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教科書では教えない歴史 明治維新の光と影

明治維新の光と影

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明治維新とは、江戸時代幕末から明治時代初期の日本において行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革のことを指す。(Wikipedia)これは、教科書などに書かれている「明治維新」の定義ですが、現実の明治維新は、このような簡単な表現では語りつくせない、その時代に生きたたくさんの人々の人生を変えてしまった一大歴史変動で、維新に夢を抱いて命をかけた人、歴史に翻弄された人々の悲劇も含まれていました。





西郷隆盛と大久保利通は異国に負けない国をつくるには金がかかるので、『廃藩置県』による中央集権国家を作ることを考えていいました。明治年二月、鹿児島に帰っていた西郷隆盛は、大久保利通の説得によって再び東京に戻り中央政府に加わりました。



『岩倉使節団』の留守政府の活躍

西郷隆盛は国内に残りましたが、残った留守政府は重要事項を決定しないという決まりがありました。しかし、西郷隆盛は大久保利通から託された『留守政府』は、国内には片付けなければならない事が山積みでした。責任の重圧の中西郷隆盛は、大隈重信・板垣退助・江藤新平ら優秀な人材をまとめて、次々と改革は進めてきました。『留守政府』と呼ばれた日本残留組の西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らの中かには優秀な人材が多く、次々と改革は進んできました。国内には片付けなければならない事が山積みで、中西郷隆盛は、大隈重信・板垣退助・江藤新平ら優秀な人材とともに、次々と改革は進めてきました。このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けました。留守政府は、『学制』『地租改正』『徴兵令』など、のちの世に繋がる新しい政策を次々と打ち立てました。大久保利通は秀才ですが人望がなく、有用な人材をまとめていく力がなかったのに対し、逆に西郷隆盛は薩摩時代から人望があり、気鋭の論客、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助、大隈重信らをまとめて留守政府で成果を上げました。


そのころ、廃藩置県など新政府の政治方針により、武士不満が爆発寸前になっていました。士族の不満を決定的にしたのが、明治9年の廃刀令と金禄公債証書条例でした。刀を取り上げられ、給料が支払われなくなり、唯一の誇りであった刀まで、不満が最高潮になりました。


士族の西郷隆盛は人望がり、仲間の声や雰囲気を前から感じていて、直面する役割の終わった武士階級(士族)の行く末に大きな不安を抱えていたようです。朝鮮との話についても、戦争が起こればある意味武士たちの活躍する場ができるとも言えます。いずれ不満は爆発すると感じ取っていた西郷隆盛は、自ららが推進した『明治維新』のために、武士社会の構造を叩き壊してしまった自己の責任を痛感していたと思われます。


大久保利通が『岩倉使節団』より早めに帰国したのは、盟友西郷隆盛・間際に滑り込んでいるのを予感し、必死になって止めに入るためだったという説が有力です。大久保利通が西郷の朝鮮行きに反対したのには、西郷の命を心配していたためにと考えられています。




「四民平等」と「三権分立」の理想掲げた江藤新平

一方、江藤新平は備前国佐賀藩に生まれ、幼い頃は貧しい生活を送りながらも藩校弘道館で学んだ非常に優秀な青年でした、江藤新平の志は高く、副島種臣、大隈重信、島義勇らと親交を深め、脱藩して京で活動するようになり、桂小五郎ら長州藩士を始めとする志士と付き合い見聞を広げました。


江藤新平は備前国佐賀藩に生まれ、幼い頃は貧しい生活を送りながらも藩校弘道館で学んだ非常に優秀な青年でした、江藤新平の志は高く、副島種臣、大隈重信、島義勇らと親交を深め、脱藩して京で活動するようになり、桂小五郎ら長州藩士を始めとする志士と付き合い、さらにその見聞を広げました。明治の新政府では司法卿、参議との役職を歴任、司法の分野で能力を発揮し、初代司法卿を務め、司法制度や警察の整備に尽力しました。四民平等を訴え、それが認められたのは江藤新平の働きが大きいと言われています。民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などは画期的なものでした。


