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芸術と自然の美を巡る旅  

新国立劇場「メリザンドの夢」美しい響きに融けあう音楽のファンタジー

ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』

Pelléas et Mélisande/Claude Achille Debussy


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『ペレアスとメリザンド』はフランス印象主義の作曲家ドビュッシーが、同時代のベルギーの象徴派詩人メーテルランクの戯曲を台本に使用した唯一のオペラです。フランス独自のオペラを目指したドビュッシーは、ライトモチーフの手法を取り入れる一方、独特の語法を用いてメーテルリンクの戯曲に描かれた光や水、霧や風といった自然の息吹を色彩感と陰影に富んだ音楽で表現し、フランス語の韻律と音楽を融合させて、登場人物の苦悩や感情の高まりを抑制したタッチで濃密に描き出した。閉鎖的な城の愛憎の日々が神秘的、象徴的に緊張感のうちに綴られ、幕切れでは浄化された静けさの中幕を閉じます。





Pelléaset Mélisande (Pelléas and Mélisande) is an opera in five acts with music byClaude Debussy. The French libretto was adapted from Maurice Maeterlinck'ssymbolist play of the same name. It premiered at the Salle Favart in Paris bythe Opéra-Comique on 30 April 1902; Jean Périer was Pelléas and Mary Garden wasMélisande, conducted by André Messager, who was instrumental in getting theOpéra-Comique to stage the work. The only opera Debussy ever completed, it isconsidered a landmark in 20th-century music.





第1幕】

時代がはっきりしない中世の架空の国アルモンド、森で狩の途中で道に迷った王子ゴローは、泉のほとりで泣いている美しい乙女メリザンドと出会い、彼女を連れて帰ります。


半年後、ゴローは異父弟ペレアスへ、祖父の老王アルケルから結婚の許しを得て欲しいという手紙を送ります。老王アルケルはゴローの新しい妻を迎え入れることにします。城にやって来たメリザンドとペレアスが出会い、二人は彼女の乗ってきた船が去る光景を見つめ言葉を交わす。ペレアスは庭園の「盲人の泉」にメリザンドを誘い、その力について語ります。メリザンドはゴローからの結婚指輪を泉に落としてしまいます。その瞬間、ゴローは森で落馬し深手を負っていました。


居室で夫ゴローを介抱するうち、メリザンドはこの城では心が休まらないと訴えます。その時妻の手に指輪がないと気付いたゴローに激しく追及され、メリザンドはゴローの息子イニョルドのために貝を拾っているうち失くしたと嘘をつきます。ゴローの命令で指輪を探すため、メリザンドはペレアスと共に、恐怖に震えながら海辺の洞窟へ赴きます。


月光の晩、寝室でメリザンドが髪を梳くと、通りかかったペレアスはその長い髪に陶然となります。そこへゴローが来て、二人の振る舞いを責めます。ゴローはペレアスを地下に連れて行き、身重のメリザンドを刺激しないよう言い渡します。ゴローはイニョルドに、ペレアスとメリザンドの様子について詰問し、母の寝室を覗くよう強要します。



【第2幕】

老王アルケルとメリザンドが語っている部屋へ、嫉妬心に駆られたゴローが来て、妻の髪を掴んで引き倒します。

夜、いよいよ旅立つというペレアスに請われ、メリザンドは泉に赴きます。月光の下で二人はついに愛を告白し、口づけを交わします。そこにゴローが現れ、ペレアスは殺されます。逃げ延びたメリザンドは女の子を産み落とし、死の床にありました。ゴローは妻に許しを請いながらも、弟との関係を執拗に問い始めます。メリザンドから真実が語られることはなく、老王アルケルがゴローを制し、赤子をメリザンドに抱かせようと渡す。メリザンドが息を引き取り、皆取り残される。


舞台はこれで終わらず、1幕の冒頭にもどり、ウェディングドレスを着たメリザンドが目を覚まして幕となります。




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ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』と共通点も意外に多いことに気づきます。題名は不倫関係の男性名および女性名ということで、ドビュッシーがワーグナーを意識していたかを象徴しているようです。


