水戸藩の「勤王」の思想と尊皇攘夷思想の水戸の志士たちの動き
水戸学と尊王攘夷思想~桜田門の変
『青天を衝け』は、渋沢栄一を主人公に、幕末から明治までを描きいています。制作統括の菓子浩さんは「今の閉塞感が感じられる時代だからこそ、大きな時代のうねりを描きたいと思って、幕末から明治を題材に選んだ」と脚本を担当した大森美香さんも「時代が動く変革の時期を描きたいと説明しています。このドラマが面白いと思ったのは、今まであまり扱われなかった水戸藩の尊王攘夷の運動の志に青春をかけ、歴史の変化に翻弄される若者たちに光が当てられてくようです。
江戸初期に徳川光圀が編纂させた『大日本史』の思想を引き継ぐ「水戸学」が息づき、国学の源流となり、吉田松陰ら幕末の志士と呼ばれた人たちに直接の影響を与えました。水戸藩は徳川御三家の一つでありながら、水戸学では「勤王」の思想が重んじられ、水戸藩は、幕末の尊皇攘夷思想の先駆けとなりました。
大河ドラマ『晴天をつけ』にも描かれているように、水戸藩の9代藩主・徳川斉昭が天皇をいただき、外敵に対抗する「尊王攘夷」を掲げ掲げ、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。幕末の志士たちがよりどころとした国学の思想が基礎とするのは、『古事記』と『日本書紀』でした。国学者・本居宣長によると神たる天皇こそ唯一の統治者であり、その神の前では万民は平等であるということでした。水戸藩藩主、・徳川斉昭の熱狂的攘夷論者的な言動の影響もあり、水戸藩は武士のみならず、渋沢栄一(吉沢亮)、渋沢喜作(高良健吾)、尾高長七郎(満島真之介)など農民の若者たちにも攘夷思想に日本の未来への理想主義を植え付けていったのは、ドラマ『青天を衝け』にも描かれている通りです。
井伊直弼らが主導した、日米修好通商条約の締結と、その後の「安政の大獄」の大弾圧に対して、水戸藩の士民は結集して行動を起こそうとしましたが、水戸藩上層部からの工作により懐柔されました。しかし、活動の主要人物の一部が井伊直弼暗殺計画のため江戸へ移って地下に潜行しました。
「水戸藩開藩四百年記念」として、吉村昭の歴史小説を、藤純彌監督で、大沢たかおが主演した映画『桜田門外ノ変』に克明に描かれていましたので、これに沿ってご紹介します。
主君・徳川斉昭の永蟄居と安政の大獄により状況は一変します。藩政改革を訴え、諸藩と組んで直弼に対抗しようとする群奉行の金子孫次郎と高橋多一郎の命を受け、関鉄之介は越前藩・鳥取藩・長州藩への遊説に赴きますが、弾圧の嵐は既に諸藩にまで及んでおり、関鉄之介は何一つの成果を挙げられず江戸に引き上げます。金子孫次郎と高橋多一郎は極秘裏に直弼暗殺を計画、鉄之助ら賛同する藩士たちが集ってきました。彼らは藩に迷惑をかけまいと脱藩、唯一の薩摩藩士・有村を加えた18人は桃の節句を決行日とし、江戸に潜伏します。妻子を水戸に残した関鉄之介は愛人の家に身を寄せながらその時を待っていました。
井伊直弼の首を取った関鉄之介助らは、薩摩藩の挙兵を信じて京都に向かいますが、当の薩摩藩は挙兵慎重派に押される形で約束を反故にし、挙兵を撤回していました。追い打ちをかけるように、水戸藩も幕府に弓を引いたとして実行犯を手配したのです。他の藩からも受け入れを拒絶され、後ろ盾を失った実行犯たちは全国各地を逃亡しますが、高橋は幕吏の追っ手に追い詰められ大阪の四天王寺境内で自決、金子も捕らえられるなど、一人また一人と捕縛または自決していきます。関鉄之介の愛人だったいのも捕らえられ、拷問の末に獄中死します。鉄之助は全国各地を逃亡していましたが、越後の湯沢温泉に潜伏していたところを遂に発見され、捕らえられてしまいます。関鉄之介を捕えた水戸藩士の安藤龍介は関鉄之介に敬意を示して酒を振舞います。関鉄之介助は「わしも幕府を倒すのに力を貸したいが、それも叶わぬ夢だな…」と呟きます。江戸に贈られた鉄之助は、桜田門外の変から2年が経った1862年5月11日、刑場の露と消えます。
