天平彫刻の最高傑作-優雅な表情の顔立ち、究極の均整-息をのむ美しさ
聖林寺『十一面観音像』
The Shorinji Temple"Eleven-faced Kannon Statue"
聖林寺『十一面観音立像』は、第一回指定の国宝であり、天平時代の彫刻を代表する美しい仏像で、フェノロサや岡倉天心フェノロサや岡倉天心たちによってその美しさを絶賛され多くの人々を魅了してきたことは、中学時代の頃から写真集を持っていてその存在は良く知っていました。
The Shorinji Temple"Eleven-faced Kannon Statue" is a national treasure designated forthe first time, and is a beautiful Buddha statuethat represents the sculptures of the Tenpei era. Has fascinated.
天平時代といえば、日本の仏教美術の黄金時代であり、東大寺戒壇院の四天王、興福寺の八部衆、十大弟子、東大寺三月堂の不空羂索観音や日光菩薩、月光菩薩、興福寺の廬舎那仏、千手観音像はじめ、すばらしい仏像を中学、高校の修学旅行でたくさん観てきました。顔の金箔が一部剥がれていることもあり、写真集で見た時は、本当に天平時代の彫刻を代表する美しい仏像なのか、信じられませんでした。
とはいえ、一度天平時代の彫刻を代表する美しい仏像といわれている聖林寺の『十一面観音立像』をこの眼で見てみたいと、大学時代に奈良の聖林寺を訪れました。『十一面観音立像』のある聖林寺へは,奈良駅から近鉄桜井駅下りて、奈良交通バス談山神社行きで「聖林寺」下車すると小高い丘陵の上にありました。綺麗な円錐形の三輪山、卑弥呼の帰化の伝説のある巨大な古墳の箸墓、一帯は、古代大和政権の発祥の地です。
急な斜面に築かれた石垣の上に境内が開けます。ご本尊は元禄時代に造られた石造の死蔵菩薩です。だが、”運命の仏像”があるのは境内の中の一段高い別のお堂。『十一面観音立像』はお客様のように隔離されているのは、日本に七体しか指定されていない国宝の『十一面観音立像』の一体だからという文化財的配慮からではない。もともとこの仏さまはここの持仏でなく、三輪山・大御輪寺の本尊であったからなのです。
聖林寺『十一面観音立像』の魅力
像の高さは209センチです。もともとは金箔で覆われていましたが、何世紀にもわたって多くがすり減り、その下の漆と木の芯が露出していました。像の高さ209センチ、台座を含めると、3m近くある堂々した立ち姿に一目見て魅了されました。
高い腰に、肩幅が広く、豊麗で均整のとれた体躯は、胸部や腰部は豊かな肉付きで、重厚で堂々としており強い存在感を感じます。盛り上がった胸から引き締まった腹部にかけての曲線のラインとの間に広い空間をつくり、見事な造形美をみせています。肩から手先までの柔らかな艶めかしいほどまろやかな指先、衣文の曲線は実に優美で表現も美しく、腕から垂れた部分の曲線の美しさと全体も風をはらむようにふんわりと表現されています。当時最先端の木芯乾漆造りの技法により生み出された写実的表現が、やや豊満な造形と、厳しい表情のバランスが絶妙です。
人々を救うために観音菩薩から姿を変えた仏像には、女性的な優しさ、柔らかさを表現したものが多いですが、聖林寺『十一面観音像』は、威厳のある顔立ちと引き締まった表情で、眼球の膨らみがしっかりとあり、目尻が少し上がっていて、私たちに強い眼差しを向けているように感じます。女性的な優美さと男性的な威厳を併せ持ち、すべてを超越した圧倒的な存在感がありました。菩薩の慈悲というよりは神の威厳を感じてきます。
人々は 仏に救いを求めていました。仏師たちは人々の心の支えとなる 仏を求めて、持てる技の全てを注ぎ込んで仏像を彫り込みました。仏像に心が魅かれるのは、仏師たちの信仰と魂が彫り込んでいるからではないでしょうか。ここかが西洋美術の彫刻と日本の仏像の決定的な違いだと思います
