チャイコフスキーと作曲家集団5人組の時代のロシアの歴史
ロシアの近代の歴史と
Russianhistory and the music of the Russian quintet

19世紀の半ばから終わりにかけてのロシアでは、ピョートル・チャイコフスキーとロシア5人組と呼ばれる作曲家集団がロシアのクラシック音楽は西欧もしくは自国の方法論のどちらに従うべきかという問題で意見の食い違いを見せていました。チャイコフスキーは西欧基準の評価にも耐え、国境の壁を超えるような専門的な楽曲でありながらも、旋律、リズムやその他の音楽の性格においてはロシアの特色を持たせたままにしたいと希望していました。
The Five, also known as theMighty Handful, The Mighty Five, and the New Russian School, were fiveprominent 19th-century Russian composers who worked together to create adistinct national style of classical music: Mily Balakirev, César Cui, ModestMussorgsky, Nikolai Rimsky-Korsakov and Alexander Borodin. They lived in SaintPetersburg, and collaborated from 1856 to 1870.
貴族階級がまだ非常に親仏的で、ヨーロッパに目を向けているロシアでは、芸術運動は主にプーシキン、ゴーゴリなどでした。1830年から1850年にかけてのロマン主義の全盛期の後、ヨーロッパとロシアの両方で国立学校の台頭という現象が見られました。これらの国立学校は、国が推奨する神話、伝説、歴史のテーマとポピュラー音楽的な音楽、その国の言語という 3つの要素で構成されていました。
ロシア5人組
ロシア5人組の主張は、ロシアの伝統 (フォークロア、ポピュラー ソング、正教会の宗教的な歌) に基づいて、本質的にファッショナブルなイタリア主義とユビキタスなゲルマニズムと分離した離れた西洋の基準に基づいた民族音楽を生み出すことでした。1861年(皇帝アレクサンドル2世による農奴制の廃止日から知られるようになりました。
このグループは、サンクトペテルブルクのロシアの音楽院に反対し、ロシアのサンクトペテルブルクで教鞭を執るアントン・ルビンシュタインにも反対しています。
音楽では、ミカエル・イワノビッチ・グリンカがロシア音楽の「父」として記憶されています。グリンカのオペラ『ツァーリの生涯』はロシア語で書かれ、人気のあるロシアのテーマから引用されていました。
ミリイ・バラキレフは、グリンカとの決定的な出会いがあり、「本物の」音楽教育を受けた唯一の人物であり、仲間の独学者の作品をしばしば修正しました。1862年、サンクトペテルブルクに自由音楽学校を設立しました。伝統的なロシアの民間伝承に見られるモードな色とアジアのアクセントを備えた、ピアノのためのオリエンタルファンタジーが最もよく知られています。
ツェーザリ・キュイの音楽を彼に紹介したバラキレフ に大きな影響を受けました。非常に優れた批評家であり、ロシア5人組の著者であるツェーザリ・キュイは、逆説的にヨーロッパの音楽から多くを借りています。
モデスト・ムソルグスキーは1857年にグループに加わり、バラキレフからレッスンを受けました。農奴制の終わりによって人生を台無しにされたムソルグスキーは、ロシア語のサービスに音楽を提供し続けながら、事務職員として働かなければなりませんでした。『ボリス・ゴドノフ』の合唱は、民衆の声を力強く歌い上げています。
ニコライ・リムスキー=コルサコフは 1861 年にこの音楽家たちと出会い、10 年後、彼はサンクトペテルブルク音楽院の教授職を受け入れましたが、仲間ら裏切り!行為と非難されました。リムスキー=コルサコフは次世代のロシア人 (アレクサンドル・コンスタンティノヴィッチ・グラズノフ、セルゲイ・セルゲイヴィッチ・プロコフィエフ、イーゴリ・ストラヴィンスキーなど) を訓練し、かつての仲間たちによる特定の作品を編成しました。音楽の建築家というよりも、何よりもまず、彼はストーリーテラーであり画家でもあります。リムスキー=コルサコフの交響組曲『シェヘラザード』は別にすると、彼の最も有名な作品はスペインのカプリッチです。
