大河ドラマの最高傑作・司馬遼太郎原作『翔ぶが如く』から明治維新の真実を探る
司馬遼太郎原作 大河ドラマ『翔ぶが如く』から

幕末から明治維新にかけての歴史は、数多くの小説、映画、テレビドラマで描かれています。1990年に放送されたNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』は、西郷隆盛と大久保利通の友情と、西洋に負けない日本を築こうと情熱を燃やす大久保利通と、価値観の違いで袂を分かった西郷隆盛の人間ドラマを、司馬遼太郎の小説『翔ぶが如く』を、脚本家・小山内美江子が隆盛・利通の若年時代の友情物語を書き加えたオリジナルストーリー的な作品です。作品の魅力と相俟って、最高の配役で描いた見応えのある大河ドラマの中でも最高傑作だと私は思いました。この『翔ぶが如く』を通して、明治維新という時代を考えてみたいと思います。
『翔ぶが如く』明治維新からのあらすじ
西郷隆盛を指導者とする討幕軍が徳川幕府軍を破り、1876年江戸城無血開城を果たし、幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を樹立しました。西郷隆盛は、自分の仕事は終わったと鹿児島で悠々自適の生活を送っていました。
大久保利通は東京で岩倉具視、木戸孝允らと新政府で奮闘していました。不満分子の鎮静に隆盛の上京が必要だという声が出ます。大久保利通は、横浜で政府転覆計画の首謀者が隆盛を担ぎ出そうと企てが発覚ししため、鹿児島にいる西郷隆盛に対し、弟・従道が上京を説得します。更に、明治3年(1870年)、大久保利通は岩倉具視を伴って鹿児島入りし、島津久光、西郷隆盛に上京を要請します。西郷隆盛は政府に対する二十五ヶ条の建白書を出し、大久保は建白書を承諾した時は隆盛が上京するとの約束を取り付けました。年が改まり、大久保と今後の政策について話し合った西郷隆盛は、東京行きの意志を固めます。
西郷隆盛は上京し、新政府で、隆盛は参議、大久保は大蔵卿となります。政権内部では、廃藩置県に向けて、さまざまな思わくが渦巻いていました。改革の断行には西郷隆盛の力が不可欠としながらも、木戸孝允や伊藤博文は改革が政治改革までへと飛び火することを心配していました。更に薩長独占の政府を揺り動かそうとする肥前(佐賀)の江藤新平は、司法権を独立させた三権分立による西洋型民主主義を目指して奔走します。
明治4年(1871年)藩は廃止され、府と県に統一させた廃藩置県が実施されます。西郷隆盛と大久保利通にとっては新国家のために避けて通れない政策でしたが、島津久光の怒りはすさまじく、肥前出身の江藤新平や大隈重信は政権からの薩長勢力の追放を画策ししていました。
欧米視察団の団長に名乗りを上げて外交の中心に立とうとする大隈重信や江藤新平らの動きに対し、大久保利通は岩倉具視を全権大使とし、大久保自身や木戸などを視察団メンバーとして発表します。大隈や江藤は日本に残ることになりました。
大久保たちの留守中、西郷隆盛は弟・従道から報告される政府高官の腐敗に心を痛めていました。そんな時、大久保利通と伊藤博文が突如帰国します。条約改正の全権委任状を取りに戻ったのです。明らかな失態で、会議で江藤新平、大隈重信らは大久保利通を攻撃します。西郷隆盛は大久保利通を擁護し、江藤らに理解を求めました。大久保は西郷隆盛を訪ねて涙ながらに失態を詫び、西郷隆盛は大久保を激励しました。
明治5年(1872年)春、西郷隆盛は鹿児島に帰郷しました。廃藩置県など新政府の政策に批判的な島津久光は、西郷隆盛を裏切り者、不忠者と激怒します。一方、江藤新平による陸軍省の公金流用事件の調査は完了し、山縣有朋の追放は目前と思われ、不正発覚で、山縣が実施しようとしている兵制改革に異を唱える近衛兵の桐野利秋たちは暴発寸前でした。
欧米視察団の一員としてパリ滞在中の大久保利通は、意気軒昂と「東洋のビスマルク」を目指すと決意します。その頃、日本政府は、山城屋の事件で大揺れでした。公金を流用した疑いで山縣有朋は辞表を提出します。西郷隆盛は健康を害していて、帰国した大久保は隆盛を見舞います。そして、対朝鮮国の問題が未解決のままでした。隆盛は自ら朝鮮に出向き、死を賭して解決する考えでした。
