくはやや下方に重く感じられ、全体のバランスとしては端正にまとまったギベルティの作品のほうがルネサンス期のフィレンツェでは理解しやすかったのではないかと思います。
ギベルティとブルネルスキーの『イサクの犠牲』ドナテッロの記事は、大変興味深く読ませていただきました。
アブラハムが神の命に従い、愛息イサクを犠牲に捧げようとするが、間一髪で天使が止めに入るという物語『イサクの犠牲』をテーマとして腕を競ったギベルティとブルネレスキ。二人の作品はもちろん甲乙つけがたい素晴らしい作品だと思います。テーマが周知の事柄で明快であるだけにその表現に個々の知性や表現力とともに信仰心や聖書の解釈力なども評価の対象となったことでしょう。ブルネレスキの作品はその時代としては前衛的すぎたので、ルネサンス期のフィレンツェ人は、端正にまとまったギベルティの作品のほうが解りやすかったのでしょうね。
たいへん興味をもって読ませていただきました。
この建物は、歴史的にもいろいろな事件が起きましたね。
自由な自治体としてのフィレンツェの憲法と国民の船長の姿の創造により、バルジェッロの後の宮殿が建てられました。 1255年にすでに始まったプロコンソロ通りを見下ろす最初の核は、ジョルジオヴァサリダラポテデスコ、ボスコリタワー、バディアフィオレンティーナのいくつかの家と塔に従って建設され、1340年から1345年にネリによって建てられました。フィオラバンテの。その間、市長の席と長老の議会にもなりました。 15世紀の後半にメディチの覇権が確立されると、司法評議会とルオタの裁判官の最初の議席となり、1574年からはコジモ1世デメディチ公、バルジェッロの議長、または衛兵の長になりました。または広場、逮捕、尋問を提供し、死刑を執行しました。
ブロンズと大理石の彫刻と応用芸術コレクションの両方がマフィリカ、ワックス、アンバー、象牙、ジュエリー、エナメル、小さなブロンズを含むウフィツィから来ました。その一部は1928年にシルバー博物館に移されました。その他の資料は、寄付と民間ローン、および公的機関の両方から流出しました。州立公文書館からの印章と造幣局からのコインです。最後に、イタリアの統一とそれに続く修道院の秩序の抑圧に続いて、ロビアン人、彫刻、神聖な宝石が登場しました。1887年のドナテッロの100周年を記念して、このホールはフィレンツェの芸術家と15世紀の彫刻による作品を収容しました。1888年はリヨンの古美術家ルイ・キャランのコレクション、1886年はコンティの寄付、1899年はレスマン、1906年はフランチェッティの応用芸術部門のコレクションの寄付です。
国立バルジェロ美術館のご紹介ありがとうございました。昔この近くで働いていたので、懐かしくブログを拝見しました。この辺りはいろいろエピソードのあったところですね。
ギベッリーナ通りのある角にあるカントデルバルジェッロでは、高さ57メートルに達する「ボロニャーナ」と呼ばれる塔が建物の横にあります。地下の刑務所が何世紀にもわたって狭かった塔は、そこに投獄された最初の囚人の一人であるジェリ・ダ・ヴォログナノの名前にちなんで名付けられました。最上部にあるのはフィレンツェ人によって呼ばれる「ラ・モンタニーナ」の鐘で、若者を武器にしたり、処刑を発表したり、常に怪我や死を引き起こした蜂起や乱闘の場合に恐ろしい場面で演奏されました。悲しい通行料は、「バルジェロの鐘のような長い舌を持っている。彼が演奏するとき、彼は常にいで演奏する」という悪口を言う人に与えられた言い方を引き起こしました。
いつも興味深い美術のお話ありがとうございます。
Firenze には狭い所に見所が沢山有りますね。
Signoria 広場の直ぐ近くなのに、何故かこの場所が見落とされやすいところですね。
Bargelloの中から。裁判所とDuomoの鐘を聞きながらFirenzeを楽しんだ日々を懐かしく想います。
1階には、フィレンツェの芸術家(David、Attis、San Giorgio、Marzocco)の最も有名な作品、Luca della Robbiaによるマジョリカの彫刻、GhibertiとBrunelleschiによる青銅のパネルを備えた印象的なSala di Donatelloがあります。同じレベルで、イスラム美術のコレクション、カランドの寄付、ダンテアリギエーリの最も古い肖像があり、イタリアのサラデッリアヴォリ、サラデルトレチェント、サラデッレマイオリチェの作品です。
最上階には、アンドレアとジョヴァンニ・デッラ・ロッビア、サラ・デイ・ブロンツェッティ、サラ・ディ・ヴェロッキオ、サラ・デル・メダグリエーレ、サラ・デッレ・アルメリアの傑作の主要コレクションの1つがあり、メディチ家の武器庫の秘宝が生き残っています。