幕府では、暗殺された井伊直弼(岸谷五朗)に代わって老中・安藤信正(岩瀬 亮)が、孝明天皇(尾上右近)の妹・和宮(深川麻衣)の将軍・家茂(磯村勇斗)への降嫁を進めていました。朝廷との結びつきを強めて幕府の権威回復を図った和宮降嫁は、尊王攘夷派の志士の心に火をつけことになります。一方、念願の江戸に来た栄一(吉沢亮)は、尊王論者・大橋訥庵(山崎銀之丞)を紹介され、安藤の暗殺計画を知る。長七郎(満島真之介)は、その計画のために命を捨てる覚悟を決めるようです。
尾高長七郎(満島真之介)
『青天を衝け』で満島真之介が演ずる尾高長七郎がどのような運命をたどったか、ドラマ気になるところですので、調べてみました。
尾高長七郎(満島真之介)は、渋沢宗助(新三郎)が開いた神道無念流道場「練武館」に入門し、渋沢栄一(吉沢亮)、渋沢喜作(高良健吾)らとともに稽古に明け暮れ、23歳のころに免許皆伝を受けた時には、兄・惇忠を凌ぐほどの強さでした。文武の修行のために江戸に出て、講武所剣術教授方を務める伊庭秀俊の下で心形刀流を学びました。北辰一刀流・千葉栄次郎の門弟、真田範之助、村上右衛門助が他流試合のため練武館を訪れた時に尾高長七郎が勝ち抜いたそう、尾高長七郎の名は関八州に知られるようになりました。
北辰一刀流・千葉栄次郎の門弟、真田範之助、村上右衛門助が他流試合のため練武館を訪れた時に尾高長七郎が勝ち抜いたそう、尾高長七郎の名は関八州に知られるようになりました。尾高長七郎は江戸遊学時代に長州藩の久坂玄瑞や多賀谷勇、薩摩藩の中井弘や伊牟田尚平、佐賀藩の中野方蔵、水戸藩の原市之進、出羽国の清河八郎らといった尊皇攘夷派の志士たちと交流を持ち、尊攘派志士として成長していきました。
尾高長七郎は、当時の若き俊英が憂国の志士を志したように、成長するにつれ各藩の志士と深く交わるようになります。念願の江戸に来た渋沢栄一(吉沢亮)は、尊王論者・大橋訥庵(山崎銀之丞)も長七郎(満島真之介)に紹介されました。1861年、江戸城坂下門外で老中安藤信正が水戸藩士らに襲撃される事件が発生します。尾高長七郎(満島真之介)は、その安藤の暗殺計画のために命を捨てる覚悟を決めていたようですが、『青天を衝け』で見る限りは、兄の尾高惇忠(田辺誠一)に厳しく制止され、老中安藤信正の暗殺には参加しなかったようです。
しなし、幕府方は長七郎もその一味だとして捕吏を深谷へ差し向けます。それを知った栄一は長七郎を守るため4里の道を駆け熊谷宿で漸く長七郎を探すと事態の危急を知らせ、取り急ぎ渋沢家が信頼している信州佐久岸野下県村の木内芳軒の塾に落ち延びるよう説得をします。渋沢家からの依頼に応え信州佐久では木内芳軒家族が身命を賭して長七郎を匿ったうえ安全な裡に京都までの逃避行を成功させました。
『青天を衝け』で描かれるかどうかわかりませんが、史実によると、攘夷思想にかられた渋沢栄一達は武器を準備し高崎城を乗っ取り、そこから横浜外国人居留地を襲撃しようという暴挙ともいえる大事件を画策したそうです。その時京都で最新の見分を深めて戻って来ていた尾高長七郎は栄一たちの計画を聞き、その無謀さを指摘し必死に制止しました。その甲斐があり高崎城乗っ取り事件は未遂に終わったそうです。このとき渋沢栄一が計画どおり高崎城乗っ取り事件を挙行していたら、計画は失敗に終わり渋沢栄一の命は絶たれ、渋沢栄一は世に出ることはなかったでしょう。大河ドラマ『晴天をつく』も作られることはなかったでしょうね。