メリザンドは、この世界の住人ではなく、水の世界から「逃げ出してきた」というセリフがあります。姫で、美人で、ゴローが彼女の顔を初めて見るやいなや「おぉ、貴女は美しい!」と感嘆します。まだ二十歳にもなっていない…素で・天然で、なんの悪気もなく、自分の素直な感情で言葉を発し、行動しているのではないでしょうか。老アルケル国王が【42場】で言う「偉大なる無垢innocence」は、彼女の本質を的確に表しているのでしょう。


何かというと「私は幸せではない」というセリフで幕が閉じる…なんとも悲しげな言葉です…一方では、【44場】にては、ペレアスを前に、お互いの愛の告白の後、「私は幸せ」と言います!「でも、私は悲しい」と直後に続くのが、また意味深でもあり、メリザンドの素直かつ複雑な胸のうちが見られる、印象的な場面もあります。


メーテルランクの平易なフランス語には、不思議な、暗示的な出来事があちこちに含まれています。メリザンドの王冠や指輪の持つ意味、メリザンドを乗せてきた船の出航、3人の物乞いたちや羊の群れ、舞台には登場しませんがペレアスの父が長い危篤状態の後に物語の最後で回復すること、メリザンドが歌う「私は日曜日の正午に生まれた」という歌と、メリザンドがゴローから贈られた指輪を泉に落とす時間、それと同時にゴローが落馬する時間が正午で一致していること、メリザンドにだけ見える暗闇の一輪のバラなど、提示された謎の意味は最後まで示されず、鑑賞者の想像に委ねられています。




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ケイティ・ミッチェルの演出


演出のケイティ・ミッチェルは演劇大国イギリスで演劇、オペラ演出で活躍し、独自の感性と論理がもたらすリアリティが高く評価される演出家で『ペレアスとメリザンド』は2016年エクサンプロヴァンス音楽祭で初演されたプロダクションで、ある一家へやって来た女性の夢想としてドラマを現代に蘇らせ、絶賛を博したものです。指揮はフランス・オペラへも注力する大野和士芸術監督自らが当たります。ペレアス、メリザンドにはベルナール・リヒター、カレン・ヴルシュとこの作品を特に得意とする旬の歌手、ゴローにはエクサンプロヴァンス公演でもこのプロダクションのゴローに出演したロラン・ナウリが出演します。


ケイティ・ミッチェル演出の『ペレアスとメリザンド』は、このオペラを「メリザンドの夢」として解釈し、全幕を途切れなく上演していました。全てとして『ペレアスとメリザンド』となっているのは、メリザンドの最初と最後に同じウェディングドレスで、ウェディングドレスを着たメリザンドがうたた寝して見る夢という枠組みの中で語られます。


現実としか思えないほど精巧で写実的なのに、そこに少しずつ奇妙な事象、不吉な出来事が混じってくる夢があります。本人は夢とは知らずに、現実だと思ってその世界を生きていることも・・・・・。


物語のすべてミッチェルの解釈では、ペレアスとメリザンドの物語はメリザンドの夢であるため、すべての登場人物、出来事はメリザンドの過去や欲望、不安の投影となります。本来は登場しない場面にもメリザンドが登場し、全幕が彼女の夢、または悪夢として上演されています。


メリザンドが夢の中で起こっていることを俯瞰して眺めているのを象徴するように、舞台には二人のメリザンドが登場し、他の登場人物たちも、本来いるはずのない場面に現れます。ゴローの目にはおそらく不義の愛に対する自分への罰または語ることのできない恥辱で、もう一人のメリザンドが枕を押し付けて窒息させます。


主人公が最後にはっと目覚めて「ああ、夢だったのか」となる枠組だけではない。もともと台本に含まれるいくつもの不思議な暗示に、ミッチェルは、現代的でフェミニズムに立脚した切り口で、新たな光を当てているのです。


演出は現代演出となっていました。幕が開くとそこはホテルの一室で、ウェディングドレス姿の若い女性が独りで入ってきます。彼女はティアラがついたヴェールを手に持ち、ベッドに腰をかけると呻き声を上げます。大変な一日で緊張が続いたからだろうか、鼻血が出てしまったのだ。白いハンカチで出血をおさえた後で、彼女はベッドに静かに横たわっています。


