日本文学屈指の傑作・庶民の視点から描いた幕末~明治維新の歴史
島崎藤村『夜明け前』

『夜明け前』は、米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を舞台に、主人公青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した島崎藤村、最後の長編小説でした。
日本の近代小説は、作者が直接に経験したことがらを素材にして、自己や近隣者の内面を深く追求した私小説が主流で、主人公を取り巻く歴史の流れ、そして主人公を動かす思想などに触れるものは少なかったと思います。『夜明け前』は幕末から、明治国家が完成しつつあった明治19年までを扱う歴史小説で、重厚な大河小説の先駆けと言える作品だと思います。
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「夜明け前」の主人公、青山半蔵は、中仙道の宿場のひとつ馬籠村に代々続く庄屋・本陣・問屋を兼ねた旧家に生まれ、父吉左衛門から受け継いで青山家の当主となりました。馬籠村は中仙道の重要な宿であり、青山家はその村一番の旧家で、村人の世話、そして役人との交渉が仕事でした。
青山半蔵は、当時の多くの若者の世間の遊びである魚釣り、碁、将棋などにふけるのではなく、その代わりに読書を選ぶ人だった。馬籠では、師を得られないままに『詩経』、『四書』、『易書』、『春秋』などを独学した。やがて馬籠の隣の中津川宿に友を得、そのつてで医者をする宮川寛斎に師事、平田派の国学を学びました。
中津川商人は、以前から、京都での平田門人の宿泊場所として中心的役割を果たしていた生糸問屋の池村久兵衛と、商売上深い関係にありました。そこへ同じ平田門下としての関係が加わり、池村に集まる情報は素早く中津川に届けられ、ここを経由して江戸の平田家に伝わりました。このような有様を島崎藤村はくりかえし述べています。そんな環境のなかで、青山半蔵は向学心を平田国学にぶつけました。
支配体制の末端を担うということは、村民の生活に直に触れるということでもありました。十代の後半、生活に迫られて木曽の御用林に入り伐採したことで、腰縄で取り調べられる山民の姿の触れることもありました。また、駄賃の上刎ねや荷送り状の書き換えなどで牛方を搾り取る悪徳問屋に対して、結束して闘い、ついに勝利した牛方の団結力にも強い衝撃を受けました。こうして封建支配の残酷さとそれを打ち破る力に触れ、青山半蔵は改革の志と「世直し」の理想を持ちはじめていきます。
そのころ、江戸では、安政5年(1858年)の安政の大獄、万延元年(1860年)の桜田門外の変と激動の時代でした。公武合体の切り札であるの政略結婚として、京都からは、皇女和宮が徳川家茂に降嫁していきました。公武合体とは、幕府と朝廷との融和・結合をはかることで倒幕勢力に対抗しようとする幕末の政治運動の一潮流でした。
青山半蔵は、幕末から幕府崩壊まで、馬籠の宿は多くの歴史的事実を目撃しました。孝明天皇の妹である皇女和宮が将軍家茂に降嫁するため京都から江戸に向かうときは中仙道を使いました。馬籠を通過する皇女和宮一行の行列は、大名の行列より長く馬籠村を通過するのに数時間もかかり、この行列の光景は青山半蔵一家の人たちの目に永久に焼き付けられました。
攘夷を旗印にした天狗党の水戸浪士たちは水戸から京都に向かうため、中仙道を西に向かい馬籠の宿に逗留しました。本居宣長、平田篤胤に心酔している国学の徒であった青山半蔵は、幕府から賊徒の扱いされている天狗党の浪士たちに思想的に共鳴します。
幕府崩壊時には東征に向かう官軍も馬籠を通過しました。そして、明治維新とともに馬籠を通過する人間は減り、馬籠の宿も衰退していきます。明治になり、青山半蔵も村の要職をはずされ、教育に活路を見出そうとします。
一方、江戸では、安政五年(1858年)の安政の大獄、万延元年1860年)の桜田門外の変と激動が続きました。京都からは、皇女和宮が徳川家茂に降嫁していきました。公武合体の切り札としての政略結婚であった。公武合体とは、幕府と朝廷との融和・結合をはかることで倒幕勢力に対抗しようとする幕末の政治運動の一潮流でした。
