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若くして散った栄光なき俊才・徳川家14代将軍・家茂

14代将軍徳川家茂

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徳川家茂は、弘化3(1846)紀州藩11代藩主・徳川斉順の次男に生まれました。しかし家茂が生まれた時、父親はすでに他界しており、さらに嘉永2(1849)12代藩主を継いだ叔父・斉彊も死去したため、僅か4歳で紀州藩主の家督を継ぎまました。





 安政5(1858)13代将軍家定の継嗣問題で、家茂を推す井伊直弼ら南紀派が、一橋慶喜を推す水戸斉昭、島津斉彬ら一橋派に勝利し、さらに将軍家定も病没したため、家定の正室・篤姫(天璋院)は義理の母として、徳川家茂は13歳で将軍となりました。



皇女和宮と結婚し文久2(1862)17歳の家茂は、公武合体策の一環として孝明天皇の妹宮・和宮と結婚しました。東海道を避けて、中山道を通って江戸に向かっています。12の藩が和宮の御輿(おこし)を護衛し、29の藩が沿道の警護にあたっており、和宮の御輿入れでは、万を超える人馬・調度の大行列となったのです。当初は将軍に嫁ぐことを嘆いた和宮でしたが、家茂の聡明さと心優しさに打たれて、次第に仲睦まじくなります。



文久3(1863)、徳川家茂は将軍としては229年ぶりに上洛して、和宮の兄・孝明天皇に拝謁し攘夷を約束し、攘夷祈願のための賀茂社行幸にも馬上で供をして、将軍が朝廷の下に位置することを世間に印象づけました。孝明天皇は妹婿の誠実さを喜び、信頼を深めていくことになります。



攘夷実行の準備として幕府軍艦順動丸に乗り大坂湾を視察した折、順動丸を指揮する勝海舟から軍艦の説明を受け、重要性をたちどころに理解し、さらに勝の軍艦操練所設立の願いを許可しました。この徳川家茂の英断から神戸海軍操練所が生まれ、坂本龍馬や伊東祐亨らが学び、日本海軍の母体となるのです。さらに徳川家茂は、後に上洛に海路を用い、海が荒れて家臣らが陸路を勧めても「海上のことは軍艦奉行に任せよ」と断言し、その感激は勝海舟に生涯徳川家茂への忠誠心を抱かせることになりました。



1860年、幕府は前年に結ばれた「日米修好通商条約」の批准書の交換のため、アメリカに使節団を派遣することを決めます。小栗上野介は、使節団の実質的なリーダーとなる目付役に任じられ、日本の代表として初めてアメリカへ渡りました。小栗上野介はアメリカで大きな衝撃を受けます。それはワシントン海軍造船所を見学した時のこと。そこでは船だけでなく、歯車やシャフト、それらを止めるネジまでもそこで作っていたのです。小栗上野介は帰国後、造船所の建設を訴えました。1865年、将軍・徳川家茂は小栗上野介の案を容れ造船所の建設を許可。横須賀の地に造船所が完成します。そこには、小栗上野介がアメリカで見た光景がそのまま生かされたかたちとなりました。



朝廷による鎖国攘夷の圧力が高まる一方で、外圧も強くなります。1865年(慶応元年)9月には、イギリスやフランス、アメリカ、オランダの4国連合艦隊が大坂湾に来航。条約の勅許や兵庫港の早期開港、関税率改正などを要求。老中達は、兵庫港の開港について急いで回答しようとしましたが、一橋慶喜に止められます。何の相談もせずに決定しようとした老中に対して、朝廷から官位の剥奪と国許での謹慎を命じられました。



徳川家茂は、13歳で将軍になってから、江戸城内で本当に家茂を補佐したり、相談相手になる老中などの幕府の重臣がいなかったようで、孤軍奮闘していて悩みながら将軍職を務めていたと考えられます。