ここまでの動きは沈黙の中で行われ、彼女が眠りに落ちると、やっとオーケストラが演奏をはじめる。いにしえの、遠くの国を思わせるような特徴のある旋法の響きによって、私たちはゆっくりと夢の世界に沈んでいきます。


舞台は最初に見えた部屋と、バルコニーになっているその二階部分、それに加えて客席から見て左側には控えの間、もしくは地下に続いている螺旋階段などが現れます。また泉や海の場面で使われるのは、水がほぼ抜かれた古びた室内プールです。これらの場面が、物語の進行に従って次々と現れたり消えたりするのです。舞台をステージの上手、下手そして2階バルコニーの3つに分割し、巧みに場面を切り替える手法で、夢の世界を効果的に表現していました。美術や照明も美しく官能的で時に恐ろしい夢の世界を細部までこだわって表現していました。

・・・

オペラそのものがこのように多くの謎を含むうえに、ミッチェルの演出はさらなる謎を重ねていく。メリザンドが夢の中で起こっていることを俯瞰して眺めているのを象徴するように、舞台には二人のメリザンドが登場し、他の登場人物たちも、本来いるはずのない場面に現れます。メリザンドはゴローに贈られた指輪を、ペレアスと泉で遊んでいる最中に水の中に落としてしまうのだが、なぜか彼女の指にはその後にも指輪がはめられています。一番謎めいているのは赤ん坊の存在です。物語の最後、メリザンドは息を引き取る前に女児を出産するのだが、この演出ではとても早いタイミングでメリザンドのお腹に赤子がいることが示されたり、彼女の姿がまた元に戻ったり、あるいは、さまざまな登場人物が赤子を抱いたりします。


メリザンドの視点で語られているミッチェル演出は、彼女に対する男たちの性的な視線を見逃しません。ゴローとペレアスだけでなく、アルケル老王までがメリザンドに性的なアプローチをします。ゴローがメリザンドに暴力を振るう場面では、アルケルはなすすべもなく佇み、ゴローとペレアスの母ジュヌヴィエーヴは、ペレアスを全身で押しとどめます。そしてショックを受けるのは、ゴローのイニョルドへの扱いです。弱者への支配を性暴力で行うのは、何も昔の話だけではない、そしてそれは家庭内でも起こり続けているということを、ゴローのイニョルドへの一瞬の接触で理解させるのです。


性はしかし、恐ろしいものとしてだけ描かれるわけではありません。このオペラが持つエロティシズムは、男性の側からすればメリザンドの曖昧さにあるのだとすれば、ミッチェル演出は、女は本当に好きな相手には受け身なだけではない、という真実を、メリザンドのペレアスへのアプローチで表現するのです。


新国立劇場の新制作の『ペレアスとメリザンド』は、鬼才ケイティ・ミッチェルが演出しています。現代を舞台に移し、様々な役割を期待され、疲弊する現代の女性への応援歌を描いているようです。


原作は、王太子ゴローと異父弟ペレアスと、名前以外何も分からない謎の女メリザンドによる三角関係の愛憎劇。ケイティは「原作のメリザンドはね男たちの好き勝手な女性像に投影される。だが一体彼女は何者なのか。女性視点で描き直しかった。と話します。


ケイティ版の愛憎劇を「メリザンドの夢」という設定にしました。夢の中のメリザンドは、ゴローとペレアスから求められる役割に縛られません。嫌だと思えば怒り、泣き、その場から逃げる。目が覚めると、そこには「魅惑的な娘」でも「貞淑な妻」でも「良き母」でもない、一人の女性がいるだけなのです。


ケイティは「私はフェミニスト」と言い、「女性が本来持っているはずの力を後押ししたい。男性中心の社会でも、女性は自由に生きられるのだと感じてもらいたいと思えたら」と言っています。





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舞台の感想


「メリザンドの夢」と記されてありましたが、精巧で写実的な、現実としか思えないリアリティあふれる舞台だったので、正直最初から最後まで観ていいましたが、「夢の話」だと理解できずに観ていました。夢を見ているメリザンドが二人登場し、一人が、実際のメリザンド、そしてもう一人は、自分自身を眺める自分、という立場で登場することが、変わった演出だなと思いました。