渋沢栄一(吉沢亮)
平岡円四郎(堤真一)は、幕末期の一橋家の家臣(家老並)となっていました。一橋慶喜(草彅剛)の側用人・平岡円四郎から呼び出しがきました。「慶喜様が、おまえたちに会いたいと仰せられる」渋沢栄一と渋沢喜作は、パッと喜びの色を浮かべて顔を見合わせた。平岡円四郎は約束を守った。一橋慶喜は、二人を引見して言いました。「わたしは、国家有事の時にあたり、京都の守衛総督を任じられた。非常の時であるので、人材登用の道を開いて、天下に志ある人物を網羅したい。開くところによると、おまえたちはその志を十分に持っていると開いたので、是非当家に召しかかえたい。頼む」一橋慶喜が言ったことは、渋沢栄一たちが求めたことをまさにと言葉にしていました。平岡円四郎が余程苦労したのに違いなく、一橋慶喜は、円四郎が書いた脚本のセリフをただ口にしたのかもしれません。しかし、渋沢栄一と渋沢喜作は、尊皇壊夷の志を抱いたまま、京都守衛総督の一席慶喜の家臣に登用され、世間に対しても、後ろめたさを感ずることはないとかんじました。しかも、一橋慶喜がじきじきに二人を呼んで、「家臣になれ」と頼んだことは栄誉なことでした。二人は、この日から一橋慶喜の家臣になりました。
一橋慶喜が、後に徳川宗家を継いで徳川慶書に変わり、やがて十四代将軍徳川家茂の急死の後を受けて、第十五代将軍職に就きます。渋沢栄一と渋喜作は、一橋家の家臣から徳川将軍家の家臣に変わりました。二人は持ち前の才覚を発揮して、どんどん重きを成していく。渋沢栄一は、篤太夫と名を変えて、慶喜の側近にのしあがり、財政方面で腕を振るいました。渋沢栄一の方針は、現在では会計の常識ですが「入るを量で出るを制する」ということでした。大名家も徳川幕府自身もそのような財政制度をとっていませんでした。
以後、渋沢栄一の行動は、徳川慶喜の行動と重なります。完全に、尊皇壌夷の志士ではなくなっていました。渋沢栄一は、今の日本の国力で、嬢夷なんかできっこないと信じるようになり、自分でも驚くほど変貌していました。
渋沢喜作(高良健吾)は、渋沢栄一とともに、一橋慶喜に仕えが、一橋家農兵の徴募係として各地の農村との交渉役を経て、その功績が認められ、陸軍附調役に昇格して3年(1867年)に慶喜が将軍になると奥右筆に任じられました。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると、鳥羽・伏見の戦いに参戦し、江戸帰還後、将軍警護を主張し、自分と志を同じくする幕臣らを集め、彰義隊を結成し頭取に就任します。
徳川慶喜が謹慎場所を江戸から水戸へ移すと、彰義隊を脱退し、有志とともに田無に集まり振武軍を結成し、大村藩、佐賀藩、久留米藩、佐土原藩、岡山藩、川越藩からなる官軍と戦いますが戦いに敗れ、榎本艦隊に合流しました。8月、振武軍の残党と彰義隊の残党が合体し、新たな「彰義隊」を結成しその頭となり、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍とともに蝦夷地に行き、箱館戦争に参戦しようとました。しかし、箱館戦争終結直前の明治2年(1869年)に旧幕府軍を脱走、湯の川方面に潜伏していましたが、出頭・投降した。その後、東京の軍務官糾問所に投獄されました。
明治以降は、渋沢栄一の仲介で大蔵省に入り、近代的な養蚕製糸事業の調査のためヨーロッパに渡航しました。その後、実業家として活躍し、従弟渋沢栄一の協力もあり、廻米問屋、生糸貿易の渋沢商店を経営する他、東京商法会議所設立発起人、深川正米市場初代総行事、東京商品取引所理事長、大日本人造肥料取締役として活躍しました。
