ヴェルディの最高傑作オペラの革新性/ドミンゴ・クライバーの舞台体験
ヴェルディ『オテロ』
Opera by Giuseppe Verdi

1886年、ヴェルディの最後から二番目の作品『オテロ』を完成しました。オペラとしての1869年作曲した前作『アイーダ』から16年、ヴェルディの創作意欲は極端に衰え、『オテロ』の前に書いた大きな作品は 1974年に初演された『レクィエム』のみでした。ヴェルディは73歳になっており、同時代の巨匠ワーグナーは、すでに3年前の1883年に没していました。
彼の作品の交渉を主導したリブレット奏者で作曲家のアッリーゴ・ボーイトやジュリオ・リコルディのおかげで刺激を受け、ヴェルディのオペラ作品は新しい衝動を受けます。今まで受け継がれてきた伝統を打ち破り、新しい文学形式を発展させる芸術家のグループと生き続けることにしました。
ヴェルディは早くからシェイクスピアの文学に興味を示していました。シェイクスピアには、人間を冷徹に見据え、その内面を深く掘り下げていくリアルな視点 があり、それが彼の「生身の人間を描く」指向と一致していたのです。1846年から『マクベス』の構想を練っていました。出演者に「作曲家ではなく詩人に従うこと」と繰り返し指示し、音楽と演劇の融合を強く意識して『マクベス』制作に臨み妥協を許さぬ徹底ぶりを見せましたが、その時代は理解されなかったようです。その後は、この晩年の、『オテロ』まで作曲はしていません。ヴェルディはずっと『リア王』をオペラ化したいと考えていましたが実現しませんでした。ともあれ、書きたい作品を書きたい時に書いていい境遇になって、制作したのが『オテロ』『ファルスタッフ』と二つともシェイクスピアであるという事実には意味深いものがあります。
シェイクスピアの悲劇『オテロ』では「壊れていく英雄」が描かれています。『オテロ』では嫉妬により、針の穴ほどの亀裂がだんだん広がっていって、最後には取り返しの付かない事態に発展していきます。そうした破滅を導き出す役割を担うのは『オテロ』ではイアーゴですが、これはいわゆる自分の内面の声とも解釈できます。その意味で『オテロ』は内面の劇、あるいは心理劇としての性格を持っています。
『オテロ』はヴェルディにとっての大きな革命だったのです。 “革新”や“革命”とはバッティストーニが、たとえばベートーヴェンを称揚するときにもよく使う言葉です。ヴェルディは『アイーダ』で旧来の作品を集大成したあと、長く新しいオペラを書きませんでした。『オテロ』を作曲する決心をしたのは、台本作家のアッリーゴ・ボーイト(1842-1918)と出逢ったからです。アッリーゴ・ボーイトは作曲家でもあって、ワーグナーの影響を受けて最先端の音楽を志し、苦味があるドイツ的な曲を書いた人です。アッリーゴ・ボーイトはヴェルディにすばらしい台本を与えると同時に、円熟したヴェルディをさらに先進的な音楽世界に導く役割を果たしたのです。その結果、物語と音楽が著しいまでに一致した傑作が生まれた。たとえば、ヤーゴが第2幕で『自分は神よりも悪魔を信じる』と、恐ろしい独白をしますが、これはシェイクスピアの原作にはなく、アッリーゴ・ボーイトの創作です。
オペラは、原作に忠実ではありません。シェイクスピアの原作とヴェルティのオペラの違いの分かりやすい説明を書き加えました。結果として創造されたヴェルディの音楽と音楽劇の偉大さです。大事なのは、ヴェルディが管弦楽法や作劇法を大きく前進させながら、『オテロ』をシェイクスピアの原作を上回るほどの作品に仕上げてしまったという事実です。登場人物たちは人間心理の本質をとても深く表現している。心理的にきわめて鋭敏に描かれた現代的なオペラなのです。
主に描かれているのは、人間の恐ろしさや暴力や名誉。第1幕に美しい二重唱がありますが、『ラ・ボエーム』のそれとは違って、そこに人間精神を読むことができます。悲劇的な感覚にくらべれば愛は二次的ですが、だからギリシャ悲劇のように、運命に翻弄される人間の小ささや愚かさ、人間心理の深奥がどこまでも格調高く描かれるのです。ヴェルディのオペラのなかで最も愛される理由がここにあります。
シェイクスピアの原作とオペラとの違い
シェイクスピアの原作とオペラとの対比してみました。オテロは「野蛮人」ではないその高貴な性格は原作でもオペラでも同じです。