舞台は、基本4分割され、左右の比は、1:2位、上下の比はほぼ1:1です。左右は、原則どちらかが開いている状態、上下は、下は常に開いていますが、上は場面により開かない時も少なくありません。左側は、上下使うっての「螺旋階段の場」か「玄関口の場」の2シーン、右側は、「ベッドルームの場」「食卓の場」、「水のないプール(泉のシーンのかわり)」(上下使う)、「地下室(洞窟)」の4つの場が、音楽に合わせていろいろと使われまました。舞台セットは廃墟プール、廃墟好きにとっては廃墟の退廃的な美しさ表現しようとしていたようです。


舞台の裏方による非常に精密な仕事の上に成り立っている転換が、ある時には美しく、ある時には不気味な雰囲気を持って、メリザンドの夢を彩る。美術、衣裳、照明、振付などが連携した、効果的な舞台でした。今回のような新しい解釈による演出にもかかわらず、無理なくメリザンドの夢の世界に観客を引き込むことができたのは、舞台の裏方による非常に精密な仕事の上に成り立っている転換が、ある時には美しく、ある時には不気味な雰囲気を持って、メリザンドの夢を彩る、演技、美術、衣裳、照明、振付などが連携し、こだわりぬいた結果なのだと思います。


ドビュッシーの世界は、夢のように美しくもはかない愛のファンタジーを作り出しているところは、丁寧につくられていると思いました。


一方で、新国立劇場の広い舞台の中央の部分だけ使って、さらに舞台を分割してしまったため、舞台を狭く使い細かい演技を通して感情や人間関係を表現しているため、メリザンドの分身が登場する点や、メリザンドの妊娠と出産の時系列が混乱してくること、メリザンドが指輪をなくしたシーンの後も指輪をしているなど、解釈が難しく情報量の多い演出なのでついていくのが少し苦労しました。ドビュッシーの音楽の神秘的面な生かし「メザランドの夢」を明確に印象付けたいなら、古典的なよりメルヘンティックな演出の方がわかりやすかったと思いますが、演出家ケイティ・ミッチェルに「現代に生きるリアルな女性を舞台に立たせ、現代のフェミニズムを描きたい」というの意志があったようですので、現代演出しか考えられなかったのでしょう。



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音楽


幕が開くとそこはホテルの一室で、ウェディングドレス姿の若い女性が独りで入ってきます。彼女はティアラがついたヴェールを手に持ち、ベッドに腰をかけると呻き声を上げる。大変な一日で緊張が続いたからだろうか、鼻血が出てしまったのだ。白いハンカチで出血をおさえた後で、彼女はベッドに静かに横たわります。ここまでの動きは沈黙の中で行われ、彼女が眠りに落ちると、やっとオーケストラの演奏が始まります。最初の低音楽器のぐっと腰を落とした音にメリザンドの動機などの木管が、いにしえの、遠くの国を思わせるような特徴のある旋法の響きによって、ゆっくりと夢の世界に沈んでいきます。


『ペレアスとメリザンド』の音楽に表現されているのは、汎神論的な人間の感性であり、ドビュッシーが『ペレアスとメリザンド』という題材にひかれ、長い年月をかけてメーテルランクの暗示に満ちた世界を音楽にしていった成果は、ささやくような幽けき世界から、嫉妬や暴力の表現まで幅広く、言葉の抑揚をそのまま静かな音楽にしたようなこの作品は、いつの間にか始まり、いつの間にか終わります。曲のイメージとしては、静謐で、神秘的な印象をもつ音楽ですが、実際演奏をきいていると、愛情・怒り・嫉妬等の等の激しい感情を表す箇所も少なからずあり、必ずしも静かな音楽だけでないことを聞くたびに感じます。その変化があるからこそ、この不思議な曲を聞きとおすことができるのだと思います。全体に静かで幻想的な雰囲気を感じる技法の秘密は、和声が澄んでいること、冒頭と終幕の部分が特に淡々としているので、これが全体のイメージを形成していて、天才的な味付けで重たい内容なのにあっさりとした雰囲気に感じるのでしょうか。ドビュッシーの音楽とミッチェル演出に共通しているのは、沈黙の瞬間をおそれずに、音のない時間を、自らの表現を際立たせるために巧みに使っていることでしょうか。