一方で、英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤に対して、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ち、ドイツ帝国を範とする政府内の保守派からは激しく非難され、江藤の主張は通りませんでした。また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招きました。


新政府で大きな力を持っていた大蔵大輔の井上馨は、秋田の銅山を不正に差し押さえ、私腹を肥やそうとするような輩で、同じ長州の山形有朋も金に汚い人物でした。司法卿の江藤新平、左院議長の後藤象二郎、参議の板垣退助と大隈重信は、志を持った人たちでしたので、金目当てに動く井上馨や山形有朋のような政治家が許せなかったようです。特に、江藤は官吏の汚職にも厳しく、使節団の帰りは待っていられない。これからは皆が一枚岩となって政を推し進めていく、と長州の二人を辞職させ、こうして薩摩一人、土佐二人、肥前三人の参議から成る新たな体制が発足しました。留守政府は、『学制』『地租改正』『徴兵令』など、のちの世に繋がる新しい政策を次々と打ち立てたのでした。


江藤新平は正論を主張することが多く、なお且つ早急に実行に移すべきであるとの言い分から、政府内でも対立することも少なくありませんでした。理想主義者で清廉潔白な江藤新平は、西郷隆盛と通ずるものがあり、大久保利通から強烈な嫉妬と不安を招きました。 江藤新平が西郷隆盛を担いで、薩摩、肥前だけで政府を固めて、大久保利通と長州の追い落としに危機感を感じていました。




西郷隆盛と大久保利通との決別

大久保利通は、江藤、後藤、板垣たちを全員辞めさせて、岩倉が戻ったらすぐに政府を立て直し、自分たちの手で欧米に負けない日本を作る意思を強く持っていました。しかし、それは西郷隆盛には受け入れないことでした。緻密に戦略を練ったり、根回しをしたりして政治を動かすことにたけている大久保利通との権力闘争には西郷隆盛も太刀打ちできず、自らのから信念は曲げられず、西郷隆盛は中央政府を退くことを決めました。江藤新平も西郷隆盛と一緒に中央政府を退きました。大隈重信は板垣・後藤らとともに、いずれまた政治に携わってもらうこともあるだろうから、地元に帰るなんてことはしないようにと江藤新平を慰留したそうです。明治新政府で大久保利通は、西郷隆盛と共に新国家建設を進めようとしましたがり決別してしまいました。


江藤新平が民主主義政治の理想として追求した「三権分立」の道は途絶え、現在に至っても、司法権の独立は実現するに至っておりません。



大久保利通の政治

大久保利通は内務省を設立し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、地方制度や警察機構の整備を進めて、殖産興業政策を推し進め日本近代化の礎を築きました。学制や地租改正、徴兵令などを実施し、「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進しました。


また台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として清に渡り交渉の末清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印しました。また出兵の経験から、明治8年(1875年)太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出しました。


台湾出兵のあいだの1873年、当時の日本の紙幣である明治通宝の印刷業者であり、オリエンタル・バンク(東洋銀行)の取引先であったドンドルフ・ナウマンが原版など印刷設備を日本に売却したいと申し出があり、大久保利通と吉田清成は、横浜支店から大蔵省に送付されるその支払請求書に、支払いを求める2人の書簡を添えさせました。

大久保が目標としていた国家はプロイセン(ドイツ)であるとも、イギリスであるともいわれています。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判されましたが、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたといわれています。


また自ら総裁となり、上野公園で第1回内国勧業博覧会を開催しています。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていました。

一方で、明治6年(1873年)に帰国。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させました。


明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、鎮圧している。首謀者の江藤新平ら13人を、法によらない裁判で処刑した。さらに江藤を梟首しただけでなく、首を写真撮影して、全国の県庁で晒し者にしました。西南戦争で京都にて政府軍を指揮し、西郷隆盛を死に追いやりました。