デズデーモナは、原作とオペラではかなり違ようなきがしました。原作では、第1幕では自分から父親にオセロへの愛情をきちんと伝える自主性や、第2幕以降で可愛らしさがあり、快活なイメージもありました。オペラでは1幕で純粋な愛を歌ったあとは、むしろ過酷な運命をじっと耐える無垢な悲劇のヒロインで、受身的な女性にえがかれているようです。ヴェルディ自身の言葉によると「善良、忍従、犠牲の象徴」と評されて、確かにオペラではそういうイメージに変えられているようです。この方がイタリア人好みだったのかもしれません。
一方でタイトルロールのオテロの第 一声も素晴らしいのですが、それまでの不安に満ちた合唱が一変してオテロへの輝かしい賛美の叫びとなるのです。これは音楽にも明るいアッリーゴ・ボーイトのアイデアによるものでしょうか。エミリアは、オペラでは端役扱いですが、「忠実な侍女」ですが、原作では、もっと台詞が与えられ、デズデーモナの落としたハンカチをヤーゴに渡し黙っているのは少し不思議ですが、それは、夫ヤーゴへの遠慮なのか、デズデーモナへの嫉妬もあるか、とにかく一般庶民的女性的認核が与えられています。
オペラ4幕の「柳の歌」が最初歌われるのですが、原作の第4幕第3場では、そのあとデズデーモナが、「女の中には夫をだます人もいるらしいが、世界をあげるといわれたらお前はどうする」とエミリアに聴く対話の場面があります。この回答がとてもエミリアの現実主義的な面を示していいます。ここがオペラではカットされてしまってしますが、音楽として聴くときは、その場面を活かすよりも、「アヴェ・マリア」で心洗われるように続く方良いと判断したのかもしれません。
この複雑な人種に対する態度は、たとえば『オセロ』に反映されていました。「オセロの皮肉の1つは、主人公が黒人であるということですが、彼はトルコ人に対してキリスト教を擁護する将軍でもあります。」彼は本質的に同情的な性格ですが、オセロの肌の色は、オセロの少尉であるが、彼の前に誰かを昇進させるために上司を嫌っているイアーゴの策略によって問題が起こります。イアーゴの陰謀が人々をオセロに逆らうように、後者の色、そしてイアーゴと彼の同盟国によって煽られる異人種間の恐怖は、オセロに不合理な行動や制御できない怒りを含む人種差別的な属性を受けています。オセロは黒人でした。この機能だけで、彼に対して彼らを扇動することができました。
過去にさかのぼると、人種差別は、エリザベス女王が「ヨーロッパ人を失業させている」という理由で黒人を投げ出したエリザベス朝時代に由来する古い用語です。従って、オセロが「ヴェネツィア社会で権威ある地位」を占めていたとしても、オセロはデズデーモナ結婚することによって、ヴェネツィアのコミュニティに自分自身を「適合」させようとしていた「アウトサイダー」であり「贅沢」と見なされていました。
ウィリアム・シェイクスピアは、エリザベス1世の時代に活躍した作家です。黒人は「湿原」、「ブラックムーア」、「厚い唇」と「古い黒い雄羊」、そして「野蛮な馬」と呼ばれていました。これらの形容詞はすべて、彼が置かれているエキゾチックな状況を反映しています。さらに説明すると、表面のイアーゴに限らず、ヴェネツィアの人々全体は、オセロは肌の色で判断するつもりでした。彼は黒人で、その結果、大きなペニスを持っているので、欲望の動物として描かれています。また、彼の黒い肌は彼が悪魔であることを彼らに明らかにしました。
オセロが黒人であるため、より高い地位を占めるのは不自然です。オセロはヴェネツィアの白い肌の人々と比較して不十分であると見られています。イアーゴは、深い現実ではヴェネツィア人ですが、オセロは黒人だからです。シェイクスピアの原文は、一歩を踏み出して、イアーゴの嫉妬はすべてのヴェネツィア人の嫉妬を描写しようとしました。
彼がなぜこんなにオテロを憎むのかの説明が、わざと曖昧にされ、読み手の解釈に任される部分があります。イアーゴがなぜそうしたかが説明され尽くしていないのです。シェイクスピアのあいまいな人物像とは異なり、ヴェルディはアッリーゴ・ボーイトの演劇的な要素のみならず、音楽的にも影響を受けています。例えばイアーゴは、アッリーゴ・ボーイトの解釈では非常に独特な人物像になっており、シェイクスピアのイアーゴでは、何故彼がオテロに策略を仕掛けたかという説明が尽くされていません。オペラのイアーゴは、2幕のクレードで歌われるように、「生まれながらにしての悪人」として描かれています。嵐の合唱の後、ロデリーゴに語っているように、戦場経験の少ないカッシオを先に出世させた恨みは描かれています。原作では、差別に対する一種の復讐としての行為と描かれています。妻のエアがオセロに寝取られたのではないかという信じがたい疑いに対する腹いせという動機も示されています。動機の点は原作とオペラで違いますが、オペラは分りやすくイアーゴの性格はオペラでもうまく描かれています。デリーゴを手玉に取るところ、オテロを巧みにだますところ、カッシオ相手に明るく陽気にふるまい、相手をかばうようにしながら貶めるところなど、このオペラが最初『イアーゴ』という題にするかヴェルディが悩んだほど、イアーゴは興味深い性格の人物と言えます。