『十一面観音立像』にだんだん 近づいて見ていると、動かない仏像が こちらに迫ってくるような、そんな不思議な感覚ります。
座った状態から『十一面観音立像』を見上げていると、今までとは全く違うある意味で理想的なバランスで十一面観音立像を拝むことができます。長い時間この角度から見ていると、十一面観音が天から降りてきてくれたような気持になります。私は、この『十一面観音立像』に魅了され、1時間近く十一面観音立像を見上げていました。
結局『十一面観音立像』にすっかりほれ込んでしまい、3度もこの不便な聖林寺に3回通うことになりました。2度目、3度目と回を重ねるたびに、聖林寺『十一面観音立像』が日本の仏教彫刻の中でも最も美しい仏の姿だと理解できるようになりました。
聖林寺『十一面観音立像』の評価
このときフェノロサは「この界隈にどれ程の資産家がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでない」と語ったそうです。
文学者であり哲学者であった和辻哲郎は『古寺巡礼』でこう書いています。
「きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、―すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。」
「これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかわからないが、もとこの像は三輪山の神宮寺の本尊であって、明治維新の神仏分離令の際に、古神道の権威に押されて、路傍に放棄せられるという悲運に逢った。この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうという篤志家は、その界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこに通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。」ドラマを感じさせる筋立てではありますが、「雑草の中に横たわっていた」というのはどうやらおおげさな言い伝えであるようです。
聖林寺を訪れた白洲正子は、当時は、本堂の端で厨子ともいえないような板囲いの中にあったこの十一面観音でしたが、住職が雨戸を開けた瞬間の驚きをこう書いています。(白洲正子『十一面観音巡礼』より)
「さしこんで来るほのかな光の中に、浮び出た観音の姿を私は忘れることが出来ない。それは今この世に生れ出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。その後何回も見ているのに、あの感動は二度と味わえない。世の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。」
聖林寺『十一面観音立像』に魅せられた写真家・土門拳は、古寺の伽藍や仏像を独特の目線でファインダーにおさめた写真集『古寺巡礼』にこう書き残しました。(土門拳『古寺巡礼』より)
「それは菩薩の慈悲というよりは、神の威厳を感じさせた。この仏像を長く見ていると三輪山の神大物主の化身ではないかと思えてくる。厚い乾漆の亀裂が顔にあって凄い、もの凄い感じを見る人に与える。 木心乾漆漆箔独自の技法が、単に一木造でもなく、鋳造仏でもない、柔軟性のある肉とりの自然さがよい。その荘重な気宇と表現形式とがぴったり融合して、いささかも過不足の感じられないところに、奈良朝盛期に造られたこの像の特色がある。天平時代の乾漆像の中でも最も優れたものといえよう。」
聖林寺『十一面観音立像』の由来と歴史
聖林寺『十一面観音立像』は、慈悲の菩薩としても知られる観音を表しています。観音は、人々を病気から守り、食糧と富を確保するのに役立つと信じられています。像の主頭の上に置かれた11の頭にはさまざまな表現がありますが、最大のものは思いやりと静けさを放ちます。なぜ11の頭があるのかについては、いくつかの解釈があります。たとえば、下の10は悟りへの道の段階を表し、上の10は成仏を表すという信念が含まれます。