江戸幕府の人事にまで介入してきた朝廷に対して、徳川家茂は決然とした態度を取ります。大坂にいた徳川家茂は、将軍職の辞意を朝廷に上申。直ぐさま江戸に帰ろうとしました。慌てた孝明天皇は、徳川家茂の辞意を却下し、条約の勅許も下します。このとき20歳であった徳川家茂でしたが、朝廷の言いなりにならず、将軍としての意地を見せたのでした。



しかし、時代の荒波は徳川家茂を江戸城内から外に引きずり出します。慶応元年(1865)、第二次長州征伐を指揮するため3度目の上洛を果たしますが、心労が重なり、金の馬印を掲げ、大軍を率いて上洛した第2次長州征伐の途上、徳川家茂は大坂城で病に倒れました。翌慶応2年、ついに和宮の待つ江戸に帰ることなく、大坂城内で脚気のために亡くなりました。享年21歳でした。



徳川家茂は和宮への土産として西陣織を用意していましたが、自ら手渡すことは叶わず、家茂の形見として西陣織を受け取った和宮は「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も君ありてこそ」と悲しみを詠んでいます。




徳川慶喜と徳川家茂の違い

徳川家茂がもう少し生きながらえていたら、幕末の行方もまた変わっていたかもしれない。そう思わせるような多くの人々から慕われた将軍でした。徳川徳川家茂の英断から軍艦操練所設立の願いをその場で許可され神戸海軍操練所が生まれ、坂本龍馬や伊東祐亨らが学び、日本海軍の母体となりました。さらに徳川家茂は後に上洛に海路を用い、海が荒れて家臣らが陸路を勧めても「海上のことは軍艦奉行に任せよ」と断言したのに感激した勝海舟に生涯、徳川家茂に忠誠心を抱いていました。がもう少し長く生きていたら、幕末の行方もまた変わっていたかもしれません。



徳川慶喜も徳川家茂も聡明がゆえに期待された点では同じですがが、徳川家茂は慶喜のような、つかみどころのない複雑さはありませんでした。血筋の良さもあり、家茂には年齢にそぐわない安心感があったようです。幕臣たちも家茂への忠義の心は熱く、勝海舟にいたっては絶対の信服を寄せていたといいます。



徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから期待を一身に背負って育ちました。若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、「文久の改革」と呼ばれる幕政改革に着手し徐々に政権の中枢に据えられていきました。開国論を心に秘めていた慶喜は、攘夷など非現実的だと思いながらも、京に上った慶喜を待っていたのは激しい攘夷の催促でした。慶喜はうるさい尊王攘夷派の公卿たちや尊王志士たちの圧力に耐え切れず、攘夷の期限を約束してしまいました。しかし、第15代将軍となった徳川慶喜は朝廷と幕府、そして薩摩や長州といった有力藩の思惑が複雑に絡み合う状況の中で、優柔不断と思われるほど目まぐるしく立場や戦略を変えました。しかし水戸藩第2代藩主・徳川光圀の教育方針を踏襲した徳川斉昭譲りの強い尊王思想で、孝明天皇を尊びながら、公卿たちと薩摩、長州など諸藩と関係に奔走し、良くも悪くも存在感を持っていました。しかし、自分が優秀だという意思化からか、他人の意見を聞かず、行動は独断専行したる、優秀な幕臣が多数いたにもかかわらず彼らの意見を聞いて方針を決めた記録はなく、優秀な幕臣の存在すら知らなかった可能性があります。



幕臣には、小栗上野介、勝海舟、榎本武揚、福沢諭吉、岩瀬忠震、川路聖謨、竹内保徳、栗本鋤雲、木村勝教、小野友五郎など優秀な人材をいました。しかし徳川慶喜は、彼らの意見を尊重しブレーンとすることはなく、過去の成功体験から、目指すのは自分が中心となった「創業」という思いを捨ませんでした。それに対して、徳川家茂は家臣の意見をよく聴いて尊重したため、徳川家茂幕臣たち忠義の心は熱く、勝海舟にいたっては絶対の信服を寄せていました。