アッリーゴ・ボーイトは自分がオペラを書いた経験から、イタリアのオペラの聴衆がこのような曖昧さ、受け手に任される解釈が好きでないことを知っていました。そのため、強烈な性格をヤーゴに与えたのです。彼の『メフィストーフェレ』の主人公は悪魔ですが、初演版より改訂版のほうが、やはり強烈なキャラクターになっています。そして『オテッロ』では、まるでメフィストーフェレのキャラクターをオテロに入れ込んでイアーゴにしたような感じになっているのです。
イアーゴは、まるでメフィストーフェレをそのまま『オテロ』に移植したかのようです。ただ、悪役としてのヤーゴが劇中でうまく機能するように描かれたのは、やはりヴェルディの天才があってのことです。そのことがはっきり分かるのが第2幕の冒頭です。イアーゴが自らの信条を述べる非常に有名な場面ですが、これはシェイクスピアにはない、アッリーゴ・ボーイトが創った内容です。オペラという虚構の世界から抜け出し、この内容を冷静に読んでみると、かなり馬鹿馬鹿しい内容です。第1幕のイアーゴはシェイクスピアの原作に則った、人々の間を揺れ動く分かりにくいキャラクターですが、第2幕になると突然舞台の真ん中で「俺は悪い人間なんだ、ワッハッハ」と歌い「生まれながらにしての悪人」として描かれています。『メフィストーフェレ』で既に現れていたアッリーゴ・ボーイトの悪役像に、ヴェルディの音楽の偉大さが迫真性を与えているのです。
第1幕のイアーゴは、シェイクスピアのキャラクターが生かされていて、人々の間を立ち回る人物ですが、第2幕のこの《クレード》になると、突然舞台の真ん中にでてきて、自分は悪い人間に生まれたと言って笑うわけですから。それを機能させたのはヴェルディです。彼は、イタリア・オペラのなかではこれがうまくいくとわかってやったのです。ヴェルディの天才、彼の音楽により、《クレード》はここまで説得力のあるものになったのです。この音楽を通じて、「悪」が真実であることが伝えられているのです。そして、何より、ヴェルディの天才があったからこそ、完璧にネガティヴな人物であるイアーゴがこのようにうまく作品のなかで機能したのだといえると思います。イアーゴという人物を描ききったのはヴェルディの天才のなせる技です。それがはっきりわかるのは第2幕の冒頭の、有名な《クレード》の場面です。この部分はシェイクスピアにはなく、アッリーゴ・ボーイトが創作しました。
このようにシェイクスピア『オテロ』では。色々な登場人物各人の人間ドラマを多面的に表現していて、演劇として深みのある作品になっています。しかし、オペラでは、音楽が主役ですので、たくさんの登場人物のドラマを描くことは、音楽としても散漫でまとまりのないものになってしまうリスクがあり、音楽づくりが格段に難しくなってしまいます。とこで、ヴェルディの『オテロ』では、過酷な運命をじっと耐える無垢なヒロイン・デズデーモナを強く愛し独占したいがゆえに殺してしまう、高貴な性格の英雄オテロの弱さ、脆さを中心のテーマと据えています。このように複雑なシェイクスピアの台本を単純化することは、オペラとして成功させるために必要だったとヴェルディは考えたのだと思います。しかし人間の心理の分析という点では、『マクベス』より大きな進歩をとげており、より人間の深いところが描かれており、20世紀オペラの演劇的表現を先取りしています。
『オテロ』の原作はシェイクスピアの4大悲劇のひとつで、破滅していく英雄の物語です。旗手イアーゴの讒言により、貞節で純真無垢な妻デズネーモナニが部下のカッシオに不貞を働いているのでないかと疑いをもち、1枚のハンカチから嫉妬に狂い、ついにデズネーモナニを絞め殺してしまい、その後事実を知り自分も自殺してしまうという話です。
この悲劇に対してオテロにもデズデーモナにも悪意はない、原因は相手を恋しく思う者なら誰でも持っている「嫉妬」です。嫉妬を感じたのは、愛する者の心はすべて愛情が自分に注がれていないと感じたからです。オテロは、幾多の試練を実力で乗り越え、自他共に誇り高き英雄という評価をしていますが、オテロ自分がムーア人というコンプレックスがありました。貴族の娘で美しいデデズデーモナは、ムーア人である自分の黒い肌を、ずっと愛し続けてくれるだろうか?