青山半蔵は、は新しい明治の時代に対して心の底から期待をしていた。青山半蔵にとって、明治は王政復古のもとに古(いにしえ)に復(かえ)る、本居宣長が目指す自然(おのずから)に帰ことでした。自然とは「大和言葉」が支配する世界であり、青山半蔵は自然と明治を重ねていました。
しかし明治の世は王政復古を掲げながら、明治の世は急速に近代を目指していきました。青山半蔵が信じていた夜明け、馬籠の人々をはじめとする一般の人々を解放するような夜明けは来ることはありませんでした。
薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て結成された赤報隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得ました。新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとして密かに取消し、年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことであるとして、赤報隊捕縛の命令を下し、処刑に加わった人たちは処刑されました。赤報隊の悲劇は、明治維新が農民や多くの人民の望みを掲げて開始されましたが、新しい政権ができると彼らを裏切り、政権が大商業家と生まれつつある産業資本家のものに転換していく新しい時代への区切りでした。青山半蔵の夢はこうして最初の挫折を味わうこととなりました。
木曽地方は維新後設置された筑摩県に属し、県は木曽山林に対する村民の入会権を認めませんでした。青山半蔵は戸長らをまとめ県への嘆願書を作り、山林を村民の生活の場としようと奔走しましたが、この試みは山林事件として責任を問われ、戸長免職に追いこまれました。
青山半蔵は東京に行くことを決意する。そこで一から考え、生き直すつもりでした。43歳の時、教部省に出仕します。だが、しかし、かつて国の教部活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視され、同僚たちは国学者を冷笑するような始末でした。維新直後の神祇局では、平田鉄胤をはじめとする平田国学者が文教にも神社行政にも貢献し、新政府のために尽力したはずでしたが、それはすでに一掃されてしまっていました。「これでも復古といえるのか!」
青山半蔵は半年勤めた教部省を辞し、縁あって半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司になりました。「古い神社の方へ行って仕えられる日の来たことは、それを考えたばかりでも彼には夢のような気さえした。」
明治7年秋、青山半蔵は和歌一首を扇子にしたため、明治天皇の行幸の列に投げ入れました。その歌は、「蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや」。それでも一縷の望みをかけようとする苦しいこころを詠んでいます。青山半蔵はこの扇子を、近づいて来る第一の御馬車の中に投げました。そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずきました。半蔵の心を藤村は綴る。「その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどの止むに止まれない熱い情が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗(おさきのり)と心得、前後を顧みるいともまなく群衆の中から進み出て、その御馬車の中に扇子を投進した。急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずいた。」「訴人だ、訴人だ」その声は混雑する多勢の中から起こり、半蔵は駆け寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれました。結局、青山半蔵が半生をかけて築き上げた思想は、たった1分程度の、この惨めな行動に結実しただけだった。