ミッチェル演出の緻密な舞台は、歌手たちに演技力を要求します。海外からの招聘歌手は、フランス語を母国とし、それぞれ「ペレアスとメリザンド」のロールを持ち役とする3名が揃い、それぞれ役にはまっていて見事な歌唱・響きは見事でした。前述のカレン・ヴルシュのほか、彼女の分身を演じた黙役の安藤愛恵も的確な動きも良かったと思います。


メリザンドのカレン・ヴルシュは舞台姿が美しく、この役によく合った可憐な声を持ち、朗々と歌いあげないところが役柄に合っていました。最初の深みのある中音域、柔らかさのある高音、どれもピアニッシモの表現として魅力的で、世界で通用する歌を歌うために最も身に着けるべき技術がこの演奏に凝縮されているように思います。細い声ですが、大気に解けるような広がりで、音程の跳躍も滑らかで洗練されたレガートは何を歌うにしても必要な技術を楽しめました。高音が楽に出ているように感じ、中低音も洗練されていました。歌のコントロールが巧みで、小声で囁くところも、フォルテで力強く響かせるところもしっかり言葉が伝わります。


ペレアスのベルナール・リヒターのテノールは、ペレアスは「正直」で「情熱的」な性格を感じさせ、容姿も若々しく、リリカルな響きのテノールで、清冽なイメージで、端正な美しい歌唱は魅力的でした。


 ゴローのロラン・ナウリは、この登場人物の中である意味一番人間的な人物でしょうか。ゴローの生真面目さを最初は柔らかく表現し、愛を得られない焦燥、嫉妬、殺意、後悔など様々な感情が、次第に荒々しくなっていくその変化で、暴力に訴えるしかできない男の悲しみなどを表現して、メリザンドとの対照が際立つ形で表現されます。3幕末で、息子のイニョルドを使い、部屋をのぞかせるところは鬼気迫るものがありましたし、5幕で、許しを請う時「メリザンド」と幽かな声で祈るように呼び掛ける場面も素晴らしかったです。このジャンルの作品では他の追従を許さないアーティストでした。純真無垢なメリザンドとペレアスに対して、ゴローは、威厳と苦悩というイメージが、ゴローの「エゴ」にメリザンドとペレアスも純粋なだけでないような「重さ」を感じさせました。


アルケル王を約の妻屋秀和は深く少し暖かみのある安定したバスの声と品のある歌唱で舞台に奥行きを与えた。ジュヌヴィエーヴ役には、メリザンド役を歌った経験もある浜田理恵がこの演出では全幕を通しての出演し、慈愛に満ちた深い響きと母性を象徴するかのような演技で存在感がありました。子供役イニョルドの九嶋香奈枝は、顧みられない息子・イニョルドを、純真な美しいソプラノによる澄んだ声で好演。医師(と羊飼いの声)の河野鉄平は「オランダ人」等を歌う実力者で、最後の場面での医師として深い声を響かせていました。冨平恭平指揮の新国立劇場合唱団は、出番は少ないですが美しい音色を聴かせました。


大野和士が指揮する東京フィルハーモニー交響楽団は、弱音を奏でる勇気を持ち、絶え間なく移ろいゆく自然のようなドビュッシーの音楽を表現し用としているようでした。ドビュッシーであるだけに、特に第2場では水がしたたり落ちる様子を繊細に描いたような響き、霞のかかった森の泉を連想させるような美しさを表現しようとしていたようです。



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ドビュッシーの音楽はアリアらしいものもなく、静寂な感じの音楽が、繊細なフランス語の台詞とともに淡々として進むのでオペラ音楽としては、演奏が難しいと思いますが、光や水、霧や風といった自然の息吹を色彩感と陰影をより一層濃厚に表現し、登場人物の苦悩や感情の高揚もう少し強く表現出来たら、歌手のフランス語の韻律の歌唱と相乗効果により、オペらがもう少し起伏のうまれ、聴きやすくなったように思いました。