しかし、明治11年(1878年)、馬車で皇居へ向かっていた時、大久保は亡き西郷隆盛の生前の頃の手紙を読んでいたそうです。その途中、紀尾井坂付近の6人の不平士族に殺害されました。享年満47歳没。墓所は東京都港区の青山霊園にあります。

地方制度や警察機構の整備を進めたほか、殖産興業政策を推し進め日本近代化の礎を築いでしたが、不平士族の武装蜂起に対しては厳罰をもって対処したことから、西南戦争の終結後、東京の紀尾井坂において不平士族に暗殺されてしまいました。




優秀な大久保利通がどこで間違えたのが

大久保利通は西郷隆盛とは幼馴染で、共に藩の改革を目指す志士集団「精忠組」を結成し、明治新政府でも西郷隆盛と共に新国家建設を進めよう考えていました。大久保利通は、私利私欲はなく私財を政治改革に差し出す程清廉潔白で、志の高い人でした。優秀で頭脳明晰、緻密に戦略を練ったり、根回しをしたりして政治を動かすことに長けており、部下には頼りになる存在でした。切れ者の大久保利通で自信家だった大久保には、他藩や幕臣の優秀な人材をまとめていく度量はなかったようです。


中央政府から西郷隆盛が去り、大久保利通は、本音で相談できる相手いなくなってしまいました。事実上、大久保利通の独裁政治となってしまい、日本の近代化に向けて邁進するあまり、あまりに急ぎ過ぎた大久保利通の行動に誰も注意する人も、ブレーキをかける人ともいませんでした。


大久保利通には、自分にはない情に厚さと人望のある西郷隆盛が必須の存在だったのではないでしょうか。『留守政府』の大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任ら優秀な人材たちに大久保利通が加わり、西郷隆盛がまとめ役をして、志の高いメンバーで議論を尽くして、新国家建設を推進していったなら、大久保、西郷、江藤という有為な人材が次々と命を落とすような日本にとっても不幸なことにはならなかったのではないでしょうか。



英国外交官アーネスト・サトウは士族の反乱、暴動の原因を以下のように分析しています。

● 政府が士族の経済的特権を否定し、帯刀霊により士族の身分的特権をはく奪した。

● 西郷隆盛が提案した朝鮮問題を一蹴した。

● 佐賀の乱により、江藤新平に過酷な処分をした

更に、政府は性急な国家建設を推進したことは、士族の不満に火をつけました。



勝海舟が、西郷隆盛は征韓論者ではなかった。江華島事件に、西郷はその武力でやり返す姿勢を批判していました。そんな西郷が征韓論を主張するはずがないと言うのです。征韓論からほどなくして、日本は朝鮮と武力衝突しているのです。江戸城無血開城をした西郷、兵を準備して武力を高めるのに、それらに頼らず、戦いをせずに解決する。大久保利通は征韓論に反対したわけではなく、西郷の命を心配していたために西郷の朝鮮行きを反対していた、という見解もあります。本当にそうならば、西郷隆盛を鹿児島に帰すことは、不平武士に担がれて戦争になることは十分予想された事なので、むしろの朝鮮行きを支持し、西郷隆盛を何としても政府の中に引き留めるべきだったと思います。


大久保利通には、征韓論で手を結んでいる江藤新平・大隈重信・板垣退助を政府から追い落としたい、権力闘争で主導権を握りたいという気持ちがあり、西郷の征韓論に賛成できなかったのではないかと思います。その結果、西郷隆盛をも政権から追い出してしまいました。

大久保利通の真意は解かりませんが、もしかすると、大久保利通は秀才ですが人望がなく、有用な人材をまとめていく力がない。逆に西郷隆盛は薩摩時代から人望があり、気鋭の論客、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助、大隈重信らをまとめて留守政府で成果を上げました。自分より圧倒的に人望のある西郷隆盛に対して、恐怖心、あるいは嫉妬心を持っていたのかも知れません。