暗いと言われた過去である江戸時代ですら、明山は五木の伐採を禁じられていたにとどまり、その厳禁を犯さないかぎり、村民は意のままに山中を跋渉して、雑木を伐採したり薪炭の材料を集めたりすることが出来ました。新しい世の明治時代になってみると、御停止木の解禁はおろか、尾州藩時代に許されたほどの自由もない。家を出ればすぐ官有林のあるような村もありました。耕地が少なく、農業が難しい山村の人々は、森林から締め出されては生活が成り立たなかったのです。
青山半蔵の期待を次々に裏切られ、国学は無残に廃れていき、「大和言葉」のために戦っていった先輩たちの悲劇に半蔵の心を痛んでいきました。青山半蔵は心身ともに疲れ果て、精神に異常をきたして、菩提寺の万福寺に火をつけました。半蔵なりの廃仏毀釈だったのかもしれもせん。これよりのち、青山半蔵は座敷牢に入れられ、狂死します。王政復古を謳った明治は青山半蔵には言葉だけに過ぎなかったのでした。
このころまた木曽山をめぐる村民と県の争いが起こりました。青山半蔵は経験をもとに協力しようとしましたが、封建時代の末端にいた青山半蔵には、新しい世で争うものがよりどころとする「民の権利」が理解できませんでした。青山半蔵の酒に溺れるばかりで、酒も制限されてしまいます。ついに青山半蔵の心は狂い始めます。
明治19年の春の彼岸が過ぎたある夜、青山半蔵はふらふらと寺に行き、火をつけてしまいます。半蔵の放火は、神仏分離すらまっとうできなかった明治維新の現実を、国学の徒であろうとした人間として、許すことができないが故のことでした。

本居宣長、平田篤胤の思想
青山半蔵が心酔していった国学、本居宣長、平田篤胤の思想とはどのようなか触れておきたいと思います。
多くの志士たちがよりどころとした思想は国学でした。その基礎となるのが、日本にはじめて生まれた歴史書である『古事記』と『日本書紀』です。創世神話と、これに王権の究極の根拠は天上の神であるとする物語を併せたものであり、そのようにすることで、この世の起源から天皇中心の王朝成立とその正統性の根拠を体系的に述べたものでした。この二つの歴史書は、宗教的日本神話に基づく大和朝廷の正統性の確認と、天皇は万世一系であることを宣言したものでした。『古事記』を再発見し、一君万民の皇国王義思想の原型をつくりあげたのが、江戸時代中期の国学者、本居宣長でした。本居宣長はこの仏教と神道の習合から、神そのものを改めて取り出しました。本居宣長は『古事記』を再評価し、そこに描かれた「神と日本」が固有の「日本」であるという考えを示しました。
本居宣長の功績は、近代の国家は「国民」を定義することを希求し、「日本人」を定義したことでした。本居宣長は、「敷島の大和心を人問は朝日に匂う山桜の花」を心とするものが「日本人」であり、そのような日本人の国が「日本」であると定義したのでした。歴史の要求に応えて出てきた新しい思想こそ、一君万民の古代へ立ち返れ、という皇国主義思想でした。本居宣長が説いたのは、日本国は神の国であり、神は天皇である、故に神たる天皇こそ唯一の統治者であり、その神の前では万民は平等であるということでした。これは徳川封建制度に対する批判であり反逆でした。一君万民思想は封建身分制度を内部から切り崩しました。
本居宣長自身は江戸徳川の体制がまだ揺らいでいない時代に活動し、政治的配慮をこめて、本居宣長の随筆『玉勝間』で「道を行ふことは君とある人のつとめ也、物まなぶ者のわざにはあらず、もの学ぶ者は道を考へ尋ぬるぞつとめなりける」と、自らの任務を真理の探究に限定し、古道精神を詠んだ100首『百鉾百首』で「やすくにのやすらけき世に生れ遇ひて安けくてあれば物思ひもなし」と非政治的な人生観を公にしていました。
しかし、言葉から入って古代に仮託された人間を発見したことは、それ自身、封建体制を倒す方向へ人々をまとめていく力をもち。神たる天皇の前では万民は平等という思想は封建体制と両立し得ないものでした。
平田篤胤は、出羽国秋田佐竹藩の藩士の子として生まれ、幼少期に、浅見絅斎の流れを汲む中山青我に漢籍を学び20歳のとき江戸に出て苦学し、25歳のとき備中松山藩士平田篤穏の養子となって藩主板倉家に仕えました。本居宣長の古事記伝のことを妻に教えられ、古学に打ち込みます。宣長に入門せんとするも宣長没により果たせず。33歳のとき神祇伯白川家より神道教授、吉田家より学師の職を受けました。神道界はすべて平田篤胤の思想のもとに入った。没年に至るまで、該博の学殖をもって著述に従いました。