男は社会的地位を求め、尊敬される存在でありたいと思う、尊敬=愛ではないので、両方を必要としますが、尊敬されるということでは自信を持っている、オテロも男の性的魅力において自信がない、若く美しい白人男性が妻に接近してくくると心中穏やかではなくなります。いつか自分を超える者が現れることを恐れ、もし妻が自分から離れるようなことになれば、愛を失うばかりか、相手が家臣のカッシオであればプライドまで失墜します。『オテロ』はひとりの英雄が、不安の心の葛藤に負けて自滅していくドラマです。
猜疑心が強いオテロは、イアーゴの策にはまり追い詰められていきます。オテロは、イアーゴの讒言は受け入れ、愛するデズデーモナの言うことには耳を貸しません。イアーゴよりもデズデーモナを信用するのが当然なのに、デズデーモナへの愛が強ければ強いほど、反対の作用が働いてしまいます。恋と嫉妬はコインの裏表にあり、嫉妬はコンプレックスから生ます。シェイクスピアがこの愛の心理をドラマにしたのが『オテロ』です。
シェイクスピアの原作台本との関係
アッリーゴ・ボーイトは、有名なロッシーニの『オテロ』のあとで、新しい『オテロ』が作曲できたら素晴らしいと語ったそうです。リコルディは、ヴェルディがシェイクスピアを愛していることをよく知っていましたので、いい台本があればヴェルディは『オテッロ』を書きたいかもしれないと答えたのです。その後たった3日間でアッリーゴ・ボーイトは『オテロ』の台本の大半を書き、リコルディに頼んでヴェルディに送りました。
ヴェルディは才能を見る目がありましたので、アッリーゴ・ボーイトの才能も見抜きました。ただ彼は、自作の台本作者については厳しかった。これまでも、台本の内容にいつも積極的に介入し、内容を変えるために台本作家と頻繁にやりとりしてドラマの内容を変えたりしましたし、オペラの台本が踏んでいる韻に関しても介入していたのです。
リコルディは、まず2人のコラボレーションがうまくいくかどうか、仕事相手として互いにうまくいくかどうかやってみようと考えました。そうして生まれたのが『シモン・ボッカネグラ』の現行版です。初演版はほとんど上演されず、こちらが上演されます。アッリーゴ・ボーイトは初演版でピアーヴェが書いた台本を改作し、興味深くエモーショナルな作品を作りました。『シモン・ボッカネグラ』のなかで一番感動的な場面は議会の場面で、とくにパオロが自分を呪うシーンは圧巻ですが、ここは完全にアッリーゴ・ボーイトが作った場面です。結果的に、『シモン・ボッカネグラ』の改訂版はスカラ座で大成功を収めました。ヴェルディは満足し、次の仕事をしよう、彼らの間でチョコレート計画と呼ばれていた『オテロ』の作曲をしようと考えます。この仕事のために2人の間で交わされたおびただしい往復書簡が残されていますが、それを見ると、アッリーゴ・ボーイトの役に対する解釈がいかに強烈か、いかにそれがヴェルディに影響を与えたかがよくわかります。
実は改訂版の『シモン・ボッカネグラ』が成功を収めたその数ヶ月後に、アッリーゴ・ボーイトの『メフィストーフェレ』の改訂版が同じスカラ座で上演され、成功を収めました。ヴェルディは演劇的には、台本の劇的な部分に、また音楽的にも、アッリーゴ・ボーイトに大きな影響を受けています。
『アイーダ』はヴェルディの最後の傑作に相応しい多くの要素を兼ね備えています。祝祭的で大規模な作品であり、その一方で人間の内面的な感情表現がなされているという、ヴェルディの二つの特徴をはっきりと持っています。大規模な合唱による豪華な場面がある一方、繊細な二重唱で人物の心情を表すわけです。また音楽的に『アイーダ』は非常に成熟した内容を持っており、有名な中期の三部作―『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』―と比べても、それは言えると思います。管弦楽の用法が非常に多彩で、例えば第3幕始めのナイル河畔の雰囲気を出すヴァイオリンやフルートの用い方、大人数が登場する場面での色彩的な輝かしさなどがあります。
たとえば『オテロ』におけるイアーゴの造形は非常に独特です。パーソナルな解釈を付け加えていて、シェイクスピアの原作とはかなり違う。シェイクスピアのヤーゴはもっと曖昧です。彼がなぜこんなにオテロを憎むのかの説明が、わざと曖昧にされ、読み手の解釈に任される部分がある。イアーゴがなぜそうしたかが説明され尽くしていないのです。