岩倉具視と伊藤博文の実績

大久保利通の盟友だった、岩倉具視は、明治初期に何をする者達なのか明確にされなかった華族達に対して華族統制政策を強め組織化をはかり、華族懲戒令を定めるとともに華族の財産の保護に努めました。岩倉具視の頭にあった華族とは欧州型の貴族であってその使命とは皇室を支えることでした。そこで岩倉は強烈な華族統制政策をとるようになった。まず全華族を組織に組み込むため、会館に部長局を設置して自ら督部長となり、出身別に6部に分け各部長を設けるなどして組織化をはかり、華族統制を強め、華族懲戒令を定めて、華族の品位を汚したものは処罰するとともに華族銀行と呼ばれた第十五国立銀行を創設し華族の財産の保護し華族に連帯感を持たせようとしました。さらに宮内省の中に華族局を設け華族の統制の役割を持たせ、政府宮内省の管轄下で華族統制につとめ、帝国議会の貴族院が開財産の保護にもあたった旧武家も旧公家も同質化して国家への役割を定めました。


伊藤博文はドイツやオーストリアの憲法調査を行い、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手しました。1885年に太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後の初代内閣総理大臣に就任しました。井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたりました。君主大権の強いドイツ型の憲法でしたが立憲主義的憲法理解を示し、1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定しました。憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させたことは伊藤博文の功績でした。


1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任。第2次伊藤内閣では衆議院の第一党だった自由党に接近し、日清戦争では首相とし日清講和条約に調印しました。第3次伊藤内閣を組閣しましたが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(1次大隈内閣)を成立させました。1900年には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開きました。しかし、伊藤博文が軍部を握る山縣有朋らと妥協した結果、軍事統帥権を三権から分離し絶対君主たる天皇の専権事項としたため、文民統治の機能を欠き、天皇および側近のチェク機能が崩れると軍部の暴走を許すという構造的欠陥を内包しており、後に、軍部は統帥権を振りかざして軍国主義化に邁進し軍部大臣現役武官制により内閣(行政権)をも脅かす存在となりました。


日露戦争後の朝鮮・満州の処理問題に尽力し、韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪しました。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されて死亡しました。




伊藤博文の死後の明治政府

伊藤博文の死後三代内閣総理大臣だった先の山縣有朋は「国軍の父」と称され、軍の統制を図りました。彼はのちの総理大臣人事にも発言力のあったキングメーカーとなり、第一次内閣総理大臣桂太郎や第18代内閣総理大臣の寺内正毅は山縣閥の人間であった。そのほか長州からは大村益次郎、井上馨、前原一誠、広沢真臣らがおり、まさに長州藩閥政治といえます。


山縣有朋は 軍の基礎を作ったことから、軍部への影響力は大軍の統帥権独立による暴走に繋がったと言われています。伊藤と山県は軍令濫用の危険性を承知しており、伊藤は会談終了後山県に軍令の使用について警告、山県も部下に軍令の濫用を戒めたという山県は、政党政治否定、藩閥政治推進、社会運動弾圧の代表的人物として、大正11年の死から昭和戦前期にかけて「否定の対象として、第二次大戦後の軍国主義批判の中で批判的にとらえられています。歴史の中で、山縣有朋は「軍国主義者」「帝国主義者」「反動」「ファシスト的」「巨魁山県有朋」など著しくマイナスの評価を与えられ続けました。


山縣有朋について、下関戦争や三国干渉の苦い経験を経て列強への警戒感をもち続け、欧米人対アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」であり、アメリカとも対立すべきでないと説く「外交的にきわめて慎重な姿勢をとり続けた政治家であり、従来の軍国主義的イメージとは異なる人物だったという評価もあります。


また、長州の下級武士から出世した政府の高官のモラルの低さは目に余るようだったようです。伊藤博文ら長州勢が料亭よく集まっていましたが、大蔵大輔の井上馨は秋田の銅山を不正に差し押さえて私腹を肥やそうとするような人物でした。同じ長州の山県有朋は自身のカネ、女や自らの権力行使にわたり悪い噂が絶えることの無かった人物でした。一方、伊藤博文の女好きは有名で、芸者だけでなく、未成年や人妻にも手を出していたとのことです。長州の下級武士から出世した政府の高官のモラルの低さは、その後現代にも続く政治の利権・金権体質を生んだと言われています。