平田篤穏は自らの学問を古道学(古学)ないしは皇国学と称しました。古道とは、彼によれば、古へ儒仏の道いまだ御国へ渡り来らざる以前の純粋なる古への意と古の言とを以て、天地の初めよりの事実をすなほに説考へ、その事実の上に真の道の具わってある事を明らむる学問である故に、古道学と申すでござる(『古道大意』上)。
本居宣長は、内にさまざまの思いを秘めてはいても、『古事記伝』はあくまで「事実としての古代」を明らかにするという態度で一貫していました。それに対して平田篤胤は行動の人でした。その思想は、実践的意思的性格を強くもち、早くより大衆への講説を主要なる活動としました。また、一貫して儒教、仏教、神道諸派などはげしく闘いました。
平田篤胤の時代、北方ロシアが幾たびとなく近海に現れ開国を迫りました。また平田篤胤は、キリスト教や西洋文物にも深い関心と理解をもち、迫り来る対外的な危機を見通していました。
平田篤胤の膨大な著作の中で思想的な中心は『霊の真柱』です。この著作の目的を「大倭心を太く高く固めまく欲するには、その霊の行方の安定しることなも先なりける」と延べている。つまり西洋帝国主義の圧力をひしひしと感じつつ、この対外的危機に対する「国民」の思想主体の形成を目的としたのでした。
そしてキリスト教的創世神話や旧約聖書を念頭に置きつつ、天御中主神を創造主とする一貫した神道神学を、記紀神話を再構成する『古史成文』『古史伝』の営為をもとに、造りあげようとしました。
さらに平田篤胤は、天皇のもとにおける人民の平等を「御国の御民」としてのべていきました。一君万民思想の展開であった。篤胤自身は幕藩体制それ自体を否定したのではない。ただ、古の人間に託して人間の生き方を提示しました。
しかし、それは、江戸幕府を支えてきた儒教的、朱子学的世界観を一掃するものであるだけではなく、一君のもとにおける万民の平等という思想は、必然的にそれを抑圧する幕藩体制への批判を内包していました。平田国学は一つの大きな政治的社会的力となりました。平田篤胤は全国に四千人を越える弟子(死後の弟子を含め)をもち、その膨大なつながりは、幕藩体制にかわる世を求める運動の基盤となりました
確かに平田篤胤は当時の科学技術にもきわめて明るく、キリスト教に関する知識も中途半端なものではなかったことが、近年指摘されるようになった。つまり、彼は外国の思想や文物を、すべて排除するというような、狭量で非合理な思想の持ち主では決してなかったのです。
思想そのものと、解釈された思想とは別物である、ということがあります。本居宣長を平田篤胤がどう理解したか、その篤胤を門人たちがどう要約したのか。思想の伝播には不正確さが常に付きまといます。
あの賀茂真淵あたりまでは、おもに万葉を探ることでした。その遺志をついだ本居宣長が終生の事業として古事記を探るようになって、はじめて古代の全き貌を明るみへ持ち出すことが出来ました。そこから、一つの精神が生れました。この精神は多くの夢想の人の胸に宿りました。後の平囲篤胤、及び平田派諸門人が次第に実行を思う心は先ずそこに胚胎しました。何と言っても「言葉」から歴史に入ったことは彼等の強味で、そこから彼等は懐古でなしに、復古ということをつかんで来た。彼等は健全な国民性を遠い古代に発見することによって、その可能を信じました。それには先ずこの世の虚偽を排することから始めようとしたのも本居宣長でした。情をも撓めず慾をも厭わない生の肯定はこの先達が後から歩いて来るものに遺して置いて行った宿題でありました。
日本屈指の文豪・島崎藤村は、共立学校(現・東京開成中学)を経て、明治学院(現・明治学院大学)に第1期生として入学し、英文学を専攻し、寄宿舎「ヘボン館」に入り、キリスト教の洗礼も受けています。国学者でもあった父・正樹とは逆の道を進みましたが、小説『夜明け前』を描くにあたり、平田篤胤の思想などをかなり勉強したようで、馬籠の「藤村記念館」には島崎藤村の書棚が再現され、膨大な洋書とともに『平田篤胤全集』が並んでいるそうです。
国学と尊王攘夷運動
