ローマ、エルサレムを凌ぐ信仰の殿堂、建築様式を馳駆したビザンチンの最高傑作
アメソフィア の ビザンティン美術
Byzantineart of Amesophia

イスタンブルールに着いて最初に訪れたのがアメソフィアでした。旧市街の中心地に建つアメソフィア大聖堂は、最初ローマ総主教会として建てられましたが、何度も消失、破壊が繰り返され、現在のアメソフィア大聖堂は西ローマ帝国が滅亡した後、東ローマ大国は領土をイタリア、地中海のアフリカまで領土を拡大しビザンチン帝国の最盛期にギリシア正教の中心の聖堂としてユスティニアス1世により建立されました。石造りの床面積1万㎡、高さ54mドームのこの大聖堂は、当時はローマ、エルサレムを凌ぐ信仰の殿堂であり、その時代の様々な建築様式を馳駆して作られたビザンチン様式の最高傑作といえます。
ビザンティン美術は、5世紀から15世紀の東ローマ帝国で発達した美術で、古代のギリシア美術、ヘレニズム美術、ローマ美術を継承しつつ、東方的、キリスト教的要素を含んだ独特な美術体系を産みました。ビザンティン美術の範囲には、東ローマ帝国の内部で制作された美術作品のみならず、その勢力圏にあって強い影響を受けたロシア、ブルガリア、ヴェネツィア、南イタリア・マグナ・グラエキア、シチリアなどの美術も含んでいうことがあります。顕著な特徴は、同時代の西ローマ、西ヨーロッパの美術に比べて、東方的な要素を多く含んでいる点です。
ビザンティン美術は非常に優れたモザイク画を生みました。独特の宗教美術や、ドームを特徴とする建築様式は、いまでも正教圏各国に受け継がれています。現在ではイスタンブールのモザイク博物館で見ることが出来ます。
アメソフィアは、聖堂に入ると巨大なアーチが天まで向かっているように見えます。このドームはキリスト教における小宇宙を表現していると言われています。

アメソフィアには、ビザンチン帝国の最盛期の6世紀のモザイク画で覆われていましたが、震災などの災害、8~9世紀の聖像破壊運動、十字君の略奪などで荒廃し、当時のものは残っていません。現在アメソフィアに残っているモザイク画は10~13世紀のです。しかし、これらのモザイク画は6世紀のモザイク画と同様、金箔、銀箔を透明なガラスではさみ細かく壁に埋め込んでガラスをコーティングするという高度の技法で制作されたもので、長い年月を経ても輝きを失っていません。


大聖堂内部には、今日少数かつ断片的にではあるがキリスト教聖堂であった頃のモザイク画が残っています。 モザイク画のクローズアップを見るには、トルコ人ファインアート写真家のアフメト・エルトゥウ(英語版)の写真がアヤソフィア北のギャラリーで常設展示されています。
アヤソフィア世界遺産のモザイク画
Erected as originally Cathedral, Christian, here as a mosque after It is a church that has been utilized, a history of unusual. It has become now a museum, where we will be able to face the Christian art from ancient times many. The Hagia Sophia it was a head temple of the old Orthodox Church, but now, a place called St. GeorgeCathedral, has played its role.

本堂への中央入り口上部にあるモザイク画。モザイク画にはキリストに聖堂を捧げるユスティニアス帝とキリストにこの町を捧げるコンスタンティヌス帝の姿が描かれています。コンスタンティヌス帝は、自らキリスト教に改宗し、それまでローマ帝国が迫害してきたキリスト教を公認し、キリスト教迫害の歴史を終わらせた皇帝です。この中央入り口は皇帝の典礼用にのみ使われるもので、かつては別のモザイク画がした。今日見ることのできるモザイクは、キリストを取り囲むように大天使と聖母マリアの2つのメダイヨンが配置され、キリストに礼拝を行う皇帝が画かれています。

『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』(1042年から1055年頃)

南側2階廊に残る、モザイクの下部は失われているが、銘文から人物が特定できます。この図像は、もともとゾエが最初に結婚したロマノス3世によって寄進されたものだと考えられますが、ゾエが後にミカエル4世、コンスタンティノス9世と2度再婚しているため、夫である皇帝の顔や銘文は、恐らくその都度作り直されました。今日でもその跡ははっきりとわかります。ゾエの顔とキリストの顔にも修正された跡がありますが、なぜこの部分にまで修正を施さねばならなかったのかについては、諸説あります。コンスタンティノス9世は、マンガナのハギオス・ゲオルギオス聖堂建設やエルサレムの聖墳墓聖堂の修復など、莫大な国家予算を聖堂の装飾や建設に注ぎ込みました。

『聖母子と皇帝ヨハネス2世コムネノス、皇后エイレーネー(イリニ)』(1122年から1134年頃)

12世紀に作成された西南の玄関からナルテクスへの入り口上部にあるモザイク画で、コンスタンティノープルに残る唯一のモザイク画です。12世紀に東ローマ帝国領内で作成されたモザイクは、今日ほとんど残っていないため、貴重です。図像の配置や銘文は、側にある『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』に影響を受けていることがわかります。すぐ横の柱側面には、彼の長男アレクシオスの図像もあります。中央に立つ聖母子に、向かって左側のユスティニアヌスがアヤソフィアを、右側のコンスタンティヌスがコンスタンティノープルの街をそれぞれ捧げている図が描かれています。
『デイシス』(1260年頃)