アッリーゴ・ボーイトは自分がオペラを書いた経験から、イタリアのオペラの聴衆がこのような曖昧さ、受け手に任される解釈が好きでないことを知っていました。そのため、強烈な性格をヤーゴに与えたのです。先にも書きましたように、『メフィストーフェレ』の主人公は悪魔ですが、初演版より改訂版のほうが、やはり強烈なキャラクターになっています。そして『オテロ』では、まるでメフィストーフェレのキャラクターをオテロに入れ込んでイアーゴにしたような感じになっているのです。それができたのは、ヴェルディの天才があったからです。完璧にネガティヴな人物であるイアーゴがこのようにうまく作品のなかで機能したのだといえると思います。イアーゴという人物を描ききったのはヴェルディの天才のなせる技です。
第1幕のイアーゴは、シェイクスピアのキャラクターが生かされていて、人々の間を立ち回る人物ですが、第2幕のこの《クレード》になると、突然舞台の真ん中にでてきて、自分は悪い人間に生まれたと言って笑うわけですから。それを機能させたのはヴェルディです。彼は、イタリア・オペラのなかではこれがうまくいくとわかってやったのです。ヴェルディの天才、彼の音楽により、《クレード》はここまで説得力のあるものになったのです。この音楽を通じて、「悪」が真実であることが伝えられているのです。
ヴェルディ『オテロ』の音楽的魅力
ヴェルディ『オテロ』はきわめて重要な作品です。ヴェルディのオペラ作曲家としてのキャリアの中でも非常に重要なポイントで書かれたからです。ヴェルディは非常に長生きでしたが、最後から2つ目の作品が『オテロ』になります。音楽的に言いますと、この『オテロ』はヴェルディのオペラが到達した頂点をなす作品です。ヴェルディは音楽家としての天才性をいかんなく発揮した人ですが、この作品では音楽家としてだけではなく、劇場、舞台芸術を知り尽くした人間としての完成度の高さを示しています。大きな調和、ハーモニーが生まれてきているのを日々感じます。
ヴェルディは若いころからオペラを書き、イタリア・オペラのシーンを牽引してきた存在です。最後の作品『ファルスタッフ』は喜劇なので他の作品とは一線を画していますが、その1つ前、この『オテロ』という作品で自らの歴史の1シーンを閉じ、新たなる幕開けを標したのではないかと思います。それが後にプッチーニらにより、リアリズムとして引き継がれたのです。
ヴェルディは人生の晩年にして初めて最高のパートナーである台本作家アッリーゴ・ボーイトに出会ったということです。ヴェルディは長いキャリアの中で数々の台本作者と共同作業を行っていますが、アッリーゴ・ボーイト以前の台本作者は華やかで装飾的なレトリックに終始してあまり効果を為さなかったという過去があります。そのヴェルディが『オテロ』で初めて素晴らしい言葉で書かれた作品に出会いました。そこに音楽を乗せることでヴェルディは真のヴェルディ足り得たのではないかと思います。アッリーゴ・ボーイトが台本を書いてヴェルディにささげた『オテロ』は、かなり完成度の高い、演劇性の大変高い作品になっています。ですので、舞台の演出家としては、この『オテロ』の演出に、『マクベス』のような演劇の古典の演出とまったく同じ気概を持って臨んでいます。
ヴェルディの『オテロ』はそれだけで十分完成した一つの作品になっています。ヴェルディの『オテロ』にはイアーゴの信条告白というシーンが加わっています。自分は悪意の塊である、自分の本質は悪なのだという信条を独白するシーンですが、シェイクスピアにはこういったイアーゴの信条告白といったシーンはありません。まさにこれが象徴的で、この他にイアーゴがオテロを憎む理由づけとはいらないのではないか、つまりヴェルディの『オテロ』においては、イアーゴが悪意に満ちた行動に至った理由は特になく、彼の本質、「自然」がそうさせているのだという解釈ができます。そこも、ヴェルディの『オテロ』は独自であり完結した作品なのです。
第1幕よりオテロとデズデーモナの愛の二重唱「すでに夜は更けた」は、メロディーの美しさはヴェルディに限らずベッリーニなどすべて、イタリア・オペラの真骨頂をなす要素だと思います。次第にハーモニー、調和を大事にしていくと、何かを解決するときに素晴らしい天才的なハーモニーを見つけ出してくる。そういうことヴェルディの音楽性があります。たとえば第4幕では、デズデーモナの柳の歌からフィナーレに至るまで、素晴らしい、しかも現代的なハーモニーがあらわれ、ある種「トゥーランドット」のハーモニーがそこに込められているような気がします。これは非常に印象深く感じます。『オテロ』は1872年という時代に作曲されたのですが、あまりにも現代的な感性を表している作品で、ヴェルディは同時代の作曲家よりも30年は先に進んでいるという印象を受けました。