尾高 惇忠(田辺誠一)
渋沢栄一の従兄・尾高 惇忠(田辺誠一)は、1863年高崎城を襲撃して武器を奪い(高崎城乗っ取りの謀議)、横浜外人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画を立てましたが、弟の尾高長七郎の説得により中止。戊辰戦争の際には、初め彰義隊に参加しますが脱退し、振武隊を結成して高麗郡飯能の能仁寺に陣営を築き、官軍と交戦しましたが敗退しました。
明治維新後、大蔵省官僚となった栄一の縁で、官営富岡製糸場の経営に尽力し、富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めました。
参考資料
長崎 浩 (著)「末未完の革命: 水戸藩の叛乱と内戦」2019年
高橋 裕文(著)「幕末水戸藩と民衆運動―尊王攘夷運動と世直し」2006年
大石 学 (監修)「幕末 (世界のなかの日本の歴史)」
岡田 幸夫 (著)「日本開国の道標」2015年
『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年
佐久市、施設案内佐久市文化施設情報「五郎兵衛記念館館長の豆知識」2021年
https://rekijin.com› 日本史
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
このブログを見た方は、下記をクリックしてください。
desireさんは都内にお住まいなのでしょうか?間違っていたらごめんなさい。
ドラマ「晴天を衝け」を見ています。記事、拝読させて頂きました。
以前、谷中墓地を散策中に、偶然徳川慶喜公と奥方のお墓を見つけました。
少し歩くと、渋沢栄一のお墓の前に辿り着きました。その時は、日本の実業家という認識しか無く、あまりよく詳しくありませんでした。
最近、本当に色々な面で、魅力的な人なのだと感じるようになっています。
尊王攘夷など、時代の転換期に伴い、徳川御三家も激動の時代でしたね。
紀州藩と家定の死去によって、水戸藩が力を持ち関東一帯に影響を与えていき・・・。今後も楽しみです。
吉沢さんも好印象です。「麒麟がくる」の記事も、楽しく読ませて頂きました。
佐久間信盛、松永久秀、荒木村重など、個性派武将と信長との関係性について考えるとドキドキします。
以前に島崎藤村の『夜明け前』を読んだことがあり、その時、御三家・水戸藩の徳川斉昭「尊王攘夷」を掲げ掲げ、水戸藩の侍や農民たちにが幕末動乱の運命に翻弄されていったことを知りました。
『青天を衝け』に興味を持ったのは、そのような水戸藩の若者の姿が描かれているのに描かれているのに興味を持った次第です。
『麒麟が来る』は、織田信長と明智光秀など、こと時代の人々を今までの映画やドラマとは別つの視点て描かれているところが大変おもしろかったですね。長谷川博己をはじめ、主要な役に、実力のある俳優を配して、大河ドラマの傑作だと感じています。
島崎藤村の小説『夜明け前』を読んで、水戸国学に心酔し尊王攘夷魅の思想が強かった徳川斉昭に強い影響を受けた水戸藩の若い志士たちの歴史に興味を持ちました。
藩全体とともに行動した薩摩や長州の志士たちとは違って、徳川御三家の水戸藩の人々は、最後まで徳川幕府との関係に悩まされることになったようです。
せっかく志士の皆さんががんばって革命を起こしたのに、いまだに私たちは税金や悪政に苦しんでいるし、貧困社会、社会格差、階層社会は残っているし、何も変わっていないと思いました。