勝海舟は、幕末の混乱期に勝海舟は持ち前の変わった能力と若い頃から剣や全で鍛え上げた精神力で軍艦奉行などの要職に就き時代の要請もあり幕府崩壊時には徳川軍の最高責任者となり新政府軍と交渉する立場にまでなりました。勝海舟と一橋慶喜が最初に出会うのは元治元年1864年頃、勝海舟は軍艦奉行並、徳川慶喜はまだ一橋慶喜で将軍後見職でした。



その年には池田屋事件や禁門の変が起こり京の町が不穏な状況の時でした。長州との人的関係を持つ勝海舟は当然敵である長州との交渉役となりました。長州との交渉能力を発揮した勝海舟に一橋慶喜は疑念を抱きます。二人の屈折した関係が始まり、勝海舟が主導した神戸海軍操練所も廃止になり免職となりました。



長州征伐で幕府の戦況が不利となると再び勝海舟は軍艦奉行となり再度長州との交渉役を命じられ、交渉能力を発揮すると徳川宗家を相続した徳川慶喜は、また疑念を抱き、今度はせっかくまとめてきた和解案を反故にしました。はしごを外された勝海舟は江戸に戻りました。この頃からか、西郷隆盛は、軍艦奉行の勝海舟と出会った時、豪胆な勝海舟は幕府の内情を西郷に話しています。幕府の内情は想像以上にひどいことを知った政治的な勘が働く西郷は、幕府への見切りを考え始めました。



小栗上野介は、徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され斬首。明治政府中心の歴史観が薄まると小栗上野介の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から、幕府側から近代化政策を行った人として評価され、司馬遼太郎は小栗上野介を「明治の父」と書いています。



榎本武揚は、1861年(文久元年)幕府の命ではオランダに留学。プロイセン・オーストリア軍の戦線を見学、デンマークに渡り、フランスが幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受けフランス海軍と交渉したほか、イギリスを旅で造船所や機械工場、鉱山などを視察しました。1866年(慶応2年)竣工した開陽丸オランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ・アンボイナを経由して、1867年(慶応3年)横浜港に帰着しました。1867年末には幕府艦隊を率いて大坂湾へ移動しており、京都での軍議にも参加していた[34]。翌1868年(慶応4年)12日、大坂湾から鹿児島へ向かっていた薩摩藩の平運丸を攻撃し、兵庫港から出港した薩摩藩の春日丸ほかを追撃、阿波沖海戦で勝利しました。鳥羽・伏見の戦いでの旧幕府軍敗北を受けて、榎本武揚は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに幕府陸軍と連絡を取った後、17日に大坂城へ入城しました。しかし徳川慶喜は既に6日夜に大坂城を脱出しており、榎本武揚が乗ってきた開陽丸に座乗して江戸へ引き揚げていました。徳川慶喜に謁見できなかた榎本武揚は。徹底抗戦を主張しましたが、恭順姿勢の慶喜は聞く耳を持ちませんでした。



慶喜は、優秀な幕臣の進言に耳を貸さず、独断専行で、孝明天皇の意を重視の政策をしていきました。しかし、信頼関係にあった孝明天皇が慶応2年突然崩御しました。孝明天皇の庇護を失った慶喜は、「大政奉還」など奇策を講じました。しかし、この政治的野望は、三条実美や岩倉具視ら倒幕派のかついだ幼い明治天皇に奪われ、徳川慶喜の徳川幕府は瓦解していきました。



皇女和宮を妻とした徳川家茂が将軍だったら、「大政奉還」などはあり得ないですし、薩長も徳川幕府に対して賊軍扱いして闘うこともできなかったでしょう。

勝海舟は「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれぬ。武勇にも優れていた人物であった」と賞賛し、訃報に接した際は悲嘆のあまり、日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記したほどでした。晩年は家茂の名を聞いただけで、激動の時代に重責を背負わされた家茂の生涯に「お気の毒の人なりし」と言って目に涙を浮かべたという。勝海舟は日記に「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」と記しています。




参考資料

大石学()『徳川歴代将軍事典』2013(吉川弘文館)

明治維新史学会編 ()『幕末維新の政治と人物』2016

家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)

家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)