教育政策と歴史の扱い方の流れ

当時の日本には、国家主義的な教育環境の素地があり、これに基づいて教育改革も構築されていった状況が考えられます。この潮流は、1889年の大日本帝国憲法の発布によって鮮明になります。天皇主権の欽定憲法に基づき、教育にかかわる法令は、教育財政制度の他は全て勅令として発せられ、内閣から枢密院の審議を経て天皇により裁可されるという手続きがとられました。1890年、忠君愛国が教育の基本であることが強調した「教育ニ関スル勅語」が発布されました。さらに、紀元節など学校での儀式で勅語を奉読することが定められ、明治政府の教育政策は、国家主義的性格を強めていきました。


明治維新後に明治政府の首謀者たち(木戸孝充、山縣有朋、伊藤博文、井上馨、松方正義など)が自分たちを美化し脚色した記録を元に、司馬遼太郎など後世の膨大な作家がこれを事実として描き、歴史事実として固定化し映画とドラマが、それをその通りに描き、それが日本の近代史であるが如く書いています。そのため日本人は、維新の志士を英傑と祭り上げるストーリーが明治以後の戦争を起こしたともいえます。


吉田松陰は、朝鮮半島は日本の領土であると唱え、松下村塾で「朝鮮、満州、台湾、琉球、中国、フィリピンを手中に収めて日本を豊かにせよと」門下生に説きました。松陰のアジア侵略論者で、門下生の井上馨、伊藤博文、山縣有朋などが侵略を実行したという見方もあります。吉田松陰などの国学者は、天皇家が神道と教えましたが、奈良の東大寺という仏教の寺を作ったのは聖武天皇というのも事実です。

薩長藩閥政府は、戊辰戦争から太平洋戦争敗戦まで、戦争を繰り返し、私利私欲が拡大し財産をため込みました。最初は江戸の大名屋敷を強奪し、歴史的価値のある芸術品を売り払い壊し、次に官営工場を国税で作り、それをただ同然で岩崎弥太郎(三菱)三井に払い下げました。日本の財閥は国民の財産を強奪してのし上がったという議論もあります。


大阪の豪商たちが維新政府に協力せず江戸幕府を支援したため、廃藩置県で全部維新政府の廃藩置県とは「明治維新の25年前以前の大名貸し借金を全部帳消しにする」のが本来の目的で、それによって長州藩、薩摩藩、土佐藩をはじめ、大名に多額の金を貸していた大阪の豪商たちが借金を踏み倒され,破産に追い込まれた。

借金は踏み倒し、新しく作る会社は国税を使い、利益を生むようになれば無償で払い下げ、自分たちの懐へ入れる。そして朝鮮や中国まで侵略し、戦争で軍需会社を経営して私利私欲を太らせました。1945年の日本敗戦時に、財閥ファミリーの財産は日本の50%を締めていました。「欲しがりません、勝つまでは」と国民に強制しながら、続けて侵略戦争にまで加担する集団が日本にはいて、そういう人々が今でも権力を握っているという見方もあります。


日本では国をあげて戦争犯罪の悪事を美化しようとし、日本人が犯した罪業を語れば「自虐史観」といい歴史から目を背ける。そういう人間が現在の日本の指導者や富裕層にもいて、国全体で犯した戦争犯罪や過去の悪行を後の世代が讃えるようではこの国の未来はどこに行くのでしょうか。




