ブログトップ | ログイン

dezire_photo & art

desireart.exblog.jp

芸術と自然の美を巡る旅  

徳川幕府代将軍で、武家政治を終わらせた徳川慶喜の史実と真実

徳川慶喜

徳川幕府代将軍で、武家政治を終わらせた徳川慶喜の史実と真実_a0113718_08411207.jpg



徳川 慶喜は、江戸幕府第15代征夷大将軍で、かつ日本史上最後の征夷大将軍です。徳川慶喜という人物は、在任中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でした。慶喜は、本当に将軍になりたかったのか、なりたくなかったのか、徳川を残したかったのか、残したくなかったのか、優秀だけど複雑な、何を考えているかわからない、幕府を閉じるクールな性格から、歴史の流れと引き受けて身を引いたのか、など理解しがたい行動もあり、謎に満ちた人物と言えます。





複雑で描かれ方が難しい徳川 慶喜を演ずるのは難しい役だと思います。大河ドラマ『青天を衝け』で男性アイドルグループSMAP抜けて俳優に専業することになった草彅 剛さんが慶喜を演ずることに興味がありましたが、草彅 剛さんは、回を重ねるごとに深くて繊細な表情や溢れ出てくる気品とカリスマ性、人間の魅力、目の演技など期待以上に高い演技力を見せてくれました。『青天を衝け』前半の実質的主役と言え、物語が引っ張れるのは、その人物自体にカリスマ性と複雑な心の機微をうまく演じて、立ち姿、弓を射るシーンなど、一つ一つの動きが美しいです。草彅剛さんの演技を見ていると、聡明で教養豊かな知識人であると同時に偏屈で怜悧だったと歴史上言われている慶喜は、まさにこんな人間だったのだろうかと思わせるとところがあり、慶喜は草彅剛さんしか考えられないなというくらいにハマっていると草彅 剛さんの演技を絶賛されています。



実際の慶喜のどんな人物か、一橋慶喜~徳川慶喜の行動の史実から考察してみたいと思います。




将軍後見職として

慶応2720日、第14代将軍(徳川家茂)が大坂城で脚気衝心のために死去した。そのあと、一橋慶喜はひとまず徳川宗家の相続だけは了承し、その結果、将軍空位期が四か月以上続きましたが、家茂に代わって一橋慶喜が自ら長州へ出陣することを表明しました。この決意は、この段階での一橋慶喜喜の行動は、将軍の死を口実に長州征伐を中止し事態を収拾する方途は、幕府と朝廷のメンツが潰れるとの思いが慶喜にあったからだと考えられます。


朝議は混乱しましたが、孝明天皇がそれ支持したので、参内した慶喜に対して「節刀」が与えられず慶喜が近日中に京都を発して広島に出征することが決まりました。ところが、老中の板倉勝静から九州諸藩兵が対長州戦から離脱し、小笠原長行が小倉を去ったという情報を聞き、慶喜は出陣を突然中止する決断を表明しました。これは慶喜の「変説」問題と呼ばれました。朝幕の両方から批判が続出し、中でも会津藩と桑名藩を大混乱に陥れたことが大きな失策でした。桑名藩は渋々ながらも慶喜に従ったが、会津藩は藩主の抑えが利かず家臣団が慶喜の新方針に激昂したそうです。結局、元治元年の禁門の変のあとから続いてきた一会桑による京都支配が終焉し、一桑と会に分裂したのである。歴史の歴史書教科書に従うと、慶喜は文久2年(1862年)、島津久光らが勅命を楯に、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功しました。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行いました。文久3年(1863年)徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することとなり、慶喜はこれに先駆けて上洛し、将軍の名代として朝廷との交渉にあたりました。江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港をさせ、長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されたのち、公武合体派諸侯・幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛し、徳川家の主導権を譲らないために手段を選ばぬ交渉を行いました。




慶喜、指導力発揮

元治元年(1864年)慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任しまし。以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や鳥取藩主・池田慶徳、岡山藩主・池田茂政らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していきました。天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫しました。


18647月に起こった禁門の変において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結びました。禁門の変を機に、慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩らとの提携が本格化しました。長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せました。第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走しました。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜にわたる会議の末に遂に勅許を得ることに成功しましたが、―依然懸案事項として残されました。


慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫し、慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定を締結しました。



天狗党の乱と一橋慶喜

幕末の水戸藩士に武田耕雲斎(津田寛治)は、父が跡部家の主筋である甲斐武田の流れだったことから武田姓を名乗っていまました。藩主の徳川斉昭は自身の改革に反発した藩内の門閥派が幕府を中傷したことで、退任と謹慎を言い渡されて失脚し、連座する形で罪に問われた藤田東湖ら改革派(尊王攘夷派)の藩士の一人が耕雲斎した。


そして、門閥派はこの内紛の過程で、改革派の面々が学問を鼻にかけて天狗になっているという意味から彼らを「天狗党」と呼びました。天狗たちのリーダーだった藤田東湖(渡辺いっけい)が安政大地震(1855年)で亡くなると、耕雲斎は藩主の慶篤から信任されて執政となり、新たな指導者の一人となりました。