江戸初期に徳川光圀が編纂させた『大日本史』の思想を引き継ぐ「水戸学」が息づき、国学の源流となり、吉田松陰ら幕末の志士と呼ばれた人たちに直接の影響を与えました。水戸藩は徳川御三家の一つでありながら、水戸学では「勤王」の思想が重んじられ、水戸藩は、幕末の尊皇攘夷思想の先駆けとなりました。
水戸藩の9代藩主、烈公・徳川斉昭が天皇をいただき、外敵に対抗する「尊王攘夷」を掲げ掲げ、強烈な個性で幕末の志士たちに大きな影響を与えました。徳川斉昭は、幕末動乱への導火線に火をつけた存在で、黒船来航をきっかけに生じた社会の動乱の中、勤王思想は「尊王攘夷」の思想を生み、水戸藩としては「勤王」と「幕府への忠誠」が両立しても、一部の水戸藩士や水戸学の影響を受けた志士たちにとっては、尊皇攘夷から尊皇倒幕に発展していきました。水戸藩内部の内紛も激しく、天狗党の乱や桜田門外の変で水戸藩の有為な人材を多く失いました。早すぎた水戸藩士の尊王攘夷の動きが、水戸藩から明治維新期での人材を輩出できなない原因となったと考えられます。
『夜明け前』において主人公・半蔵が水戸藩の動きに深い関心を持ち、水戸藩士による天狗党の乱勃発で、飯田や馬籠を通過し京都を目指す天狗党の行軍の様子を、極めて詳細に描かれています。

島崎藤村の『夜明け前』の視点
島崎藤村の『夜明け前』はが大作なりえたのは、平易な美しい日本語のお手本のような文章で『夜明け前』は書かれていて、平易な文章で書かれたこの作品を格調高くしているのは作者の目の置き所です。作者の目線は下から上に向いているのです。庄屋や村人を含めた人々の動きから歴史の流れを見ています。『夜明け前』」は人々の日記をもとに書かれたそうです。島崎藤村は人々の声に耳を傾け、そして彼らの声から幕末・明治維新という歴史の大きなうねりを書いたのです。
平田国学こそ青山半蔵が生涯の思想としたものでした。明治維新期の一般の国民は、平田国学を島崎藤村の小説『夜明け前』とその主人公青山半蔵から学んできたのです。そして、青山半蔵は「草莽(そうもう)の国学」の代表的人物として歴史学的にもイメージ化されてきました。青山半蔵のモデルとなった島崎藤村の父、熱心な平田国学者であった木曽谷馬籠宿本陣当主島崎正樹の思想と行動は、小説の中に実にきちんと反映されています。更に現実には島崎正樹が、小説よりも生き生きと、ダイナミックに、時代の課題にたちむかっていたことが明らかとなりました。それは、島崎正樹が学び、生涯の友を得て、共に国事運動をおこなった中津川国学者たちの資料が、ほぼ完全な形で子孫の家々に伝えられてきました。これらの事実から、『夜明け前』の青山半蔵のイメージが日本の歴史と文化を研究する上では、あまり大きな意味を持ことになるのです。
その点では、島崎藤村の「明治維新に対する本居宣長の位置は、あたかも仏蘭西革命に対するルソーの位置に似ている」という言葉残しています。民主主義の概念を、ルソーが定義し、フランス革命が実施したようなものとして据えることにしよう」「十. 九世紀は『社会契約論』に対する当時の人々の闘心は比較的高かったと見られます。
『夜明け前』は第1部と第2部に分かれ、ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているくせに、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を、ほぼ全面的に、かつ細部にいたるまで執拗に扱った。『夜明け前』全編を通して、日本人のすべてに「或るおおもと」を問い、日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうかを描きました。それはこのことに答えられる日本人は何人もいないと思われる、いったい「王政復古」とは何なのかでした。
昭和4年は前の年の金融恐慌につづいて満州某重大事件がおき、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえなくなった年、すなわち日本がふたたび大混乱に突入し、ニューヨークでは世界大恐慌が始まりました。そういう時代に、島崎藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかを問いました。王政復古は維新ののちに歪み、ただの西欧主義となりました。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもありましたが、それを推進した支配者層は、その直前までは「王政復古」を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのでしょうか。