西洋化政策による日本文化材の破壊

また明治近代政権によって江戸という時代は「全否定」されました。廃藩置県を機に、江戸時代の城はすべて陸軍省の財産となりましたが、要塞として必要な城は「存城」、不要な城は「廃城」になりました。この時40城余りが存城となりましたが、文化財として保存されず、軍用地確保のために建物を壊したり、石垣や堀を壊したりの扱いでした。廃城処分となった約150城残っていましたが、天守閣は、巨大なため無用の長物と判断され、破壊されるか安い価格で払い下げられました。存城処置となってもその後結局払い下げられた天守閣も多く、現在国宝の松江城、世界遺産でもある姫路城も低価格で買い取られ、江戸時代以前に建設された天守閣が現在も元の姿で残っている城は、弘前城、国宝松本城、国宝犬山城、特別史跡・彦根城跡、国宝姫路城、国宝松江城などわずかしか残っていません。


仏教伝来から既に千四百年近く経っていた明治維新といわれるこの時点に於いて、仏教の影響を受けた文化的、精神的諸要素は、美しい風土を創り上げており、人びとの心に浸み込んでいました。薩長新政権が打ち出した思想政策によって、「廃仏毀釈」という日本文化の破壊活動は仏教施設への無差別、無分別な攻撃、破壊活動は、薩摩、長州という新しい権力者による千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動でした。それまで千年以上の永きに亘って「神仏習合」というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきました。「王政復古」により、すべてを大和朝廷時代が本来のあるべき姿であると考え、日本の風土に溶け込んで進化してきた仏教は、宗教としても文化的価値としても徹底的に弾圧されました。興福寺だけで二千体以上の歴史を刻んできた仏像が、破壊されたり、焼かれたりしました。格式を誇った内山永久寺は、徹底的に破壊され尽くされ今やその痕跡さえ見られず、この世から抹殺されてしまいました。日本美術の傑作が失われてしまったことを思うと、明治維新の「王政復古」の名の下に行われた日本史の一大汚点といえます。








参考文献

司馬遼太郎() 「翔ぶが如く」文藝春秋社 2002

芳 即正 (), 毛利 敏彦 (編集)「西郷隆盛と大久保利」2004

立石 優 () 「 西郷隆盛と大久保利通 破壊と創造の両雄」(PHP文庫) 2017

佐々木 克 () 「大久保利通と明治維新」1998

家近 良樹 ()  西郷隆盛 維新150年目の真実 (NHK出版新書 536) 2017

原田 伊織『三流の維新 一流の江戸』2017年、ダイヤモンド社

伊藤 之雄()『伊藤博文 近代日本を創った男』2009年、講談社

井上 寿一 ()『明治維新の正体』2019

鈴木 荘一 () 『山県有朋と明治国家』2010

畑中 章宏() 『廃仏毀釈 ――寺院・仏像破壊の真実』2010年、ちくま書店

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』










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by desire_san | 2023-05-06 22:17 | 日本の旅と文学・映画・ドラマ | Comments(7)
Commented by Ziggyus at 2023-05-01 05:08
はじめまして。 学生時代には 恥ずかしながらまるで他人事のようにしか受けていなかった歴史の授業ですが とても興味深く読ませていただきました。 教科書の内容も、その時々の教育委員会などの志向でそれが 実際に起こった出来事なのか、ある程度歴史が書き換えられていたりする教科書が採用されると今さら知って驚いています。
明治維新では それまで琉球王国だったのが江戸時代に薩摩藩によって侵入されて琉球藩とされ 明治に入って琉球処分という名のもと廃藩置県で沖縄県となったと聞いています。 こういった歴史がなければ 私は今、日本人と名乗れなかったのかもしれないと思うと感慨深いものがあります。
Commented by desire_san at 2023-05-01 13:08
Ziggyusさん、コメントありがとうございます.