8世紀にまでさかのぼるこの像は、その穏やかな表情、絶妙なローブ、そして装身具で有名です。アメリカの美術史家アーネスト・フェノロサ(1853–1908)などの学者は、ミロのヴィーナスを含む西洋美術の最高の作品のいくつかとそれを比較しました。
1868年に日本政府が「神仏習合」の仏教寺院と神社の分離を命じたとき、この像は大神神社の敷地内にある大神神社からここに移されました。
この『十一面観音立像』は、760年代に東大寺の造仏所で造られ、その願主は智努王(天武天皇の孫)とする説が有力です。
『十一面観音立像』は、かつては四天王に守られ、前立観音の他、左右に多くの仏像が並び立ち、背面には薬師如来一万体が描かれた板絵がある荘厳の中にまつられてきました。宝相華唐草の光背(奈良国立博物館に寄託中)は、長い年月により大破していますが、華やかで見事なものであったと想像されます。
均整のとれた仏身、豊満な顔立ち、量感のある上半身、優婉な纏衣の美しさ、微妙な変化をみせる指先等、ミロのヴィーナスとも比較される仏像彫刻の傑作といえます。
三輪山の神宮寺から聖林寺へ
本堂から三輪山が見えます。『十一面観音立像』は、もとは三輪山の神宮寺の一つ「大御輪寺(だいごりんじ)」の仏さまでした。大御輪寺は大神神社の最も古い神宮寺として奈良時代中頃に設けられ、『十一面観音立像』はその本尊として祀られてきました。
明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈を免れるため、慶応4年(1868)5月16日、大御輪寺と親交の深かった聖林寺に移されたといわれています。
明治になって廃仏毀釈を逃れるように聖林寺におさまった『十一面観音立像』。秘仏とされていたこの仏像の美しさが世に知られたのは明治20(1887)年のことです。アメリカ人の哲学者で美術研究家でもあるフェノロサによって禁が解かれ姿を現しました。
たしかに聖林寺『十一面観音立像』は三輪山をご神体とする大神神社の神宮寺である「大御輪寺」の本尊でした。神仏分離令による廃仏毀釈で廃棄されることを憂えた大御輪寺の廓道和上がひそかに運び出し、兄弟子の大心和尚が住職を務める聖林寺に安置したのが真実に近いようです。白洲正子の『十一面観音巡礼』によると、アメリカの美術史家フェノロサが大御輪寺の縁の下で見つけ、聖林寺の僧とともに運んだとも記されています。
現代社会に住む私たちには「神宮寺」──神社に寺があった、というのは不思議かもしれません。奈良時代からすでに日本の神々は仏教にとりこまれ、神仏習合という日本独特の信仰が生まれていました。日本の神々は人と同じように仏に救済を求める存在として、または仏法を守護する神として供養され、やがて神の本来の姿は仏であるという「本地垂迹説」も生まれていました。それに伴って大きな神社にはお寺が建てられ、社僧たちによって経があげられました。
その一つだった大御輪寺も廃仏毀釈の嵐に襲われたが、薪として割られるような過激な廃仏も行われた時代に、寺院に引き取られていったのは、この観音さまにとって奇跡的ともいえる幸運でした。
観音さまは大八車に乗せられて、およそ四キロ南の聖林寺に運ばれたといわれています。仏像は木彫に木屎漆で細部を成形する木心乾漆像であるため、決して軽いものではなく、身長も2メートルを超えます。さらに脇侍二体も付き添っていました。大八車で山の中腹にあるお寺まで運ぶのは並大抵のことではなかったと想像されます。
当時の住職は高僧 大心(聖林寺再興七世)でした。三輪流神道の正嫡であり、東大寺戒壇院の長老であった大心以外にこの仏像を正式に拝める僧はなかったのでしょう。
明治30年(1897)、旧国宝制度が成立すると国宝に指定され、昭和26年(1951)6月の新制度に移管された際には、第1回の国宝に選ばれました。この時指定された国宝仏は、わずかに24でした。
フェノロサが禁を解き、保護を提唱