『オテロ』の官能的な愛の二重唱のシーンは物語の中で重要な意味をもっています。この二重唱がまさにこの後オテロとデズデーモナに起こる運命を象徴している、そんな場面だと思います。オテロとデズデーモナの愛というのがある種、特殊な愛情関係でして、彼らの愛情というのは、オテロの話をデズデーモナがしっかりと聴く、傾聴するという形で進行していくのですが、この愛は美しい、しかしその中にはどこかいびつな関係を秘めているようなところがあります。そしてこの二重唱の中にオテロのナルシズム、自己愛に固まってしまった性質というのが見え隠れします。このような自己愛がひいてはオテロの狂気、そして悲劇的な最期を誘発する要素なのですが、よく聴いているとなんとなくそれを感じ知れる二重唱でもあります。つまり、愛はそれ自体美しいものとして輝くのですが、その中にはすでに暗闇が隠れている、そんな場面です。
第2幕ではその後なぜかデズデーモナは何度もカッシオに関する進言をオテロに繰り返してオテロの疑心を煽りますが、それをどのように演出で見せてゆくのでしょうか―――
このオペラの第2幕では「幻覚」がキーワードとして挙げられます。シェイクスピアの作品では「夏の夜の夢」でも幻覚、魔法というのが大変多く出てきます。ヴェルディも見事にシェイクスピア的魔術というのを描きあらわしています。第2幕ではイアーゴがオテロに対し、妻のデズデーモナが副官のカッシオと通じていると言って惑わします。イアーゴが言葉によってオテロの心の弱い部分、傷口を広げるように魔法、魔術をかけていきます。第2幕のある場面をきっかけにして、あたかも絵に新しい筆致が加わったかのような感じで色調が変わります。そしてここからは幻覚がぐるぐると終わりなく取り巻き始めます。デズデーモナがオテロにカッシオの話ばかりしてくる、これは現実的に考えればおかしいことで、不条理的なのですが、魔術、幻覚に捕らわれてしまったオテロの目からみた現実なのでしょう。つまり、イアーゴの張り巡らせた「クモの巣」にとらえられたオテロには現実はこのように見えている。もしかしたら、シェイクスピアの作品でもそうなのですが、デズデーモナはカッシオ以外の話もしているのかもしれない。ですが、今や魔法に目を曇らされてしまった、「クモの巣」にとらえられてしまったオテロにはその部分しか偏執的に見えなくなっているのです。
プラシド・ドミンゴ
カルロス・クライバー/ミラノスカラ座の舞台体験
以前の話ですが、1981年のミラノスカラ座来日公演でもこのカルロス・クライバー/ゼッフィレッリの舞台を観ることが出来ました。日本公演のキャストはオテロ[プラシド・ドミンゴ]、ヤーゴ[シルヴァーノ・カローリ]、デズデーモナ[アンナ・トモワ・シントウ]でした。この「オテロ」は素晴らしいですね。まずオーケストラ演奏ですが、このオペラを得意としたクライバーの絶好調の演奏という感じがします。第1幕冒頭の嵐の場面から、雷光を描く木管の鮮烈な色合い、激風を描くヴァイオリンの切迫した感触、雷音を示すティンパニの豪打と迫力があり、ミラノスカラ座の濃厚なオーケストラの鳴り響きの妙味を心行くまで味わいました。カルロス・クライバー指揮のダイナミックなアンサンブル展開が各場面の情景をリアルに描き出していて魅了させられていきました。
第1幕最後のオテロとデズデーモナの二重唱を導入するチェロの音色の甘美な音楽も魅了されました。第2幕終盤や第3幕終盤など、オテロの感情が極限まで高まる場面でのアンサンブルの針力も実に壮絶でした。第4幕でオテロがデズデーモナ殺害のために寝室に入る場面では、チェロのソロ演奏は何ともいえない複妙な響きを奏でて、激しく心を揺さぶられました。デズデーモナ殺害の場面も心に強く残りました。オテロ役のドミンゴの歌唱は、言葉に書き尽くせないぐらい魅力的で最高でした。稀代のオテロ歌いと言われたドミンゴの声量は絶大にもかかわらず、心に焼き付くほど深みと情感のある歌に強く心惹かれました。
参考文献:
チャンパイ、アッティラ他(著) 海老沢敏 他(訳)「オテロ:ヴェルディ」音楽之友社1949年
三澤洋史「京都ヴェルディ協会講演会原稿 『オテロ』」
鈴木康子「ドミンゴと『オテロ』 …」NPO法人日本ヴェルディ協会会報第5号 (2002年)
シェイクスピア (著)菅 泰男 (訳) 「オセロウ」岩波文庫 1960
福尾 芳昭 「シェイクスピア劇のオペラを楽しもう」2004
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シェークスピア愛好家のご意見 М.Aさんのコメント