アレクサンダー ボロディンは 1862 年に音楽界に登場しました。ボロディンはゲルマン音楽に対して最も敵対的ではありませんでした。ボロディンはマンハイムでリヒャルトワーグナーを聴いていました。ボロディンは自分自身を「日曜日の作曲家」と考えていますが、彼の友人はボロディンの並外れた才能を奨励していますが、ボロディンはほとんど作曲していません。ボロディンは、彼のオペラ「イーゴリ公」からのきらめくポロフシュの踊りで最もよく知られています。また、有名な交響詩「中央アジアの草原で」もボロディンの作品です。
その名前が示唆するものとは反対に、ロシア5人組はすぐに 5 人の作曲家で構成されたわけではありません。さらに、ファイブは 1862 年から 1866 年の間にのみ再結合されています。ムソルグスキーは1881年に亡くなり、リムスキー=コルサコフは3つのオペラしか書いていませんでした。バラキレフとクイは 30 年近く彼を生き延び1910 年と 1918 年に死亡ました。
19 世紀半ば後半ロシア5人組と呼ばれる音楽家は、その野心は、音楽院の荒れ果てた状態に対して西洋音楽を模倣しないロシアの民族音楽を生み出すことでした。
ロシア5人組のメンバーがバレエ、オペラ、交響曲を作曲するのは、可能な限り表現力豊かな音楽を作成できるようにするためですが、室内楽や協奏曲など、メッセージを伝えるのに役立たない特定のジャンルは放棄しました。
ロシア5人組はまた、ヘクター・ベルリオーズ、フランツ・リスト、ロベルト・シューマン、フレデリック・ショパンなど、現代的、時には現代的なロマン派の一部を知らしめようとしていました。
後の1870 年代には、美術と建築ではアブラムツェヴォの集まり、文学ではドストエフスキーやトルストイなど、様々な分野でロシア民族ロマン主義の誕生を体験することになりました。
チャイコフスキーとロシア5人組
ピョートル・チャイコフスキーとロシア5人組と呼ばれる作曲家集団がロシアのクラシック音楽は西欧もしくは自国の方法論のどちらに従うべきかという問題で意見の食い違いを見せていました。チャイコフスキーは西欧基準の評価にも耐え、国境の壁を超えるような専門的な楽曲でありながらも、旋律、リズムやその他の音楽の性格においてはロシアの特色を持たせたままにしたいと考えていました。ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、アレクサンドル・ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフから成るロシア5人組は、古いヨーロッパの音楽の模倣、もしくはヨーロッパ流の音楽院教育に依存した音楽ではなく、明瞭にロシア的な芸術音楽の創造を目指していた。チャイコフスキー自身も自作に民謡を取り入れることがありましたが、西欧の作曲技法をなぞろうとしており、その傾向は調性や和声進行において顕著でした。
チャイコフスキーとは異なり5人組の面々は誰も教育機関で作曲理論を学んだことがありませんでした。事実、5人組の主導的役割を担ったバラキレフはアカデミズムを音楽的創造に対する脅威であると想定していた。バラキレフは5人組を擁護した批評家のウラディーミル・スターソフとともに、チャイコフスキーの母校であるサンクトペテルブルク音楽院とその創設者であったアントン・ルビンシテインに向かって、発言によって、または出版物を用いて容赦ない攻撃を加えました。
ルビンシテインの最も知られた門弟となっていたチャイコフスキーは、キュイが出版した批判的評論で槍玉に挙げられていました。しかし、ルビンシテインが1867年にサンクトペテルブルク音楽院の職を退くと、チャイコフスキーとバラキレフは協力関係に入りました。そうして出来上がったのがチャイコフスキーの出世作となる幻想序曲『ロメオとジュリエット』であり、5人組もこの作品を心から受け入れました。チャイコフスキーがリムスキー=コルサコフの『セルビア幻想曲』へ好意的な批評を執筆すると5人組に受け入れられた。チャイコフスキーの交響曲第2番『小ロシア』は1872年に初演されると、5人組からの熱狂的な歓迎を受けました。