第一幕、幕が開くとそこはホテルの一室で、ウェディングドレス姿の若い女性が独りで入って、ベッドに静かに横たわるまで、沈黙が続きます。オペラハウスでの緊張感の中で、耳を澄ましも何も聴こえない世界は、不思議な圧迫感と孤独感を感じました。彼女が眠りに落ちると、やっとオーケストラの演奏が始まりますが、低音楽器のぐっと腰を落とした音にメリザンドの動機などの木管がいにしえの遠くの国を思わせるような旋法の響きでゆっくりと今まで体験したことのない世界に沈んでいきます。



『ペレアスとメリザンド』ではアリアもドラマチックな音楽、ロマンティックな音楽での盛り上がりもありません。ドビュッシーの音楽の特徴なのでしょうが、3時間以上の時間、淡々と同じテンションで、アリアも会話形式もなく粛々と進んで行きます。全体にライトモチーフを込めた静かな音楽が、じわじわと神秘的、象徴的に閉鎖的な緊張感で迫ってきます。ワーグナーの歌劇ではライトモチーフを込めた華やかで力強い音楽の連鎖が私たちをワーグナーの世界に引き込まれて行きます。『ペレアスとメリザンド』では起伏のない静かな音楽ですが、ライトモチーフが効果的に使われているのでしょう、独自の世界に引き込まれて行きます。ワークナーのような強烈なドラマがないからか、『トリスタンとイゾルデ』を聴いた時より、ずっと疲れたような気がしました。これがドビュッシーのオペラの世界なのかもしれません。ただ私としては、ドビュッシーの音楽の特徴である自然の息吹を色彩感と陰影をより濃厚に、美しくまろやかな響きでフランス音楽の魅力に酔うことができ、人物の苦悩や感情の高揚を歌手のフランス語の歌唱が一層盛り上がる演奏でしたら、より聴きやすくなったように思いました。



東京フィルハーモニー交響楽団を指揮した大野和士さんは、フランスのリヨン歌劇場管弦楽団の首席指揮者として、ドビュッシーのフランス・オペラの世界を知り尽くしておられる方ですので、これがドビュッシーのオペラのオーソドックスな演奏だったのかも知れません。私は、フランス・オペラと言えば、気品があり優雅で劇的なオペラ「宝石の歌」のような美しいアリア、ワルツや勇壮な合唱曲、フィナーレを飾る三重唱から、田園的、牧歌的な雰囲気までもグランドオペラの特色も残すグノーや、フランス風の軽妙さと叙情性、優美で洗練された甘美なメロディーとフランス的なエスプリが特徴のマスネのオペラを好んで聴き込んできました。そのような私の感性が、ドビュッシーのオペラの世界について行けなかったのかも知れません。的の外れた感想を書いていましたらご容赦ください。





『ペレアスとメリザンド』<新制作>

Pelléas et Mélisande/ClaudeAchille Debussy

5幕〈フランス語上演/日本語及び英語字幕付〉

■指揮:大野和士

■演出:ケイティ・ミッチェル

■美術:リジー・クラッチャン

■衣裳:クロエ・ランフォード

■照明:ジェイムズ・ファーンコム

■振付:ジョセフ・アルフォード

■演出補:ジル・リコ

■舞台監督:髙橋尚史


<キャスト>

【ペレアス】ベルナール・リヒター

【メリザンド】カレン・ヴルシュ

【ゴロー】ロラン・ナウリ

【アルケル】妻屋秀和

【ジュヌヴィエーヴ】浜田理恵

【イニョルド】九嶋香奈枝

【医師】河野鉄平

■合唱指揮:冨平恭平

■合唱:新国立劇場合唱団

■管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団





【参考】演出家ケイティ・ミッチェルのお話

演出する時にまず浮かんだのが、フェミニズムのレンズを通して女性が囚われた牢獄のような世界を描く、ということでした。このオペラに登場する男性キャラクターは皆、メリザンドに惹かれ、彼女へファンタジーを投影します。けれど実際のところ彼女が何者なのかは見えてこず、謎めいています。そこで私は、このオペラをメリザンドの視点で語り直したらどうなるだろうと思ったのです。今回のプロダクションに奇妙に幻想的な雰囲気があるとしたら、メリザンドの夢という枠組が設けられ、メリザンドが全ての場面にいるからだと思います。実際にアクションをとっている時もあれば、傍観者でいる時もありますが、必ず舞台上には彼女がいて、彼女の視点であることは途切れないようになっています。なので、お客様には夢、より正確には悪夢を見ているような、次に何が起こるかわからない、怖いことも起こるかもしれないという不安定さを共有してもらえたらと思っています。