アメリカの哲学者アーネスト・フェノロサは、明治11年(1878)に日本政府の要請で来日。古社寺の調査員として宝物調査を行いました。当時の仏像の多くは、廃仏毀釈によって壊滅的な被害を受けていましたが、フェノロサは日本古来の文化財の価値を高く評価し、保護に努めました。
明治20年(1887)、アメリカの哲学者フェノロサによって秘仏の禁が解かれ、人々の前にその美しい姿を初めて現しました。
フェノロサはその美しさにたいそう驚き、門前から大和盆地を指して、「この界隈にどれ程の素封家がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでない」と述べたと伝えられています。
本堂脇の厨子は、十一面観音のためにフェノロサらが寄進したもの。内部に滑車を付け、火事などいざというときに外に運び出せるよう可動式になっており、文化財保護施設の魅とも言うべき工夫がなされています。
「廃仏毀釈」から救われた日本美術の至宝
学校の教科書では、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきましたが、明治近代政権によって江戸という時代は「全否定」されました。仏教伝来から既に千四百年近く経っていた明治維新といわれるこの時点に於いて、仏教の影響を受けた文化的、精神的諸要素は、美しい風土を創り上げており、人びとの心に浸み込んでいました。薩長新政権が打ち出した思想政策によって、「廃仏毀釈」という日本文化の破壊活動は仏教施設への無差別、無分別な攻撃、破壊活動は、薩摩、長州という新しい権力者による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動でした。それまで千年以上の永きに亘って「神仏習合」というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきました。「王政復古」により、すべてを大和朝廷時代が本来のあるべき姿であると考え、日本の風土に溶け込んで進化してきた仏教は、宗教としても文化的価値としても徹底的に弾圧されました。興福寺だけで二千体以上の歴史を刻んできた仏像が、破壊されたり、焼かれたりしました。格式を誇った内山永久寺は、徹底的に破壊され尽くされ今やその痕跡さえ見られず、この世から抹殺されてしまいました。「廃仏毀釈」によって、聖林寺『十一面観音立像』にも匹敵する数多くの仏教美術の傑作だけでなく、日本美術の傑作が失われてしまったことを思うと、明治維新の「王政復古」の名の下に行われた日本史の一大汚点といえます。
「廃仏毀釈」という醜い仏教文化の殲滅運動の中で、激しく行われた寺院や仏像の破壊に警鐘を鳴らしたのが、日本美術の再評価に尽力したアメリカ人・美術研究家のフェノロサでした。そのフェノロサが保護を提唱した仏像が聖林寺の国宝『十一面観音立像』でした。フェノロサは、他の仏像の保護にも奔走しました。修復や保存の費用について政府の援助を願い出ました。フェノロサの紺強い努力の結果もあって、10年後 新しい法律が制定されました。仏像をはじめとする 優れた伝統美術は国の手で保護されることになりました。この法律から「国宝」という言葉が生まれました。
参考資料
和辻哲郎(著)『古寺巡礼』(岩波文庫)1979年
白洲 正子(著)『十一面観音巡礼』1992年
金子 啓明 (著) 『仏像のかたちと心-白鳳から天平へ』2012年
聖林寺『聖林寺 国宝十一面観音菩薩』2020年
小川 光三『十一面観音(魅惑の仏像)』1986年
日本文化の入り口マガジン 和樂web
原田 伊織『三流の維新 一流の江戸』2017年、ダイヤモンド社
三重テレビ『フェノロサが見た光 ~廃仏毀釈から仏教美術へ~』2020年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事を読んだ方は上のマークをクリックして下さい。
にほんブログ村
