井上靖が迫ろうとしたのは、孔子の思想的な根源、『仁』愛の哲学
井上靖 『孔子』

井上靖の最後の長編小説『孔子』は、内面から沸き起こる熱情を描いてきた井上靖が、人生の最後に取り上げたのが『孔子』でした。孔子は低い身分に生まれ、長い歳月を亡命・流浪に費やし、後世の名声とは裏腹に、恵まれた人生とは言えない不遇にありながら熱情を失いませんでした。孔子は弟子たちが戦乱の中原を亡命・遊説の旅に放浪する目的と意義を、架空の弟子・蔫薑が語る形で、独自の解釈を与えてゆきます。井上靖の『孔子』は、作者と孔子の人生の到達点がバッハのポリフォニーのように響き合う作品です。
孔子は、中国の春秋時代・紀元前552年魯国辺境の鄹邑に生まれ、父親を亡くして、幼い頃から貧しい生活を送っていましたが、歳30にして著名な学者になり、教えを乞う者は貧富貴賤を問わず弟子として受け入れ、人格形成を目的とした私塾を開きました。
孔子が生きたのは、戦国時代につながっていく春秋時代の終わりごろです。周王朝が形式的に続く乱世でした。低い身分の生まれながら、学問を修め、実務にも通じていた孔子は、周のはじまりの再現を夢みました。
孔子の時代は周の王室が力を失うとともに文化も衰え、礼儀作法が軽視されるようになっていました。そのため孔子は夏(か)、殷(いん)、周の3つの王朝にわたって文献を順序ただしく整理し、それぞれの特徴をつかみます。そして「周は二代に監(かんが)みる。郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな。吾(われ)は周に従はん」と述べました。周は先立つ2つの王朝の長所と短所を学び、取捨選択したからこそ、香り高く生き生きとした文化を生んだ。だから私は周の道を行こう、という意味です。弱体化する前の周には、過去の王朝を否定することなく、継承すべきものは継承する姿勢がありました。
物語は大きく三部で構成されています。最初は、蔫薑と孔子の出会いから孔子が没するまでの十数年間の回顧録です。中盤は、孔子が亡くなって三十数年後、山中に隠棲する蔫薑を孔子研究会と称する若い一団が訪ね、問答を重ねる場面で、最後は、蔫薑が孔子と共に流浪した故地を再訪する旅です。
孔子の死後三十年を経て、孔子の名声は高まり、各地に孔子の逸話を蒐集し、教えの全体像を研究しようという機運が高まります。蔫薑と孔子研究会の面々との間に問答が繰り返されます。それは論語の成立過程を垣間見るかのようです。論語はこうやって編纂されたのではないか、という作者の仮説が反映しています。主人公は孔子の弟子蔫薑(えんきょう)架空の人物を設定し、蔫薑という架空人物を通して、井上靖が迫ろうとした人間・孔子像でした。
「子を囲んでの学問的談合は、どのようなものだったのでしょうか」北方の夜空に輝く不動の北極星。それは孔子です。弟子達は、北極星のまわりを廻る星のようなものでした。生のある限り子の教えのまわりを廻らねばならない。その教えを、国のすみずみまで行き亘らせねばならないのです。
孔子と弟子達の関係、それは論語とそれを読む後世の読者との関係でもあります。論語を何度か読むと、堅固な巖塊に行く手を阻まれることがあります。その巌塊は、安易な理解を頑としてはねつける強度と熱を帯びてきます。読者は、巌塊が発する強い磁力に引かれて論語に近づき、何度もはねつけられ、周囲を廻り続けながら一体化します。儒家思想が持つ、時間的、空間的な広がりの特徴を象徴的に描写しているように感じました。理性や論理を越えて、内面から沸き起こる熱情のようなものに身を任せる人間を描いています。内なる自分の衝動的な力、理性を凌駕して人間を突き動かす情動力のようなもの訴えかけてかけていきます。

井上靖が迫ろうとしたのは、論語の思想的な根源だと思います。そこには巌塊が輝き放つ重層的な複雑さがあります。
論語は、「天命」と「仁」のふたつの概念に集約されます。孔子の人生が体現した「天命」とは何か。生涯の使命として説いた「仁」の訓えとは何か。
「天命」とは、天からの使命感によって支えられた己の進むべき一本の道です。「仁」とは、人間が幸せに生きていくための人間の人間に対する考え方、まごころです。論語を読めば、この二つが論語の根本であることは素直に共感できます。しかし井上靖は、一歩進んで堅固な巌塊に迫ろうとします。
「天命」
-三十にして立ち、 四十にして惑わず、 五十にして天命を知る-
厳然としてあるその真実を受け止めたうえで、尚かつ、己が信じた道を全力で生きること、それが「天命」を知ることです。
孔子が、その教えの根本にすえたのは「仁」です。