明治維新を薩長の下級武士によってなされた「革命」ととらえる「薩長史観」に基づき、戦前の皇国史観となりました。現在でも、「イノベーションは辺境で起こる」例として、明治維新における薩摩・長州を挙げている人もいます。しかし、明治維新は武門による「政権交代」であり、その後に「旧体復元」を指向したのであって「革命」と言えるものではなく、薩摩藩島津家のように公武合体を標榜しながら、薩長連合が成立したと途端に尊王攘夷、尊王倒幕へと舵をきる変幻さと、それに刺激を得て、薫陶を受けた下級藩士の西郷や大久保等が自藩の刷新と、国政の改革と権力抗争に燃えた結果と見ることができます。
「明治維新はフランス革命のようなブルジョア革命とはいえず、明治維新によって成立した政権は絶対主義政権である」という説が日本の歴史学界では有力です。封建社会から近代資本主義社会への転換を実現するべく、封建社会の支配権力を打倒し、資本主義社会に道を開く政治権力を打ち立て封建社会から近代資本主義社会への転換を実現するべく起こした「資本主義革命」という見方もあります。

島崎藤村の歴史観
島崎藤村の『夜明け前』には明治維新を下級武士によってなされた「革命」と見る視点はありません。
「中央公論」に『夜明け前』の連載が始まったのが昭和4年、藤村が最晩年の56歳の時でした。昭和4年は前の年の金融恐慌に続いて満州事変が起こり、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえなくなった年でもあり、ニューヨークでは世界大恐慌が始まった時でしだ。そんな時に島崎藤村は、王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかを問いました。
松岡正剛氏は書いているように、その王政復古は明治維新後、ただの西欧主義となっていいきました。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもありましたが、それを推進した支配者層は、その直前までは「王政復古」を唱えていました。それが、どう歪んで大政奉還から文明開化になっていったのか。
島崎藤村はそのことを描いてみせました。島崎藤村は、この第1部の「下」の第9章くらいから日本の夜明けを担おうとした人々を、長州征伐、岩倉具視の動き、西郷隆盛の噂、池田屋の事件などにより辿ります。青山半蔵が真木和泉の死や水戸浪士の動きを見ている目が深くなっていきます。青山半蔵が“思いがけない声”を京都の同門の士から聞いたことを次のように伝えています。「王政の古に復することは建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない」。そして島崎藤村は書き加えます。「その声こそ彼が聞こうとして待ち侘びていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこのように実現される日が近づいたばかりでなく、あの本居宣長が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた」と。半蔵はこれこそは「草叢の中」から生じた万民の心のなせるわざだろうと感じ、王政復古の夜明けを「一切は神の心であろうでござる」と得心します。しかし、世の中に広まっていった「御一新」の現実はそういうものではありませんでした。半蔵が得心した方向とは全く異なる方向へと歩みはじめます。それは単なる西洋化に見えました。青山半蔵は呆然とする。ここから『夜明け前』のほんとうの思索が深まります。