参議に就任して西郷隆盛の朝鮮派遣に反対してほしいという伊藤博文の願いに、大久保利通は耳を傾けません。西郷隆盛の身を案じる弟・従道も、兄の命を賭けた思いを知るだけに苦しんでいました。西郷家には渡韓に同行したいという壮士が押しかけ、直接西郷隆盛を説得しようとした岩倉具視は逆に怠慢を責められる始末です。
明治6年(1873年)西郷隆盛の朝鮮派遣を巡って会議が開かれました。隆盛はすでに決定した話だと言い、大久保利通は内政の未熟さや財政難を理由に派遣は時期尚早と反対します。二人の議論は白熱し、翌日に持ち越されました。しかし、翌日の会議に隆盛は欠席します。岩倉具視たちは、隆盛が辞職して帰郷したら、不満分子たちが一斉に決起するのでは…という脅威を感じていました。
朝鮮への使節派遣は西郷隆盛ら賛成派がほぼ勝利しますが、決定を目前に太政大臣・三条実美が病に倒れました。反対派の大久保利通らは岩倉具視を太政大臣代理に任命して巻き返しに出ます。翌日、隆盛や江藤新平らは決定を守るように岩倉に迫りますが、岩倉は大久保の意を受けて懸命に踏ん張り、結局大久保利通は、朝鮮出兵を巡る征韓論論争で、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派を失脚させました。朝鮮使節派遣は歴史の彼方へ押し流されました。隆盛は辞表を提出し、鹿児島に帰りました。東京を去った西郷隆盛を追って、桐野利秋ら近衛兵も鹿児島へ向かいました。
大久保利通は政府の建て直しを図ります。大久保利通は内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。また4月に台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡った。交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印すました。また出兵の経験から、明治8年(1875年)5月、太政大臣の三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出しました。
隆盛は狩猟や開墾に明け暮れる日々でした。一法、反政府感情は高まるばかりです。一方、江藤新平が訪れ決起を促しますが、隆盛は受け入れません。やがて佐賀士族が暴発し、明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が起こりました。佐賀の乱が勃発すると、大久保利通は江藤一派の反乱鎮圧のため、自ら鎮台兵を率いて、鎮圧のたち福岡に入りました。江藤側は次第に劣勢となり、志を貫くためと佐賀軍を解散します。江藤自身は西郷隆盛の所へ脱出し、共に起とうと説きますが、隆盛は断ります。
首謀者の江藤新平ら13人を、法によらない裁判で処刑した。さらに江藤を梟首しただけでなく、首を写真撮影して、全国の県庁で晒し者にした。江藤新平の処刑をはじめ大久保利通の強引なやり方に、鹿児島でも評判は芳しくありません。大久保はさらに台湾に出兵することにします。「これからの日本を引っ張っていくのは一蔵どん(大久保)の他にはおらん」と西郷隆盛は理解を示します。
明治9年(1876年)、熊本、萩などで次々に士族の乱が起きていました。その勢いが鹿児島に飛び火することを心配して、大久保利通らは鹿児島の弾薬庫を撤収することを決意します。決起をうながす声に、西郷隆盛は真の敵は海外列強であり、反政府の性急な反乱はいかんと説得するほどです。そんな折り、密偵が鹿児島入りしたという噂が広がり、私学校生たちが火薬庫を襲撃する事件が起き、ついに隆盛は山を降ります。
鹿児島での火薬庫襲撃の知らせに、東京にいる大久保利通や西郷従道、木戸孝允たちも動揺を隠せません。大久保は西郷隆盛が担ぎ出されることを恐れ、私学校党の取りつぶしを命じます。しかし、時すでに遅く、大警視の川路利良が送り込んだ密偵は「政府から西郷暗殺の指令あり」との自白書を取られていました。
薩摩軍は延岡で政府軍に包囲されました。その数は三千対四万と圧倒的に差がありました。本営の前で西郷隆盛は幹部を閲兵し、全員がこれで最後と覚悟を決めます。政府軍に従っていた隆盛の弟である従道は兄が前線にいると知って飛び出そうとし、大山巌に止められます。隆盛は全軍の解散を決意し、陸軍大将の軍服を火中に投じ、険しい山中を鹿児島へ向かいます。