 悪夢のような世界観を作り出すにあたって、スリラーを参考にしました。古いオペラと今を生きる観客との間に橋をかけるため、スリラーを見る時の感覚を取り入れようと考えたのです。ジェーン・カンピオンの『トップ・オブ・ザ・レイク』に『イン・ザ・カット』、あとはデヴィッド・リンチから大きな影響を受けました。また、幻想的な雰囲気を醸し出すもう一つの要素として、ドビュッシーの音楽もあるでしょう。フェミニズムとスリラー、そして音楽。この3つが重なり合って、『ペレアスとメリザンド』は作られています。


 そもそも私自身、アーティストとして女性蔑視的な政治や社会に対して切り込んでいきたいと以前から思っています。なので、どんなオペラを演出する時でも、それこそ音楽を聞く前からフェミニズムのレンズを通します。

頻繁に上演されるオペラ作品のほとんどで、現在のフェミニズムの基準に照らせば、女性は不当な描かれ方をされています。作品そのもので描かれているだけでなく、圧倒的多数の男性の演出家によって、問題ある描写が批判的に検討されず上演されてきました。また、オペラは非常に美しく力強い音楽を有しているからこそ、女性蔑視的な描写があっても「音楽は素晴らしいから」と流してきてしまった。オペラの歴史を大きな木にたとえると、その木には作品という美しい枝葉が茂っています。けれど根っこには、レイシズム(人種主義。人種に優劣があるという考え方。人種差別)やエイブリズム(健常者主義。非障害者の方が優れているという考え方)、ミソジニー(女性蔑視、女性嫌悪)といった毒の部分がある。その毒に向き合わず、枝葉の美しさのみに目を向けるのは、毒を受け入れ許容し支持することになると私は思います。現代に生きる女性の演出家として私は、オペラの歴史が根っこに持つ毒にも対峙していかなければと考えています。


 今回の『ペレアスとメリザンド』では、現代に生きるリアルな女性を舞台上で見せることを目指しました。ナチュラリズムというと少し古風な印象を受けるかもしれませんが、私の方法はナチュラリズムの前にラディカルがつくものです。スタニスラフスキーの方法を取り入れつつ、パフォーマーたちには普段の生活のサイズ感を大事にし、普段の生活で見せるジェスチャーをするよう伝えました。ディテールもかなり詰めました。今いる場所はどこか、とか、どんな時間か、とか、人物の伝記はどうなっているか、といった風に詳細を明確にしていきました。この方法は演劇にも用いるものですが、オペラの毒に切り込む手段としても持ち込んでいます。









参考文献

音楽之友社(編)スタンダード・オペラ鑑賞ブック 音楽之友社 1998

ペレアスとメリザンド | 新国立劇場オペラ 公式サイト

新国立劇場《ペレアスとメリザンド》 - 音楽之友社 公式サイト

新国立劇場情報誌「ジ・アトレ」

村山 則子 ()メーテルランクとドビュッシー『ペレアスとメリザンド』2011








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by desire_san | 2022-07-21 13:41 | オペラ | Trackback | Comments(6)
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Commented by Wigezo at 2022-07-23 12:02 x
「ペレアスとメリザンド」は、オペラ愛好家の間でも、必ずしもすぐに理解できるような作品ではないと感じました。印象主義音楽のオペラと呼ばれる皮相な見方は、ドビュッシー自身が遺した解題に楯突くものです。 旋律法はムソルグスキーの影響を受け、伝統的なアリアとレチタティーボの分離が避けられ、両者が融合されている。つまりフランス語の抑揚の変化がそのままピッチとリズムの変化に置き換えられているため、歌うというより語るような旋律となっていて、伝統的な意味での旋律的な要素は目立たなくなっています。