かくれ里 葛城のあたりと云う直感、伊勢神宮と大和を結ぶとか出雲大社まで結ぶという説もあるようです。古代人は生真面目で、何かに頼らねばならない気持ちも良く分かる気がします。
十一面観音菩薩の像の均整のとれた仏身には、初めて出会った瞬間から目を奪われます。天平の豊満な顔立ちや量感のある上半身、また両腕から台座に垂れる天衣の曲線の美しさには心奪われます。特に美しい表情を見せるのは指先です。ゆったりとおろした指先と、水瓶を持つ左手には感激します。
これほど美しい観音様ですが、かつては大神神社の神宮寺である大御輪寺で、秘仏として祀られていました。見る対象としてではなく、祈りの対象であったのでしょう。山をご神体としていた大神神社にいらした観音様は、もしかすると、自然をおさめる対象として造られたのかもしれません
宝相華唐草の光背は、華やかで見事なものであったと伝えられています。
聖林寺の国宝「十一面観音立像」の光背が西陣織で制作され、1日から約1カ月間、同寺で一般公開される。京都市上京区の西陣織企画・販売会社「京都企画会議」が手がけた。西陣織の技術を駆使し、500年たってもほとんど退色しないという。
光背は、仏の発する光を意味し、仏像や仏画の周囲に彫刻や絵で表現される。十一面観音立像には、ヒノキと乾漆で作られた光背でしたが、鎌倉時代にはすでに破損したとされ、わずかに残った部分が奈良国立博物館に寄託されていました。
新しい光背は、つづれ織りで、縦4メートル、横1・8メートル。天平文化の光背に見られる特徴に倣って文様と文様の間にゆとりを持たせ、伸びやかな曲線で、鮮やかな宝相華唐草や蓮の花などをあしい、髪の毛の10分の1ほどの細さの絹糸で、金や赤、青など13色を用いて作られました。
制作には、法隆寺や東大寺に保管されている奈良時代の仏像などを調査し、聖林寺の光背の「想定図」をつくった、仏像研究家の池田久美子さんが携わりました。図を元に彫刻での光背の復元も試みましたが、高額で寺の建物に負担をかける懸念から、西陣織の壁掛けで再現することにしました。日本の伝統の技と光背が違和感なく融和できたと高く評価されています。
十一面観音像は、慈悲の菩薩としても知られる観音を表しています。観音は人々を病気から守り、食糧と富を確保するのに役立つと信じられているんですね。像の主頭の上に置かれた11の頭にはさまざまな表現がありますが、最大のものは思いやりと静けさを放ちます。なぜ11の頭があるのかについては、いくつかの解釈があるそうです。たとえば、下の10は悟りへの道の段階を表し、上の10は成仏を表すという信念が含まれているそうです。
8世紀にまでさかのぼるこの像は、その穏やかな表情が親しみを感じます。絶妙なローブ、そして装身具など美しいですね。
私はイタリア人で、観音菩薩について以下のように勉強しました。
観音菩薩は、インドの名前が観音菩薩である「未来の仏」の中国語表現だそうです。
観音菩薩はすべての存在が自分で入ることができるまで「涅槃」への彼のエントリを遅らせることに決めたので、観音菩薩は思いやりの擬人化と見なされますすね。中国、日本、ベトナムでは、観音菩薩は非常に頻繁に女性で表されますなぜなら、子供たちの幸せに気を配る母親のように、彼はすべての存在が苦しみから逃れるのを助けたいのです。多くの場合、また、それはすべての方向にそしてすべての可能な方法で現れるこの懸念を象徴するために、いくつかの頭と非常に多くの腕で表されま。
観音菩薩はエネルギーの象徴または仏のような蓮の上に座ることができますが、要求に応じるために立ち上がる準備ができているため、通常は地面に足を置きます。または、彼は立っていて、しばしば花瓶を手に持って、すべての人間の傷に癒しの香油を注ぎます。
しかし、あなたのブログの写真を拝見して、観音菩薩をこのように美しく表現した、奈良時代の日本の芸術家に尊敬の気持ちを持ちました。
日本でこのような美しい観音菩薩が見られることを、心から感謝しています。
上野の国立博物館に見に行こうと思います。
ご紹介ありがとうございました。
おはようございます!