チャイコフスキーは5人組と親しい間柄であり続けましたが、追従する態度を見せることはなく、5人組の音楽については態度を決められずにいました。5人組の音楽の目標や美的感覚はチャイコフスキーと合わなかったのです。5人組、そして音楽院での旧態依然な派閥争いから自らの音楽を遠ざけておくため、チャイコフスキーは痛みを取ることに、チャイコフスキーがアントンの弟であるニコライ・ルビンシテインからの招聘を受けてモスクワ音楽院の教授職に就いて、その方向へ進むことになっていきました。リムスキー=コルサコフがサンクトペテルブルク音楽院の教授職を打診された際、助言と指導を求めて頼っていったのはチャイコフスキーでした。後年、リムスキー=コルサコフが愛国主義者仲間から自らの音楽指導、そして自身が熱意を傾けていた音楽研究における態度の変転に関して圧力をかけられていた時、チャイコフスキーはリムスキー=コルサコフを道徳的な形で励まし続け、彼の行いを全面的に称賛し、リムスキー=コルサコフの芸術に対する謙虚さと個性の強さを高く評価しました。
5人組がそれぞれの道を歩むようになってしばらく経った1880年代になると、そのあとを埋めるようにベリャーエフ・サークルと呼ばれる勢力が台頭してきました。チャイコフスキーはこの一団の主導的メンバーであったアレクサンドル・グラズノフ、アナトーリ・リャードフ、そしてリムスキー=コルサコフとは以前のままの近しい関係にありました。
『ボリス・ゴドゥノフ』の歴史的背景
『ボリス・ゴドゥノフ』を理解するには、ロシア史において「動乱時代」と呼ばれる1598年のリューリク朝断絶から1613年のロマノフ朝成立までの経緯を基礎知識としておくことが必要です。
1584年、イヴァン4世(イヴァン雷帝)が没する。後には雷帝の二人の息子、病弱で軽度の知的障害を持つフョードルとその異母弟ドミトリーが残されました。雷帝の寵臣であるボリス・ゴドゥノフの妹を妻に迎えていたフョードルがフョードル1世として戴冠します。
フョードル1世戴冠直後にモスクワで暴動が発生します。ドミトリーをツァーリにしようとする一部の大貴族によるものだったらしく、暴動鎮圧後、ドミトリーとその母親マリヤ・ナガヤ、マリヤの一族はウグリチに追放されます。
1591年、ドミトリーがウグリチで謎の死を遂げます。母親であるマリヤ・ナガヤが城の中庭で喉を切り裂かれ横たわっている息子を発見しました。ヴァシリー・シュイスキーが率いる調査団が派遣され、「ドミトリーは、ナイフ遊びの最中にてんかんの発作を起こし自らを傷つけた」と結論付ける。マリヤ・ナガヤは息子の死に過失ありとされ、修道院に幽閉、一族も投獄されました。民衆の間では摂政であるボリスがドミトリーを殺害したという噂が広まります。
1598年、フョードル1世が没しますが、ボリスによる謀殺という噂が立ちました。子が無かったため、リューリク朝は断絶。全国会議でボリスがツァーリに選出され戴冠すします。
1601年から1603年にかけて、ロシアを大飢饉が襲います。この飢饉はドミトリーを殺した者が帝位に就いているために起こった天罰だという噂が広まります。同じ頃、ボリスの娘クセニヤ・ゴドゥノヴァの許婚であるデンマーク王子が急死したのも天罰とされます。疫病、暴動が頻発しました。
1604年、ポーランドに皇子ドミトリーを名乗る若者が登場し、ポーランド・リトアニア共和国、カトリック教会の支持を得てモスクワへ進軍を開始する。ボリスはドミトリーの正体は逃亡修道士グレゴリー・オトレピエフと宣言するが、国内の不満分子はドミトリーを支持し、ロシア南部のコサック等がドミトリー軍に参加します。
1605年、ボリスが急死する。息子フョードルが後を継ぎフョードル2世となるが、ドミトリー支持に回る者が後を絶たず、間もなくその母親とともに殺害される。ドミトリーがモスクワ入城を果たし戴冠する。ボリスの娘クセニヤはその妾とされた後、修道院に入れられます。
1606年、ドミトリーがポーランド貴族の娘マリーナ・ムニーシェクと結婚します。しかし、皇妃は正教会に改宗するという慣例を破り、カトリックのままだったため、大貴族や民衆、ロシア正教会の反感を買い、婚礼を挙げて直ぐに反乱が勃発、ドミトリーは殺害されました。ヴァシーリー・シュイスキーが即位しヴァシーリー4世となります。