明治10年(1877年)9月24日未明、政府軍による城山総攻撃が始まりました。西郷隆盛たちは覚悟を決め、銃声砲声が轟く方向へ果敢に進んでいきます。激しい銃弾の中で前のめりに倒れた隆盛は、傍らの別府晋介に「もうここらでよか」と正座しました。別府が抜刀し、隆盛は城山の露と消えました。51才の生涯でした。隆盛の死は大久保利通の元へ伝えられ、薩摩の人々に大きな打撃を与えました。
大久保利通は、目標とする国家はプロイセン(ドイツ)であるともに、イギリスであるともいわれています。大久保利通への権力の集中は「有司専制」として批判されましたが、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保利通によって築かれたともいわれています。西南戦争では、京都で政府軍を指揮しました。大久保利通は、強い権限を持つ内務卿として富岡製糸場を作るなど、殖産興業による日本の近代化に向けて邁進していました。自ら総裁となり、上野公園で第1回内国勧業博覧会を開催しています。台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として清に渡り日清両国間互換条款・互換憑単に調印しました。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていました。
明治11年(1878年)大久保利通は、馬車で皇居へ向かっていた時、亡き西郷隆盛の生前の頃の手紙を読んでいました。その途中、紀尾井坂付近の清水谷(東京都千代田区紀尾井町)にて6人の不平士族に殺害されました。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれています。大久保利通も、志半ばの享年47歳で没しました。
以上は、司馬遼太郎の長編歴史小説『翔ぶが如く』及び、この小説に基づいて1990年に制作されたNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』を基本とした、明治維新の歴史です。
1990年NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の感想
幕末から明治維新にかけての歴史は、数多くの小説、映画、テレビドラマで描かれています。1990年に放送されたNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』は、西郷隆盛と大久保利通の友情と、西洋に負けない日本を築こうと情熱を燃やす大久保利通と、価値観の違いで袂を分かった西郷隆盛の人間ドラマを、作品の魅力と相俟って、最高の配役で描いた見応えのある大河ドラマの中でも最高傑作だと思いました。
司馬遼太郎さんの原作と小山内美江子さんの脚本が素晴らしかったことはもちろんですが、出演していた俳優さんが最高のキャストだったことも、このドラマの魅力でした。
西郷隆盛役には、国民的実力派俳優・西田敏行さんが、西郷隆盛が乗り移ったような神がかり的名演で演じました。それに対して、西洋に負けない日本を築こうと情熱と本来の理知的で人間的温かみの間で葛藤する大久保利通役には、ミュージカル界の伝接敵スーパースターの加賀丈史さん、西田敏行さんの西郷隆盛には、この人しか対抗できないといえ最高の配役でした。
江藤新平役の隆大介はまさに江藤新平が乗り移ったかのような鬼気迫る演技でみるものを圧倒しました。能力も志もありながら薩長への劣等感にさいなまれる江藤の野心、西田敏行さん、加賀丈史さん、隆大介さんなど、全盛期の凄い演技も名優が集結して造ら作り上げられたドラマは、俳優さんの見事な掛け合いもあり、退屈させない適度に速いテンポとダイナミックな起伏があり、見る人を引き込んでいく最高に面白ドラマに仕上がっていました。そのリアリティー溢れるイメージは、もちろんある程度フィクションが含まれているかもしれませんが、教科書には書かれていない歴史の真実を感じることができました。