一方、天狗党は攘夷の風潮が高まるにつれ、天狗党の内部で過激派の勢いが増し、その脱藩浪人らが桜田門外で大老井伊直弼を殺害。 品川沖に停泊する長州藩の軍艦丙辰丸の船上で、尊攘派である彼らと秘かに盟約を結びました。激派は盟約に基づいて行動したが、文久三年(1863年)の政変で長州藩と尊攘派の公卿が失脚すると、様相が一変。その頃、天狗党で頭角を現した藤田東湖の四男である藤四郎はまだ、長州藩の尊攘派が京で健在な折、慶篤の供で上洛し、諸国の尊攘派藩士と交際し革命家を自負していました。そして、長州藩が政治の表舞台から去ったあと、尊攘派にとって希望の星となったのが水戸藩だった。翌元治元年三月、藤四郎は参謀格として水戸町奉行の田丸稲之衛門を首領に、亡き斉昭の位牌を奉じ、幕府に攘夷の決行を迫るために筑波山で挙兵、これが「天狗党の乱」の始まりとります。当時、攘夷派は横浜鎖港(開港場、横浜の閉鎖)を幕府に求め、天狗党同じ主張を取りました。


一方、将軍後継職の地位にあった一橋(徳川)慶喜は、幕政に何かと口出しする薩摩の島津久光ら諸侯を押さえるため、実現不可能であると知りながら、横浜鎖港を政治利用することを画策し、慶喜は、諸侯の反対を押し切り、鎖港の実現を支持しました。慶喜は斉昭の七男で、一橋家に養子に入った経緯もあり、天狗党の面々が横浜鎖港を主張する一橋慶喜に期待したのも無理ありませんでした。横浜鎖港を求める天狗党にとって、その政策を進めようとする慶喜は頼もしい同志に映ったのでしょう。


しかし、横浜鎖港はあくまで慶喜の政治の道具で、慶喜にすれば本気で鎖港を求める天狗党は自らの政治的な立場を悪くする存在でしかなく、幕府は天狗党の追討を決意します。幕府が天狗党追討の意思を固めると幕府の追討軍や諸藩の兵が加わり、その軍勢は数千を超えたが、元治元年七月に下妻で天狗党に敗れ、ました。水戸藩の支藩・宍戸藩主の松平頼徳が天狗党を鎮撫するために水戸に向かうと、江戸にいた耕雲斎も天狗党に合流。しかし、頼徳が市川らの奸計に嵌って幕府から切腹を命じられ、武田耕雲斎(津田寛治)らは窮地に追い込まれは慶喜を頼ろうとしました。


武田耕雲斎(津田寛治)らは京の一橋慶喜に会い、自分たちは烈公(斉昭)の遺志を継いで尊攘の大義を貫こうとした者であり、かつ奸計に嵌って幕府の罪を得た者と訴えようとしたのでした。しかし、慶喜は自ら追討の兵を率いて出兵。これを知った耕雲斎は敦賀に来て加賀藩に投降しました。その加賀藩は身柄を幕府の追討軍に預けられ、取り調べが行われることもないままに処分が下り処刑か流罪となりました。


耕雲斎は藩の執政として敏腕を振るいましたが、一橋慶喜に政治利用された結果、梯子を外される形で幕府の追討を受けて賊軍となり、最後は慶喜自身に追討され、水戸天狗党の首領として反逆者の烙印を押され斬首されまれした。この悲劇を生んだ元凶は一橋慶喜自身だったと考えられます。




参考資料

司馬遼太郎『最後の将軍 徳川慶喜』

鈴木 荘一()『幕末の天才 徳川慶喜の孤独平和な

「議会の時代」を目指した文治路線の挫折』2018

松尾 正人 ()『徳川慶喜―最後の将軍と明治維新』

家近 良樹 ()『徳川慶喜』(人物叢書) 2,014

童門冬二 ()『真説徳川慶喜』1997年、PHP研究所

跡部蛮() 「水戸天狗党の乱・武田耕雲斎処刑の裏に徳川慶喜」

加来耕三()『薩長同盟に逆転を許した徳川慶喜』PHP研究所

外川 淳(著)『歴史現場からわかる徳川慶喜の真』

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







このブログを見た方は、下記をクリックしてください。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村









by desire_san | 2011-01-19 12:15 | 日本の旅と文学・映画・ドラマ | Comments(8)
Commented by Shirosi_Kiita at 2021-06-21 12:38 x
家茂vs慶喜!!なかなか?評価が分れるキャラクターの?お二人ですよね?撃退中の長州に?味方である筈の薩摩に裏切られ?!その衝撃が原因とも見て取れる最期を遂げる家茂と?大政奉還後の鳥羽伏見の政変で大阪城から慌てて敵前逃亡した慶喜だけを比較したら?武士的には、最後まで決して逃げなかった家茂に軍配がアガリますが?家茂は途中で何度も将軍職を辞する行動を見せているので!判定がし辛い部分ですm(_ _)mしかしながら?最終的には家茂は逃げなかったので、軍配は家茂と言う事になるのですかね?その点、慶喜は新政府からの要請も固辞して悠々自適に暮らし?73歳まで生き延びて居るので武士的な観点で見れば?やはり慶喜の敗北となるのですかね?もし?あそこで家茂が亡くならずに?薩長同盟が成立しなかったら?の話は別問題だと思います。