1607年、モスクワで殺害されたはずのドミトリーが「奇跡的に助かった」という噂が流れ、第2のドミトリーが登場、モスクワ進軍を開始する。モスクワ占領はできなかったもののモスクワ近郊トゥシノに陣を構えます。
1610年、ポーランド軍がモスクワに入城する。ヴァシーリー4世はクーデターにより退位させられ、第2のドミトリーはポーランドに見限られ殺害されます。
1611年、第3のドミトリーが登場します。
1612年、第3のドミトリー処刑される。義勇軍によりモスクワ開放されます。
1613年、ミハイル・ロマノフが即位、ロマノフ朝が開始されます。
ムソルグスキーが挑む、音楽における「嘘」の表現
オペラの登場人物が、情熱的なメロディで愛を歌えば、それはその人が誰かを情熱的に愛しているということだし、控えめなメロディで愛を歌えば、控えめに愛しているということです。では、その登場人物が嘘をついている場合、音楽はどうすればいいでしょう。お芝居で、心にもない「愛している」なんて珍しくありませんが、音楽は、ストレートな感情の表現には適していますが、嘘の表現はそれほど得意ではありません。
この難題に、ユニークな方法で挑んだのが、ロシア音楽史上屈指の天才、モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)だ。彼の傑作オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』では、独創的な方法で「嘘」が表現されています。
モデスト・ムソルグスキー
「嘘」は最初の場面からいきなり出てきます。場所はモスクワ、ノヴォジェーヴィチ修道院の庭。役人が群衆をどなりつけています。「さっさとひざまづけ! 声を出せ!」。人々は、自分たちが何のためにこんなことをさせられているかもわかっていないが、とにかく歌います。「われらを誰の手にゆだねるのですか、わが父よ」そして、互いにぶつぶつ役人への文句を言ったりしています。
どこが嘘なのか、状況を説明したほうがいいだろう。前の皇帝が崩御してしまいましたが、皇帝になるべきボリス・ゴドゥノフは、即位を固辞しています(もちろん本心ではない)。しかし、ボリス・ゴドゥノフが皇帝になることを望んでいます。そんなことは思っていないと思っている民衆は、修道院の庭で懇願しているか、役人に強制されて、そうしています。
ここでムソルグスキーが、嘘を表現するために使った方法はこうだ。役人が「声を出せ」と命令したり、民衆が「すっかり声がかれた」と嘆いたり、役人のことを「乱暴なやつめ」と罵ったりする時、「本当」の部分は、ロシア語の抑揚を生かした、リアルな会話に近い作曲をします。これに対し、民衆が「われらを誰の手にゆだねるのですか」と歌う「嘘」の部分は、民謡風のメロディらしいメロディに乗せます。つまり、ひとつの場面に、リアルな会話風の音楽(本当)と歌らしい音楽(嘘)、二つの層があるのです。
ロシア語の抑揚と嘘の表現
ロシア語の抑揚を生かして作曲するということは、ムソルグスキー以前から、いろいろな作曲家たちが取り組んでいました。ただ、言葉の抑揚に忠実になりすぎると、音楽としては退屈になってしまうというのが難点だった。おそらくこのことに気づいたムソルグスキーは、『ボリス・ゴドゥノフ』で、会話風の音楽をベースにしつつ、ときどき、旋律らしい旋律、歌らしい歌も入れることにしました。それにより、このオペラの音楽には、二つの層があります。
自然な会話のなかで、登場人物を不自然でなく歌わせるにはどうすればいいか。ひとつの方法は、登場人物が「歌う場面」を作ることです。『ボリス・ゴドゥノフ』では、幼い皇子や皇女が遊び歌を歌ったり、酔っ払いが機嫌良く歌ったりします。本当に歌っている場面だから、歌らしい歌でいいわけです。
そしてもうひとつが、登場人物が本当のことを言っている場面には会話風の音楽、嘘を言っている場面には歌らしい歌を当てるというやり方です。そもそも、オペラの魅力である旋律美を捨ててまで、ロシア語の自然なイントネーションを音楽に取り入れようとしたのは、歌で会話すること自体を不自然に感じたからでしょう。だが、『ボリス・ゴドゥノフ』では、その不自然さを逆手にとって、「嘘」を表現する手段として使ったのでしょう。