木曽福島の関所が廃止され、尾州藩が版籍奉還をする。封建的なものは雪崩を打つように崩れていき、本陣もなくなり、大前・小前による家筋の区別もなくなります。村役人すら廃止されました。享保このかた庄屋には玄米5石があてがわれていましたが、それも明治5年には打ち切られます。それらの変化はまさに青山半蔵が改革したかったことと同じであるはずでしたが、事態はそのようには見えません。そんな頃に父が死にます。青山半蔵がこたえたのは、村人たちが「御一新」による改革を喜んでいないことでした。なぜ、日本が王政復古の方向に変わったのに、村が変わっていくことは受け入れられないのか。古の日本の姿は、この村人たちが愛してきた暮らしや定めの中にあったのではなかったのか。青山半蔵の煩悶は、まさに島崎藤村の疑問であり、藤村の友でもあった柳田国男の疑問でもありました。
青山半蔵は、藤村の父・島崎正樹がモデルです。藤村は父の生涯を描きながら、もっと深い日本の挫折の歴史を凝視しました。父の挫折をフィルターにして、王政復古を夢みた群像の挫折、藤村自身の魂の挫折をそこに塗りこめました。時代は「夜明け前」にすぎなかったのでした。
自分の父親が「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」と言って死んでいったのだ。これが島崎藤村に重くのしかかっていました。青山半蔵は、藤村の父・島崎正樹がモデルです。島崎藤村は父の生涯を描きながら、もっと深い日本の挫折の歴史を凝視しました。父の挫折を通して、王政復古を夢みた群像の挫折、藤村自身の魂の挫折をそこに塗りこめました。
こうして、島崎藤村は自分の生きざまを通して、しだいに父親の対照的な人生や思想を考えるようになっていきます。島崎正樹すなわち青山半蔵は、島崎藤村とちがって断固として馬籠にとどまり、日本の古代の英知を透視して、そして傷ついていった人だった。青年藤村には歴史がなかったが、父には歴史との真剣な格闘がありました。
もともと自分を見つめることから始まった作家である島崎藤村は、しだいにこの父の姿の奥に自分が見るべき歴史を輸血する。それが島崎藤村のいう「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業になっていきました。
しかし、たんに歴史と文学を重ねるというだけなら、それこそ露伴や鴎外のほうが多様であり、小説的でした。島崎藤村が描いた歴史は、あくまで“父の時代”の歴史であり、その奥に父が抱いた王政復古の変転の歴史というものでした。
このことを藤村ほど真剣に、かつ深刻に、かつ自分の血を通して考えた作家は稀有なことでした。それは、日本の近代に「過誤」があったのではないかという苦渋ともなっているものだったと思います。島崎藤村の指摘は実はそこにあり、そのことをこそ小説『夜明け前に』の物語に塗りこめたかったものではないでしょうか。
過誤ではない歴史とは何なのか。過誤を避ければ苦渋がないかといえば、そんなことはもはや日本の歴史にはおこりそうもなく、たとえば三島由紀夫の自決のようなかたちでしかあらわれないものかもしれないのですが、それでも島崎藤村は『夜明け前』をもってその過誤を問うたのでした。答えがあるわけではない。青山半蔵の挫折が答えでした。
『夜明け前』には答えがある、という見解もあります。保田與重郎『戴冠詩人の御一人者』(昭和13年)に収録されている「明治の精神」には、次のような意見が述べられています。「鉄幹も子規も漱石も、何かに欠けてゐた。ただ透谷の友、島崎藤村が、一人きりで西洋に対抗しうる国民文学の完成を努めたのである」。この一文には、篠田一士も気がついていた。篠田一士はこの保田與重郎の一文に気をとられ、自分の評価の言葉を失ったとさえいえます。しかし、さすがに『夜明け前』を国民文学の最高傑作だというふうには言うべきではないかもしれません。そこは徳富蘇峰とはちがっていました。島崎藤村が西洋に対抗したわけではないというのです。『夜明け前』を国民文学とか西洋との対決とはいえないのですが、それでも『夜明け前』は日本の近代文学史上の唯一の実験を果たした作品だったのです。われわれは青山半蔵の挫折を通して、日本人が避けつづけている明治維新の意味を問うというものでした。