Commented by Ici at 2021-06-21 17:48 x
比較対象にはなり得ない二人ではないかと思います。
家茂は脚気が原因で亡くなったとの事ですが最後は結局は政権を慶喜に丸投げした形になっています。将軍として若いが馬鹿では無かった感じがしますが岩倉西郷大久保の智謀に悉く対応対抗出来たのは家康以降の
将軍では慶喜のみと判断しています。慶喜は世の中の
大勢がもう幕府には無いと
達観して最も懸念していた朝敵となる事を避けて鳥羽伏見の闘い以降はキッパリと恭順し新しい世の中の到来を待ち受けたと言う事でしょう。
矢張り慶喜に軍配が上がるのでしょうか?
Commented by Wigezo at 2021-06-21 18:02 x
小栗上野介と榎本武明に軍艦とフランス製最新兵器をもったた幕府側の軍隊を指揮させたら、薩長連合軍は、勝てなかったと思います。皇女和宮は孝明天皇の妹ですので、彼女を前面に出して戦えば、それに対して賊軍扱いは出来なかったと思います。慶喜の欠点は、交渉の達人・勝海舟も含めて、優秀な幕臣を使いこなせなかったことにあると思います。この戦法で行けば、薩長は和解するしかなく、長州の藩閥政治⇒軍閥政治に向かってしまった日本の歴史は、全く違ったものになっていったと思います。



Commented by Rei_Aruga at 2021-06-21 19:06 x
家茂の尊王攘夷論ただ単に夷敵を打ち払おうというのではなく打ち払い方をちゃんと考えていたのだと思います。だからこそ軍艦操練所を積極的に作ったのだと思います。尊王攘夷をするからにはまずは日本も武力や国力をつけることが一番にやるべきことが大事と考えたのだと思います。その上で武力で尊王攘夷を行うのではなく、こうした武力や国力を背景にして外交で尊王攘夷を行おうとしたのではないかと考えました。これは私の個人的な見解ですが、具体的にと言われると困りますが、幕末関連の小説の中で書かれている家茂像を考えると争いごとを好まない穏やかで聡明な人物だったのではないかと思います。だからこそ政略結婚で嫁いできた和宮様が家茂を深く愛するようになったのだと思います。
本当に惜しむらくは家茂に慶喜の側にいた小栗上野介忠順や榎本武楊など外国のことを知悉していた幕僚がいれば彼らの意見をよく聞き、彼らの能力を十分に使いこなせたのだと思います。歴史にたらればは禁物ですが、そうなれば、日本も少しは変わっていたのかなと思います。





Commented by Fueki_tao at 2021-06-21 21:41 x
徳川家茂公は徳川家の将軍としてふさわしい器量を持っていたと思います。
やはり、家臣がこの人ならばと思う徳望がないと大所帯はまとまりません。


Commented by Sioyama at 2021-06-22 16:24 x
徳川慶喜の謎の行動・・・徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いで、味方を見捨てて江戸に帰り謹慎した。
考えられるその原因の一つは
徳川慶喜の母、吉子は有栖川宮織仁親王の娘にあたる。つまり、慶喜には徳川家と朝廷の両方の血が流れていたことになる。両者が対立したときに、どちらの意向を重視するか。否応なしに、狭間に立たされる立場にあったといってよいだろう。
 そんな事態を見越して、父の徳川斉昭は慶喜にこう伝えていたと、慶喜自身が『昔夢会筆記』で振り返っている。
「たとえこれから幕府に背くことがあっても、絶対に朝廷に背いてはならない」

あの当時の幕府の軍事力は親藩含め陸軍・海軍は温存しており、薩摩・長州など比べるもなく、楽に勝てる戦争だったのです。





Commented by dezire-san at 2021-06-22 17:32 x
徳川家には是枝の将軍の皇女和宮がおり、賊軍呼ばわりされることがおかしいのです。

しかも、孔明天皇の後は、幼少の天皇で朝廷画家たちを成していないのに、「たとえこれから幕府に背くことがあっても、絶対に朝廷に背いてはならない」と、家臣や会津藩を放り出して逃げ出すこと自体、馬鹿げています。
こんなこそ、交渉の達人、勝海舟に頼るべきだったのでは、と思いますね。


Commented by rollingwest at 2021-07-12 06:32 x
篤姫の頃からこの時代に興味が深まりだいぶ頭の中が整理されました。渋沢栄一の生きざまは30年前から大好きでしたが「晴天を衝け」でさらに知識が蓄積されています。錚々たる登場人物のこれからの活躍が楽しみですね!家持は結構骨太だったのですね。家持が大阪での若くしての突然死は実は暗殺だったのではないでしょうか?考明天皇も暗殺説がありますね。







by desire_san