ボリスの皇子殺しを扱ったこのオペラには、他にも「嘘」の場面がいろいろあります。殺されたディミートリー皇子になりすましてボリスを倒そうとする青年グリゴリーと、彼を利用してのしあがろうとする美女マリーナの「愛」の二重唱、ボリスを死に至らしめることになる、僧ピーメンによるディミートリー復活の物語、モスクワへ乗り込もうとする偽ディミートリー(グリゴリー)の勇ましい名乗り。全部真っ赤な嘘なのですが、これらの部分ではいずれも、伝統的なオペラの表現方法が、「嘘」の容れ物として使われています。
『ボリス・ゴドゥノフ』から半世紀以上経った1932年、『ボリス・ゴドゥノフ』を踏まえた方法で「嘘」を表現した作曲家がいます。ムソルグスキーを崇拝していたドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)だ。彼のオペラ『ムツェンスクのマクベス夫人』第2幕第4場で、ヒロインのカテリーナは、舅ボリスの食事に毒を入れて殺してしまいます。カテリーナは、集まった司祭や使用人たちの前で「ああボリス・チモフェーヴィチ、なぜ逝ってしまわれたのですか。私や夫は誰に頼ればよいのですか。」と、しらじらしく嘆いてみせます。
ムソルグスキーが挑む、音楽における「嘘」の表現
オペラの登場人物が、情熱的なメロディで愛を歌えば、それはその人が誰かを情熱的に愛しているということだし、控えめなメロディで愛を歌えば、控えめに愛しているということです。では、その登場人物が嘘をついている場合、音楽はどうすればいいでしょう。お芝居で、心にもない「愛している」なんて珍しくありませんが、音楽は、ストレートな感情の表現には適していますが、嘘の表現はそれほど得意ではありません。
この難題に、ユニークな方法で挑んだのが、ロシア音楽史上屈指の天才、モデスト・ムソルグスキー(1839-1881)だ。彼の傑作オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』では、独創的な方法で「嘘」が表現されています。
モデスト・ムソルグスキー
「嘘」は最初の場面からいきなり出てきます。場所はモスクワ、ノヴォジェーヴィチ修道院の庭。役人が群衆をどなりつけています。「さっさとひざまづけ! 声を出せ!」。人々は、自分たちが何のためにこんなことをさせられているかもわかっていないが、とにかく歌います。「われらを誰の手にゆだねるのですか、わが父よ」そして、互いにぶつぶつ役人への文句を言ったりしています。
どこが嘘なのか、状況を説明したほうがいいだろう。前の皇帝が崩御してしまいましたが、皇帝になるべきボリス・ゴドゥノフは、即位を固辞しています(もちろん本心ではない)。しかし、ボリス・ゴドゥノフが皇帝になることを望んでいます。そんなことは思っていないと思っている民衆は、修道院の庭で懇願しているか、役人に強制されて、そうしています。
ここでムソルグスキーが、嘘を表現するために使った方法はこうだ。役人が「声を出せ」と命令したり、民衆が「すっかり声がかれた」と嘆いたり、役人のことを「乱暴なやつめ」と罵ったりする時、「本当」の部分は、ロシア語の抑揚を生かした、リアルな会話に近い作曲をします。これに対し、民衆が「われらを誰の手にゆだねるのですか」と歌う「嘘」の部分は、民謡風のメロディらしいメロディに乗せます。つまり、ひとつの場面に、リアルな会話風の音楽(本当)と歌らしい音楽(嘘)、二つの層があるのです。
ロシア語の抑揚と嘘の表現
ロシア語の抑揚を生かして作曲するということは、ムソルグスキー以前から、いろいろな作曲家たちが取り組んでいました。ただ、言葉の抑揚に忠実になりすぎると、音楽としては退屈になってしまうというのが難点だった。おそらくこのことに気づいたムソルグスキーは、『ボリス・ゴドゥノフ』で、会話風の音楽をベースにしつつ、ときどき、旋律らしい旋律、歌らしい歌も入れることにしました。それにより、このオペラの音楽には、二つの層があります。
自然な会話のなかで、登場人物を不自然でなく歌わせるにはどうすればいいか。ひとつの方法は、登場人物が「歌う場面」を作ることです。『ボリス・ゴドゥノフ』では、幼い皇子や皇女が遊び歌を歌ったり、酔っ払いが機嫌良く歌ったりします。本当に歌っている場面だから、歌らしい歌でいいわけです。