歴史的研究によると、大久保利通の方が西郷隆盛よりも現実眼と着眼点で優れていたと言われています。大久保利通は、グローバルで実利的な視点と傑出した実務能力と政治的手腕、で評価は出来るし、現在ではそれまでの概念とは違う優れた人物で、疲弊士族の為に私財を擲ち、その私生活も極めて質素でした。高い志と清廉な大久保利通は、共感できる優れた現実眼を持ち、維持維新では傑出した人物でありながら、友である西郷を追い詰めていく人間としての苦悩を、加賀丈史さんは見事に演じていました。海外に行って髭を伸ばしてからの風格がいかにも絶対的権力者のそれを示していて素晴らしかった。髭を伸ばすまでは胃弱の大久保一蔵の延長でしたが、海外から髭を伸ばして帰ってきた時には明治の最高権力者の姿がそこにはありました。大久保利通演じる鹿賀丈史さん格好良く美しい風貌で、報われなくても頑張り、他者から嫌われている姿には心魅かれました。西郷挙兵の報を聞いた大久保の言葉のない表情の演技は最高に心を打たれました。
西田敏行さん演ずる、人間的温かみが溢れる要素と重厚な要素を兼ね備えている西郷隆盛は、その風貌も含めて絶品といえます。好意を抱いている人物に向ける眼差し、島津久光への若干軽蔑が混じった眼差し、などいろいろな場面での西郷隆盛を絶妙に演じていました。最後まで「情」の人として、私学校の仲間たちを守るために自らの命を託していく姿はまさに歴史上の西郷隆盛そのものだったのではないかと感じました。
西郷隆盛の妻・いとを演じた田中裕子さんは、まだ20代だったと思いますが、隆盛の妻として、精神的動揺を抑え、大久保利通の妻・大久保満寿とは固い友情で結ばれて、大勢の子供たちを育てて、時流を観る、時を待つ、人を見抜くことを貫き、度胸の据わったどっしりしたお母さんの演技は、天才女優・田中裕子の風格がありました。ドラマ最終回のエンディングは、田中裕子さんが鹿児島の海の大自然に佇む場面でしたが、このドラマの大黒柱の一人である田中裕子さんの存在感が素晴らしかったと思います。
大山綱良役の、蟹江敬三さんは、島津久光との君臣関係を初め、全編に渡って存在感を発揮し、大久保利通との最後のやりとりは感動的でした。
西郷隆盛の副臣、桐野利秋を演じた杉本哲太さんは、非常に格好良いので、容姿は最高に格好良く、剣客中村半次郎の迫力、最後の銃を持って一人政府軍に立ちはだかる場面など、杉本哲太さんが演じているのを忘れるほど桐野利秋になり来ていて、素晴らしい名演でした。
矢崎八郎太役の堤真一さんは、さすがに芦名千絵とのラプスとトーリーが上手でした。本名・宮崎 八郎、肥後国出身の自由民権運動家
で、中江兆民との親交を重ね「九州のルソー」と呼ばれた人物です。西南戦争で西郷隆盛を支援し、26歳にして志半ばで戦死しました。
勝海舟役の名優、林隆三さん、坂本龍馬役の佐藤浩市さんも役にぴったりでした。木戸孝允役の田中健さんが美男ですが、西郷・大久保に比べるとあまり有能でないという意図的なキャストングでしょうか大村益次郎役の平田満さんは、肖像画にそっくりでインパクトがあり、平田満さんの大村益次郎も最高のキャスティングだと思いました
他に、西郷隆盛の弟、西郷従道:緒形直人、隆盛の妹。市来琴:酒井法子、大久保利通の妻、大久保利通満寿:賀来千香子
島津斉彬:加山雄三、島津久光:高橋英樹、久光の母、由羅:草笛光子、徳川慶喜:三田村邦彦、天璋院:富司純子という今の大河ドラマでは考えられないような豪華キャストでした。
歴史から見た感想
西郷も大久保も非常に魅力的に描かれていました。厳しい政治家でありながら、家では良き夫であり良き父。同僚に対する優しさや思いやりと公私の区別をしっかり持った良い男でした。本当に大久保さんは辛かったのだな、哀しかったんだ、最後に死の直前の大久保が見た風景は、二度と還らぬと心に決めた薩摩の海と青い空。若かりし頃の西郷と駆けていった記憶でした。
西郷隆盛(西田敏行)は、『情』の人、大久保利通(鹿賀丈史)は、『理』の人であり、二人が力を合わせることで、大きく世の中は動いてきたのでした。西郷には、人があつまり、慕われ、決断力の巧みさと人に任せる寛容があり、権威を振り回すことを嫌い、本音は単なる農民や漁師になりたかった。
そんな西郷隆盛は、大久保利通にとって唯一対等に腹を割って操舵できる相手でした。大久保利通は無類の切れ者であるがゆえ、周囲を押し切って大胆な選択をして突っ走る傾向があるため、それにブレーキを掛けられるのは西郷隆盛だけでした。