シェイクスピアがなぜ、黒人を主人公に選んだのか、そこのところが興味を呼ぶ。シェイクスピアの時代には、黒人はすでに奴隷貿易の対象であったから、観衆の意識の中では、差別的に見られていたに違いない。当時のロンドンには黒人の姿は殆ど見られなかったことからして、人々の差別意識は実体的な重さは伴ってはいなかっただろうが、それにしても悲劇の英雄として、白人の女性と深い恋に陥るというのは、思いがけない設定だったに違いない。
ムーア人と結婚したデスデモーナが、肌の色や慣習の違いに由来する葛藤に苦しみ、不幸な結末を迎えるというものだったらしい。人種的な要素を持ち込んではいるが、基本的には家庭内の悲劇を扱ったメロドラマだといってよい。
シェイクスピアはこれをただのメロドラマではなく、規模の大きな悲劇に仕立て上げた。ムーア人は傭兵隊長としてヴェニスの英雄となったオセロということにされ、そのオセロが狂気じみた嫉妬の感情にさいなまれる。その感情は理性では抑え込むことができぬほど強烈であり、オセロは自らの手で妻を縊り殺さねばならぬ羽目になる、それは当然、自分も生きてはおられぬことを意味している。こうした具合で、オセロが嫉妬に取りつかれるのは避けられぬ必然のように描かれ、観客はそこに運命の働きを見るように仕向けられる。
オセロは白人であってもよかったのではないか。そう思わせるほどだ。ところが、劇の終末で、オセロが妻のデスデモーナを殺す場面が展開されると、エミーリアがオセロを罵る場面が出てくるのだが、その時の罵りの言葉として、悪魔という言葉とともに黒人という言葉が出てくる。この言葉には、無実の妻を殺すような男は、悪魔や黒人の同類だという露骨な差別意識が込もっている。
オセロが、強烈な嫉妬に見舞われる。その挙句オセロはたった今結婚したばかりの妻デスデモーナを、残酷にも縊り殺してしまう。その場面をエミーリアに見られ、我に返ったオセロは、自分を深く責める。その自責の念は自分で自分を殺すことによってしか解決することができないのだ。
たったいまといったが、オセロという劇はわずか二日間に圧縮された時間の中で展開するのだ。この二日の間に、オセロはデスデモーナと結ばれ、彼女に対して疑念を抱き、それが強烈な嫉妬となってさいなまれた挙句、ベッドに横たわっていたデスデモーナの首を絞めるのだ。
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実はスカラのオテロも観ているのですが、この作品を充分理解出来ていないせいで、美しさは認めつつも何か違和感があって今ひとつ感情移入出来なかった、、、もう一度、この記事を考えながら聴きなおしてみようと思います。
ありがとうございました
シェークスピアが原作であることは、知っていましたがヴェルディがそこまで思い入れが有ったことは知りませんでしたし、性格描写についての考え方は興味深かったのです。
私の持っているレコードは来日公演でのドミンゴ、クライバーの盤ですが、フレー二が歌っています。持っているだけで、聴いた記憶が無い…(^^; じっくり聞いてみようと思っています
凄い熱気ですねー‼️
当時のスカラ座はこんなに熱かったんだ、と、びっくりしました。
ドミンゴも若い頃のストレートな歌はいい❣️フレーニ若い!声はミミから脱皮してますが綺麗で美しい❣️ そしてクライバーが凄い! 録音は良くなくてライブの雑音も多いのですが、その分段々とのめり込んでいくような緊張感はありました。しかしスカラ座のファンの中には気に入らなかった人達もいたんでしょうね、、、最終幕の始まりでヤジ?? と思われる声も飛んで、それを諌める声、励ましの拍手などでスタートが遅れる場面もそのまま録音されてました。
この雰囲気。味わいたくてDVDをポチしてしまいました♪
オペラは総合芸術であるとともに観客の反応も極めて大事、、アリアのひとつひとつに感激し、拍手して段々盛り上がっていくのはゾクゾクする楽しみです
早く生演奏でオペラを聞ける状態になってほしいと願っています。
ジュリオ・リコルディがスカラ座のオペラの初演では、さまざまなシーンで聴衆の拍手を忠実に記録した注釈が付けられています。スキルの断片は当然最も成功しています。最初の演奏の開始時の合唱、勝利したオセロの復帰を迎えたフオコ・ディ・ジオイア。イアーゴーの「乾杯」はライバルのカシオを酔わせることで、陰謀を織り始めます。第2幕の終わりに、デズデモナの裏切りの疑いに対して復讐するためのオセロとイアーゴの間の「誓い」の場面、第4幕のデズデモナによるアヴェ・マリア「ダ・カーポ」を生み出すの場面はすばらしかったです。