そしてもうひとつが、登場人物が本当のことを言っている場面には会話風の音楽、嘘を言っている場面には歌らしい歌を当てるというやり方です。そもそも、オペラの魅力である旋律美を捨ててまで、ロシア語の自然なイントネーションを音楽に取り入れようとしたのは、歌で会話すること自体を不自然に感じたからでしょう。だが、『ボリス・ゴドゥノフ』では、その不自然さを逆手にとって、「嘘」を表現する手段として使ったのでしょう。
ボリスの皇子殺しを扱ったこのオペラには、他にも「嘘」の場面がいろいろあります。殺されたディミートリー皇子になりすましてボリスを倒そうとする青年グリゴリーと、彼を利用してのしあがろうとする美女マリーナの「愛」の二重唱、ボリスを死に至らしめることになる、僧ピーメンによるディミートリー復活の物語、モスクワへ乗り込もうとする偽ディミートリー(グリゴリー)の勇ましい名乗り。全部真っ赤な嘘なのですが、これらの部分ではいずれも、伝統的なオペラの表現方法が、「嘘」の容れ物として使われています。
『ボリス・ゴドゥノフ』から半世紀以上経った1932年、『ボリス・ゴドゥノフ』を踏まえた方法で「嘘」を表現した作曲家がいます。ムソルグスキーを崇拝していたドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)だ。彼のオペラ『ムツェンスクのマクベス夫人』第2幕第4場で、ヒロインのカテリーナは、舅ボリスの食事に毒を入れて殺してしまいます。カテリーナは、集まった司祭や使用人たちの前で「ああボリス・チモフェーヴィチ、なぜ逝ってしまわれたのですか。私や夫は誰に頼ればよいのですか。」と、しらじらしく嘆いてみせます。
なんとこの部分、メロディも歌詞も『ボリス・ゴドゥノフ』冒頭の合唱にそっくりなのです。名作の引用で「嘘」を表現するとは、さすがショスタコーヴィチだ。ただ、この部分、ショスタコーヴィチがこのオペラを30年後に『カテリーナ・イズマイロヴァ』として改訂したときには、なぜかまったく違うメロディに差し替えられています。
参考文献
作曲家別名曲解説ライブラリー22「ロシア国民楽派」(1995年 音楽之友社)ISBN
山崎孝 寺西基之(著)「ロシア五人組」集 春秋社 (2005年)
「最新名曲解説全集19 歌劇II」(音楽之友社)
永竹由幸「オペラ名曲百科(下)」(1984年 音楽之友社)
一柳富美子「ムソルグスキー 「展覧会の絵」の真実」(2007年 東洋書店)
桑野隆「ボリス・ゴドゥノフ」(2000年 ありな書房)
アッティラ・チャンパイ「ボリス・ゴドゥノフ」(1988年 音楽之友社)
田辺佐保子「プーシキンとロシア・オペラ」(2003年 未知谷)
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アメリカ国内には、一大勢力があるかのようでした。武器にも精通しているようでした。
フィクションの娯楽映画とは言え、実際にそれらしい組織がありそうですね。
大国ロシアが苦戦しているのもわかる気がしましたね。
わが国では、クロアチアを支援や応援する風潮にありますが、慎重に国際情勢を分析する必要がありそうです。
でも時代が変わり関係も薄れてゆきます。
いくら家族の関係でも暴力で昔に戻そうとするには無理があります。
ウクライナ日本と同じで平和主義で平和を唱えてると平和があるとの主義ですが・・
いくら平和を語り努力しても守る力がなければ駄目である事の見本です。
守る力の欧米の援助がなければ1か月でロシアの併合され奴隷国家にになります。
でも、リムスキーの本領はやっぱりオペラだと思います。比較的知られた「金鶏」の他にも色々あって、特に「見えざる町キーテジと乙女フェヴローニヤの伝説」は実に素晴らしい。最近多分初めてDVDが発売された「クリスマスイブ」も是非観たいと思っています。
もっともっと評価されるべき作曲家でしょう。
リムスキー=コルサコフ「金鶏」2016年 ベルギー モネ劇場のローラン・ペリーの演出で作品そのものが素晴らしいと思いました。プーシキンの原作だが、ゴーゴリのように不気味で喜劇的でブラックユーモアにあふれていました。音楽も先鋭的で、これが「シェエラザード」の作曲家の作品とは思えない出来でした。