英国外交官アーネスト・サトウは士族の反乱、暴動の原因を以下のように分析しています。
① 政府が士族の経済的特権を否定し、帯刀霊により士族の身分的特権をはく奪した。
② 西郷隆盛が提案した朝鮮問題を一蹴した。
③ 佐賀の乱により、江藤新平に過酷な処分をした
更に、政府は性急な国家建設を推進したことは、士族の不満に火をつけた。
中央政府から西郷隆盛が去り、大久保利通は、本音で相談できる相手いなくなってしまいました。事実上、大久保利通の独裁政治となってしまい、日本の近代化に向けて邁進するあまり、あまりに急ぎ過ぎた大久保利通の行動に誰も注意する人も、ブレーキをかける人ともいませんでした。
では、明治維新以後の 西郷隆盛が、なぜ 決起しなければならなかったのか?最後まで理解できませんでした。西南戦争で、士族の反乱が激減し、明治政府が成り立ったという見方もありますが、大久保利通が殺され、志が高く、私利私欲のない権力者はいなくなってしまいました。
参考文献
司馬遼太郎(著)「翔ぶが如く」文藝春秋社 2002年
芳 即正 (著), 毛利 敏彦 (編集)「西郷隆盛と大久保利」2004年
立石 優 (著)「 西郷隆盛と大久保利通破壊と創造の両雄」(PHP文庫) 2017年
佐々木 克 (著)「大久保利通と明治維新」1998年
家近 良樹 (著) 西郷隆盛 維新150年目の真実 (NHK出版新書536) 2017年
原田 伊織『三流の維新 一流の江戸』2017年、ダイヤモンド社
伊藤 之雄(著)『伊藤博文 近代日本を創った男』2009年、講談社
井上 寿一 (著)『明治維新の正体』2019年
鈴木 荘一 (著) 『山県有朋と明治国家』2010年
畑中 章宏(著) 『廃仏毀釈――寺院・仏像破壊の真実』2010年、ちくま書店
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攘夷を旗印にして外国人を襲ったり公使館を焼き討ちした薩長勢力が開国をした幕府を批判したが、ある意味で幕府を困らせる為だけの主張でなかったのか。
権力を持った途端に方針転換し平然としていることに中高で歴史学んだ頃から疑問でした。
だから明治になってトップは薩長の者が占めたが能力も知識もないので実務者は違ったのが歴史の真実では。
多くのことでこうした事があり、本当に攘夷を信じた者は新政府から排除されたのも歴史の事実である。
明治以後のことを題材にしなかったのは何か意味がある様に思っています。
司馬遼太郎が素晴らしかった証でもありますね。
私は、国盗り物語、花神、黄金の日々などは再放送をまたみたいものです。大河ドラマではありませんが、NHKが1980年に放映した山崎努、仁左衛門、夏目雅子(故人)の「ザ商社」もみたいです。NHK銀河テレビシリーズも傑作ぞろいだったと記憶しております。長くなって申し訳ございません。
攘夷を旗印にし外国人を襲ったり公使館を焼き討ちした薩長勢力が開国をした幕府を批判したが、ある意味で幕府を困らせる為だけの主張でなかったのか。
権力を持った途端に方針転換し平然としていることに中高で歴史学んだ頃から疑問でした。
だから明治になってトップは薩長の者が占めたが能力も知識もないので実務者は違ったのが歴史の真実では。
多くのことでこうした事があり、本当に攘夷を信じた者は新政府から排除されたのも歴史の事実である。
明治以後のことを題材にしなかったのは何か意味がある様に思っています。
テーマのひとつから言えば・・・西郷隆盛は“敬天愛人”のイメージがある一方、 江戸のテロ集団を主導したのです。
江戸を中心とした関東地方で、豪商宅を中心に多くの屋敷が襲われ、百を超えたようです。長らく高い水準で保たれていた江戸の治安が、薩摩藩邸を拠点とする浪士隊のおかげで、一気に悪化したのである。
テロともとれる薩摩藩が主導する討幕運動は、火付け強盗で多くの庶民を巻き込みました。もし薩長が戦に負けていたら、軍法会議ものです。
大政奉還などを推し進めた坂本龍馬を暗殺した黒幕は、一説では西郷隆盛と言われています。薩長同盟の仲立ちをしたものの龍馬が邪魔になったと思われます。