元々は2階廊の壁面いっぱいに画かれたディーシスと呼ばれるモザイク画は、2/3が剥がれ落ちていますが、毅然としたイエス・キリストと人類を救おうと懇願かる悲しみの表情を示す神性と人間性を感じさせます。聖母マリア、洗礼者ヨハネが描かれた傑作といえます。それまでのモザイク画に比べてキリストの顔が立体的に描かれているのが特徴です。そのほかにも、南窓からはいる光を効果的に利用するような工夫が成されているため、ビザンティン美術の最高傑作とされます。ミカエル8世パレオロゴスがラテン帝国に奪われていたコンスタンティノープルを奪回したことを記念して作られたとする説が有力です。
他に聖母と聖家族を描いたモザイクやキリストと女帝ゾエ夫妻のモザイクなどが保存状態のよく残っています。
アメソフィアは、フコンスタンティノーブルを征服した際、フスメット2世がここを訪れ、その壮麗さに感動し、そのままモスクとして使用することにしました。キリスト教の壁画は漆喰で塗りこめられ、ミナレットも立てられましたが、ビザンチン様式の建物は保存され、モザイク画も漆喰の中で保護され、現在は博物館として世界中からくる観光客に公開しています。トルコはイスラム教の国ですが、隣国のイランやイラクと異なり、あらゆる文化、宗教を容認する寛容性を持ており、イスタンブールのいろいろな時代の文化遺産は保護されています。
『聖母子と大天使』(870年代?)

アプスに残るモザイク画。5 m近い聖母子の座像の両脇に大天使を配するが、北側の天使像はほとんど失われています。記録に残る銘文と、876年に総主教フォティオスが行った説教から、聖像破壊運動が収束した後に描かれたと考えられます。フォティオスの説教がこの図像を指すものであれば、これは新たに画かれたことを暗に述べていますが、中期ビザンティンの「新しい(Nea)」という概念は、聖像破壊運動以前の伝統への回の意味が強く、聖母子と大天使の図像は元の装飾を忠実に再現したものか、漆喰に塗り込められていたものを再びクリーニングしたのか、あるいは新たにデザインされたものかは不明です。
セクレトンは、2階西南にある小部屋で、かつては総主教宮殿からの通路の一部でありました。聖像破壊運動により、768年あるいは769年に総主教ニケタスによって壁画が剥ぎ取られましたが、その後、モザイクによって再び装飾されました。ゲルマニクスやニケフォロスといった、聖像破壊運動にあってイコンを擁護した総主教のほか、聖像破壊運動の後に総主教となったタラシオス、メトディオスの図像が断片的に残存しています。
『聖母子の後陣モザイク』

ドームを支えるアーチの下にある、南北の半円形壁面に残る聖人像である。北側に小イグナティオス、メトディオス、グレゴリオス・タウマトゥルゴス、ヨハネス・クリュソストモス、イグナティオス・テオフォロス、キュリロス、(アレクサンドリアの)アタナシオスが画かれ、南側にニコメディアのアンシモス、大バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ディオニュシオス・アレオパギテス、ニコラオス、アルメニアのグレゴリオスが画かれていたが、今日ではヨハネス・クリュソストモス、小イグナティオスの図像がほぼ完全な形で残り、メトディオスらの図像の一部が残る。
『セントジョン クリソストムを描いた北鼓室のモザイク』

『エンリコ・ダンドロの墓碑』(1205年)は、ラテン帝国の時代に造られたもので、デイシスと向かいあう位置の壁面近くにある。「狐」と呼ばれ、コンスタンティノープルを占領してラテン帝国建国をもたらした第4回十字軍を巧みに操ったエンリコ・ダンドロの墓碑です。これはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンの『コンスタンティノープル征服記』にも記されています。遺骨と遺品については1453年にオスマン帝国皇帝メフメト2世によってヴェネツィア共和国に返還されました。
美術史においては"最後の古典巨匠"であると同時に"最初のモダニスト"と解説され、最も偉大なモダニズム肖像画の一人ともいわれています。また、キリスト教美術や伝統的な戦争の分岐点となり、絵画内容、表現、感情的な力は戦争の恐怖を人に伝える最も革新的な現代戦争画を確立ました。

参考文献
シリル・マンゴー『ビザンティン建築』(飯田喜四郎訳、本の友社〈図説世界建築史〉、1999年
ジョン・ラウデン『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』(益田朋幸訳、岩波書店〈岩波世界の美術〉、2000年
益田朋幸『ビザンティン』(山川出版社〈世界歴史の旅〉、2004年
浅野和生『イスタンブールの大聖堂モザイク画が語るビザンティン帝国』(中央公論新社〈中公新書〉、2003年
日高健一郎・谷水潤 『イスタンブール』丸善〈建築巡礼17〉、1990年
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