優美で美しい観音様ですね。
フェノロサも魅了したそのお姿はやはり一見の価値あり。
desire_sanさんは3度も観にいかれたとは・・・。
私は飛鳥時代作の法隆寺の百済観音がとても好きですが、
こちらの十一面観音様もとても美しいです。
美しいだけでなく、お顔は威厳に満ちていて、立派ですね。
指も美しい。
今から1300年も前にこんな素晴らしい仏像を作る芸術家がいたことに感服しました。
ご紹介をありがとうございました。
コメントありがとうございます。
いつも素敵な写真を見せていただき、ありがとうございます。
飛鳥時代作の法隆寺の百済観音は私も好きです。
美術的にみて、飛鳥時代の傑作と言えば、法隆寺の百済観音もそうですが、
中宮寺の弥勒菩薩(如意輪観音)が私も好きで、1時間以上見とれていました。
飛鳥時代は仏像は、法隆寺の金堂の仏妻たちで、素朴な美しさが魅力ですね。
聖林寺『十一面観音像』は、技術的に成熟していて洗練された完成度の高い
美ししさが魅力ですね。
三輪山とともに拝観なさった十一面観音像、展覧会場とはまた違った神秘的な美しさを見せてくれたことでしょう。
私も聖林寺まで足を運んで拝観しました。不便な所ですのに、よく三度もいらっしゃいましたね。私は美術史の演習で他の学生たちと一緒でした。
貴記事のお写真の中で、手指のクローズアップが印象的です。東大寺法華堂不空羂索観音像とおなじ乾漆による指先は、さらに洗練された反り返りを見せ、官能すら感じさせます。時代の爛熟が造形にも反映しているのでしょうね。
天平時代は、木心乾漆像の技術が開発されたので、仏像の表現力が格段に進んだようです。
東大寺法華堂不空羂索観音像、唐招提寺の廬舎那仏、千手観音など、スケールの大きい美しい仏像が素晴らしいですね。
この時代の仏像で特に好きなのが、東大寺戒壇院の四天王像で、何度も通いました。
十一面観音像は、好きな仏様がたくさんあります。ブログのオープニングは、私の好きな十一面観音像でアレンジしました。
ご覧になった仏様も、かなりあるのではないでしょうか。
この仏は、奈良で何度も見に行ったのですが、実はこの展覧会には未だ行っていません。
コロナ感染が終結しないと、電車も怖くて乗れませんので。
何度も見ている仏像が来たことが、せめてもの救いです。
もう一度間近で見てみたいのですが、コロナ前のように自由に見れないので、行くかどうかマ迷っています。
貴ブログも拝見しました、詳しくレポートされていて、驚きました。レイアウトも、とてもきれいですね。
廃仏毀釈は、明治政府が出した「神仏分離令」が一部の人々によって誤って(拡大)解釈され、結果的にあのような惨状になったのだと思います。
(なお仏さまですから、「見る」より「拝む」がふさわしいと思いました。)
これからも、よろしくお願いいたします。
大久保利通が殺されてからは、権力を握ったのは、文化や芸術の見識もなく、極端な欧化政策の被害は廃仏毀釈だけではありません。
安土城(滋賀県)以降、江戸時代までに数百基の天守が建てられたのでかず、徳川幕府の「一国一城令」と「武家諸法度」により大名の居城1城以外の城の破却と城の新築工事の禁止が定め、全国に3000ほどあった城が170ほどに激減し約95%を失いました。 明治維新の廃藩置県で、要塞として必要な城以外は「廃城」となり、存城と城も文化財として保存されるわけなく、軍用地確保のために建物や石垣や堀を壊したりの扱いでした。 廃城処分の約150城は学校用地として残ればまだマシ。
天守は無用の長物と判断され、超低価格で払い下げられてしまいました。存城処置となっても、その後結局払い下げられた天守も多く、現在国宝の松江城(島根県)天守は180円、世界遺産でもある姫路城(兵庫県)天守はなんと、23円50銭の値しかつかなかったそうです。
日本が真似しようとした西欧諸国ですが、フランス、ドイツ、イタリアなど西欧諸国ではこんなバカなことはありません。中世の街並みや絵画、彫刻などの芸術は、一五世紀以前の状態で保護され、常に補修されています。岩倉使節団をはじめも西欧に渡って明治維新の権力者となった人たちは、西洋の本質を何も学んでこなかったのです。
「廃仏毀釈」という日本文化の破壊活動は仏教施設への無差別、無分別な攻撃、破壊活動は、新しい権力者による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動でした。その中で、アメリカ人・美術研究家のフェノロサが保護を提唱し、生き残ったのが、 仏教美術の頂点と言える天平時代の最高傑作と言われる聖林寺の国宝『十一面観音立像』でした。聖林寺『十一面観音立像』救済の歴史は、仏像の比類なき魅力を理解していたアメリカ人フェノロサの甚大な努力によるものでした。