Commented by Higezo at 2022-07-23 12:09 x
オペラ愛好家の間でも必ずしもすぐに理解できる作品だとはみなされていないのは、歌うというよりも語るような旋律は取っ付きにくいですね。
音楽鑑賞に理屈はいらないので、このオペラをアンセルメ盤とハイティンク盤とぶっ続けで5時間ずっと聴きとおしてみましたた。想像どおりとても一度や二度聴いただけでは理解し難い曲で明らかに万人向けの音楽ではないという印象でした。



Commented by Satan_Frank at 2022-07-23 12:20 x
五味康祐さんは「ニイチェはワグナーを捨ててモーツァルトに回帰したが、ドビュッシーもワグナーの熱烈な信奉者だったが、彼はやがて音楽でワグナーを通過し、『ペレアスとメリザンド』を作った。
ワグナーの過度の雄弁や饒舌が我慢なりかねたと、ドビュッシーは言っている。一方では『従前の歌劇はどうも歌が多すぎる。台詞が詩本来の簡潔さで要求するドラマの進行を、音楽さえ妨げてはならないし、詩が要求せぬ音楽的発展はすべて、間違いだ。そう言って「ペレアスとメリザンド」を書いたが、このオペラの画期的傑作に、ワグナーの半音階的和声法を聴きとるのはさほど困難ではない。
はじめてアンセルメ指揮のLPでペレアスとメリザンド全曲を聴いたとき、音楽というにはあまりに詩的過ぎるその楽想の扱い方に、こんなオペラがあったのかと茫然としたが、ドビュッシーがワグナーからどれほど多くを汲み取ったかを知った。ドビュッシーのあの象徴性とワグナーの饒舌とはおよそ両極端のようだが、ワグナーの楽劇がなければ、やっぱりペレアスの絶唱はうまれなかったろう」と言っています。





Commented by Keiko_Kiinishita at 2022-07-25 17:41 x
フランス系の歌手中心のすばらしい演奏。独特の音楽ですが、言葉の美しさを活かした演奏だったと思いますメリザンドは、劇の登場人物としても、とても不思議な女性ですが、キアラ・スケラートは、その「無邪気」に、すべて「誠実」に「確信的」に時を過ごしていることが、ストレートに伝わる歌唱で魅力的でした。3幕冒頭の無伴奏の歌も透明で感動的でした。



Commented by Storu_hiraisfi at 2022-07-25 17:46 x
演出のケイティ・ミッチェルは演劇大国イギリスで演劇、オペラ演出で活躍し、独自の感性と論理がもたらすリアリティが高く評価される演出家。『ペレアスとメリザンド』は2016年エクサンプロヴァンス音楽祭で初演されたプロダクションで、ある一家へやって来た女性の夢想としてドラマを現代に蘇らせ、絶賛を博したものした。指揮はフランス・オペラへも注力する大野和士芸術監督自らが当たります。ペレアス、メリザンドにはベルナール・リヒター、カレン・ヴルシュとこの作品を特に得意とする旬の歌手、ゴローにはエクサンプロヴァンス公演でもこのプロダクションのゴローに出演したロラン・ナウリが出演していました。頭のてっぺんでもなければおでこでもなく、勿論鼻先でもありません。超絶技巧ではない歌唱も良かったです。






Commented by Masayuki_Mori at 2022-07-25 17:49 x
歌手はフランス系の歌手中心のすばらしい演奏。独特の音楽ですが、言葉の美しさを活かした演奏だったと思います
 メリザンドは、劇の登場人物としても、とても不思議な女性ですが、キアラ・スケラートは、その「無邪気」に、すべて「誠実」に「確信的」に時を過ごしていることが、ストレートに伝わる歌唱で魅力的でした。3幕冒頭の無伴奏の歌も透明で感動的でした。

 ペレアスも、「正直」でかつ「情熱的」な性格とおもいますが、スタニスラス・ドゥ・バルベラックのテノールは軽めの声で、美しい歌唱でした。

 ゴローのアレクサンドル・ドゥハメルは、この登場人物の中である意味一番人間的な人物でしょうか。愛を得られない焦燥、嫉妬、殺意、後悔など様々な感情が、メリザンドとの対照が際立つ形で表現されます。3幕末で、息子のイニョルドを使い、部屋をのぞかせるところは鬼気迫るものがありましたし、5幕で、許しを請う時「メリザンド」と幽かな声で祈るように呼び掛ける場面も素晴らしかったです。