日本では、歴史に限らず,多くの出来事には、色々な見方ができるはずなのに、多面的にとらえて議論する習慣が欠けているようにか感じますね。

教科書だけでなく、テレビのニュースも、新聞記事も、事件を一面からしか捉えず、単純化する傾向があります。

Chat GPT が話題となっていますが、物事は、質問すれば簡潔に答えを出せるほど単純ではないのです。

琉球の問題は大変興味を持っていますが、大変複雑な歴史と要員をもっております。機会を作って琉球の問題をレポートしてみたいと思ってますが、私にそんな力があるか?というところで、前に進めずにいます。




Commented by Naoki Tamura at 2023-05-19 00:24
明治維新の功罪についてもっと知ることが兼ねてより必要と思ってました。
特に薩摩長州両藩の功罪の功については述べられているが罪については隠蔽されている。
倒幕し徳川に代わって島津、毛利の世になる様なことで藩論をまとめ、倒幕がなると今度は藩主をも裏切るなど下級武士としてのし上るなら何でもありであったと思う。
昭和天皇の結婚の際の山形有朋などの動きなど見ればはっきりしている。
更に英国公使館焼き討ちに参加した伊藤博文、井上馨など今風に言えば全学連赤軍派であると云って過言でないしお金に汚かったことである。
唯、評価に値するのは能力の無さを認め過っての敵であっても有能な者をためらいなく登用したことである。
これまでの評価ばかりでなく負の評価もすることが、戦後歴史の見直しにもなると思います。



Commented by Haruna_Takahashi at 2023-05-19 00:25
長州藩の大村益次郎暗殺に加わって処刑された五十嵐伊織は我が家の(旧)一族です。
五十嵐伊織が一命をかけて何故大村益次郎暗殺に加わったのか。
新しい理想の日本建設のために戊辰戦争で戦った彼らが見た現実は大村益次郎を頂点とする腐敗政治であった。
このことについては良く概要がかかれていると思う。
ラストサムライの映画に涙した一人です。






Commented by Kiyo Katera at 2023-05-19 00:26
司馬遼太郎(著)「翔ぶが如く」・・・それはそれで、色んな意見があって、いいじゃありませんか。批判が中心ではなく、dezireさんのように、他人の意見を聞き、広い角度から見ていくことが大事です。
歴史が面白いのはこれ⇒⇒⇒『教科書などに書かれている「明治維新」の定義ですが、ほんとうにそうだったのでしょうか』・・・調べて行けば行くほど、奥が深い。
わたくしは数年前に、京都・仁和寺に「錦の御旗」を拝観にいきました。
以下・・・勝者・官軍が後の世に残した記述(歴史)
明治維新の行方に大きな影響を与えた鳥羽伏見の戦いの日(明治元年〈一八六八〉一月四日)仁和寺宮は天皇から征討大将軍・軍事総裁に任命され、錦の御旗と節刀を授けられ、新政府軍として東寺に陣を敷き、大阪に進軍しました。錦の御旗の前に、旧幕府軍は大阪へ敗走したのです。







Commented by Hedeo_Terada at 2023-05-19 00:28
錦の御旗は「偽物」と思う・・・越後屋史観
『錦の御旗』はTV「翔ぶが如く」で観た、西陣織の重厚で真っ赤な日の丸が描かれた立派な織物と思っていました。
ところが・・・私が仁和寺での目で見た錦の御旗はどんなものか、急ごしらえの「薄っぺらく・ショボ」いモノで、日の丸も入っていません。これは、戦に負けた時に言い訳に使うつもりだと思われる。
これは、長州(山口県)で作ったモノと思われます、今でも史跡としてその名残があります。
疑問が残るのは、この『ショボい旗(御旗)』を見て、幕府軍は「恐れ多い」と思ったのでしょうか?? よく分かりません。





Commented by Yonogi_Rantan at 2023-05-19 00:29
山口県、錦の御旗製作所跡
旧幕府軍と対峙するにあたり、品川弥二郎が大久保利通とともに京において、岩倉具視より製造の委託を受けたもので、大久保が調達した素材を品川が長州に持ちかえり御旗として仕立てた。御旗の製造は、藩内でも品川弥二郎のほか木戸孝允、平沢真臣など中枢のごく一部が知るのみで、当時この地にあった養蚕施設の一室で作業が進められ、建物を竹垣で囲うなどし、人の出入りを厳しく管理した上で極秘裏に進められたという。