松浦玲『徳川慶喜将軍家の明治維新増補版』(中公新書)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





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by desire_san | 2011-01-15 04:10 | 日本の旅と文学・映画・ドラマ | Comments(6)
Commented by Wigh_Si0ta at 2021-06-28 15:38 x
優秀だった方がその才を発揮することなく無くなってしまったのが、この時代だった様です。今にしてみれば勿体ない時の様です。


Commented by High_Suziyama at 2021-06-28 15:39 x
家茂は紀州藩主時代から君主として “純粋培養” されてきて、部下の意見をしっかり聞く人だったのですね。
それに対して慶喜は、まず父親の徳川斉昭が強烈に熱量のある人で、その父親を慕った藩士たちが父親の逝去と同時に暴走するのを見てきて、一橋家当主として京都で政局を任されても、四賢候と一緒に政治を推し進めることが出来ず、部下とくに重臣(幕府内では老中クラスや雄藩の大名)を信用出来なかったのではと思います。
その一方で、身の回りを世話する身近な側近には、平岡円四郎など仕事が出来る人物が揃っていて、朝廷や雄藩の大物と対峙しても全然臆することなく「何とか自分自身で出来る」と思ってしまうところがあったのではと思います。


Commented by Yasu_tanaka at 2021-06-28 15:42 x
家茂はその慶喜が自分自身に形成した人間不信も自己過信もみんな持ち合わせず、純粋に名君と慕って良い人物だったのでしょうね。

慶喜の「自分一人で何とか出来る」過信に繋がってしまったのかも知れませんね。 

渋沢篤太夫が一橋家で兵士を集め財政基盤を築いたことも、渋沢篤太夫の能力を評価すべきなのですが、渋沢篤太夫が一橋家で兵士を集め財政基盤を築いたことも、渋沢篤太夫の能力を評価すべきなのですが、





Commented by Ipei_Sugiyama at 2021-06-30 17:25 x
家茂は紀州藩主時代から君主として “純粋培養” されてきて、部下の意見をしっかり聞く人だったのですね。
それに対して慶喜は、まず父親の徳川斉昭が強烈に熱量のある人で、その父親を慕った藩士たちが父親の逝去と同時に暴走するのを見てきて、一橋家当主として京都で政局を任されても、四賢候と一緒に政治を推し進めることが出来ず、部下とくに重臣(幕府内では老中クラスや雄藩の大名)を信用出来なかったのではと思います。
その一方で、身の回りを世話する身近な側近には、平岡円四郎など仕事が出来る人物が揃っていて、朝廷や雄藩の大物と対峙しても全然臆することなく「何とか自分自身で出来る」と思ってしまうところがあったのではと思います。
家茂はその慶喜が自分自身に形成した人間不信も自己過信もみんな持ち合わせず、純粋に名君と慕って良い人物だったのでしょうね。


Commented by Seisiro_Kawakami at 2021-06-30 17:28 x
家茂は優秀だった方がその才を発揮することなく無くなってしまったのが、この時代だった様です。今にしてみれば勿体ない時の様です。

家茂も、慶喜も、この封建社会・幕藩体制の崩壊、近代国家成立という荒波に、のまれていってしまったのだと。そういう意味では、会津松平容守・尾張慶勝らの高須4兄弟も、一方は「朝敵」の汚名を着せられ、一方では「日和見」「裏切り者」とそしられてしまって…同情を禁じ得ません。
誰もが懸命に生きただけでしょうに、と思います。
一方からの視点だけでなく、複眼的な見方で歴史を見たいものです。




Commented by dezire-san at 2021-06-30 17:39 x
歴史に限らず、現代日本の世がどんな状態なのか、何が問題なのか、も一方からの視点でしか国民は知らされてていないように思います。日本の指導者は、江戸時代から、明治維新、太平洋戦争~敗戦後の今日に至るまで、一方からの視点だけで突き進んできたように感じます。歴史に複眼的な見方が原動力となった出来事があったでしょうか? 歴史だけでなく、複眼的な見方を避けようとする大きな力が、日本を支配しているのかも知れないとおもうのですが、いかがでしょうか。




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