ヴェルディは、常にシェイクスピアの戯曲と密接な関係と密接な関係を持っていました。ボイトはジューリオ・リコルディのアイデアを採用し、ヴェルディは『オテロ』のプロジェクトに着手するよう説得され、音楽の普及のためのシェイクスピアの戯曲の重要性を有効性を表す例として貴重な作品となりました。ヴェルディの主題への熱意は本物であり、とりわけシェイクスピアへの愛情によって動機付けられています。ヴェルディは、元の英語のテキストを何度か参照しています。台本についてのボイトとの話し合いは、いくつかの文字で文書化されています。シェイクスピアのドラマツルギーは、ヴェルディが「真実を発明する」という概念が意味するものに対応していました。シェイクスピアの戯曲の登場人物の性格は、彼によれば「ありそうな」という意味で「真実」でした。したがって、「真実を真似る」ために、彼は「真実を発明する」という最も崇高な原則に反対しました。常にシェイクスピアの戯曲と密接な関係を持っていました。
「曖昧な人物像」と書いたのは、シェイクスピアが「オセロ」を書いた時代の歴史的状況が背景にあります。
シェイクスピア「オセロ」のイアーゴーの曖昧さは、主人公が最後に死ぬ悲劇で書かれています。
主人公はオセロ悲劇的な劇の英雄であると認識されています。しかし、いくつかの悲劇は、ある時点で、
別のキャラクターに光を当て、真のヒーローの状態について読者の心に混乱を引き起こします。
シェイクスピアの「オセロ」は、これらの悲劇の1つです。
実際に、シェイクスピアの「オセロ」で作られた時点で物議を醸しました。
オセロは黒人でした。この機能だけで、彼に対して彼らを扇動することができました。
過去にさかのぼると、人種差別は、エリザベス女王が「ヨーロッパ人を失業させている」という理由で
黒人を投げ出したエリザベス朝時代に由来する古い用語です。
従って、オセロが「ベネチア社会で権威ある地位」を占めていたとしても、オセロはデズデモナと結婚することによって
ベネチアのコミュニティに自分自身を「適合」させようとしていた「アウトサイダー」であり「贅沢」と見なされていました。
ウィリアム・シェイクスピアは、エリザベス1世の時代に活躍した作家です。
黒人は「湿原」、「ブラックムーア」、「厚い唇」と「古い黒い雄羊」、そして「野蛮な馬」と呼ばれていました。
これらの形容詞はすべて、彼が置かれているエキゾチックな状況を反映しています。
さらに説明すると、表面のイアーゴに限らず、ベネチアの人々全体は、オセロは肌の色で判断するつもりでした。
彼は黒人で、その結果、大きなペニスを持っているので、欲望の動物として描かれています。
また、彼の黒い肌は彼が悪魔であることを彼らに明らかにしました。
オセロが黒人であるため、より高い地位を占めるのは不自然です。
オセロはベネチアの白い肌の人々と比較して不十分であると見られています。
イアーゴは、深い現実ではベネチア人ですが、オセロは黒人だからです。
シェイクスピアの原文は、一歩を踏み出して、イアーゴの嫉妬はすべてのベネチア人の嫉妬を描写しようとしました。
翻訳本でそのあたりが伝わってくるかは、翻訳者によってかなり違ってくるようです。
ヴェネツィアの商人からのユダヤ人の金貸しであるシャイロックは、人種的アイデンティティが劇の中心的なテーマになる別のキャラクターです。「この場合は」とキッチは言いました。反ユダヤ主義の犠牲者にすぎません。」シャイロックのローンは、主人公の1人であるバサーニオが彼の愛の関心事であるポーシャを追求し、結婚に手を差し伸べることを可能にするために劇中で信頼されています。シャイロックは州内のエイリアンですが、州は富を供給し、貿易を促進するために彼のような人々に依存しているので、人種だけでなく、遊びは商業とセクシュアリティに関するものでもあります。劇中のすべての結婚であります。
また、シェイクスピアが人種の問題に対してそのような微妙なアプローチを伝える能力が、彼の英語に関する並外れた知識によってどのように助けられたかについても考えてみてください。シェイクスピアの語彙は約25,000語で、これはアメリカの平均的な英語話者の約10倍です。
シェイクスピアが生きた時代の制約の元にあるコールリッジの意見(偏見?)をそのまま受け入れることは、私たちにはもうできませんが、これはオセローの人種問題に光を当ててくれる点で、良い足がかりとなります。つまり、ヨーロッパ人にとっては長い間、ムーア黒人であるか大陸黒人であるかが、文化的に大きな違いを持っていたということです。
実際、イアーゴーや他の人物たちはしばしばオセローのことを「あの唇の分厚い野郎」とか「黒んぼオセロー」とか、ネグロイド黒人種に対する蔑称で呼びます。彼の人種と、ヴェニス社会での立ち位置は、どうも曖昧なのです。