「仁」とは“人を愛すること” 「仁」は、相手の立場に立って考える姿勢、おもいやりであり、人間関係の基本としての「仁」は重要です。私たち市井に生きる人間が、相手を思いやり、相手の立場に立ってものを考えることで、社会の秩序は保たれていきます。
世の中の乱れは、他人を思いやる愛情が失われていったことが原因で、真心や思いやりを大切にして人を愛する心をとり戻すことが何よりも必要だとして、「仁」が最も重要だと位置づけたのです。
「仁(思いやりの心)」や「礼(人としての礼節)」
「仁」は、具体的には「孝悌、克己、恕、忠、信」
「孝(こう)」=子が親に尽くすこと、
「悌(てい)」=弟が兄に尽くすこと、
「克己(こっき)」=私利私欲をおさえること、
「恕(じょ)」=他人に対して思いやりをもつこと、
「忠」=自分の心に素直なこと、
「信」=人をあざむかないこと、
という具合に説明したのです。
孔子は、「仁」が態度や行為として外面にあらわれたものを「礼」とよんで区別しました。そもそも「礼」とは、古代中国における、人が従うべき社会の規範のことを意味しており、孔子は内面の「仁」と外面の「礼」を結びつけ、行動として外面にあらわれる「礼」を正しく復興させることで、社会秩序を再建しようとしたのです。
時代を動かす立場にある責任ある人には、併せて「大きな仁」が求められます。
-子曰く、志士、仁人は、生を求めて、以て仁を害することなし。身を殺して、以て仁を成すことなし有り-
為政者は、一般の人とは意味合いが違ってきます。「仁」を完成させるためには、必要とあらば、生命を棄てる覚悟で挑まねばならなりません。それほどまでに重い。その重さにこそ、「大きな仁」の本質がある。自らの地位や責任に比例して、担うべき「仁」も重くなるのです。
「人間、この世に生まれて来たからには、故里に灯火が入るのを見て、ああ、いま、わが故里には燈火が入りつつある、という静かな、何ものにも替え難い、大きな安らぎを伴った思いがあります。この思いだけは、終生、自分のものとしておきたいものであります。いかなる政治でも、権力でも、人間から、このぎりぎりの望みを奪い上げる権利はないと思います。」
二千五百年前、春秋末期の乱世に生きた孔子の人間像を描き、
『論語』に収められた孔子の詞はどのような背景を持って生れてきたのか、
十四年にも亘る亡命・遊説の旅は、何を目的としていたのか、
孔子と弟子たちが戦乱の中原を放浪する姿を、架空の弟子・蔫薑が語る形で、独自の解釈を与えてゆきます。
孔子没後33年後の魯(孔子の生まれた国)が舞台。魯都には孔子の言葉や教えをまとめている孔子研究会があり、その研究会メンバーと孔子の弟子蔫薑(架空の弟子)のやりとりを中心にストーリーが進みます。孔子の生き方、天命とは、孔子門下の高弟の人物考、仁とは、などさまざまなテーマが展開されます。孔子の生涯の小説ではなく、弟子の言葉を通して作者の孔子観を語っているようです。
蔫薑は孔子と対話しています。
今の乱世の状況を子(=孔子)がご覧になったら何と言われるか、とか
自分がこのように暮らしていることを子はきっとこう思ってくださるだろう、とか
とにかく孔子があたかもそこにいるかのように感じています。
なかなかできることではないでしょう。
蔫薑は、どれほど孔子を慕っていたのか。その溢れるほどの思いが伝わってきました。
孔子が天下の諸侯を巡っても、任用されない真の理由は、諸侯が孔子と弟子たちの才能を知らないのではなく、諸侯に仕える貴族などが、孔子と弟子たちに自分たちの利権を奪われることを恐れて、中傷を重ねたためと、司馬遷の『史記』などには記されています。
賢君に仕えて文化を盛んにし、世の乱れを正したいという孔子の夢は、見果てぬまま終わりました。孔子の思想と理想は、現実世界の貴族たちの意識に対して、高すぎて追いつかなかったのかもしれません。賢君に仕えて文化を盛んにし、世の乱れをただしたいという孔子の夢は、見果てぬまま終わりました。
孔子は自らの理想を後世に伝えるため、一心に弟子を指導しました。「孔門の十哲」と言われた、徳行に優れた顔回、閔子騫、冉伯牛、仲弓、言語弁舌の才に優れた宰我、子貢、政事に優れた冉有、子路、学問の才に優れた子游、子夏を始め優れた弟子を輩出しました。
また、孔子は自らの理想を後世に伝えるため、一心に弟子を指導しました。同時に『春秋』『詩経』『尚書』などを編纂しました。同時に『春秋』『詩経』『尚書』などを編纂しました。
孔子の弟子たちは、孔子の言行を記録し、『論語』と名付け、後世に極めて大きい影響を与えました。
《文献》
井上 靖 (著) 『孔子』 新潮社 1989年
西野広祥、藤本幸三 著 「史記7 思想の命運」徳野書店 1988年
金谷 治(著) 「孔子」 (講談社学術文庫) 1990年