鬼才篠田一士が以下のように書いています。『夜明け前』が大傑作であることは自身で確信し、内心言うを俟たないことなのに、そのことを彷彿とさせる批評の言葉がまにあわない、これは日本文芸史上の珍しいことでで、漱石や鴎外では、まずこんなことはおこらない。露伴や鏡花でも難しくはない。むろん横光利一や川端康成ではもっと容易なことである。それなのに『夜明け前』では、ままならない。もてあます。挙げ句は、藤村と距離をとる。
『夜明け前』には、勝者でもなく敗者でもない市井の人から眺めた視点に魅力があります。幕末の動乱、明治維新と日本が近代国家として生まれ変わる様々な歴史上の出来事と交え、当時の日本が変わる様子が青山半蔵一個人の目線で見据えられていて、大きな流れの中にもそれぞれを生きた人がいることを改めて感じさせられます。抗えない時代の変化に翻弄される人の思いが、青山半蔵を通して痛切に伝わってきます。いったい何が正しいのか、そして正しいことがいつも真実としてあるわけではないと藤村に訴えかけてくるように感じました。
篠田一士に『二十世紀の十大小説』という快著があります。篠田一士はここで夜明け前』を「空前にして絶後の傑作」と言い、日本の近代文学はこの作品によって頂点に達し、この作品を読むことが日本の近代文学の本質を知ることになる。
『夜明け前』全編を通して、日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうか、そこを描きました。この作品が20世紀世界文学の代表作の1つという評価はともかく、『夜明け前』は圧倒される作品でした。明治維新は、日本にとってまだ「夜明け前」だったのでしょう。しかし、今現在に至っても、私たちはまだ「夜明け前」にいるのではないか、庶民にとって本当の夜明けはいつ来るのかと考えさせられました。
参考資料
島崎 藤村(著 )『夜明け前』 (岩波文庫) 2003年
高木俊輔 著 『夜明け前』の世界 (平凡社)1998年
安島 史雄著 新資料「島崎藤村『夜明け前』ノート」に接して 1968年
奈良真由子著 『幕末維新期における平田国学思想の潮流』
小林秀雄 著 『本居宣長』(上)(下)(新潮文庫) 1992年
|松岡正剛の千夜千冊 https://1000ya.isis.ne.jp/top/
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、芭蕉の句碑が立った。「送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)」。江戸の文化の風がさっと吹いてきたようなもので心地よい。
半蔵はそういう江戸の風を学びたいと思った青年だ。隣の中津川にいる医者の宮川寛斎に師事して平田派の国学を学ぶ。
馬籠という共同体が、木曽路そのものが瓦解する。
誰も近代化の驀進に逆らうことなど不可能だった。
明治維新以後に連なる現在から考えると、明治維新以前というのは、ご指摘の通り、まだ「夜明け前」なのでしょうね。
「…軍人の文章はどうしても堅い。…哲学者としての紀平博士、宗教人思想人としての小林一郎先生、詩人としての土井晩翠、島崎藤村両先生…幾人かに私の名で依頼状を差し上げ、戦陣訓を同封してご覧を願い、…御意見を承(うけたまわ)ることにしよう」。仕合せなことは、書状を差し上げた全員、一人のお断りもなく参集され、三時間以上にわたって総体的な意見が述べられ、…一週間の期日内に細部の修文をお願いしたところ、いずれも快諾の上印刷物中に手を入れ郵送された。ただひとり、島崎藤村先生は葉書を寄こされ「直接お会いの上、修正の部分をご説明したい」と申して来られた。
それが国学への傾倒の結果なのか?はたまた明治維新批判からの転向なのか、どうお考えでしょうか。
『島崎藤村の人間観』(新日本出版社)の著者・川端俊英さんは「当時の藤村の文章には積極的な戦争賛美や戦意鼓舞の言辞は見当たらない。軍部に対して必要最小限度の協力によって摩擦を避けていた。43年、藤村は脳出血のために逝去しますが、晩年は心ならずも総力戦体制に巻き込まれ苦衷の中にあったと思う」と語っています。
平田篤胤の思想が、明治維新に果たした役割についての記述が大変興味深かったです。
また、藤村はクリスチャンだったのですね。無知でした。
青山半蔵に王政復古の夜明けを「一切は神の心なのであろうでござる~」と言わせていますが、この辺りは、キリスト教の影響ではとも思いました。

